そこにある真実


一.


 殺すつもりだった。
 星に仇なすようであれば、セトラの血を引く『彼女』に危害を加えるのであれば、リユニオンによってセフィロスの元へ辿り着いたそのとき、許されざる選択をするのであれば、即座に。
 できることといえばそれくらいだと自らに言い聞かせた。全てが手遅れとなったこの世界で再びあの『声』によって目覚めた己に残された手段はごく僅かで、それらは本来ならば忌避すべき行為ばかり。他者の命を奪うことでしか罪に報いることはできず、しかしそうやって自らに言い聞かせても尚、手を下すことはできなかった。
 知っている癖に、と誰かは囁く。
 金髪のソルジャーを自称する男が不完全な存在で、彼の怒りや憎しみといった感情は彼自身のものだけではなく、内に巣食うジェノバが囁くもの。
 彼の行動原理なんてものは存在しない。彼に理由などはない。彼が唄う過去も、現在も、未来も、その全ては支配されたもの。それを告げるにはとても簡単だったというのに、己の『何か』が邪魔をして告げることなどできぬまま。
 答えも明確だった。
 彼は愛されていた。
 仲間から信頼されていた。彼が『真実』だと主張する『虚構』を受け入れ、世界を恐怖へと陥れる災いのあるじをセフィロスと信じ、ここまでやって来た。『それは違う』と口を挟む隙間などそこには存在しなかった。
「……辛気臭い顔すんな」
 厳しい寒さの中、火も灯されていないタバコをくわえたシドが言う。
「……」
「もう誰にもよ、止められねぇ」
「……」
「…………止めなきゃならねぇってこともよ みんな分かってるはずなんだ」
 彼は暴走しはじめている。
 それは誰の目でも明らかだった。仲間の命を奪われた悲しみと憎しみがそうさせたようにも見えるが、その下にひっそりと息を潜め続ける狂気に誰もが気づいている。ヴィンセントが最大限にできる皮肉めいた、冗談めかしたような指摘だってもう笑えない。誰も傷つけないようにと彼が立ち回り続けたからこその言葉であると気づいてしまったから。
「……だが それでも止めなければならない」
「……それをお前一人で背負うこったぁないって……言っても通じねぇか、もう」
「そう見えるか? 今の私は」
「そりゃあなぁ」
 暴走しているのはきっとクラウドだけではない。
 誰も彼もが己の心の中に秘め隠してしまった『本当の願い』に蓋をして、事実から目を背け、今歩いている多くの血が流れた道は間違ってはいなかったとハイになっているだけだ。これまで払ってきた犠牲を選択を間違えた結果であると認めてしまえばそこで全部、全部終わってしまう。
 誰もがそう信じてやまないのだ。
 その気持ちはある一部のみに共有されることはあれど、クラウドを含め仲間全員に伝わることもなかった。
 本当はあの時。
 本当はこの時。
 本当はその時。
 今まで『本当』だと話してきたことには多くの間違いがあって、考えてみれば至極当然のこと。もう一度最初から考え直せばきっと誰もが求めている、けれど知りたくないと耳を塞いでいる答えは用意されている。手の届く場所にある。
 だが手を伸ばそうとしないのは彼ら自身だ。
「やめるべきやもしれない」
「この旅を、か」
「今からでもまだ 遅くはない」
「おう」
 雪原は広い。
 忘らるる都から北へ広がるサンゴに囲まれた美しい神秘的な渓谷も、こんなタイミングでなければさぞ心躍らせる風景に見えたことであろう。それなりに世界の様々な街や秘境に分類される密林にも足を伸ばしてはきたが、あのようなサンゴの群は見たことない。まるで海中に揺蕩うような錯覚を得たのも、恐らく水に深く関わりある古代種の都に近いからだろう。
 きらめくサンゴに埋まった小さな小さな天然マテリアの核や、岩場の裂け目に潜む見たこともない生物たち。
 あれらに対して一切の感情を抱かなかったのは、異常だ。
 そしてこの目の前に広がった雪原にも、仲間たちに感動一つ見当たらない。
「彼が足を止めぬならば 足を撃ち抜いてでも止めるべきやもしれない」
「……おう」
 彼は止まらない。
「だが 今の私には……それが、できない」
「…………おう」
 誰も止められない。
 カケラのように散らばった一つ一つの証拠を集めれば足枷にはなるはずだが、それを集める勇気などどこにもない。
「止めなければ」
「……世界は滅ぶか?」
「それは……分からない」
「でもよくねぇ結果にはなる。だろ?」
「恐らく」
 これから起こりうる悪夢のような現実に具体的な確証は得られない。よくないことが起きる、というシドの曖昧な表現に肯定するしかないほど、予測不可能な事態が待っている。
「クラウドだけの問題じゃねぇからなぁ」
「……人は脆い」
「おう」
「足元が砂の城であっても気付かぬフリをせねばならない時もある」
「ティファのことか?」
 誰のことでもない、とヴィンセントは呟いた。
 洞窟を出てすぐの仲間を出迎えた猛吹雪は黙り、今は静寂が広がるのみだ。
「気付いてしまえば最後、崩れてしまう」
「……お前自身の話かよ」
「かもしれないな」
 前方を歩くユフィやバレットですら薄々勘付いているはずだ。忘らるる都でのクラウドの奇行は眼に余る。家族や故郷を奪われたという執念以外のモノが彼を動かし、セフィロスに執着しているのだ。誰にも聞こえぬセフィロスの声を彼は聞き、誰にも見えぬセフィロスの姿を彼は見たと言い、誰にも見えぬセフィロスの影を追い続ける。
 8人の瞳に映る世界はそれぞれだ。同じものを見ている仲間はいないだろう。
 父を奪った悪、母を奪った悪、星を壊す悪、世界を傷つける悪、仲間を殺した悪、諸悪の根源。
 セフィロスという5年前に死んだはずの亡霊はそういった怨嗟の対象として旅路の果てに待つ邪悪な存在となった。
「クラウドがどうかしちまったらどうすんだ?」
「……」
「殺す以外になんかねぇのかよ」
 そのセフィロスに導かれた旅の先に待つもの。世界を救済する華々しい勇者の剣などではない。
「そんな手段があればとうに選んでいる」
「だよな」
 それもまた、嘘。
 命だけは奪わぬ道はあれど、それは命を奪うよりも残酷な道でもある。
 シドもきっと分かっている。
「選ぶのは我々ではない」
「だが本人が気づくの待ってたらよ、手遅れだぜ」
「……」
「いや、オレ様がなにか言えたクチじゃねぇな」
 ケット・シーとは全く別のルートから、もとい個人的な付き合いがあるレノやルードから『クラウド一味に漏れても問題ない情報』は得ている。きっと彼らなりの気遣いでもあるのだろう。調べようとすれば誰でも調べることができ、知る勇気があればクラウド本人でも得られる程度の情報だけだ。
 クラウド・ストライフというソルジャーは神羅の歴史上存在しない。
 ニブルヘイムに派遣されたという記録だって当然ありはしない。あるのは同姓同名・ニブルヘイム出身の一般兵が派遣されたという記録。
「全員の責任、か」
「そうじゃねぇよなぁ」
「少なくとも 無垢無実の者もいよう」
 エアリスの死に関してクラウドはそう告げた。
 彼女の願いを聞き入れゴンガガからあの都まで連れ出したヴィンセントの、セフィロスの声に囁かれ祈りを捧げる彼女に剣を向けたクラウドの、そしてただただエアリスの細い身体が朽ちていくのを見ていることしかできなかった仲間の、一人一人の罪などではなく。それは皆が背負うべき罪なのだと彼は言った。
 それはクラウドの気遣か、それとも彼女の死を決して誰か一人のものにはさせないという恩讐か。最早今となっては分からない。
