イケナイミッドナイト




 誰かの声に呼ばれた 気がした。
 仮眠室で『はしたない』格好のまま惰眠を貪っていたサクラは突然目をパチリと開けた。呼び出し音は鳴っていない。夢を見ていたわけでも、ない。
 次々運ばれてくる患者の応対に忙殺される日々は収まったものの、それでも仕事は山積みである。親を失った子供へのケア、逆に子を失った親へのケア。サクラ自身は親ではないからそのあたりは年上の看護婦に任せてはいるものの、それでも彼女に降りかかる仕事の量は膨大である。最後に家帰ったのいつだったけなぁとサクラは髪の毛をぼりぼりと弄りながら上体を起こした。
 時間は、午前二時。
 布団に着替えずに潜り込んだのは遅い夕食を終えた後だったので、何時間かは眠れたようである。
「…誰 だったんだろう」
 隣で眠りこけているいのを起こさぬようにそっと仮眠室から出ると、人気のなくなった廊下でそっと耳をすませた。
 誰?私を呼んだのは。
 声なく問いかけながらも、サクラはほぼ無意識にとある病室へと足を進めていた。



 乱れた髪の毛に皺だらけの服。寝ぼけ眼のままでサクラが手をかけた扉の先に居たのは、サスケである。
 限られた人間しか入室することが許されていないそこへ足を踏み入れると、一気にサクラの眠気は吹き飛んでしまった。広い部屋にぽつんと置かれているベッドの真ん中でサスケがすっかり大きくなった身体を丸めて唸っていたからだ。「サスケくん!」と声をあげてぱたぱたと駆け寄れば、サクラの存在には気づいていないのかぜぇぜぇと荒い息を食いしばった歯の間から時折吐き出している。
「どうしたの、サスケくん!?」
「るっさい…ッ」
 残された右腕の先が押さえているのは左腕、である。
 嗚呼きっと。この男は存在しない痛みに襲われているのだ。
「待ってて、痛み止めすぐに打つから」
 先ほどまでのぼんやりとした靄は消え去った。一瞬でその表情は医療忍者となり、ぱたぱたと、しかしてきぱきとそそっかしく病室を出て行ったかと思えばすぐに戻ってくる。もう数え切れないほどに繰り返してきた動作である。
「力、抜いて。すぐに済むから」
 こうして強者の忍が痛みに声をあげる夜を何度過ごしてきたことか。
 突如としてサクラは泣き出しそうになってしまったが、ぐっと歯を食いしばりこらえた。痛みを感じているのは、サクラではない。目の前で幻肢痛に苦しんでいるのは彼女自身などではないのだ。嘆いたところでどうにもならないのだ。
「幻肢痛よ」
「…だろう、な」
 彼が痛みを訴える左腕はもう、存在しない。
 熱に浮かされ全身を駆け巡る疼痛に端正な顔を歪めるサスケの苦しみを消し去ってやることは今のサクラにはできなかった。彼女は右手に空になった薬の小瓶を握りしめて思わず床に叩きつけたくなる衝動にかられながらも、どうにか気を落ち着かせて床に膝をついてベッドに肘と顔を預けた。
「ナルトがね…昨日言ってたの」
「?」
「『右腕が痛い』って…。なんでもかんでも一緒ね、あなたたち」
「…一緒にするな…」
 傷を癒すことはできたとしても、痛みを奪うことはできない。ぎゅ、とサクラはシーツを握りしめて汗ばんだサスケの額に張り付いた黒髪をもう片手で払ってやった。痛む左腕を下にしてうずくまるサスケの表情は年齢よりも幼く見え、ベッドに顔を預けているサクラとの距離は30センチにも満たない。熱っぽい吐息が彼女の鼻にかかり、上気した頬の体温がダイレクトに伝わる。
「(なんだか…サスケくんの方が…美人よね)」
 綱手の弟子は皆美貌。そんな噂をよく立てられてきたサクラであったが、今こうして深夜の病室に薄暗い電灯のもと照らされたサスケの顔は『美貌』のサクラから見ても美しいものであった。
 本人に告げれば否定するに決まっているだろうから口には出さないままだったが、思わずサクラは瞬きするたびに額から垂れた汗が睫毛に落ち、跳ね飛ぶ様相に胸がドキンと高鳴るのを感じた。
「ねぇサスケくん」
「あん?」
 返事をする気力は戻って来たようだ。
「痛み…とれるまで、ここにいてもいい?」
「…好きにしろ」
 汗でびっしょりと濡れた身体にさらにサクラの鼓動は早くなる。
 いけないのよ、こんなところで。サスケくんは苦しんでいるじゃないの。いけないのよ、サクラ。こんな こんな時に乗じて───


