あまいもの




 私があなたくらいの頃にはまだ、こんなものはなかったなぁ。便利になったものね。
 母親はそう言って封を開けた袋を電子レンジの中に入れてスイッチを押す。「好きな子にチョコをあげようと思ってね、だけどチョコが焦げて失敗したり…作っても勇気が出なくて、何年も、最後まで渡せなかったの」なんて言いながら。
「…パパ?」
「そう」
 一年のうちほとんどを不在としている父が里に帰ってくると聞いてからというものの、母娘はお互いに隠すことなくうきうきと心ここに在らずといった様子で家事に仕事に勉強に任務にと勤しんだ。帰って来た夫であり父である『彼』がいつ帰って来てもいいように、部屋の隅々までピカピカに磨き──折角だからと言って二人は『あるもの』を作り待っていた。
 バレンタイン・デイ。
 愛する人へとチョコレイトを捧げる年頃の女の子にとっては非常に重大な季節イベントになるのだが、それに乗じて二人はもう一人の家族であり、唯一の男であるサスケのために甘い菓子作りを開始した。
「でも、甘いの好きじゃないんでしょ」
「…誰に聞いたの?」
「ボルト。前に修行の帰り…お茶屋さん入ったけど、甘いのは苦手だからってお漬物食べてたんだって」
「お漬物…そっか、そう ね」
「ママ?」
 庫内のターンテーブルに乗せられたパウチの中には大切なチョコレイトが入っている。面倒な湯煎などしなくとも電子レンジにかけるだけ!という謳い文句のそれをスーパーで買って来た彼女は狭いキッチンに新品のトレイやゴムベラをずらりと並べていた。
「昔ね、パパと…甘味処に行った時もそうだったの」
「デートしたの?」
「デート…ではなかったけど。二人で行ったから、デートになるのかも」
「ふぅん」
 それは遠い遠い過去の甘い記憶。
「でもサラダが作ったものなら食べてくれるわよ」
「…無理して食べられても嫌だけどなぁ」
「食べたくなさそうなら私たちが食べればいいの。食べてもらうんじゃなくて…作ってあげること。作ることよりも…大切な人に心を伝えたいって日に、伝えようとする気持ちがあればいいのよ」
 山中家では今頃随分と本格的な菓子作りが行われていることであろう。アカデミーに在学していた時点から彼女はこの季節になると絢爛豪華なチョコレイトを持って来てはクラスの男子に渡し、きっちりと翌月に回収していた。
 中に兵糧丸を混ぜるだとか、疲労回復にいい薬草を混ぜるだとか。そんなことをするのもやめた。
 簡単に型へ流し込んで、生クリームを加えた簡単なガナッシュを中に入れて固めてしまえばなんとなくそれらしいカタチになる。イチゴ、抹茶、それからコーヒー。味は何種類にしようか。
「本当に…パパ、帰ってくるかな」
 帰って来たとしても火影亭へ報告しにいくだけで家には立ち寄らなかったり──里のすぐ近くまでは来ても、そのまま大名の元へ向かってしまったり。最近は気にかけて家に顔を出すだけでも寄ってくれるようになった上に、今回はしばらくは里にとどまるというのだから帰ってこないはずはないのだが…それでも、まだ精神的には幼いサラダにとっては不安があった。
「帰ってこないと思う?」
「…帰って来て、ほしいな」
 チン!
 という小気味いい音。
 レンジの中でとろとろに溶けたチョコレートが甘い香りを発し、固まってしまわないように素早くそれを取り出すと型に流し込んでいく。スプレーチョコ、アラザン、クルミ、レーズン、市販の粒チョコ。トッピングに使えそうなものを適当に見繕っては来たものの、統一性はない。
 プラスチックボウルの中でとろりとろけるガナッシュの中には何を入れる?そう母が聞けば、娘は「イチゴがいい」と答えた。
「帰ってこなかったら…どうしよっか」
「…」
「火影様に言って、仕事クビにしてもらおっか」
「!」
「お仕事がクビになれば、嫌でも家に帰ってくるわよ。大丈夫。ママがしっかり稼ぐから」
「ママ…」
「なんてね!嘘よ嘘。でも…サラダの気持ち、分かるよ。帰ってこなかったらどうしようっていつも思うの」
「今でも?」
「勿論」
「…なんか、意外」
 帰ってこないことが『普通』だった頃の方が不安は少なかった。いつか必ずサクラの元へ戻ってくると、だからこそ彼女には生まれ育った木の葉の里に根を下ろし、長い旅路の果てであろうとも変わらず帰る場所として在ってほしいのだと告げられた。
 だから必ず『いつの日か』自身のもとに戻って来てくれるのだという僅かでも大きな希望を抱いていた。
「今だから、かもね」
「どういうこと?」
「帰って来てくれるのが当たり前になっちゃってるから。また…帰ってこなかったらどうしようって」