「オレらは『そう』だとしてもよ」
「……『そうではない』仲間にまで罪を背負わせるべきではなかった」
「同感」
「背負うべきは……」
「……エアリスならきっとよ、」
「『誰のせいでもない』と。……そう言うだろうな」
「分かってんじゃねぇか」
 何一つの疑念を持たない罪なきこどもたちに罪は着せられない。
 そしてぼんやりとした疑念しか抱いていなかったバレットにもシドにも同じものは背負わせられるはずもない。全てを知りながらクラウドを手にかけることで止めようとしなかったヴィンセントや、全てを知りながら物言わぬぬいぐるみのフリをして『仲間』の死を悼んだケット・シーの向こう側にいる神羅の人間と同じものは、決して。
「エアリスだってよ、ひどいと思わねぇか?」
「……言いたいことは理解できるが」
「……今はそういうことも言う余裕がねぇんだろうな」
「あぁ」
 本当に全てを知る者などいない。
 けれど全ての垣根を越えてそれぞれが持ちうる全てを打ち明けていれば、こんなことにはならなかった。
「……なぁ」
「アンタが背負う必要はない」
「あン?」
「……それは 私の役目だ」
 まだ何も言ってねぇ、と言いながらもシドは声に怒りを含ませた。
 隠し事せず全てを曝け出していればそう、エアリスが死ぬことはなかったやもしれない。ティファの不安も、バレットの疑問も、ケットの秘密も、全部出し合ってその場で答え合わせをした上で旅を続けていたなら結末だけは違ったものになっていたかもしれない。
 が、過去のイフなど存在しないが、それでも『もしも』を作り上げるとすれば。
「クラウドをどうするつもりだよ」
 ザク、ザク、と雪は沈む。
 腰近くまで積もった雪を掻き分けながら進むのは苦行そのものだが、クラウドとバレットが先頭で雪をかき分けてくれているので殿(しんがり)の二人としてはかなり歩きやすい。本来なら寒さをほとんど感じることのないヴィンセントがバレットと交代する方が適任やもしれないが、クラウドはそれを拒否した。
 バレットと俺が先に行く。
 それだけを告げて。
「……残された手段は少ない」
 いずれ真実は暴かれる。
 それは 今まで共に旅をしてきた『クラウド・ストライフ』という青年の存在と引き換えにして。
「お前だけの責任でもねぇんだ」
「……誰かが負わねばならない」
「……誰か、ね」
 それをお前だけで背負うなと言っているつもりではあるが、シドの言葉は届かない。お互いに言葉の中に含む真意は相手に伝わらず、その繰り返し繰り返しでこんなところにまで来てしまったのだ。
「…………人は 何度でも繰り返す」
「……今ならまだ間に合うぜ」
「……」
「やめとけよ。……できなくたって 誰も責めたりしねぇ」
「……動かねば先に待つ後悔は大きくなるばかりだ」
「……」
 シドは答えない。答えられない。
 今ここでクラウドの歩みを止めさせることなどできやしないと分かっているからだ。
 ティファのあの縋るような瞳を無視することはできない。本当はこのままじゃいけない、言わなきゃいけない、足を止めて考えなきゃいけない、思考を停止してセフィロスの元へ向かうだけでは何も解決はしない。彼女自身も分かっているからこそ。
「この先に街がある。少しは考える時間くらいはできるだろう」
「……それで解決するとは思えねぇがな」
「……覚悟を決める時間、と言ったほうがよかったか?」
「おうおう、そっちの方が分かりやすいね」
「だが……」
「また『それはアンタの役目じゃない』だろ? そりゃあそうだろうぜ、何せオレはあのクラウドと会ったのはつい最近だしよ。……それに、なぁんの責任もねぇ、なぁんの理由もねぇ。この旅だってそうだ、このバカヤロウたちの行く先を見たい、ただそんだけだったからな」
「分かっているなら話は早い」
 白すぎる大地の向こう側、うっすらと幻のような影形が見えてくる。「あれか?」とシドが聞くとヴィンセントは頷いた。
「確かに最初はそうだったけどよ、今は違うぜ。……古代種とかセフィロスとかよォ、一緒に来なきゃなんにも知らないままだった。部外者のままなんてゴメンだぜ、こんな旅してる連中がいるっていうのに」
「……」
「そしたらよ、今はもう……他人事とは思えねぇんだ。レノの野郎たちが言ってたことだって、多分アンタが知ってることも……ティファが考えてることも、なんとなぁく一緒の方見てる、っていうのくらいはオレでも分かるぜ」
「だが、それとこれとでは話は別だ」
「おう。でももう部外者じゃねぇ。部外者じゃいられねぇんだ」
 だからお前の気持ちも痛いくらいに分かるぜぇ、と言うと、ヴィンセントはそこでようやく苦笑にも近い笑みを漏らした。
「星の命よりも優先すべきものなど あるはずないぞ」
「そりゃおめぇ、お互い様だろ」
「……そう、だな」
 このまま事態を野放しにして訪れるは星の危機。けれどそれを理由として盾として、仲間がこれまで信じて来た一切を、ここまでの旅の一切を無駄だったと言い放てるほどに残酷にはなれなかった。
「優しいんじゃねぇ、臆病なんだろうけどよ」
「天秤にかけられるものでもない、が。己を正当化するつもりもない」
 その天秤を見ないふりすることで今までどれだけ多くの後悔を重ねてきたのか。
 そしてまた同じ過ちを繰り返そうとしているというのに、手は動かず、仲間は『それでいい』なんてことを口にする。
「もし……もしもの話だ、いいか。この先もーっとマズい展開になったとするだろ」
「……」
「どういう『マズい』かは置いといてだ。でも星が一瞬で死んじまわない限り、まだひっくり返せるチャンスだってあるかもしれねぇ」
「……どうだろうな」
「メテオ、だっけか。隕石を落とす魔法。セフィロスはそれを使おうとしてるんだろ?」
「恐らくは」
「じゃ、大丈夫だ」
「……どこからそんな自信が湧いてくるんだ、アンタは」
 少しばかりうんざりしたようなヴィンセントの口調にシドは笑って応えた。
「古代種の神殿、見ただろ。壁画に描いてあるってことは……少なくとも、絵に描く時間はあったってことじゃねぇか。で、エアリスはそれを防ぐ方法があるって言ってた訳だ」
「だがエアリスは死んだ」
 その方法は失われた、永遠に。
 けれどシドは「でもなぁ」と続ける。
「それが全部、って誰かが決めた訳でもないだろ。……メテオを召喚されたってまだ終わりじゃない。旅は終わらないぜ」
「とんだ 妄言、だな」
「得意技さ。そうでもなきゃ神羅26号が打ち上げ失敗したとこで人生終わらせてるってんだ」
 もしかしたら、万に一つ、天地がひっくり返れば。
 希望の全てを投げ捨ててしまうのは簡単だ。だがそれでも尚遥か遠く未来のことであっても、一縷の希望がひとかけらでもあれば諦めないでいられる。シドはそんなことを言いはするが、同時に「ま、それが誰にでもできりゃ苦労しねぇんだがな」と呟いた。
「……アンタはリーダー向きの性格だな」
「そうかぁ?」
 デリカシーに欠ける部分もあるし、どんぶり勘定という言葉が似合う性格ではある。が、求心力の高さやどんな時でも諦めたりはしないというリーダーにとって大事な要素はしっかり持っている。
 当然、だからこそ若くして神羅26号のテストパイロットになったり、曰く、自分のファミリー・ネームを名前とした飛空挺まで神羅に所有しているらしいときた。神羅カンパニーという仲間たちの言い方を借りれば『腐った』会社にありながら腐らずにいた稀有な男でもある。
