小話たち



 いっしょうゆるさぬ(ガイストとジャンとニコライ)


「無罪放免、ですか」
 ニコライはははぁ〜と首を傾げて見せた。
 聖都ガテラティオの朝は早い。禁欲的な司祭たちが早朝から鳥に餌をやり、貴族の召使たちが朝食を買いに市場へと足を延ばす。喧騒が訪れることもしばしば、であるが大抵は通りすがりの司祭がその場をなだめて事なきを得る。
 世界的には『平和』であるこの都で行われた此度の裁判はひどく滑稽であったとニコライはひしひしと感じていた。
「各々が適当な理由をつけられて無罪だそうだ」
 どこか他人事のように言ってのけた当事者はかつて敬虔で模範的な聖職者として名を馳せたガイストである。
「当人を呼ばずして行われる裁判を果たして裁判と言うのでしょうか。いいえ、言いません」
「ではなんと言う。聖職者の皮を被った欲深き者たちの密会とでも言えばよいか」
「…えぇ、それがぴったりでしょう」
 あまり仲が良いとは言えぬ二人である。皇帝オブリビオンの配下となったのはガイストが時間的には先ではあるものの、オブリビオンがゼネオルシア家の一員であった頃から親交があったのはニコライである。互いに互いを嫌悪しているとまでは行かずとも、好意は持っていないことは側から見ても明らかであった。
「オッサン二人で何してんだ?」
 そんな放っておけば悪くなるであろう空気を壊したのはジャンだ。
 二つの手に三つの大きなマグカップを携えた彼は昼前の暖かな日差しを浴びながら二人の合間に割って座ると、手にぶら下げた飲み物を押し付けた。「ビールじゃねぇよ。アルフレッドさんから。挽きたてコーヒーの配達であります」だなんて芝居がかって言ってみせる。
「…ありがたくいただきましょう。ジャン、あなた朝からユウのところへ?」
「朝からじゃねぇよ」そう言って少年はくつくつといたずらっぽい笑みを浮かべた。「こないだマグノリアが来てたって言うからな。昨日は泊まり込みでみっちりと我らが三銃士のリーダー、ユウ・ゼネオルシア様の武勇伝を聞き出してたんだ」と。
「……ジャン」
「おう」
「…いいえ、お説教は今日はなしにしておきましょう。それよりもあなたも聞きましたか?私たち、皆無罪放免だそうで」
「………はぁ?」
 ニコライの反対側でガイストがくつくつと笑った。
 機嫌よくコーヒーを持ってきたジャンであったが、あっという間に目を丸くして黒い液体を飲むことをやめてしまったからである。どこまでも間抜けな声をあげて聞き返した少年に答えたのはガイストである。
「デニー・ゼネオルシアが皇帝オブリビオンとして魔王を従え和平調印を妨害したのは全て妖精を騙った悪しきもの…アンネがなしたことだそうだ」
「そしてデニー殿は改心し魔王を倒すべくその身を次元の彼方へと投じた…。我らもまた、アンネに唆されたデニー殿に従ったまでのこと だそうで」
「訳分かんねぇな。…なんでそうなったんだよ」
「考えても見ろ、若造」
 どす黒いコーヒーを一気にガイストは飲み干した。
「正教騎士団を率いるべき三銃士は解散。皇帝オブリビオンが改心し世界を救ってみせたなどという美しき話を作ろうとも元はゼネオルシア家が廃嫡した子が起こしたこと。公国と正教が共に歩むべき未来にはふさわしくない添え物だ」
「…でも俺、裁判なんて呼ばれてねぇぞ」
「ご安心ください、ジャン。誰一人として呼び出されてはおりませんよ」
「茶番じゃねぇか」
 あぁそうだ茶番だ。ガイストは空になった樽のようなジョッキを隣に叩きつけて再び笑った。目の下に広がる隈はいつものことながら酷いものである。また寝てねぇのか、と呆れたようにジャンは首を振った。
「権力者共の好きなように我らの立場は彩られた。ゼネオルシア当主の小僧がずいぶんと口利きした結果だ」
「ユウが?」
「私とて無為に夜を過ごすほど気は触れておらぬ、今はな。聖騎士の娘に聞けば、夜通しふざけた裁判の話を耳にできた」
