最後の夜




 結婚します、結婚するね、結婚しました。
 そんな言の葉の列をたくさん聞いてきた。そのたびにサクラは隣に異性をは侍らせることなく手を叩いてときに涙を流しては「おめでとう」と祝福の限りを尽くしてきた。この隣に立つ者がいてくれればと何度願ったことであろう。
 願わぬと、望まぬと決めたところでこの心が止まることはないのだ。
 会いたいと。
 声に出せば彼はやってきてくれるであろうか?正義のヒーローのように、ピンチのときは助けに来てくれるだろうか?離れていてもこの心は繋がっているよと誰が保証してくれる?同じ青空が続く世界のしたで、いのちがあると 誰が言い切れる?
「…なんでかなぁ」
 今日はすこぶる調子が悪い。パーティドレスを選びに行こうと思っていたが全てキャンセルだ。毎回同じドレスを着ていくのも気がひけるし、せっかく給料もそれなりにたまってきたのだから若いうちに着たい服なんて全部買ってしまえ。そんな刹那的な衝動に駆られたものの、同じ刹那的な衝動によって中止。
 今日は卵が安いから、とスーパーに買い物に行った道すがらに『オイワイゴト』の話を聞いてしまったのが事の発端である。いのがにこにこしながら、ケッコンシキというやつの日取りを取り急ぎだけど!と伝えてきたのだ。
 おめでとう!思わずサクラは道の真ん中で涙を流して喜んで見せたし、それは本心で間違いがない。
 だいすきな幼馴染でかつてのヒーローで憧れのライバルで親友で…と列挙し始めればキリのない関係の彼女の結婚相手は、これまだ言い出せば長くなる関係のサイ、だ。ようやく幸せな人生が見つけられそうなんだと少し前に頬を染めていた彼が新郎。
 なんてめでたいの!
 つらい事があった分、みんな幸せなのね!
 安売りの卵と一緒に見切れ品の野菜と鮭を買ってきて酒蒸しを作っている時にしかし、サクラの気持ちは急降下した。
「サスケくん…鮭、すきかな」
 トマトは好き。甘いものは苦手。納豆はもっともっと嫌い。うちはの家は和食ばかりだったからきっと、そういうものが好きなのかな。野菜から出た水分でじっくりと蒸されていく鮭の姿をフライパンの蓋越しに見てみれば、真っ白な蒸気で姿は見えない。
「(好きな人の好みも…知らないのよね)」
 こうして繰り返し毎日一人分の食事を作り続ける脳裏にはいずれ来てほしいと願い続ける未来が描かれている。相変わらず意地っ張りで左腕をつけないと喚くサスケに苦笑しながら渾身の出来栄えの酒蒸しを出す。この間の鱈と春菊の包み焼きは微妙だったから別のものがいいと言われてのリクエスト。付け合わせはひじきとほうれん草のお浸し。いのやヒナタと話題にする事が多いからご飯は雑穀を少し混ぜて、お味噌汁の塩は控えめ。
 だけど大好きな季節外れのトマトだけは容赦なくキンキンに冷やしてテーブルの真ん中に。
 今日の任務の話、仕事のちょっとした愚痴、それからサイといのがゴールインしたのよという世間話。
 そんな未来を描きたかった過去が 確かにあったのだ。
「会いたいよ… サスケくん」



 目覚めればサクラの目の前には一人分の冷え切った鮭の酒蒸し。
 ああ、おいしくできたと思ったのになぁ。ひじきとほうれん草のお浸しもせっかく作ったのに、机でうたた寝しちゃったらもう意味がないじゃない。ご飯も冷えて、味噌汁だってひえひえよ。
「…ばか」
「誰が 馬鹿だって?」
「…」
 都合のいい夢ね!