「それにセフィロスに何一つ奪われていない。……冷静な判断もできるだろう」
「棘のある言い方するじゃねぇか」
 同じ痛みを抱えた仲間たち。そういう表現をすればシドは輪の中から弾かれる。気にしたことはないが、ヴィンセントの言葉に口を尖らせてみせた。
「怒りや憎しみ、悲しみは人を狂わせる。……判断を揺るがせる、道を間違える。その心配が少ないという意味だ」
「……お褒めに預かり光栄、ってとこかね。そりゃまぁ……エアリスのこともあるけどよ、どうしてもオレには分からねぇんだ」
 彼女を『殺』したのは本当の意味では誰だったのか、ということが。
「それが当然の反応だろう」
 けれど答え合わせをしようなどと口にできるはずもない。
 彼女の細い身体を貫いたのは間違いなく『セフィロス』の姿をした何者かであった。その手に持った長い刀で、串刺しに。上空から天来した長い銀髪の男の手によって命を奪われた。結末は動きはしないが、それに至る過程には不自然な点があまりに多すぎた。
 彼女がいるってよう、セフィロスがいるってよう、アイツは言ってたんだ。
「お前はいなかったけどよ、夜を待って……そしたら、クラウドのやつ突然言ったんだ。『ここにエアリスがいる、セフィロスもいる』ってよ。んで、もう一度しらみつぶしに都を探したらあの祭壇への入り口を見つけたってワケだ」
「……あれは古代種の祭壇。セトラ以外の血を拒むものだと聞いていたが」
「でもお前は入れたよな」
「エアリスがいたからか……それともまた別の理由か。心当たりはなくもないが、問題はそこではあるまい」
「そうかい」
 またそうやって隠し事。シドは気付かないふりをする。
「間違いなくクラウドはセフィロスに『呼ばれて』いる」
 当人の意思とは関係なく。
 まるで自分自身の考えであるかのようにセフィロスを追うクラウドの奇妙な行動は彼の地、忘らるる都に近づくにつれ顕著だった。特に古代種の神殿でのことは誰もが『おかしい』と感じていたはずだ。黒マテリアをセフィロスよりも先に手に入れる、神殿を折りたたむ必要があるとなっても、それでも尚手にしなければならないと。そのために一匹のかわいそうな黒猫とそのお供だったデブモーグリがマテリアへと取り込まれたというのに、クラウドは至極当然といった表情を浮かべていたからだ。
「黒マテリアだって渡しちまったしなぁ」
「エアリスもあのままではまずいと気づいたのだろう」
「だから一人で都に か」
「……『星に声を届けるため』としか 彼女は言わなかった」
 けれど分かっていた。
 それは仲間とともにいては叶うことがないのだと。
「クラウドを遠ざけるためには全員から遠ざかる必要があるってか」
「彼女の力があれば……クラウドの凶行を止められたやもしれないが……それは 恐らく」
「できなかった。オレらと同じ理由でな」
 エアリスの過去を二人はよく知らない。
 だが、ティファと同じ。クラウドへの違和感は持ち続けていたであろうし、『誰か』の存在をただひたすらに隠し続けている。過去の傷へ強引にテープを貼って見えないようにしてしまっているだけだった。だからこそその傷を必要以上に曝け出すことを拒み、クリティカルな答えを口にすることで起きるであろうクラウドやティファへの痛みを忌避した。
 その結果が逃避行。
「彼女の祈りが届いていたのかすら……今の我々には分かりはしない」
「分からないなら希望はまだ潰えちゃいないってことだ」
「フ」
 そうだったな。お前はそういう男だ。
 例え現実には一つの希望すら残っていなかったとしても、彼の言葉の通りまだ終わっちゃいないと信じられれば、もうちょっとだけ生きやすくもなるだろう。
 これから更にひどいことが起きたとして、世界が滅ぶことになったとしても、最期の一瞬まで希望を捨てずにいられれば。
「お前みたいな悲観的なやつとオレみたいなのと、どっちも必要なんだろうよ」
 冷静に物事を見極め起こりうる災禍を予見する者と、芥子粒ほどの奇跡を信じる者と。
 その中庸を往く者がおらずとも、最悪と最善のはざまを選ぶことはできる。それはきっと悪いことではないはずだ。
「極端すぎるのも考えものだが」
 細かいことぁいいんだよとシドは言い、ぜぇはぁと遅れ気味になってきているユフィの背中を押した。
「うぎゃっ」
「疲れたか? もうすぐ街らしいからよ、頑張ろうぜ」
「……オッサンたちが遅いからペースあわせてあげただけだっつーの」
「おうおう、そりゃお気遣い結構なことで。……だが無理はすんなよ」
 いつものショートパンツに肩をむき出しにした姿では流石に寒い。あり合わせの襤褸を巻くなどしてはいるものの、ティファと並んでどこからどう見ても環境に適した服装ではなかった。ヴィンセントはいつかウータイへ向かう道でそうしたようにマントの留め金をパチパチと外し、足を止めたユフィの肩にそれをかけてやった。
 この雪原に出てすぐそうしてやればよかったと今にしては思うが、何せ余裕がなさすぎた。寒かっただろうに、と聞けばユフィは少しだけ俯いて頷いた。
「……エアリスよりは 寒くないよ」
「!」
「水の中ってきっと 寒いし……冷たい、よね。一人だと寂しいし。…………置いてきちゃったんだよ、アタシたち」
「……そう だな」
 歩こう。
 クラウドたちはもう見えなくなるほどの先に行ってしまっている。思っていたより随分と遅れてしまったようだ。
 彼らに待ってくれる気配もなく、一刻も早く街へ辿り着き休息を得たいからか、それともセフィロスを追いかけるために休んでいる暇などないと考えているからか。どちらにせよ同じだ。急ごう、と言ってヴィンセントはユフィの小さな身体を持ち上げた。
「アタシ 寒い」
「気づいてやれなかった、すまない」
「お腹減った」
「……そういえば食べていないな」
「眠くなってきた」
「休んでもいないな」
 あの夜エアリスを喪ってから、ずっと。
 隣で話をしながらずっと歩いていたシドもそうだ。己が人間らしさを失っているがために気にも留めなかったが、飲まず食わず、そして眠ることもなく歩き続けてきたのだ。サンゴの谷は鋭利な岩が多いと素肌を隠すため手足に布を巻いたのが最後の休憩だっただろうか。
 普段ならば子供扱いするなとか、もっと丁重に扱え! とか騒ぐユフィも今は静かにヴィンセントの身体にしがみついているだけだ。
 少し先を歩くぬいぐるみを頭に乗せたレッドも誰かを気遣う余裕なんてないようだ。
「何話してたの、オッサンたち」
「……ユフィ」
「ん」
「戻るなら 未だ」
「……なんでそんなこと言うの」
 アイシクル・ロッジの近くには商業港がある。本数は少ないがスキーやスノーボード、登山客向きの観光船もミッドガル大陸と往来しているはずだ。それに乗ればミッドガルへ帰れる。そこからはどうにかしてウータイまで帰れ、と。どうせウータイ・レジスタンスはミッドガル内部にも潜伏しているのだ、姫君が本国への帰還を望めば叶わないはずはない。
「これ以上背負う必要もない」
「…………最低だよ」
「そうか。すまない」
 ユフィは絞り出すような声で「サイテー」と再び繰り返す。
「いいよ、許したげる」
 ここまできて逃げるというその行為が。それを提案する言葉が。
 ユフィにはヴィンセントの提案が単に彼女を排他するためのものではないことくらい分かっていた。これ以上苦しむことがないように、年若い彼女が人類悪と対峙する必要がないようにと。確かに彼女の故郷ウータイを戦争において壊滅へ追いやったのはセフィロスその人であるが、今この時クラウドが追い求めているのは恐らく、『それ』ではない。