「…」
 子供の前でする話ではないことは確かだが、それでもサクラは続けた。
 器用に型へ流し込まれたチョコレートの内側にストロベリィのパウダーを加えたガナッシュを流し入れ、その上からさらに溶かしたチョコを流し込む。外は固く、中身は口の中でとろける甘いチョコ。
 一番うまく型抜きできたものはパパへ、失敗したものは──ボルトとミツキ。それなりにうまくいったら、木の葉丸先生。他の男子には数が余ったらね、なんて。
「昔は本当にすごかったのよ?すぐにあっちこっち消えちゃって」
「…うん」
「人が心配してるって時でも関係なく…フラッとどこかへ行っちゃうの。大抵ナルトのせいだったんだけどね」
「火影様の?」
「ボルトとミツキだってそのうちそうなるわよ?女の子って、大抵一人残されちゃう側だから」
「…私、置いて行かれる気はないし」
「……そうね。サラダ、強いもんね」
「ママだって強いじゃん」
「弱かったわよ、サラダなんかよりも…いつも二人のお荷物だった」
 綺麗に固まったら、トレイから押し出して完成。テキパキと母親がチョコをころころ出していくのを見よう見まねでサラダも力を込めてトレイの裏側に手をかけるが──パキン、と薄いガワが割れる。
「うわっ」
「失敗しちゃったね。ボルトにあげる?」
「…なんか 失敗したのバレるの恥ずかしいから自分で食べる。ママは…火影様にチョコ、あげないの?」
「私が?ナルトに?」
「うん」
 考えたことなかった。
 サクラは真っ正直に感想を伝えたが、サラダはその反応に驚いたのか目を丸くして「なんで?」と純粋に質問を投げかけた。
「なんでって…」
「パパには渡したんでしょう?」
「……あげてないよ」
「えっ」
「…渡したこと、ないの」
「…どうして?」
 だからこれが初めてのバレンタイン。母親の意外な告白にサラダは洗い物の手を止めた。
「………サラダが、もう少し大きくなったら教えてあげるわ」
「私もう子供じゃないよ」
「もうちょっと…そうね、サラダにも好きな人ができたら教えてあげる」
 世界で一番チョコをあげたい人が忌み嫌ったのはまさにバレンタイン。好きでもない、既製品でもない、少女や少女の母親が作った得体の知れないチョコを大量に押し付けられ──キラキラとした目をした少女たちの期待を黙殺して憂鬱な帰路につく。律儀だからそれらを一つも捨てられず、カバンいっぱいに大嫌いなチョコレートを持って帰るしかなかった。
 そんな憧れの男の子に、どうしてチョコレートだなんてものを渡せただろうか?
 彼を取り巻く『その他大勢』の女子と同じようにキャアキャアと騒いではいたけれど、女子生徒と良好な友好関係を築けていたとは言い難いサクラがサスケにチョコを渡そうとしただなんて発覚したら、どんな陰口を言われたことか。
「それっていつの話よ。担当の先生にも渡さなかったの?」
「カカシ先生には渡したわよ。家で…こんな風にママと作って、ナルトとカカシ先生にはあげた」
「パパだけには渡さなかったの?」
「えぇ」
 なんでよ。
 母親に対する疑問はますます深まるばかりだ。唇をへの字に曲げて拗ね始める娘の機嫌を取るために、サクラは「さ、次はご飯の準備よ!」と息巻いた。
 今夜帰ってくるとは限らない。明日になってから帰ってくるかも知れないし…明日の夜かも、明後日になってからかもしれない。「来週中には帰ると思う」だなんてあまりにもざっくりとした紙切れを鷹が運んで来てから、今日でちょうど一週間。手紙を守ってくれるのであれば、今日帰って来てくれるはずだ。
「ご飯は何にしよっか」
「あったかいものがいいよね。パパ、どうせずっと野宿なんでしょ」
「きっとね。お風呂も準備しておかなきゃ」
 泥だらけで帰ってくるか、それとも汚れてはいないが野宿続きで帰ってくるか。どちらにせよ家に帰って来たらまず、風呂だ。
「私、魚がいいな」
「魚?じゃあ…鱈の包み焼きにでもしようかな。それ洗っておいて?お風呂入れてくるわ」
 雪のように白い魚の切り身を香草と一緒にホイルに包んで蒸すだけ。簡単ではあるがおいしく、サスケに食事を作るようになってからは頻繁に作るようになったメニューだ。
 それから豆腐とわかめの味噌汁。今から手間をかけて出汁から用意する時間はないが、仕方ない。それからほうれん草のお浸しは昨日の残りがあるし、山中家からおすそ分けしてもらった蕪の煮物もある。満漢全席とはいかないが、それなりに豪華だ。
 帰って来てくれますように。
 サクラは小さく祈りながら、冷蔵庫から鱈の切り身を取り出した。