 サクラは突然の声を無視して姿勢を正すと、冷えた食事を温めることもせず両手を合わせて「いただきます!」と大声で叫んだ。
「おい」
「あーあーあー!聞こえない!」
 だって何言ったってサスケくんはそこにいないんでしょう?声が聞こえるのは私の幻聴!寝起きだから、そうやって都合のいい声が聞こえて、都合よくカーテンがそよぐような気配を感じて…
 だから後ろを振り返ってはいけないの。サクラはぐすん、と嗚咽をこらえながら冷えた夕食を摂り始めた。
 無視するなよ、サクラ。ここにいるんだぞとあいかわず幻聴は聞こえてくる。お浸しは冷えてもおいしかったわ、かつおぶしがもう萎れてしまったけれど。サクラ!と名前を呼ぶ心地よい声。
 ああ、あなたのこえがする。
 柔らかく蒸された鮭は冷えて脂が浮いていたが、それでもなかなかの味だ。サスケくんは春菊嫌いかな、鱈と春菊のホイル焼きを今度は作ってみよう。ひじきは及第点。
 ああ、
 ああ。
「………ばか」
 一通り味見をしてからサクラは箸を置き、ついにこぼれ出した涙を耐えることなく小麦色のルームウェアにぽたぽたと落としながらゆっくりと振り返り始めた。
 窓は 閉まっている。カーテンの動きは空調機の風でただ揺らいだだけ。聞こえてくるのは、階下のテレビから漏れるくだらないトーク・ショウ。
 ほらね、そこには誰もいないのよ。
 カカシ先生が告げてくれたサスケくんの様相から何度も妄想してはシミュレーションは繰り返してきた結果がこれよ。人相書き寄越しなさい!と珍しく担当上忍だった火影に詰め寄って作ってもらった薄っぺらい紙はまだ引き出しの中に眠っている。少し前髪が伸びてたよ、あのターバンはどうにかならないかなぁ。どこからどう見てもサスケだったけど、どこからどう見ても浮浪者だったよ。
 苦笑いと少しばかり悲しそうな口調で筆を動かしてくれた師の言葉を信じ、脳裏にその姿を描き続けてきた。
 だからサクラの鮭をおいしいと言ったサスケはいつだってマントをしていたし、風除けの布を頭に巻いていた。そして今こうして振り返ったサクラの視界に入った虚空に見え隠れする透明なサスケの姿は、土足で刀を携えたそれ。
「ばか、ばか、ばか!」
 帰ってきてほしいとは口が裂けても言えぬのだ。
 送り出したのは、自分。
 信じると決めたのは、自分。
 一方的すぎる誓いを一方的に自分に告げたのだ。
「……サスケくん」
 ヒーローではないけれど、いつであったか少し前にはその片鱗を感じた事はある。だけど会ってくれるつもりはなかったのよね。会いたくないんじゃなくて、会わなくていいって思っただけなんだよね、きっと。
 明日はきっとトマトを食卓に並べるね、とサクラはめそめそとみっともなく泣きながらそう告げた。





「…そうやってしか あいにきてくれないのね」
 サクラは薄着のままベッドに座り込み、窓を控えめにコツコツと叩いた鷹の姿を認めた。黒い鷹は足元に書簡をくくりつけている。こんな夜中に容赦なく手紙を運んでくるのは任務の催促か、想い人からの現状報告。
 前者であれば里の印をつけた鷹がやってくるはずだから、この黒鷹は後者。
 おいで、と言ってサクラは窓を開けて深夜の来訪者を招き入れた。
「あなたはいいなぁ。私がこの手紙を受け取ったら…サスケくんのもとに帰るんでしょう?」
 鋭いはずの鉤爪の痛みは感じられない。大空を横切ってきた鷹の羽根からは獣ではない、どこか懐かしい香り。どこまでも黒い羽根を持つ鷹の瞳は真紅と、硝子がごとき無彩色。
「…ずるいよ」
 そうやって私とは『会わなかった』ことにして、その手紙は私じゃなくてカカシ先生に渡して、里には『帰ってこなかった』ことにして。
 仲間たちは次々に祝いを挙げている。ウェディングドレスは何にしよう?やっぱり和装もいいけど、女の子の夢は純白のドレスでしょ!ああ、いのは昨日そう言った。サイはなんて言うのかな、どっちでもいいって言いそうね。
 テマリさんはきっと和装よ、砂隠れの衣装も見てみたいけれど。あのひとよく里に来てはシカマルの家で寝泊まりしているのよ、あそこもゴール寸前でね、それから、それから…。
「いつまで…私は待てばいいの?」
 物言わぬ鷹にサクラはそう語りかけた。
 任務中に危うく命を落としそうになったことは何度かあった。そのたびに仲間が気を利かせピンチから救ってくれたり、サクラ自身の秘術を解放して乗り切ってきた。そのいつだろうとサスケが現れてくれたことはない。来てほしいと願えども、彼が都合よく現れてくれる現実などどこにもなかったのだ。
 それなのに、なぜこうもあなたは勝手に来るのよ、突然。
「最後にしてよ」
 サクラはいつの間にか黒い鷹から姿を変えた漆黒の人型を抱きしめていた。