 どうせ飲まぬのなら寄越せと強引にジャンの手から二杯目のコーヒーをもぎ取ると不眠の祓魔師はケラケラと笑いを交えて語った。「全ての元凶はグリード・ゼネオルシア。否、ゼネオルシア初代当主ファンダル・ゼネオルシア。奴が見つけた密林の原始病をグリードはかつて持ち出した。…その原始病は世界を呑み、のちに世界疫病と呼ばれた」
「!」
「その世界疫病を発端として聖騎士ブレイブは公国を興し、正教を虐げ…バレストラ家を焼き、魔女狩りを呼び、無垢な子を生贄に治癒薬製造に没頭した」
「じゃ、俺たちはゼネオルシアの前当主様が世界疫病を掘り起こしたせいでこうなったカワイソウな犠牲者か?…笑えるな」
 笑えませんよとニコライは窘(たしな)めた。
 しかし彼もやるせない気持ちを抱いているのはジャンと同じであり、まだ僅かに湯気の立ち上るコーヒーの水面を見つめた。
「…どのようなやりとりがあったのかは私たちは知りません。政治的な取引があったのでしょう。我らの罪を全て不問にすることで…私たちは自らの罪を自らで裁かねばならないのですから」
「自分で、ね。…そりゃ俺だって騎士団の連中を斬ったのは反省してるさ」
 なんとか一命をとりとめたと話は聞いているが、ジャンが切り倒した者たちとはまだ顔を合わせていない。
 騎士団の中でも随一の腕を持っていた年少の三銃士がなした裏切りを全ての者が許すとは到底思えなかった。ニコライもまた、人の命を奪ってはいないが彼自身の罪を結局は自らで裁かねばならないのだ。皇帝の野望に縋ることで償おうとしたそれを己の手のひらへ納めてしまった。
「生きて償え。そう…死者は言っているのでしょうね」
「…生きることで償えるものなら世界は易いものだ」
「……」
 水を差す言い方をしたのはまたしてもガイストで、彼はガテラティオの港からはるか水平線に見える何艘もの船を見つめていた。
「正教はグリードが死病を抱えたままガテラティオへと帰港しようとしていることを知り…時間稼ぎに私を派遣した。グリードの船に巣食う悪しきものは悪魔などではなく…不治の死病であると分かっていながら我に悪魔祓いを命じた。…故に我も無罪だ」
 死病を世界中へと蔓延させた責任の一旦は私にあることは違いなかったというのに、と付け足した男の顔(かんばせ)に浮かんでたのは狂気に満ちた笑みではない。ただその瞬間のみ、ジャンにもニコライにも懺悔の言葉をはく祓魔師の姿がいたく疲労困憊しているように見えた。
 嗚呼、だから寝れぬのか。
 てっきり正気を失ったため夜も眠らずに魂のみとなった息子に夢物語を聞かせていたのか、はたまた正気であろうとも眠りを知らぬ息子のために夜通し数々の童話を聞かせてやっていたのか。そのどちらでもなかったようである。
「一度眠れば…あの船に乗っていた者たちが吐く呪詛の言葉が身を蝕んだ。なぜ…悪魔を祓えなかったのかと」
「自分で言ったじゃねぇか。悪魔の仕業じゃなかったんだろ」
「ではなぜ、医療省への進言を諦め命じられるがままに死病の娘を放置し帰郷したのか」
「……年若き祓魔師には命令に背けるだけの権力もありません」
「しかし私には選択肢があった。その場でグリードを殺すことも…娘もろとも 全てを沈めることもできた」
「…」
「言えど問えど詮無きことと言えど…今日この日に 我の罪が永遠に裁かれぬという裁定が下されたのだ」
「我らにとっては…無罪放免こそが、最大の罰でしょうなぁ」
 命失うその日まで苛まされ続けるのだ。ジャンとニコライは再び三銃士の一員として正教騎士団を支え続け、兄を失ったユウはゼネオルシアの新たな当主としてグリードやファンダルが歩んできた血塗れの道を歩まぬよう世界に償い続けるのである。そしてこの哀れな聖祓魔師であった成れの果ても、眠れぬ夜をこれからも過ごすのである。
 朝焼けの色は美しく、岸壁に並んだ奇妙な三人組を温めた。
「あぁでも」
