その瞳を 見た。
「きれい」
 サクラは思わず声を漏らした。血色の瞳を恐ろしいという印象を抱いていた時間はずいぶんと長かかったが、下忍となってすぐの頃はこのような気持ちであったのだろう。
 右は美しき鮮血色。左はガラス細工にも似た無彩色のそれ。何年も見ない間にすっかり変わってしまった両眼差しの色ではあるが、美しさは変わることなどない。サクラはそれをじっと見つめ、「でも…少し違うね」とも続けた。
 下着に薄いカーディガンを羽織っただけの女に、隻腕の男が上半身を裸にしたまま一つのベッドに収まっている。
 『睦言』の後とも紛う光景ではあるが、そんなことはない。ただ風呂上がりのサクラが先にベッドに入っていたサスケに迫っただけだ。
 最初こそ憧れていた男と同じベッドに入るという事実だけでシラフではとてもいられなかった彼女だが、今となってはお手のものだ。張り切って派手な下着をつけることもなくなり、機能性が重視された任務用の下着をつけたままでも平気でいられるようになった。
「何が?」
「なんだろう…なんとなく、昔のサスケくんと違うわ」
 彼女はサスケの瞳を見るのが好きだった。
 深い海の底のような漆黒のきらきらひかる瞳が。仲間を守るために使う赤い呪われた巴が。それを知っているからこそ、サスケはこうして彼女の前でわざと写輪眼をその瞳に乗せたのだ。
「…お前、いつと違うと思ってる?」
「?下忍の頃よ」
「じゃあ違ってあたりまえだ」
 サスケはそう言うと、サクラの肩に乗せられたカーディガンをふわりと片手でおろした。
 今のところ、二人は『事』に至ってはいない。ナルトとヒナタなど、同期の連中はよろしくやっているのかもしれないが、二人には関係ないことであった。サクラは親友によく「そこまできて手を出されないって相当よね」なんて言われてはいるが。
 今日もまた、何もないパターンだろう。こうして下着姿をあらわにされても、そのまま無骨な大きな手指が控えめな胸元をなぞっても、そこまでだ。彼は何を考えているのかわからないような無表情で感触を確かめる。
「オレの瞳は」
 そして、手を止めた。
「とうの昔に光を失った。…もう二度と、見えなくなった」
「!」
 ちょうどお前たちと会った時だったな。サスケは過去を回想するように呟いた。
 力を使うたびにぼやけていく視界のことはよく覚えている。思い出したくもない感覚であったが、彼女の顔も、全て見えなくなっていったことがあったのだ。
「今オレの頭蓋に埋まってるのは、イタチの瞳だ」
「…イタチ、の」
「お前、イタチが何したか…どうせ知ってるんだろう?」
「ごめんなさい」
「別に構わねぇよ」
 ナルトの体内に九尾が秘められていることも自力で探し出したという話は聞いていた。ならば、火影邸の隅から隅までを漁ってうちはの真実を独自に突き止めていたところでおかしくはない。そして思った通り、カマをかけてみればあたりだ。
 彼女は申し訳なさそうにサスケから目を逸らしたが、彼は「こっちを見ろ」とサクラの頬を掴んだ。
「構わないって言ったろ。…話す手間が省けた」
「…話してくれるつもりだったの?」
「いずれな」
 それは今ではなかったのだろうが、いつかは。サクラはそんなつもりなかったくせに、と少し笑いながら、今度は彼女の方からサスケの顔に両手を添えて、顔を近づけまじまじともう一度瞳を覗き込んだ。
 すると彼は無言で毛布を剥がし、彼女をすっぽりと包み込んだ。
 少し湯上りで冷えた彼女の体温がサスケの胸に伝わって来る。やわらかな女の感触が彼にのしかかり、そのまま自然とサクラに押し倒されるかたちで二人はベッドに沈み込んだ。
「じゃあサスケくんが今見ている景色は…イタチを通して見ているのね」
「…そうだな」
「サスケくんが旅をするのは、そのため?」
 彼の亡き最愛の兄の目にこの世界を映したいからでしょう?勘のいいサクラがそう言うと、サスケは目を逸らした。図星の合図だ。
「いいお兄さんだったのね」
「…そうだな」
「イタチに見られてるって思ったら 恥ずかしい  かも」
「バカなことを。もう死んだ人間だ」