 ただの変化の術なんていうハリボテのまま本気でだまそうって思ったわけではないでしょう?汗と土と草の匂いが彼女の鼻をついた。暗がりのなかでその人型はサクラの首筋に顔を埋め、顔を見られぬように右手で彼女の左手首を押さえた。
「こうやってズルするの 最後にして」
 されるがままにサクラはそのままベッドに押し倒される。右腕も拘束されることは、ない。バサリと暗がりがマントが脱いだ音がしてみれば真っ暗な部屋に浮かび上がる瞳は鷹が持っていたものと同じ。右目は黒曜となりようやく顔を上げたためサクラの翡翠と絡み合った。
「…サクラ オレは」
「言い訳なんてもう聞きたくないよ」
「…」
「もう これを最後の夜にして」
 朝になれば逢瀬のことなどなかったかのように姿を消すあなたをどれだけ想い続ければいいのよ、とサクラは不思議と涙を流すことなく告げた。暗闇に慣れた目には男が困惑した表情を作っていることがようやくわかったが、相手は最初からサクラの顔が見えていたのだ。そんなに私ひどい顔してたかしら、と彼女はじっと目をそらすことなく続けた。
「次会うときは…日があるうちにしてよね」
 忘れてしまわないように。「晩御飯の準備あるから、買い物も手伝ってよ」と。
「サクラ」
「今日の鮭、すごくおいしくできたんだから。いつお腹すかせた旅人さんが帰ってきてもいいように なんでも作れるようになるから」
「サクラ」
「…だから おねがい」
「……今日が最後の夜だ」
「…」
 お前がそう言ったのだから、お前が最後だと言ったのだから。
 サスケは何を思ったのか、そのまま右手の拘束を解くと寝巻きの中に骨ばった指を侵入させて肉付きの悪い肋をなぞって見せた。
「ひゃっ」
「お前は…どうせこの夜のことは忘れると言ったな」
「…そう ね」
 もう子供じゃない。サスケが何をしようとしているかなどサクラにはお見通しであった。美しい着物を着て偽物の笑顔を振りまく任務は何度か経験してきたが、サクラの心のままに求めたことはこれまで一度もなかった。
 そのざらついた指の感触が肋の筋をなぞり、控えめな胸の膨らみを撫で、彼女の身体に跨ったサスケの唇がサクラのそれを塞ぐ。がさがさの唇の感覚はまぎれもない現実である。サクラの妄想に登場してきたサスケの、すべすべな滑らかなそれではない。
「…いいの?私で」
「お前こそ」
「本当 サスケくんってばかね」
 彼女は膝を持ち上げるて誘うようにサスケの股にすり当てた。途端にヒク、と唇が離れて男にしてはかわいらしい息が唇から漏れてくる。胸に触れられたて指がそのまま乳房の中心へと到達すればサクラも応戦して左足を上げて誘惑してみせる。
「後悔、すんなよ」
「あなたこそ」
 サクラの両手が動いて旅装束が剥がされていく。前髪を押さえつける布切れもいらない。お願いだから先に靴は脱いでねと言ってみればふわりと乳首から離れた手がガサゴソとサンダルを剥がしていく音が聞こえる。胸当ての紐は解きやすい蝶々結び。揃いの黒いズボンだって紐を引けば、すぐに落ちてくる。
 隻腕で生活するサスケにとって複雑な服は不要なのだろう。あっという間に彼の姿もまた、サクラと近いものとなる。

 後悔なんて とうに置いてきたわ。あなたを好きになったときから。

 再び口内を犯してきたサスケの舌を受け入れ、最後に触れ合った頃からずいぶん大きくなってしまった背中に腕を回し、解かれていく着衣から暴かれた素肌が冷えた空気に当たり思わずわずかに身を震わせた。
 仄暗い灯に晒された素肌は、白。日の当たらぬ場所で生活しているのか、日光を遮っているのか。旅人にしては白いサスケの背中にはしかし、無数の傷跡が浮かび上がっていた。いつのものかはわからない。
「あっ…ん、」
 そしてサスケもまた、『女』になったサクラの肌を知らないのだ。
 最後の夜だから。
 全てを忘れてもいい夜ならば、明日には消えてしまう夜ならば。
「約束…してッ」
「っ…」
 くちゅりとサクラの秘所に伸ばされた長い指がゆっくりとその蕾を解いていく。女の味を愉しんだことがあるかと言われればノーと即答せざるを得ないサスケである。手段としての行為ではなく、目的としての行為。己に組み敷かれて火照った頬を持て余す女の顔はそんなサスケをひどく興奮させた。
「いくらでも…なんだってするからッ…側に、いて…」
「サクラ…?」
 一本、二本。女の最奥に侵入していく荒れた節くれだった男の指が増えていく。そのたびに喉を引きつらせる愛おしい声をあげる女は涙を溜めた瞳でまっすぐとサスケを見つめていた。
 彼女はサスケの黒いインナーの端に対照的な白く柔らかな指を差し入れると、昂り始めているそれを優しくなぞった。
「何度だって抱いても…いいから、そのためだけでも いいから…」
「サクラ」
「側に…いてよ…。私の よこに …」
 また泣いていた。