 と、ニコライはコーヒーをずるずるとわざと音を立て飲んで見せた。二杯目のコーヒーもあっという間に流し込んでしまったガイストの方を見やると、彼は笑みの一切を浮かべぬ瞳で告げた。「私はあなたを許しはしません。…聖職者でありながら人を傷つけることに快感を憶え、罪無き人々を巻き込み続けたあなたを私は絶対に許しはしません。例えあなたが血塗れの祓魔師となった理由が罪深き裁定にあったとしても…私は あなたを憎みましょう」
「…!」
「おい、ニコライのおっさん…」
 嫋やかな物言いではあったが司祭の男はハッキリと言い切った。
 あわや大乱闘にでも発展してくれるなよと慌て始めたジャンであったがしかし、応えたガイストの声はどこか吹っ切れたように穏やかであり、いつもの「ククク」なんていう不吉な笑い声と共に口元に笑みを浮かべていた。
「それが 私へのお前が下す罰か。ならば私もお前を許しはしない…私はお前の罪を知っている。焼かれる狼の生家をただ見ているだけであった貴様は、その罪を不問とされたまま狼と共に三銃士となるのだからな!」
「……」
 押し黙ったのは ジャンだ。
 眉間に縦じわを寄せた彼の怒りを買ったことに気づいた祓魔師は笑うのをやめ、「これは当人同士の裁定である」と芝居がかった物言いで告げた。
「我らの罪を知るは我らのみ。我らは…互いにその罪を抱きながら 罪無き者として生きる我らを戒め続けるのだ。それこそが…世界が我らに下した罰よ」と。
 未開の地に住まう狩猟一族の娘も、その伴侶として甘味を振舞うかつての暗殺者も。疫病を殺すための贄として屠られたが故に凶悪な力を手に入れた少女もまた、罪を抱いたまま罪無きものとして生きるのだ。
 人々に癒しを与える者として、独り身の男に寄り添う家族として、正教に使える三銃士として、かつての正教を支え続けた聖祓魔師の成れの果てとして。


 バケットを抱えたアルフレッドが朝食だとジャンを呼びに来たのは それから少し先のことである。



おまんじゅう(ED後三銃士)


 豚、餡、ピザ。
 三種類の饅頭が店先に並んでいた。どれもホカホカと湯気を立てて実に美味な匂いを漂わせては道行く人の嗅覚を捕まえ、操られたように人々は店先に集まってくる。まるでパネットーネの作るパンケーキ屋のようだが、この店は『アヤシイこと』はしていない。単にいい匂いがするだけだ。
「…俺はピザだな」
「では私は餡まんで」
「じゃあ僕は豚まんですね。すみません、」
 正教騎士団三銃士と呼ばれるようになってからどれほど経っただろうか。
 ユウ・ゼネオルシアというこのリーダーが由緒正しきゼネオルシア家の歳若くして当主となったのは数年前で、イスタンタールへの剣術留学から帰郷し、気づけば父が、祖先がそうであったように正教騎士団の中核を担う存在となっていた。
 それから、それから。
「うわぁ、おいしそう〜!」
 真っ白な皮を少し破いてみると顔を出したのは店先に漂っていたものとは比にならないほどの香りである。ジューシーな肉汁溢れる中身がはちきれないばかりにユウの手の内で広がった。
「見ろよ、こっちのピザまんもすごいぜ」
 自慢げに伸びるチーズを見せつけたのはジャンだ。そしてニコライが隣で甘ったるい餡を頬張った。
 二口ほど食べたら、左隣の人へ渡し。ジャンが大きく肉まんを一口かじり、ユウが抗議の声を上げる。そうこうしているうちにこっそりニコライがピザまんをたくさん食べるものだから、ユウもヤケになって餡まんを食い散らかす。ローテーションして、ジャンが「甘いのは好かない」なんて言って餡まんをスキップ。
「やっぱり、この三人っていいですね」
「…ん?」
 戻ってきたピザまんの残りをむしゃむしゃにジャンは食いついた。「…僕らが旅していたとき、こういうことするといつもイデアさんが全部食べちゃってて」と笑った。
 イデアなら一人で三種類全部食べたであろう。
