今日も粥がうまい




「オレは怪我人だが病人じゃない」
「贅沢言わないの」
「…」
「文句あるなら下げるわよ」
「……食べない、とは言ってない」
 ほら、またそんなこと言って。
 サクラはスツールに腰掛けて行儀悪く足を伸ばし、腕を目一杯頭上へ伸ばした。建物の端から端まで、外から中まで。とにかく一日中ひっきりなしにあちらこちら走り回っていた彼女の身体は凝り固まり、足は棒のようになり疲労を訴えていた。
 そんな身体的疲労に加えて、だ。彼女がなるべく時間を見つけて足繁く通う入院患者の男は文句ばかりだ。今日も三日ぶりに顔を覗きに見てみれば、これだ。
「白米出されてもまだお箸、使えないじゃない」
「…これじゃすぐに腹が減る」
「いいことよ。たんとお腹空かせなさい。そうすればお粥だっておいしく食べられるようになるわ」
 サスケの前に出された白いトレイに乗っていたのは味気のない粥。たっぷりとした水気のそれはまだ温もりを保っており、付け合わせにはこれまた薄味の煮物がふたかけらほど。大罪人に提供される食事としてはそこまで質素ではないが、彼は口を曲げていた。
 木さじを右手で持ち器の中をくるくると混ぜ、とろりとしたそれを見つめてやはり顔をしかめる。
「病人の食事まで足りなくなるほど木の葉は物資がないのか?」
「!」
 我儘は言えど、頭の回らない子供ではない。木の葉が嫌がらせのためだけにサスケに粥を出した訳ではなかろうし、左腕を失ったがため不自由を案じて用意してくれるほどに優しくもないことを彼は十二分に理解していた。
 物資は不足している。
 それは病室の窓から見えるあちらこちらで復興の進む町並みを見ていればすぐに分かった。最終決戦というやつが繰り広げられたのは里のど真ん中ではないが、それでも多くの労働階級の忍が死に、戦争のために経済活動は滞っていた。
「なら、こんな飯オレなんかじゃなくて他の患者に回すんだな」
 怪我人はサスケやナルトだけではない。彼ら以上に深刻な怪我を負った忍は大勢いるし、サスケが一人部屋を使っているのは『そうでなくれはならない立場』にいる人間だからだ。少し離れた一般病棟で寝かされているナルトは多くの忍たちと部屋を共にしている。
 そんな贅沢をただ享受するのは居心地が悪いのか、彼は視線を落としたまま呟いた。
「……サスケくんもご飯、食べなきゃ」
「傷さえ治れば至って健康だ。兵糧丸でも食ってればいい」
 その傷が問題だというのに。大量のチャクラを消費し続けたサスケの身体もまた疲弊し、強がってはいるものの足の先から髪の毛の先までが栄養を求めている。
「すぐに…他国からの支援もくるわ、詳しくはわからないけれど」
 忍という戦力は失えど領土を失っていない国はいくらでもある。うちはマダラという──共通の敵がいたが故に今現在はどの国も過去の小競り合いのことは封印している。過去の禍根も今だけはなかったことにして、各国は戦力の中心となった木の葉への支援を名乗り上げてくれているのだ。
「分からないんじゃなくて、部外者にはそうやすやすと実情は漏らせない。だろ?」
 口ごもったサクラにサスケは少しだけ意地悪そうに尋ねたが、彼女はゆるり首を振った。
「私たちも知らないのよ、本当に。じきに物資がくるってことしかね」
 サクラはそう言ってサスケの右手で弄ばれていた木さじを奪い取ると、その水っぽい粥をすくって目の前に突き出した。「食べて」と少しばかり強い口調で言えば、観念したかのように彼は控えめに唇を持ち上げる。
 梅干しが欲しくなる味だ。
「…味がしない」
「お米の味はするでしょ」
「米の味だけだ」
 それか、鰹節がたっぷりと乗った塩昆布か。
 一口だけサクラの手からそれを味わったサスケは再びさじを奪還し、もぐもぐと口を動かし始める。何をいたところで身体は正直だ。まだまだ育ち盛りのサスケにとってこんな量では満足できたものではない。病に伏しているのではなく、一つ一つの細胞が傷を癒そうと奔走しているのだから。
「明日からもう少し量、増やせないか聞いてみる」
「…いらねぇ。ナルトのやつの方が腹空かせてるんじゃないのか」
「まぁね。でも、ナルトは…色々、気を紛らわせるから。お腹が空いたらアイツ、病室抜け出して屋上でリーさんと組手してるのよ。空腹を忘れるんだって」
「余計腹が減るだろ」
「そうよね。でも、ナルトがいいって言うならいいの。サスケくんは…ごめんなさい、まだ、何もしてあげられないの。ご飯くらいしか、楽しみだってないでしょ?」
 仮処分が決定するまで、サスケはあくまで限りなく『罪人』に近い人物である。火影だけではなく、司法、行政、その他諸々。ありとあらゆる政治機能が麻痺した今の状態では抵抗する気のない彼に対して放置以上の寛大な処置を与える暇などはない。
 どうせ出来レースのような会議を繰り返しサスケは無罪放免とはなるであろうが、正式にそれが言い渡されるまでの間全ての行動が制限されているのが現状だ。本を読むことも許されず、便所へ行くことすら許可を必要とする。本人はそれほど不便していないようには見えるが、サクラとしてはとても心苦しい。
「そこまで食い意地は張ってない」
「…でも」
 唯一、一日に三度訪れる食事の時間だけがサスケにとって二十四時間のうちに与えられた区切りである。夜の帳が降りれば電気のない室内はあっという間に暗がりに包まれて、朝日と共に起床する。そしてカーテンすらなく外気の冷たさが直に侵入してくる窓の外に目を向けて物思いにふけっているうちに七時。朝食。