「だけどその瞳は生きているわ」

 たとえ肉体が虚空へ消えていようとも。魂は、チャクラはまだその瞳に宿っているのよとサクラは笑んだ。
 早朝任務に備えて既に着替えはソファの上に並べてある。起きて、顔を洗って、髪の毛を整えればすぐに出立できる準備は完璧であった。サスケの体温で既にぬくもりを持っていた毛布に包まれ彼女は夢の世界へと引きずり込まれそうになっている。
「…だから、いって らっしゃい」
「もう一枚服を着ろ。風邪引くぞ」
「ん…サスケくんが…あっためて」
 アホか。ねぼけるな。サスケはそう言ってやりたかったが、人の胸の上ですぅすぅと寝息を立て始めた女にはもはやなにを言っても届かぬことは分かっていた。また『機会』を逃した。サスケは一人、彼女に聞こえぬようにため息をこぼした。
 欲情していない訳ではない。
 だが、どう手を出していいのか迷っている間にサクラはこの関係に慣れてしまったらしい。
 彼女はもはやサスケの前で下着姿でいることに抵抗がなくなってしまったのだ。そしてサスケも、風呂上がりの半裸で彼女の風呂上がりをベッドで待つという日常が当たり前となってしまった。ここまできて手を出さないのは男としてどうかと思うが、安心しきっているサクラに今更手を出して泣かれても困るというものだ。
 この間シカマルという以外な人間に『夜の事情』を心配されるという珍事態が発生する程度にだ。
「…明日こそ、か…」
 サクラは明日夕方早くに帰ってくると言っていた。サスケも別に急ぐ用事はない。そのうちまた里を出て行くつもりではあるが、明日出ていかなければいけない用事もない。ならば、サスケは今回『男の本懐』とやらを成し遂げてから里を出て行こうと心に決めた。


 今日もダメだった。
 サスケは隣で下着姿のまま幸せそうな寝息を立てているサクラの隣で上半身裸という情けない姿でうなだれた。別に事に及びたいほど性欲が溢れている訳などではないが、一応『恋人のような関係』に収まっている両者としてはいい加減あと一歩踏み出したいところでもあった。
 サクラが任務に出て行った後、家事を全てこなし夕食も作り悶々と考え事をしているうちに、前日と同じように風呂へ入り、サクラを待ち、彼女と他愛のない会話を楽しんだあとに疲れたサクラが先に眠る。
 そして、今に至る。
「…いつまでも里から出れない か」
 己の決めた目標をあっさりと諦めるのは癪だが、今回ばかりは下手をすればかなり長い間里に居り続けなければならないようだ。







「もう出て行くの?」
 翌日、サスケは出立を決めた。
 埒があかないと理解したのだ。お互いリラックスしすぎて裸に近い状況となっても『いい雰囲気』に陥らなくなってしまった以上、一度距離を取らなければならないのであろう。今のこの関係に不満がある訳ではない。実際、サクラと共に眠ることで旅疲れはあっという間に吹き飛んでいる。
 彼女に迎えられ、彼女と共に食事を摂り、風呂は各自で入っているが彼女と共に床につく。なんの遠慮もなくその行為を繰り返しているからこそ、いつまで経っても進展が望めないのだ。
「…サクラ」
 ならば、残る一縷の希望は。
「ん?」
 突然の出発を決めた彼はナルトにもカカシにも告げていない。どうせサクラが後から報告しにいくのだから、別にわざわざ告げる必要もないと考えたのだ。そして予想通り、今サスケの見送りにはサクラ一人という絶好の機会である。
 そんな中、彼は少女だった女の名前を呼んだ。
「次に帰ってきたときは…その」
「…」
 顔が赤い。サスケはそんな自覚があった。
「もう少し…進展、しないか」
「!」
「その…なんだ、」
 オレたち恋人だし。とは口が裂けても言えなかったが、代わりの言葉を探ししどろもどろしているサスケに彼女は微笑んだ。「いいよ」と言い、サクラも頬を桜色に染め上げた。
「次…帰ってきたら ね。私…まってるから」
「…あぁ」
「いってらっしゃい」
「…いってくる」
 次会うときは、もう一歩進みましょう。
 一つの小さな約束をして、『恋人たち』は別れた。




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