 ティズが自分のをさらに彼女に渡し、ユウとマグノリアが一つを分け合う。そんな食べ方になっていた。そんな珍道中でしたと彼は笑った。
「僕には、やっぱりこの三人が落ち着くような気がします」
「…そりゃ、月から来た魔王バスター様と今や公国元帥の第一師団長、ノルエンデの英雄さんときたからな」
「みんなバラバラだったし」
 ただ一つの目標に突っ走っていった訳ではない。法王アニエスを助け出すことを至上の目標とした者、故郷を滅ぼした魔王に雪辱を果たし、全ての元凶を滅ぼそうと考えた者。世界の安寧のため、ひたすらに信じた道を突き進んだ者。
 互いに互いを思う気持ちは強かったし、皆がそれぞれの目標についてきてくれていたもののユウにとっては少し窮屈だったのだ。ニコライよりも皆歳は近かったが身分が、立場が違いすぎた。憧れの英雄に、正教を迫害してきた公国の首領。いつもどこかで緊張していたなぁと彼は振り返って呟いた。
「俺たちも言ってみれば…バラバラだったけどな」
 純粋に家名を信じた者、廃嫡されたゼネオルシア家の『もう一人』に贖罪をなすりつけた者、胸を巣食う姿の見えぬへの復讐への誘いに身を滅ぼした者。三銃士という組織に属しながらも背中合わせでもあったのだ。
 だが、ユウはそんなジャンの皮肉じみた言葉にも笑って見せた。
「それでも僕らはこうやってまた一緒にいられる。…結果オーライだよ、ジャン」
「結果オーライ、ね」
 あっという間にあつあつのピザまんはジャンの口に吸い込まれていった。黙ってそんなやり取りをしていたニコライの手にも残っているのはかけらのみである。「また…やりなおでばいいのです」と、年長者は告げる。
「もしも再び誰かが道を踏み外そう時が来たならば、私たちがそうであったように…何度でも、やりなおしていけばいいのですよ」
「やりなおす、か。確かに俺たちがやりなおせたんだったら…これから先もなんとかなりそうだな」
 信念を貫き通して意地を張り合い、命をユウに奪わせることでしか満足しえなかった二人である。その二人が自ら命ある道を進み、こうしてユウの隣に立っていられる世界を何度でも目指せと彼らは言うのだ。
「皇帝にも譲れない考えがあって行動したんだ。何度だって…どれだけ世界がよくなっても、皇帝みたいな考えの人間は現れる。妖精族だかなんだか知らねぇが、アンネみたいな奴だってどこにでも現れる」
「…それが、今回はオブリビオン…いいえ、デニー殿であっただけです」
「兄さんのような人が また現れると?」
 えぇ、残念ながら。
 ニコライは残りの餡まんを頬張った。
「仕方ないのですよ、ユウ。あなたがゼネオルシア家の権益を全て手放したとして、正教と公国が手を取ったとしても…過去は変わりません。世界疫病で失われた命も、聖騎士殿の蜂起で失われた我らの誇りも…焼かれた者たちも、変わることはないのです」
 彼の言葉の隅々には皇帝の意思に同調した者たちが描かれていた。
 実の父親を討ち取られ、赤子のうちにその家もろとも焼かれ全てを失った狼の少年。
 魔女だと罵られ幼子の妹は愚か、『全て』を灰へと帰され世界を呪った黒巫女。
 詮なきことと言われようとも永遠に自らの選択によってさいなまされ続ける祓魔師の父親。
 そして、『奪われた』側である身体を持たぬ子供。
 過去の災禍によって命の指針を惑わせた者たちの中にはニコライ自身も含まれているのであろう。彼が失ったものは家族、肉親といったかたちあるものではなかったが、間違いなく正教騎士団としての誇りを失い、正義たる道を無くしたのだ。
 そんな『奪われしもの』は永遠に帰ってくることはない。
「…そんな顔すんなって、ユウ。ほら、豚まん冷めてる」
「……うん」
 俯いた三銃士のリーダーはしかし、豚まんを口にしようとはしない。ニコライは事実を述べたまでであったが、やはりまだこの年少には少しばかり刺激が強すぎる内容であったようだ。ははは、と軽く彼は笑ってからジャンを肘で突き、フォローするように促した。
