満ちる月




 見知った人影が見えた。
 秋の太陽はとうに沈み、ぼんやりとした薄明かりを伴った月が空に浮かんでいる。夕食の買い出しにと人気(ひとけ)の少ない開発途中の地区を気まぐれに通ってみれば、サスケの瞳には春色の女がむき出しの鉄骨に腰掛けている姿が映った。
「…サクラ?」
「……サスケ くん」
 驚いた様子はない。どこか心ここに在らずといった表情の彼女はぼんやりと顔をサスケの方へ向けたが、あまりにもその様相が儚げであったためかサスケは思わず一足でその鉄骨まで飛び上がった。
「きゃっ」
 さすがにその行動にはサクラも驚いたらしい。細い鉄骨から危うく墜落しそうになった彼女の腰を支え、サスケはその隣に腰を下ろした。
「ど どうしたのサスケくん…」
「夕飯を買いに」
「こっち、街の方向じゃないよ」
「気まぐれだ」
「…」
 それから二人は数瞬であったが、言葉を失った。ぼんやりと夜空に浮かぶ月を見上げるサクラの横顔にはあまり眠れていないのかうっすらと隈が浮かんでいる。サスケが何を言おうと彼女は休もうとしないことを彼は知っている。どうせまだ数えきれぬほどいる負傷者の手当に毎日追われ、文字通り休む間も無く走り回っているのだ。
 比べてオレは、とサスケはそこで一つため息をついた。
「サスケくん?」
 格好悪いとは思わなかったが、情けないとは多少は思った。
「お前、こんなところにいるより早く帰って休め」
「風に当たりたかったんだもの。私には、これが『休み』よ」
「……変わった よな」
 失われた年月は決して短くない。その合間には多くの変化と喪失があった。神を謳った者にあわや里を壊滅寸前まで追い込まれ、息を吹き返した。そして再び芽生えた再生の炎すらもサスケは一度破壊しようと画策してしまったのだ。
 後悔の念などないが、愚かではあったという自覚があった。
 この景色を壊そうとしていたのか。口には出さなかったがサスケは周囲を少しばかり見回してから、再びサクラの横顔を見つめた。
 アカデミーに入学したての頃の彼女をサスケは多く知らない。ただ、暗い少女であったことは知っていた。いのの後ろにいつも隠れてはこちらを見てきゃあきゃあと喧しく騒ぐ目障りな少女たちの一員として認識していた。下忍となり『サクラ』という個人を認識するようになったのも遥か過去のことであった。
「大人っぽくなったな。前は…あれだけうるさかったのに」
「なっ…」
「冗談だ」
 くすり、とサスケは笑った。
 少しつり上がった強気な瞳は美しい雫型となり少女らしい丸みを失い女性らしい緩さを帯びた顔に鎮座している。ふっくらとした唇も少女の頃の彼女には見られなかったものであったが、夜風に揺られた桜花の髪から漂うシャンプーの香りだけは変わっていない。
「あのね サスケくん」
 空に浮かぶ月は満月に近いが、少しの欠落があった。
「覚えてる?…サスケくんが里を抜けた夜に 私が言った言葉」
「…覚えてないな」
「だろうと思った」
 サスケの言葉に彼女は泣き出すかと一瞬彼は焦ったが、至極自然に笑っていた。苦笑するような声に紛れて、「サスケくんがいなくなったら 私は孤独だって言ったのよ」と告げた。
「そうだったか?」
「そうよ。もう、本当に覚えてないのね」
「残念ながらな」
 彼らしい。サクラは再び笑った。
「それでね、サスケくんはあの日…結局行ってしまった。それからの私は…ずっと、孤独だったのよ」
「…お前には、「仲間もいる。家族もいる。みんないたわ。でも、孤独だった」」
 サスケの声を遮り彼女は凛とした声音で告げた。「ナルトがいてくれた。カカシ先生がいてくれた。サイも、ヤマト隊長も…もちろんいのも、シカマルも、ヒナタも。パパもママもいてくれたから私は一人じゃなかったわ」慰めてくれる人がいつも隣にいてくれた。修行の途中めげそうになったときはいのに叱咤され、逃げ出そうとした夜にはヒナタに怒られた。
 家に帰れば父母が夕食を作ってくれていたし、今もきっと家に帰れば笑顔で迎え入れてくれる。それでも孤独だったとサクラは言った。
「一人じゃなかったけれど…孤独だった。『ここ』がね、いつも…ぽっかりと 空いていたわ」
 控えめな胸を押さえ、目を丸くしてその話を聞いていたサスケに顔を向けた。サクラの翡翠色をした瞳が三日月の形を作り出し、ちょうど空に浮かぶ月を満たすように細められた。
「サクラ…」
「やっとなの。やっと孤独じゃないわ」
「サクラ オレは…」
「分かってるわ。ほら…私ってワガママじゃない。サスケくんがどう思っていたって私は私の心を曲げないから。…サスケくんがどう思っていても…この心は変わらないよ」
「…どうして…お前は、」
「サスケくんがいなくなって…今までたくさん亡くしてきた。たくさんの人が死んで、いなくなって、壊れて…それでも たどり着いたのよ」