 桜花色の乱れた前髪が隠す瞳には大きな大きな涙の粒が浮かび、てっきりそのまま『キモチイイコト』をしてくれるのかと思っていた指はあっという間にサスケから離れ、真っ赤になった目元を隠すために顔の上に移動してしまっていた。同意の上だったはずだと数瞬前の記憶を慌ててたぐり寄せながらも、仕方あるまいとサスケはサクラの胎内へと繋がる口へ忍ばせていた指をそっと引き抜いた。
「期待させないでよ… いなくなっちゃうなら 切り捨ててよ…」
「サクラ、オレは」
「そうやって自分を押し付けるの、もう やめて…」
 どさりと彼女の膝が落ちた。身体を持ち上げ、サスケは困惑しきった様相でサクラを見下ろした。ぐしゃぐしゃと目をこすりながら訴える女の姿はまるで少女と同じだ。
「教えてよ… 私は サスケくんの…何なの?」
 例えばモノクロの世界に極彩色を与えてくれたサイにとってのいのなのか。純粋無垢で汚れを知りすぎ幸せを知らぬ愛しい人だったのか。孤独な穴をずっと見つめていてくれた存在なのか、周囲から認められぬ自分を必死に応援してくれていたのか。
 仲間たちが次から次へといのちを分かち合っていく中取り残されていくサクラはただただ不安が大きくなるばかりであった。
 信じていないわけではなかった。このまま置いていかれるとも思ってもいなかった。いつの日かやってくる『いつか』を待ち続けると決めていたというのに、その決意はこうもたやすく折れてしまったのである。
「待ってるのに…そうやって サスケくんは…ちゃんと向き合ってくれない よね」
 夜な夜な火影への報告書を届けるついでに事務的な近況報告の手紙を渡してはそれきりで。今までだってきっと何度か黒い鷹に化けてサクラの部屋を訪れていたに違いない。
 誰にも顔をあわせることなく、里には『帰っていない』という事実のままのらりくらりとやってこられたのならばもう、サクラの心は限界というものである。
「答えてよ、逃げないでよ…」
「……」
 サスケは下着一枚のまましばし黙った。
 寝乱れた服をそっと直してやりたい気持ちもあったが、今のサクラが求めているのは行動ではなく言葉である。言葉なんてもういらないとよくも言ったものだが、さすがのサスケにもこの場でも同じことを言えるほどの肝はない。
「今日のことは…明日には全部忘れてる。お前はそう言ったな」
「…うん」
「後悔もないと」
「……うん」
 ああ、結局はこうなるのだ。5秒前まで抱いていた今日はここまでにしようという気持ちはあっという間に消え去った。一度興奮を覚えてしまった以上、ここで食わぬは据え膳というものである。あと一歩の境界線を越えてしまえばもう二度と過去には戻れない。それを恐れた故の行動ではあったが逆にサクラを傷つけていたのだ。
「サクラ」
 一つ、手の上から口づけを落とす。
「お前は…オレの 大切な人間だ」
「…」
「だからこそ向き合うことから逃げてきた。今まで…ずっと」
「逃げないで…」
「言っただろう、今日が最後の夜だと。オレが逃げ回るのも…今日が最後だ」
 明日からはきっと、もうサクラの元へ鷹を送ることはないだろう。黒い鷹に化けてアカデミーの子供にすら見破られかねない変化の術を使うのもやめよう。長い間里を離れるやもしれない、気持ちが折れれば里にやはり顔を出すかもしれない。
「次に帰ってくるときは…この家に最初にくる」
「!」
「お前の料理、食ってやるよ。買い物だって付き合ってやる」
 薄く塗られたマニキュアの上にもう一つの口づけを。
 優しく、しかし力強くサクラの顔を隠していた彼女自身の腕を退け額に更に一つの口づけを。拒む意志がないことを汲み取ったサスケは再びサクラの白い可愛げのかけらもない下着の中に右手を忍ばせた。
 ぴくりと彼女の唇が動き、「サスケくん」と名前を紡ぐのが聞こえた。
 最後の夜だ。
 彼女もまた、再びサスケの首に手を回しながらもう片方の手をどくどくと脈打つ雄へと手を伸ばす。細くすらりと伸びた曲線が足りない足がサスケの腰に絡み、指と同時に敏感な部分を擦り上げる。
「忘れてしまうなら…忘れられなくしてやるよ」
 自身もまた切羽詰まりながらも気障なセリフを彼は言った。
「今までを全部消してやる。それくらいに…忘れられない、最後の夜にしてやる」
 これから始まる未来を描くためのスタートラインを描くのだ。朝が来れば、全てはリセットされリスタート。逃げ回り続ける関係も、待ち続ける関係ももう終わりだ。
 確固たる存在が隣にいると信じさせてくれるような、そんな明日にしてやるよ。
 色に酔っ払ったサスケの声は、性急に責めたてられ始めた秘部の感覚に正気を奪われかけたサクラの耳にも、しかと届いていた。

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