 俺かよ、と彼は嘆いたものの頭をボリボリと掻いて、「あのな、ユウ」と言った。
「別にニコライのおっさんも、今までが無駄だったとは言ってねぇよ。…変えられないのは過去だ。お前たちが選択してくれたおかげで…変えられない過去を持った俺たちの未来が変わったんだ」
「未来…」
「だからその『変えられない過去』を恨む皇帝みたいな奴はまた現れるかもしれねぇ。…でも、お前はそういう奴の『未来を変える』ことはできるんだよ。要するにアレだ、その時は今度こそ、俺たちも一緒だ」
「ジャン、ニコライさん…」
 ジャンは照れ隠しのようにユウの手の内に残る豚まんをひったくった。抗議の声をあげられるよりも先に、少し赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いてそれを口の中へ押し込む。
「全てはこれからですよ、ユウ殿。あなたは我らの道を正してくれた。それができるあなただからこそ、これから先の未来もきっと変えて征けるのです」
 失われた過去を取り戻すことはできずとも未来は変えていける。
 ニコライの言葉への返答を考えていた年少の頭領は奪われた豚まんの存在を思い出し、真面目な話など忘れてしまったかのように口を動かすジャンへ非難の言葉をまくし立てた。



攻略戦(ユウとマグノリア)


 目の前に並ぶは 凶悪とも言える甘さのパンケーキである。
 充満する香りは風の如し、聳え立つ姿林の如し、激烈なソースの朱は火の如し、そしてずっしりと構えたるその姿山の如し。
 特製ベリーソースがたっぷりをたっぷりと全身に浴びた見事なフォルムのパンケーキが三銃士たちの前には並んでいたのだ。一応、犯人…もとい製作者であるパネットーネに言わせてみれば、『魅惑のストロベリー味』と『刺激的なラズベリー味』と『繊細なコケモモ味』という朱色のソースにも種類があるらしい。
 しかし食べる側としてはあまり気にすることではなかった。
 なにせ、最初にニコライが「パンケーキはちょっと…」というパネットーネへの当てつけのような言葉を吐いて脱走したのだ。そして釣られるようにジャンも「さっき飯食ったとこだしな」なんて言い訳をして消え去った。ゆえに、残されたのはユウ一人である。
「せっかくガテラティオに来たついでに作ってもらったのに…」
 さすがに三種類の山盛りパンケーキを平らげることは不可能だ。
 ニコライたちに言わせてみれば、パネットーネのケーキは浮遊城にいた頃に嫌という程食べさせられたという記憶がありあまりいい思い出はないからだそうなのだが、そんなことユウは知ったことではない。ユウだってパネットーネのスウィーツとやらは、食べた途端にゴースト状態に昇天し危うく殺されかけたのだから。
「…こんな時、イデアさんがいれば…」
 あいにく救世主は法王アニエスと面会中である。パネットーネはどこへ行ったかは分からないが、彼がわざわざ店から持ってきた皿が並んでいるのだ、じきに戻ってきてしまうだろう。それまでにどうにかしてこの問題を解決せなばならない。
「あら、何してるの」
「マグノリア!ちょうどいいところに…」
 そんなユウのもとへと救世主へとなりうるもう一人の女性がやってきた。マグノリアだ。彼女は真っ白な余所行きのワンピースを着ていた。三銃士の詰所である個室に彼女が現れるという奇跡に近いイベントにユウは喜んだ。勝機が 見えたのだ。
「マグノリア、さっきパンケーキをもらったんだけど…君もどうだい?」
「Good!ちょうどお腹空いていたの。もらうわ」
 革張りのソファに腰掛けた銀髪の宇宙人はニッコリとして山にように積み重ねられたその甘味をつつき始める。
 ストロベリーは鉄板の味ね、ラズベリーは少しトリッキーで甘酸っぱい。コケモモっていうけど、もしかして花園に咲いてたモンスターの実とかじゃないでしょうね?