 あなたに。



 どこまでも美しい笑顔であった。
 思慕の情という存在がそこにあったかはサスケ自身にもわからないが、ただ夜空に浮かぶわずかに欠けた月が美しいのと同じように、それらを背景として微笑んで見せたサクラという一人の女が美しく見えたのだ。
 豪腕の女傑であると誰が思うであろうか。春に咲き誇る桜花が舞い散るがごとき儚く美しい笑顔である。
「ひとりぼっちと孤独ってね、違うんだよ」
 ただ一人であっても想う人がいれば孤独ではない。周囲に仲間がいても最愛がその心にいなければ孤独であると彼女は言いたいのだ。そしてサスケはその言葉と共に幾年も昔のことを思い出していた。
 家族が失われ、自ら仲間を作らず過ごした少年時代を越えてサスケが手に入れたものは力であったが、決して孤独と引き換えに得られたものではなかったのだ。サスケは全てを遠ざけた。だが不思議なことに、何をどうやって周囲にトゲを振りまいても彼の周囲にはいつだって仲間がいた。  必要以上に踏み込んでこないその者たちを仲間として認識していたかは彼自身もはっきりと覚えていない。
 だが、そこに仲間を想うかつての気持ちが時に滲み出ていたことだけは事実である。
 それをもってして『孤独ではない』状態であったかは分からない。
「…それは 分かる」
 ただ木の葉の里で得られた仲間への情は里を捨てたと自らに言い聞かせた後にも心にこびりついていたのは確かである。
 サクラが唯一としてサスケを選んだようにサスケはサクラを選んではいなかった。だが、切り捨てたつもりになっていた数多くの仲間たちの中では、ひときわ夜空に浮かぶ月が如く光を放つ存在であった。
 そして、今も。
「サクラ」
「…」
「オレには この里は暖かすぎる」
 彼は鉄骨の上に立ち上がった。双眸に広がる光景は一度でも焼きはらおうとした夜景だ。
「お前も オレには強すぎる光だ」
「そんなこと…「オレには」」
 サクラは思わず立ち上がった。いつの間にか伸びた身長がサクラに時の経過を思い知らせたが、真っ黒な海の底に似た色をした瞳は変わらない。「オレには まだその光を直接見る勇気がない」とサスケは告げた。
「この里も、お前も、ナルトも…他の連中も。どこまでもオレを仲間だと言って追いかけてきやがった。オレを見限ったやつもいただろうが…どうしてかお前はずっと見ていてくれた。…だからこそ オレが今ここにいる。ここにいられるんだ」
「サスケくん…」
「だからいつかオレがまともにお前に向き合えるようになった時、きっとそれが…本当に『孤独じゃない』ってことなんだろうな」
 いつになってしまうかは分からないが。
 サスケは子供染み得た笑みを浮かべた。今が孤独であるなどとは思わない。だが彼にはまだ理解できなかったのだ。この女に対して抱く感情が仲間へ対するそれであるのか、『孤独』を埋め癒してくれる存在として愛情を抱くのか。
 サクラの欠けた心を埋めたのはサスケであると彼女は言った。
 ならばこそ、サスケの封じ込めた穴だらけの心を埋めるのはサクラであるのだと彼は心のどこかで理解はしていた。
 『それ』を認めるだけの勇気がないのだ。
「だから…少し、待っていてほしい」
「ん…」
「そうしたら…オレの気持ちも オレ自身が認めることができると思う」
「…今までこれだけ待ったもの。ずっと ずっと待ってるよ」
 明日になれば夜空に浮かぶ欠けた月は満たされた美しい円となるのだろう。仄暗い夜空の下でどこまでも美しく応えて見せたサクラの姿が、じんわりとサスケの内へと染み入っていった。






「そうだサスケくん。ご飯まだなら家に来ない?」
「は?」
「どうせママ、たくさん作って明日の晩に同じもの出すから。一人増えたって大丈夫よ」
「いや…それは…」
「どうせサスケくん、そんな腕じゃロクなもの作れないでしょ。こういう時はタダ飯だと思ってあやかりなさい!」
 数刻前までサスケに去来していた彼女に対する美しき感情は、あっという間に身を隠してしまった。
 その月が満ちるにはまだまだ時を要するようである。


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