 ヴィンセントに抱え上げられるかたちで運ばれるユフィはぎゅぅと首に回した腕に力を込めた。
「ユフィ」
「……ここで逃げたらアタシ、自分を許せなくなる」
「私は許す。むしろこのまま進んだとして、後悔しても知らんぞ」
「おうおうおうヴィンセント、ユフィにまでそういうこと言うんじゃねぇよぉ」
 足を早めたシドは言葉とは裏腹に朗らかに告げた。
「シド」
「いいかユフィ。コイツはお前のためにそういうこと言ってる、ってのは分かるな」
「……分かりたくないケド。なんとなく」
「それに従うこたぁない。まだ終わってなんかねぇんだしよ。……もし、もしもだ」
 もしもまたよくないことが起こって、忘らるる都で起きたような悲しい出来事があったとしても。「オレたちの誰か一人でもが生きてればまた旅は終わらない。誰がどんだけ落ち込んでようがこのシド様が引きずって行ってやるからよぉ」なんて、らしくもないことを言う。
 こんな言葉は頼れるリーダーが口にすべき言葉で、神羅とケンカしてる連中が面白そうだなんて理由で旅に同行している男が言うようなことじゃない。セフィロスという存在にはなんの恨みもなく、旅をしてからだ、ジェノバというモノを認知し、それを世界に死をもたらすものだと位置付けたのは。そんな新参者で縁もゆかりもないシドだからこそ、とも言える。
「オッサンに励まされるとか、アタシそんな落ち込んでた?」
「とても」
「……」
 目の前で友人を喪ったのだ。仕方がない。
 ヴィンセントは言葉を飲み込んだ。ここで何を言おうとまたこのネガティブ野郎だとか、後ろ向き太郎とか、そういった類のことを言われるのが目に見えている。
「落ち込むな、とは言わん。それに……私が言うようなことでもない、が……お前は笑っている方が似合う」
「……ほ」
「悲しみたいときは存分に悲しむといい。だが……そのあとは いつものように笑ってくれていれば……お前の言う『オッサン』どもの気も晴れる」
「へぇ〜? アンタそんなこと考えてたの」
 意外。ユフィは髪の毛に隠されたヴィンセントの表情を盗み見ようとしたが、黒髪のカーテンに閉ざされてそれを伺い知ることはできない。
「茶化すな。……シド」
「面倒になったらオレに投げるのもやめろっての。でもまぁ、ヴィンセントの言う通りだぜ。落ち込みすぎんな、責任負いすぎるな、自分を許してやれや」
「…………それさぁ、アタシじゃなくてヴィンセントに言うべきじゃない?」
「おう。だとよヴィンセント」
「……そういう話だったのか?」
 そういう話だよ!
 ウッシッシと作り笑いをしたユフィにシドも同調し、呆れてヴィンセントは大きな息を吐く。
 数メートル先でレッドが「三人とも、街見えたよ!」と嬉しそうに尻尾をブンブン振り回し合図をすれば、「おう!」と元気のいいシドの声が雪原に響き渡った。







 例えるならそう、鐘の音。
 装備品を持ち逃げしたユフィを追い回してウータイを走り回ったときに聞いたような、音。
 ボォン、と腹の奥底まで響くようなあまりに重たい音が脳髄に響く。なぜ、という疑問とどうしたことにかやはり、という確信とがミックスした絶望的な感情が頭をぐるぐる回り、既に人間としての役割を失った心臓が早鐘を打つ。ドクドクと嫌な音は久しぶりすぎる感覚で、まだ心臓は動いていたのかという現実離れした感覚すら覚える、ような。
 あまりにも残酷な物語がそこにはあった。
 古代種、セトラ、ウェポン、ジェノバ、そして約束の地。
 本当の愚か者は果たして誰だったのか。
「研究者のサガってやつ、かね」
「……」
「神羅が持ってた情報、ってのはここから盗まれたものだった訳か」
「……ガスト博士……」
「……知り合いか?」
 ヴィンセントが見かけ通りの年齢でないことをシドは既に知らされている。『その必要はない』と、『今は時期ではない』と理由をつけてクラウドたちには言わずにここまで来てしまっているが、それもまたもっと早くに打ち明けるべき事実であったことに違いはない。
 すると長い髪のの男は小さく頷いた。
「古代種……セトラ。彼が知る全ての情報を持って……神羅を 逃げ出した」
「……はずが、こうして残ってた、ってか」
 見ろよ、とシドは空っぽになった本棚に目をやった。
 クラウドたちがあれこれ物色してはいるが、目ぼしいものは見当たらない。やがてティファが「もうやめよう」と小さな声を上げ、彼らは動きを止める。
「だが結果として……博士が持っていた情報は全て神羅に還元された」
「その上エアリスの母ちゃんから聞いたこともオマケに乗せて、な。……どこまでも嫌なヤロウだぜ、宝条はよ」
「愚かなのは……どちらだろうな」
「あんッ?」
 風に当たってくる、とヴィンセントはシドに答えることなくやたらめったら現代的なコテージを後にする。あぁオイ、と慌ててシドはその後を追ったが、ドアを開けてもヴィンセントの姿はない。一体どこへ行った? と見回せば、驚いたことに彼は屋根の上。
 降りてこいよ、と声をかけても彼は見向きもしない。聞こえていないはずはないのだが。
「どしたの、オッサン」
「オッサン2号が拗ねて降りてこなくなっちまってよう」
 ひょっこりとロッジから顔を出したユフィは屋根の上に登ってしまったヴィンセントの姿を見、「ほんとだ」と言う。
「おーいヴィンセント! 怒ってないから降りてこーい!」
「……」
 この場にそぐわない言葉をユフィが投げかけるとしかし、雪の積もった足場の悪い屋根からひらりと痩身が降りて来る。
「わ。本当に降りて来た。なんで怒ってんの?」
「……別に怒ってはいない。見ろ」
「あ?」
「あの女、ウータイで見たはずだ」
 あれ、とヴィンセントはロッジの影から少しだけ身を乗り出してガイアの絶壁へと続く山道の方を指差した。
 雪景色には似合わぬ紺色のスーツにきらきら光る金色の髪の毛。お供には神羅兵。どこで見たことのある組み合わせだ。
「イリーナじゃねぇか」
「他に神羅兵の姿は見えない。単独行動だろうな」
「……どーすんの」
「あの程度なら人目につかず始末することもできるが……」
「おっかねぇこと言うんじゃねぇよ。おいクラウド!」
「バカ、声がでかい!」
「あっ そこね、そこにいたのね! 急いで!」
「……もう知らねぇぞ」
「どうした、シド?」
 役者が揃う。
 本当もう知らないからね、とユフィは持ち前の逃げ足の速さで雪の中であろうと瞬きする合間に姿を消し、ヴィンセントもまた同様に面倒ごとはゴメンだと一瞬にして屋根伝いに外れの家屋まで飛んで逃げようとする。
「逃がさねぇぞヴィンセント!」
 道連れだ! とシドは飛び上がろうとするヴィンセントの細い腰に腕を回し足に力を込めて踏ん張ろうとしたが努力は実らず。
 しかしシドの身体は軽々とヴィンセントと共に屋根まで持ち上げられたのだから結果としては勝ち、だ。突然視界から消えた3名に首をかしげたクラウドの前に、イリーナがぜぇはぁと息を切らしながらやってきた。
 なになに、何事? とロッジの中から顔を出して来るレッドやティファを制し、クラウドは女に真っ正面から向かい合う。
「……なんだなんだ?」
「…………」
「聞こえるか?」
 多少の雪風があろうともヴィンセントの聴力ならばぎゃあぎゃあと騒ぐ声くらいは簡単に拾えることだろう。
 外壁をよじ登ってきて合流したユフィは煙突に背をもたせ、眉を寄せて様子を伺うヴィンセントのほうを見た。
「……あ」
「お」
「うわ」
 覚悟なさい!