 彼女は目をキラキラと輝かせたまま次々とパンケーキを齧っていく。見た目だけの第一印象はクールで理知的、口を開いて喋ってみれば意外と乙女な思考回路。そして不意に見せるは故郷を奪われたことによる憎しみを孕む狂気の瞳。
 マグノリアという一人の女性は数多くの面を持っていたが、今こうして甘いパンケーキを頬張る彼女は少しだけ幼稚であどけない少女めいた顔をしている。
「ユウは食べないの?ほら、おいしいわよ」
「え、あ、うん」
「あーんしなさい、あーん!」
 見ていて飽きないな、というユウの気持ちを知らずしてからマグノリアはフォークにさしたパンケーキの一切れを彼の目の前に差し出した。瞳の色と同じ真っ赤なソースがとろりとかかった小麦粉の塊にユウは若干赤面しながら、口を開ける。
 健全男子なら誰もが夢見る『彼女サマ』にしてもらう『あーん』を体験したユウはパンケーキの味など忘れ、高まり始めた胸の鼓動をどうにかして収めようと視線をそらして「そういえばマグノリアはどうしてここに?」と尋ねた。
 真っ赤な瞳と真っ赤な唇、そして口元にこびりついた真っ赤なベリーソースを真っ赤な舌で舐めとったマグノリアは「あ」と声をあげた。
「そうよ。パンケーキ食べにきたんじゃないの。イデアに頼まれていた書類、代わりにとりにきたの」と言う。
「あぁ、イデアさんの」
「全く人使いが荒いわよ。そんなの郵便で出せばいいのにね」
「仕方ないよ。大事な書類だから、君に任せた方が安心だと思ったんだよ」
 ユウはそう言って立ち上がると、自身の執務机の上に置かれた書簡を手に取った。クリスタル正教が擁する正教騎士団とエタルニア公国が従える公国師団との合同訓練についての書類だと彼は言った。
 防衛訓練という名の軍事訓練にアニエスは渋い顔をしていたが仕方あるまい。エイゼン軍が広大な訓練場を貸してくれることとなったのだ。そして様々な天候での軍事行動を想定した訓練を行うため、イスタンタールからは人工雲を生み出す装置をノルゼン教授から借用することにもなっている。
「すごいものね、二つの組織が訓練するだけなのに…世界じゅうの人が手を貸してくれるわ」
 カルディスラからは見習い騎士らが経験を積むためにも参加する。ユウたちが旅の最中で出会った幼年騎士も来るらしく、ティズも時間があればいくよと言ってくれた。
「それだけ世界が注目してるっていうことだ」
「緊張してる?」
 正教騎士団屈指の実力を誇る三銃士のリーダーなのだ。今回の訓練では多くの騎士たちを従えて公国側と戦わなくてはならない。勝ち負けを気にしている訳ではないが、正々堂々お互いの顔に泥を塗らぬように戦う必要があり、ユウは連日頭を抱えていた。
 あなたならできるわよ、とマグノリアは笑ってパンケーキ討伐を再開する。
「それとも魔王バスターが援護してあげようかしら?」
「そしたら公国に圧勝しちゃうね。イデアさんに怒られるよ」
 元帥の立場である彼女は不参加だ。式典には出席するが、地を駆け抜けるのは腹心アナゼルである。訓練に参加できないことを喚いていたイデアはどうなったであろうか。さぞかし不機嫌な顔でアナゼルに食ってかかっているやもしれない。
「悪いけど、負ける気がしないよ」
 こちらには『罰』である社会奉仕活動を終えたジャンやニコライもいる。オーサーをはじめとする若き騎士団の面々も鍛錬を積み、来る公国相手の『リベンジマッチ』を楽しみにしているのだ。
「そんなことよりユウ、あなたも食べなさいよ」
 マグノリアは一向に減る気配のないパンケーキに苦戦していた。どうやら公国相手のリベンジマッチよりも目の前のリベンジマッチが先のようである。パネットーネの甘味を食べてゴースト状態にされてしまったことなどもはや覚えていないのか、彼女は無心でパンケーキの山を攻略し続けていた。
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