「……甘かったな」
「サラダが初めて作ったのよ」
 二人が望んだ通り、サスケは帰って来た。予想していた姿と同じくマントは泥だらけ、端正な顔にも擦り傷があり、そのまま玄関に上がられると掃除が大変になりそうなくらいの──砂。
 その場で外套を奪い去って風呂に突き落としこぎれいになった彼と久々に囲んだ食卓は三人だけではあるが賑やかなもので、サラダは頬を高揚させながら行儀悪く最近の出来事を次から次まで父親に報告した。普段ならば静止するサクラも娘のはしゃぐ姿に免じてやった。
「ボルトたちに渡すものだろう?」
「そうだけど。一番綺麗にできたのはパパに渡すんだって」
 当の本人は風呂である。
「意外だな。サラダがこんなものを作るだなんて」
「そりゃ、私の子だもん。好きな人には一直線、チョコくらい作るわよ」
「……」
「サスケくん?」
「いや、お前…俺にチョコくれたこと、ないだろ」
「!あ、え…覚えてる、の?」
「…気づいてないって思ったのか?」
「……うん」
「鈍感」
 いつだって彼女がこの日にくれたのは『チョコではない』お菓子だ。サスケくんは甘いの苦手でしょ?なんて防衛線を張ってからナルトとカカシにチョコを投げつけた後、決まって最後にサスケへと小さな包みを渡した。
 金平糖、金鍔、羊羹、花林糖。少しでも甘さが控えめそうなものをチョコレイトと同じラッピングに包んで、少しだけ申し訳なさそうに。
「だって…サスケくん、甘いの嫌いでしょ?迷惑だと思ったから」
 アカデミー時代から彼が困る姿をずっと見て来た。多くの名も知らぬ、顔も知らぬ女子から投げつけられる上っ面の感情が込められた甘い甘いチョコレイト。
「甘いのは嫌いだが」
「だが?」
「…知らない女子からもらうのは 誰だって気味悪いだろ」
「そう、かな」
「お前だって職場の顔も名前も知らない男から手作りのものドッサリもらってみろ。嫌になるぞ」
「もらったことないから分からないわよ、そんなこと。まぁでも…知らない人からの手作りって、少し怖いわよね」
「だろ」
「それとこれとがどう関係するの?」
「……見ず知らずのやつじゃなきゃ、別にもらうのもそこまで嫌じゃない」
「!」
「いのなんて毎年やめろって言っても懲りずに甘ったるいチョコ送りつけて来たぞ?」
「…受け取ったの?」
「別に受け取らない理由もないだろ」
 信じられない!とサクラは声をあげた。「じゃ、私がチョコあげてたらサスケくんは受け取ってくれたの?」と鬼気迫る表情で迫ってみれば、夫は至極涼しい顔で「あぁ」なんて一言。
「早く言ってよ、もう!」
「別にいいだろ。それに、甘いものが嫌いなのに代わりはない。…お前がくれる菓子くらいなら、美味しく食べれた」
「……食べて、くれてたんだ」
「捨てたとでも思ってたのか?」
「そうとまでは思ってないけど…なんだか、とにかく意外で」
「一体お前は俺をなんだと思ってたんだ」
 サスケは小さく笑った。机の皿に盛られた甘ったるいチョコレイトたちはいびつな形であったり、外側のチョコが欠けて中身がちらりと見えているものもある。綺麗にできたチョコは既に小箱に入れられて可愛らしい柄の袋の中に入れられた。
 ボルト、ミツキ、木の葉丸。班の仲間だけではなく、綺麗に型抜きできたものがたくさんあったから他のメンバーにもあげるの。途中でラッピングが足りなくなったため班の分をまとめて一つの袋に入れたり。明日は大きめの紙袋にそれらをまとめて持っていかなくてはならない。
「何って…優しいお父さん?苦手な甘いチョコでも、娘が作ったものなら食べてくれる」
「…お前も作っただろ」
「じゃ、妻と娘のなら食べてくれる?」
「……帰り、いのの家の前を通ったら…」
 あ、それは嫌な予感。
 サクラが声を上げるよりも先に夫は表情一つ変えずに続けた。「チョコを押し付けられた。あいつ、まだあんな甘いの作ってるんだな」という言葉に彼女は小さな悲鳴をあげる。
「もうっ、また先越されたじゃない!」
「断った方が良かったか?」
「出遅れた私が悪いんですぅ、いいわよ、別に。明日たーんといのに嫌味言っておくから!」
 幼馴染の人妻がサスケに対して思慕の情などとうに持っていないことは百も承知だ。しかし、サクラにとっては重要な問題なのだ。付き合いのチョコとはいえ──いのは今頃家で高笑いをしていることであろう。サクラよりも先にサスケにチョコを渡してやったわ!だなんて。
「別に順番なんて関係ないだろ」
「あるわよ!特にいのとはね!」
 見てなさい、来年こそは絶対に勝ってやるんだから!と一人勝手に盛り上がり始めた妻の姿にサスケは再び小さく笑い、そして──
「順番よりも質だろ。それなら誰にも負けないはずだ」
 だなんて似合わない甘い台詞を吐いた。
 え、あ、え?
 耳まで真っ赤にしたサクラのことなど御構い無しに、『もっと甘いもの』を求めてサスケはチョコで汚れたガサガサの唇をそっと桜色をした艶やかなサクラのそこへと寄せた。


 チョコより甘いものなら、嫌いじゃないぜ?



 一体どこで覚えて来たのか首を傾げたくなるような言葉を添えて、柔らかな粘膜が触れ合った。


inserted by FC2 system