 という声はシドやユフィにもなんとか聞こえた。
 それから大きく振りかぶったパンチのモーション、ぷいと簡単に回避するクラウド、空振りの勢いでロッジに頭を打ち昏倒する女。
「……ツォンが死んだと思っているらしい」
「ツォン?」
「それを我々の仕業だと。とんだ因縁だが……こんなところまで追ってくるとは。忠犬だな」
 ツォンといえば、古代種の神殿でセフィロスに襲われ重傷を負ったタークスの主任だ。
 エアリスがきっちり死なない程度に治療し、シドとケット・シーとヴィンセントがレノが運転するヘリへ丁重に届けた、はずだ。その後容体が悪化したのか、それとも何か勘違いをしたのかは分からないが、レノやルードが出向いてきていない以上正解は後者だろう。
「あー……」
「ナニソレ、勘違いでこんなとこまできたワケ?」
「……その根性は認めるが……」
 タークスとしては、エージェントとしては致命的。
「レノたちが苦労するワケだよ」
「お前が言えたクチじゃないだろうが」
「えへへ」
 ひっくり返ったイリーナを担ぎ焦って撤退する神羅兵の姿は滑稽だ。
 だがそれを追い回して叩きのめす必要は今は、ない。ことが収まったことを確認すると、ユフィは「戻る?」と二人に尋ねた。
「……いや」
「一服してから戻るわ。先宿屋行っといてくれ」
「オッケ。オッサンたちもちゃんと休みなよ? この先大ヒョーガだって言うじゃん」
 生命を拒絶する氷の世界があると民家の老婆は言っていた。かつてセトラがこのアイシクル・ロッジには住んでいた。嘘か本当かは今となってはもう分からないが、人懐こい彼女の夫はとてもシャイな科学者で、家をトンチンカンな姿に改造してしまったとか。
 あの老婆が語るセトラは間違いなくイファルナだ。
 古代種の都に近いこの場所を終の住処とした彼女はしかし、命を落としたのはあの汚らしい魔晄都市。
「少し考え事をしたい。シド、タバコなら売店に売っていたぞ」
 記憶の中の少女は成長し、一人の女となり、母となっていた。
 花のような笑顔を振りまいていた彼女は、時に烈火の如く怒り散らした彼女は、そしてあまりに美しい泣き顔を最期に見せた彼女は、ここで平穏を奪われた。その結果を呼んだのは間違いない、他でもないヴィンセントだ。
 とにかく頭を冷やさねば、とシドを売店へ誘導しようとしたヴィンセントの考えはしかし、
「おう。じゃあお前も来いや」
 と有無を言わせぬシドの言葉で拒まれた。
「……シド」
「一人にするとどうせ余計なこと考えるんだろ、お前」
「…………」
「またその顔だ」
 痛みに耐える顔。
 身体の痛みではなく、彼がもう失ったと自称する心の痛みに耐える顔。
「……ガスト博士は 愚かだった」
「ん」
 オレ様のことは壁だと思え、壁に向かって喋れ、返事はしねぇから。
 うまいことシドに丸め込まれたヴィンセントはため息をつきながらも売店で仕入れたタバコの味を堪能するシドの隣で呟いた。タバコはミッドガルから輸入したものだろう、馴染みの味だ。臭くて、キツくて、大嫌いな臭い。
「大人しく捕まっていれば命を落とすこともなかったろうに。神羅から……資料を持ち逃げなど しなければ……」
「……だな」
 とは、言えない。
 けれど事実は事実だ。
 ガスト博士があのようにイファルナとの対談を録画していたがために、そして神羅から持ち出した資料を燃やさず、海に沈めず保管していたがために、宝条の悍(おぞ)ましき計画は加速した。だが、生後間もないエアリスが母と共にミッドガルへ連れ帰られたあの日、ガストは死んだ。己の正義感に火を灯し、己の無力さを理解せずに、妻子を残して。
「……生きていれば文句の50個でも言いたかったが」
「多くないか?」
「これでも絞ったつもりだ」
「……案外、エアリスのあの性格は父親譲りなのかもな」
「かもしれんな」
 お転婆でウータイの百面相もびっくりするほどくるくる表情が変わるのはイファルナそっくりだ。殆どの時間をイファルナと二人きりで過ごした幼いエアリスの人格を形成したのは間違いなく彼女の言動だが、こうして久しぶりに旧友の姿をモニタ越しではあるが見てみれば、もしかしたら父親似だったのかもしれないなんてことも思い始める。
「でもよぉあれ、一番見たかったのはエアリスだな」
「違いない。……動く父親が唯一残っているものだろう」
「生まれてすぐ死んだ親父さんの映像、だもんなぁ」
 白い煙が空へと消えていく。
「だが、これで合点がいった」
「おう?」
「なぜ宝条があれだけの……いや、いい」
「……話せよ。どうせもう手遅れなんだからよ」
「……」
 仮説がある。
 ヴィンセントはシドの指に挟まれていたタバコを取り上げると自分の口へと持っていく。
「誰にも言わねぇ。……お前が言う時まではな」
 これでまた、共犯者。
「リユニオン」
「……何回か聞いた言葉だな」
「ジェノバの本体に分身が呼び寄せられる現象のことだ。本能的に分身は本体を目指し、本体は分身をあらゆる手段で呼び寄せる」
 非常にざっくりとした説明だが、ヴィンセントの言葉にシドは「へぇ」と適当に返事をしてから、ややあって「あ!」と声をあげた。
「あぁ……あぁ……? つまりなんだ、その……」
「全ては手のひらの上」
 とんでもねぇこと聞いちまったな、とシドは息を吐いた。
 話せと言ったのはお前だ、というヴィンセントの言葉にも頷いた。
「目的はなんだ?」
「……今の所は何もない、はずだ」
「なんもねぇのか?」
「行く先々にいた黒マントの男たちがいわばジェノバが生み出した分身。その内の……クラウドを含む、一人でもいい。黒マテリアが主(あるじ)の元へ届けばそれでいい」
「一人が到達すれば勝ちってことか」
「その仮説を裏付ける重要な証拠となったのが……ガスト博士の研究成果だろう」
 神羅から持ち逃げしたはずの資料がなぜ再び宝条の手元に戻ってきていたのか。あのビデオ・テープに収められていた映像が真実であれば、全ての辻褄があう。神羅との縁を切るつもりだったガストがなぜ資料を廃棄しなかったかは謎だが、恐らく科学者としてこれまで培ってきた成果を手放すことができなかったのだろう。
 そして、イファルナという世界最後のセトラが傍にいるのであれば、彼女自身の口から語られる星の神話もまた、どこかに記録せねば気が済まなかった。それだけのことだ。
「でもよ、ミッドガルから逃げてこんなとこに来てたんだろ? 誰が告げ口したんだ」
 探して探せるような場所ではない。