 洗いたての白いタオルがサスケの身体へ触れていく。顕となった白い肌に押し当てていけば、今までの無理が祟ったのか若干やつれた鎖骨からナルトよりも薄い胸板が、そして固い筋肉の下から見え隠れする肋の感触がサクラの手にタオル越しに伝う。
 身体に触れたい。
 そう思ってしまったサクラはどうにかして理由をつけようと汗を拭くねと自分勝手すぎる提案をしたのだ。
 彼女の思惑を知らぬであろうサスケは適当に首肯するものだから彼女の罪悪感は一回り、膨らむ。火照った首筋を、鼻梁を、汗が滴った跡が残る額を。袖を抜いた脇を、上腕を。丁寧に汗を拭き取っていくサクラはしかし、恐ろしいほどに無表情であった。
「…ごめんなさい」  と サクラは漏らした。
 罪悪感に押しつぶされそうになり手を止めてしまったのだ。傷口に汗が入り込み時折痛ェなんて声を漏らすサスケは黒曜の瞳を彼女へ向けた。後悔ではなく恐怖に近い色がサクラには浮かんでおり、ぱっとタオルをサスケの身体から離すとそれを枕元の花瓶が置かれた机に叩きつけるように置いた。
「ごめん、ごめん…私、」
「サクラ?」
 なんとおぞましいことをしようとしてしまったのか。
 欲情したのだ。サクラが、サスケに。無論彼女がサスケに恋心を抱いてきたのはずっとずっと幼い頃から変わらぬことからであり、気持ちの変化としておかしなところはない。幼少期の『好き』が思春期を越え、社会的には大人として扱われる年齢になった彼女の『好き』との間に相違が生まれただけである。
「ちょ、ちょっとお手洗い行ってくる…ね……サスケ  くん」
 慌ててその場から離れようとしたサクラの手首を掴んだのは、紛れも無いサスケである。上体を起こしそのままぐい、と強く腕を引けばサクラの薄っぺらい身体は風に誘われるようにベッドまで引き戻され、もつれた足のままサクラは一人用のベッドに思わず乗り上げてしまった。
「サスケ くん」
「…お前、自分が何やったか分かってんのか」
「ご ごめんなさい」
「そうじゃねぇだろ」
 寝起きの姿のままふらりと病室に現れて。手際よく痛み止めを打ち、朦朧とした意識の中なんども額を触れられて。汗を拭くからというまっとうな理由で薄い病院着を脱がされ、タオルごしに体温を伝えられ。それで「ごめんなさい」だって?ある意味その言葉は正しいが、サスケは苛立ったまま彼女の手首を強く握った。
「サスケくん、痛い…」
「責任とれよ」
「…えっ?」
 何の責任?一瞬サクラの頭は真っ白になってしまったが、すぐにサスケの顔が真っ赤に染まっていくのを見てからそっと視線を彼の下半身へと動かした。ああ、そういう そういうことだったのね。
 完全にやってしまったとサクラの意識は熱に当てられたサスケに欲情してしまった自分に対しての自己嫌悪に集中した。
何をしたのよ、私は。これじゃあ私がサスケくんを襲ったみたいじゃない。いいえ、間違いじゃないわ。私がサスケくんを襲ったのよ。襲うだけ襲って逃げようとしたのよ。どこの犯罪者よ。どうして患者に手を出したの、私は。
 バカサクラ!
 彼女は内で叫んだ。
「やっぱり…私のせい よね?」
「他の誰のせいだっていうんだ」
「…」
「煽ったのはお前だ」
「はい…」
 仰る通りでございます。
「痛みが止まるまでここにいるって言ったよな」
「……はい」
 勿論そう言ったのも私でございます。
「どこかの誰かのせいで血の気が巡ってまだ左腕が痛むんだ」
「………はい」
 沸騰寸前までサクラの脳みそは温まってしまっている。この事態を招いたのは自身であるというのに、今までに無いほどにこれまでの行動を後悔していた。