「昨日は新月だった」
 だからとてつもなく無為な時間を過ごしているのでしょう?そう言いたげだったサクラにしかし、サスケは月の様子を零した。あの満月からもう二週間くらい経ったんだな、とか。
「!」
「その前は…いつもより星が綺麗に見えた。商店街の電線に止まっている雀の数が増えた。烏が多いのは…ゴミの日だろう?二、三日ごとに群れてやがる。オレがいた時は火曜日と木曜日だったが…今は何曜日かは知らねぇな。だが、人通りが多い日の次の日だから、多分あれは月曜日だ」
「サスケ、くん」
 本などなくとも、暇を潰せるモノがなくとも。
 サスケはすらすらと粥を口にしながら狭い窓のかたちに切り取られた外の世界のことを言い当てていった。鳥の種類、数。星の見え方、雲のかかり方。病院に訪れる人の数、その一週間での変遷。
「今まで…全部、見落としてたのを ようやく見ている気がする」
 木の葉にいた頃も、木の葉を捨てた後も。目の前に続く一本道の地面を睨みつけることだけに必死になって見落としていたもの。それら全てがこの窓から、そして 壁の向こう側から聞こえてくるのだと。「お前の足音も覚えた」なんて。
「私の…?」
 突然出てきた言葉にサクラは首を傾げた。
「左のサンダル、ちゃんと履いてないだろ」
「あ」
 数日前にベルトが外れてしまったそれは歩くたびに踵が外れそうになり、左右の足音が違う。だからお前の足音は簡単に聞き分けられるなんて言うサスケは涼しい顔だ。
「朝になると…飯が終わった頃、いつも走ってる。この部屋の前で一度立ち止まって…すぐ、また走って行く」
「!…そんな音まで聞こえるの?」
「暇なんだよ。他にやることもねぇ」
 その慌ただしい不規則な足音は昼前にも同じようにサスケの病室の前で一度止まってから、通り過ぎて行く。夕方にも、そして、晩飯の後にも。いつだってパタパタと女の軽やかな足音は一回部屋の前で逡巡してから去っていくのだ。
 時折──今日のように、食事を持ってきてくれる。たったそれだけが巡って行く毎日。
「早く…どうにかならないかな」
「それより先にやることがたくさんあるだろ」
「でも」
「確かにこんな生活暇だが、ようやくできた暇だ。いくらでも有効活用できる」
 朝、昼、夜。
 変わりゆくふるさとの空を一日中眺めることだって。
 生き急ぎすぎて置いて行ったものをかき集めるように、ただただ静謐な部屋の中で時を過ごすことをサスケは『無駄』だとは言わなかった。暇だとは言ったが──何もしないことを、受け入れた。「お前がバタバタしてるのを聞いて、壁の向こうから聞こえるどこかのバカの声を聞いて…里の、景色を見て。忘れてたものを…思い出せる」と静かに呟いた。
 その告白がとても意外だったためサクラは思わず開いた口が塞がらなかったが、最後の一粒まで残さずきっちり皿から米を器用にすくったサスケの口元に僅かな笑みが浮かんでいることに気がついた。
「…この生活、サスケくんは…楽しい?」
「まぁな」
 否定はない。日がな一日ぼんやりと外を眺めているだけの鳥籠の生活に。
「じゃ、もう少しだけ我慢してもらおうかな」
「月齢が一周するくらいなら、まだまだオレは一人で暇を潰せる」
「…あのサスケくんのセリフとは思えないわね」
 いつまでも修行に明け暮れて、瞳には未来のない未来しか見ていなかった少年時代なんかとは。
「お前もせいぜい足音でバレないように精進するんだな」
「もう、サンダル買い換える時間もないのよ」
「じゃあ足音をどうにかしろ」
「どうにかって…いいじゃない、別に。それに」
「それに?」
 サクラはそこまで言って、照れ隠しのようにトレイを回収して膝の上に乗せた。毎朝忙しく髪の毛を綺麗にセットすることもできずに走り回り、求められるがままに慈愛の手を差し伸べる。そんな忙殺され続ける日々の中で彼女が持つ唯一の楽しみこそが──
「サスケくんに挨拶してるのよ、あれ」
 と。
 今は朝ごはんの時間かな?ごめんね、またお粥で。今日は暖かいね、お昼にはお菜がつくわ。日が暮れてきたら寒くなってきたよ。そして、一日の終わりには──大切の人が一人ぽつりと寂しげに時を過ごす部屋の前に立って、声には出さずに「おやすみなさい」を。
「…無言で?」
「だって、寝てるかもしれないじゃない」
「……」
「用もないのに挨拶だけに邪魔するのも悪いから、心の中で挨拶よ。それもやめて、大人しく抜き足差し足忍び足で通り過ぎた方がよかった?」
 意地の悪いことを言う。
 サクラが少しだけ頬を膨らませると、サスケはバツが悪くなってぷいと顔を背けたが、少しだけ白い頬は赤みを帯びている。
 そしてぶっきらぼうに彼は言葉を慎重に選びながら──サクラに、こう告げた。


「お前だけ一方的に挨拶なんて、不公平だろ」










「おはよう、サスケくん」
「…おはよう」
「朝ごはんのお味は?」
「変わらねぇよ。ただの白粥だ」
「テマリさんから連絡があったの。じきに砂の国から薬草が届くわ」
「そうか」
「……じゃあ、またお昼に来るね」
 仕事、頑張れよ。
 それだけ告げてサクラはまた忙しそうに廊下へ飛び出して行く。窓の外を見続け食事の時間だけを刻む毎日の中に、たった数十秒の差し色が訪れた。


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