 今でこそ観光地となってはいるが、エアリスが生まれた20年ほど前は未だ雪に閉ざされた田舎でしかなかった。逃げる先としては最適だが、それにしたって何故? というシドの疑問にヴィンセントは俯いたまま「私だ」と告解した。
「宝条に……記憶を 読まれた」
「!」
「…………頭の中を覗かれた。ガスト博士がアイシクルへ逃げられるよう手引きしたのは……私だった」
「……それでか」
 だからあれだけ焦っていたのか、と。
 本当の愚か者は私だと彼は乾いた笑みすら零す。
「何を見るつもりだったか……あの時は 分からなかった、が……」
 身体をバラバラにされ、魔物を植えつけられ、人間としての命を奪われたあの日。
 宝条は「頭の中を覗かせてもらおう」と言って科学者でもないタークスの頭を開いた。その脳に何が刻まれているのか、何を記憶しているのか。様々なマテリアを機械を繋げた装置の光景は覚えているが、具体的にどんな機構だったかは分からない。それでもざらついた感覚が自身が生まれ落ちてからの記憶全てを撫で回し、突き刺し、ぐちゃぐちゃに掻き回していったことを覚えている。
「それで、ここを……ね。そりゃお前のせいじゃねぇだろ」
「……宝条をあの時殺せなかった」
「結果論だ。んなもん、そんなことする宝条が悪いに決まってる」
「……」
 それこそ結果こそ全て。
 誰が悪であれ善であれ、ヴィンセントの記憶が読まれたことによってガスト博士の命は失われ、イファルナとエアリスはミッドガルへと連れ戻され、膨大な古代種や星にまつわる知識は持ち去られてしまった。
「むしろそんなことされてお前、無事だったのか」
「無事じゃないからこのザマだ」
 身体だけではない。およそ人間らしい感情も長年の眠りの中で溶け落ちてしまった。過去の記憶も、大切にしていたはずの思い出も、ジェノバ細胞による改竄や魔晄中毒、人体改造により歪んでいないという確証はどこにもない。正しい『かつて』を知る人間ももういないからだ。
 おそらく、きっと、多分。
 そんな曖昧な言葉を添えなければ自己の説明がつかないのが現状だ。
「……お前もクラウドと同じか」
「かもしれん」
「かも、ってよぉ」
「実際知らんのだ。人ならざる身体となったのは分かれど、どういった手が加えられているのか……それは 当事者しか知らん」
「……そうかよ」
「だからこそ……クラウドは 止めなくてはならない」
「……どうすんだ、それで お前は」
「決まっている。……手遅れになる前に 必ず」
 答えは最初から。
 何度問答を繰り返してもヴィンセントの答えは変わらない。
 手遅れになる前に、というその言葉の意味だけが変容し、未だ『手遅れ』ではないと勝手に結論づけること以外は。
「(もう手遅れとは 絶対言わねぇんだな)」
 薄々気づいているはずだ。
 シドですら状況は理解しているのだから、この男が本気でまだ手遅れじゃない! なんて夢物語を信じているはずもない。それでも決して口にしようとしない理由もまた、シドには薄っすらとは分かっていた。
 どこまでも冷めた外野を演じようとはしているが、存外このヴィンセントという男は情に厚い。人間とは遠い場所にいると言いながらもどうしようもなく人間臭い仲間もまた、ティファやクラウドとはまた違った種類の『ドデカイ』爆弾を抱えていることを確信しシドは大きなため息を吐いた。


二.


「聖なる山にはね、聖なるものが住んでおられるの」
「聖なるもの?」
 それは 焚き火の記憶。
 遠い遠い、気が遠くなるほどの過去の話だ。
 まだこの肉体には赤い人間の血が通っていて、まだ家族と呼ぶべき人間が生きていた頃の話。
 暖炉の中でゆらめく炎の温もりを感じることはできず、パチパチと爆ぜる音も耳には届かない。一人がけのソファに腰掛けた美しいアルビノの女性は赤い瞳に可愛らしい息子の一人を映した。上に三人、下に一人。多くのきょうだいに囲まれて育った息子は年の割には落ち着いていて、妹の世話も買って出てくれるやさしい子だった。
 女は更に語りかける。
「雪女(ゆきめ)たちの守り神、大昔にセトラの想いを受け継いだ幻想の獣」
「セトラ……お父さんが言ってたおとぎ話でしょ?」
「えぇそうね、きっと おとぎ話。けれど見てみたいと思わない? 雪の中に現れる、聖なる要塞……全ての悪を焼き払う、拝火のまぼろし」
 女は詩的な言葉をよく使った。
「はいかの……?」
「聖なる炎で全てを灼く、召喚獣」
「……難しいや」
「いいのよ坊や。けれどいつか……その姿を見ることがあれば、きっとソレはあなたの力となるでしょう」
 それは学者であった夫の影響なのか、それとも聖なるものを奉じる地方に生まれたからか、今となってはもう分からない。
 けれど一つ、それでも確からしいことといえば──、




「どうしたのヴィンセント」
 途端、意識は現実へと引き戻される。
「……夢……」
「さっきから具合、悪そうだけど」
「……そうか?」
「うん」
「自覚がなかった。……が、体調には問題ない」
 徐々に『本体』に近づいているのだろう。だからあぁやって余計な幻覚を見せてきたのやもしれない、身の内側に巣食う悪魔たちが。
「ならいいけど……」
「目的地はこの先だ、用を済ませたら急いで戻るぞ」
「うん」
 大氷河を歩いて歩いて、とにかく歩いた。
「道はこっちであってる?」
「こっちでいい。足元に気をつけろ。……それから温泉の水を汲むのを忘れるなよ、ティファ」
 ティファはかがみこみ、足元で湯気を立てる水に手を浸した。
 役立つものがあるかもしれない。なんていうヴィンセントにしては珍しくとても曖昧な言葉と共に二人は遭難しかけた氷河へ再び足を踏み入れた。一度はホルゾフという老人がひっそり住む小屋に辿り着き暖をとったり体を休めることができた。
 仲間たちがそうして休息を取っている間にヴィンセントは僅かに残っていた記憶を頼りに召喚獣のもとへ向かおうとしたのだが、予想外にティファが同行を申し出たのである。
 休める時に休んでおけ、忘らるる都から特にティファは無理をしている、と言っても彼女は聞こうとしない。
「……あのねヴィンセント」
「話なら用事を済ませてからだ」
「……うん」
 話がある。
 彼女の瞳はそう訴えかけていた。
 クラウドに関することか、ジェノバに関することか、セフィロスに関することか。いずれにせよ仲間たちの前ではおおっぴらに話せない内容であることは明らかだ。だから反対するバレットたちを適当に言いくるめ、ホルゾフに借りた毛皮の防寒着をぐるぐる巻きにして今に至る。
「雪女(ゆきめ)の伝説はこの辺りでは有名だ」