「その…私、あの…」
「なんだよ」
「そそ、そういうことは…初めて…なの…」
「…」
 視線はサスケから離れ、今や広い病室のあちらこちらを漂っている。形勢逆転という言葉で表すことすら哀れである。思わずサスケは控えめな声を出して笑い、ようやくサクラの手首を解放してやった。
「お前…本当にどうしようもないな」
「…」
「別にどうするつもりもねぇよ」
「えっ」
 サスケはごそごそろ毛布をたぐり寄せると、しっしと右手で邪魔者を追い払う仕草をしてみせた。首をかしげるサクラに少しばかり恥ずかしそうに彼は言う。
「お前にどうにかしてもらう気はねぇ」
「……」
「出てけ。痛みはもうとっくに収まってる。…悪かったな、怖がらせて」
「…はぁ」
 今日のパンツとブラジャー何色だっけ。そもそも上下お揃いだったっけ。サクラはその場で服のファスナーを少し下げて断崖絶壁をおおう布を確認し始めた。「バカ!」というサスケの声と、「ウソ!」というサクラの声は同時。
「サ、サ、サスケくん…」
「…何も 何も言うな」
「私…下着つけてなかった…」
「言うなって言っただろ!」
 仮眠をとっていたのだ。寝苦しくて下着を外した記憶が徐々に蘇る。
「いつから気づいてたのよ、サスケくん!変態!」
「この場で確認しだすアホがいるか!最初から気づいてたに決まってるだろう!」
 深夜二時である。
 ぎゃあぎゃあと幼稚な言い合いをしている二人には廊下に明かりが灯り、何事かと廊下から忍び寄ってくるやかましい幻肢痛仲間の隣人の気配など気づいてい無いのであろう。
「やだ、サスケくんのえっち!早くトイレ行きなさいよ!」
「お前が先に部屋から出て行け!」
「出て行くわよ!もうっ、夜中に腕痛くなっても知らないからね!」
「今回はお前が悪い!」
「私はっ……ただ、」
 きっかけは苦しむサスケを助けたかっただけである。純粋に。
 ただそこで想い人にはしたなく欲情して行動に移してしまっただけだ。今にも泣き出しそうな瞳で「サスケくぅんん」という声を漏らしたサクラに、サスケはかっとなって言いすぎたことに気づいた。サスケ自身も安堵したのだ。痛みを訴えればすぐにでもサクラが駆けつけることはわかっていたが、仕事に追われる彼女の安眠を妨げたくはないと歯を食いしばり耐えていたのだから。
 呼ばずしてきてくれた彼女に感謝の気持ちは勿論、ある。
 だがそれとこれとは別だ。兎にも角にもサクラを部屋から追い出してしまいたいサスケは、仕方ないと怯える彼女の頭に手を添えた。
「…いいか、サクラ」
「…はい」
「今日のことは全部忘れろ。お前は寝不足、オレは熱で頭がおかしくなっていた」
「……はい」
「今からお前はすぐにこの部屋を出て行って、何事もなかったように寝ろ。今までの行動は全部夢遊病だ。カルテにも書かなくていい、どうせただの痛み止めだ」
「…カルテには書くけど、全部無意識でやったことに…します」
「そうだ。分かったら今すぐ行動に移せ。部屋の電気は消して行け」
「…はい」
 お互い頭のてっぺんからつま先まで真っ赤に染め上げてのことである。
 今夜は何もなかった。
 ただ、サスケが幻肢痛にうなされサクラが夢遊病をこじらせただけの話である。


 勿論廊下から様子を伺っていたナルトがサクラに気付かれ、幻肢痛ではないトンデモナイほどの現実の痛みを与えられたのではあったが。


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