「ゆき……ってあの、スノウ?」
 女性のかたちをしたモンスターの名を挙げるとヴィンセントは頷いた。
「彼女らはとある召喚獣を守り神としているらしい」
「そういえばヴィンセント、この辺りの出身だったもんね」
 ウータイで聞いたっけ。
 あれももうずっとずっと遠い昔のことのようだ。
 まだエアリスが元気に笑っていて、怒っていて、走り回っていて。明け方の屋台でティファはヴィンセントと二人、よく分からないウータイ料理を食べたことを思い出した。
「子供の頃に聞いた話だ。実在するとは思っていなかったが……雪女が存在するなら召喚獣がいてもおかしくないだろう」
「でもいいの?」
 いくら魔物とはいえ、彼女たちが崇める神を持ち出そうとするなんて。
 するとヴィンセントは答える。
「一か八かだ」
「あなたらしくない」
 博打なんて、とティファは言った。
「……過去の記憶は 不確かなものだ」
「!」
「死に別れた家族、仲間……その多くの思い出は月日が経てば経つほど、都合のいいように姿を変える」
「それ、は……」
 今は私の話だ、とヴィンセントは釘を刺した。
「その召喚獣は雪女たちの崇拝対象ではあるが、召喚獣は雪女たちに加護を与えている訳ではない。……キャニオンで調べた限りでは……敵対、されない、はず だが」
「はず?」
「…………腹立たしいが、あの男の論では」
「あの男?」
「……科学者は嫌いでな。とある男がそういう本を書いたのだ。それを読んだ」
「はぁ」
 相変わらずつかみどころのない話し方だ。だが、要するに気に入らないがキャニオンに収蔵されるような学者の本に書かれていた内容によれば、その召喚獣はティファたちに牙を剥く存在ではないらしい。
 名前は? と聞けばヴィンセントは山道の向こう、ぽっかりとひらいた洞穴を指差した。
「アレクサンダー」
「……聞いたこと、ある」
「だろうな」
「エアリスが言ってた。セトラが……古代種が残した、星を守るけもの」
「ウェポンには成り切れなかった存在。……だが、役目はウェポンと同じだ」
 キャニオンで分厚い本を抱えたエアリスの言葉をティファは思い出していた。
 この世界に点在する召喚マテリアに眠っているのは古代種の夢を受け取った幻たち。リヴァイアサンのように土着の神として人々の祈りを受けたものもあれば、人の手がつかない自然界でじっと長い間邂逅を待ち続けているものもある。それらは自らの認めた者たちに星の加護を与え、星にとっての『正義』を執行する。
「でも雪女たちには使えないの?」
 この星に生きる者であれば召喚獣のあるじは人間である必要もないはずだ。
 それにはヴィンセントは首を横に振った。
「それも分からん。召喚獣に拒まれるようならばそれまでだ。面倒な事態になる前に撤退する」
「はぁい」
 つまり、どうなるかは誰にも分からない。
 お湯を貯めたボトルを腰に下げ、ティファは四つ足になって雪の斜面を登り始める。
「滑るぞ」
「うん」
「手を」
「うん」
 踏み固められた雪の上をしっかりとした足取りで歩いていけば、やがてそれは近づいてくる。
 なんの変哲も無い縦穴だ。
 ヴィンセントに手をられティファは平地まで登りつめると、そこで分厚いミトンを取り去った。びゅうびゅうと冷たい風は吹き込んでいるが、魔物と戦闘にでもなればこの防寒着は動きにくいたらありはしない。道中のようにヴィンセントが魔物に見つからないよう誘導するのはこんなにひらけた場所では無理だ。
「準備は?」
「オッケー。……ってヴィンセント、あなたとても冷たいわ!」
「……そうだな」
「そうだな、って……」
「体温の調節が効かない。爬虫類だと思え」
「……カエル?」
「それは両生類」
 どっちでもあまり変わらんが、と息を吐いた。
 ピストルに運んでいた手をむんずと掴んだティファの手はとても暖かく、炎のように熱い。が、熱いという認識はあれど感覚はない。
「……ずっと?」
「ずっと。食べることも眠ることも……寒さを感じることも、暑さも感じない」
「……痛みは?」
「……それすらも感じないなら良かった、のだがな」
「……」
 そう、そうだったよね。
 ティファは冷たい男の手に吐息を吹きかけた。
 五感は人間のそれよりも鋭く、全ての感覚が研ぎ澄まされている。けれどそれらを頭で認識することはできても自らのものとして感じることはできず、こうして大氷河を歩き続けたところで寒さに凍えることはない。
「気にするな」
「でも 寒いでしょ?」
「……どれだけ体温が下がっても私の身体は動く、例え血が一滴もなくなろうともな。問題はない」
「……うん」
「人間じゃあない」
「……だけど あなたの心は 記憶は 人間よ」
「どうだろうな」
 ジェノバによって記憶が改竄されてないという証明はどこにもない。そうでなくとも宝条の手で木っ端微塵にされた身体の全てが『元どおり』の機能を持ってつぎはぎされ直した保証だってない。ティファのあたたかな息も、体温を上げることはない。
「痛みだけがあるって……ひどいよね、かみさま」
「……痛みだけは残した。そう 思うことにしている」
「だって 痛いのは嫌よ」
「そうだな」
「嫌じゃないの?」
「……痛みすら感じなくなれば……最早いきものでもあるまい」
「あ……」
「それを感じられる間はまだ 私は……人間であった感覚にしがみつくことができる」
「……ごめん」
「謝るな。君の反応は正しい」
 その痛みすら本来人間が持つものとは違った、歪んだ感覚ではあれど。
 しかしそれすら取り上げられてしまえば、ヴィンセントを人間たらしめる要素の大半が失われてしまう。
「…………ごめん」
「ティファ?」
「ごめん、なさい。私は……」
「……謝るのであれば……相手は私ではないだろう」
 その相手まで押し付けるな、と言うとティファは手を離し、俯いたままやはり「ごめん」と謝罪の言葉を告げる。
「……だめだね、私」
 遂に決着をつける時がやってきたというのに、こんな調子じゃ。
 村を焼かれ、父を殺され、全てを奪われてから5年。あの日クラウドと『再会』しなければティファは今でも七番街のスラムでテロリストの友人たちに食事を作っていたかもしれない。16歳の頃から進めていないまま、何一つ動くことのない時計の針に何かを期待し続けていただけだ。
 どんな理由であれ、ティファの時間は動き出した。
「全てを決めるのは我々ではない」
「……誰が 決めるんだろう」
「星が」
「ほし?」
 星が全てを決める。
 ヴィンセントはティファが戦闘用のグローブに交換したのを確認すると洞穴の奥へと再び進んでいく。
 全ての出来事は星が望むまま。星の導きによって人々は命の旅路を歩み、星の果てに待つ約束の地へと辿り着く。そこは命の旅路が昇華され現れる楽園、全てのはじまりの場所であり、おわりの場所。詳しいことは分からないの、わたしが知ってるのは伝承だけ。そう告げるのは今は亡きセトラの幻影。
 運命にも似た、けれど違うそれ。
「星の縁(えにし)に依(より)て……路(みち)は拓かれる」
「なんだか、難しそうね」
「単純な答えだ。心のままに進めばいい、とだけ」
「ふぅん?」
 言葉の選び方が古風だからか、それとも誰かの言葉を引用しているからか。男の告げる実体のない言葉にティファは首を傾げるばかりだ。
「君はそのままでいい。心に従え。……そういうことだ」
「!」
「迷いも悩みも……不安も、全て君自身の心から生み出された感情ならば 忌避する必要もない」
「……本当に?」
「それを決めるのは星だ」
「またそれ」
 それがよく分からないんだってば、と言うとティファは視界に入ってきた赤い宝玉に「あ!」と声をあげた。
「……とりあえず実在はしていたようだな」
「そうだね。これがアレクサンダーのマテリア?」
「おそらく」
 制止の声もないのでティファはかっちりと台座にはめ込まれたマテリアに指を伸ばした。てっきりアレクサンダーを拝するという雪女たちの妨害にでも遭うかと思いはしたものの、今の所敵影はない。他の召喚マテリア同様に赤く艶やかに輝く様は見事だ。神羅の合成マテリアでは決して生まれることのない美しい色、吸い込まれるような血の赤。古代種の叡智が封じ込められた宝珠だ。
 綺麗、と彼女はそれを取り外そうと力を込めたが台座が爪のように変形していてどうにも外れない。指に力を込めようともびくともせず、ティファは唇を尖らせた。
「外側、壊しちゃっていいかな? それともお湯掛けたら溶ける?」
「……君は案外極端だな」
「そう?」
「指を当てて集中してみろ」
「……こう?」
「目を閉じて……ほしのこえを聞け」
「…………私、古代種じゃないよ」
「『それ』には星の意志が封じられている。巨大すぎる意識の声はセトラでなければ聞こえはしないだろうが……その程度であれば 意志を感じることくらいはできる」
 そうなの? と新事実にティファは目を丸くした。
「それ、早く言ってよ」
「……」
「……あ……」
 言えるものなら言っていた。彼のマテリアと同じ赤い瞳はそう語っている。
 そしてもう一つ。「エアリスは……知ってた、よね」と聞けば静かに頷くのみ。
 そういうこと、かぁ。
「非難したければしろ」
「しないよ。そっか、そうだね」
 召喚獣というまぼろしはかつてセトラが夢見た祈りが具現化した存在。ならばセトラの不倶戴天であるジェノバに敵意を向けているであろうことは明らかだ。
 ここまでの旅でクラウドが召喚魔法をあまり使ってこなかったのもそれが原因であろう。チョコボくらいしか彼はうまく呼び出せない、コントロールできないと言ってはいたが得手不得手の話ではおそらく、ない。古代種の神殿で拾ったバハムートなど以ての外。クラウドが呼び出そうとしたら魔力が逆流して手のひらに大火傷を負ったのは記憶に新しい。
「君の声になら応えるはずだ」
「ヴィンセントは?」
「……リスクは低いほうがいい」
 言葉の真意までは分からなかったが、つまるところNOということだ。
 ティファは諦めて指先に力を──怒りが限界突破したときのように闘気を──込めて、かつて訪れた先々でエアリスがそうしていたように、星の声に耳を傾ける。なんて言ってたっけな、と記憶の糸をゆっくりと手繰れば脳裏にふわり浮かぶのはあの愛らしい笑顔。
 亜麻色を揺らしながら後ろ手で「うーんとね」と説明しようとする姿がまぶたに映る。
「星の、声……」
 それを聞くためにはまず、聞いてる人がここにいるよって言わなきゃいけないの。
『汝 何を望む』
「わ」
『我の目覚めを呼ぶ者は汝か』
「えっ、あ……ヴィンセント、聞こえる?」
「あぁ。どうやら……応えはあったようだな」
 マテリアに触れた指先からびりびりと伝わってくる魔力が声となり頭に響く。
『いずれ我が聖なる審判が下される』
「……聖なる 審判?」
『悪しきを裁く 我が使命』
「えっと……マテリア、持って行っても大丈夫ってこと?」
「……だな」
『心せよ』
「……」
 赤いマテリアから声が流れ込んでくる。
 ティファの脳髄を駆け巡り、ヴィンセントの脳裏を突き抜けていくのは召喚獣の警告だ。
『我は機構。セトラの願いによる造られた機械仕掛けの神』
「……神は何ひとつ見逃しやしないだろう」
 天網恢恢疎にして漏らさず。ウータイの古い言葉だ。
『覚悟せよ』
 裁きの日は近い。
 マテリアから響いた声はそこで途切れた。
 途端、広がるのは異様なまでの静寂である。
「どういう……ことだろう」
「……星に仇なすものは例外なく聖光にて灼き滅ぼす。それがアレクサンダーの役割だ」
「……」
「……どうなるかは 我ら次第ということだ」
「ねぇ、それって……! ヴィンセント!」
「囲まれたな」
 殺意だ。
 ティファはマテリアの祭壇に背を向け、拳を強く握りしめる。
 雪女だ、という男の声が耳に届く。視線をそちらへ向けることはせず、わらわらと洞窟の中から滲み出してくる気配に集中すれば、それらはすぐに青白い女のかたちとなり二人を取り囲んだ。スノウ、ともゆきおんなとも、ゆきめとも。様々な呼び方をされてはいるが、要するに雪山に住み着くモンスターだ。
「あぁ〜……これやっぱり怒ってる……かな」
「……ロッジで見たビデオを覚えているか?」
「え、あ、うん……」
 唐突に投げられたヴィンセントの問いかけにティファは思わず彼の方を向いて頷いた。
「彼女たちは……おそらく、だが。かつてのセトラ。それらがジェノバによって魔物に変質したものだろう」
「……そうなの?」 「おそらく、だ。確証はない」
 だが、そうだとすれば全ての辻褄があう。
 雪女たちが拝する機械仕掛けの神、それがアレクサンダーだというのなら。かつてこのノルズポル地方には多くのセトラが住み、その大半がジェノバによって魔物へと変貌した。イファルナのその証言が正しければ、この生命エネルギーが尽き果てた雪山に未だ住み続けている理由にも納得がいく。
 このマテリアを守り続けるために、やがて来たる役目のためにかつての故郷であったこの大氷河に居座り続けている地縛霊のようなものだ。
「でも襲ってきそうだよ」
 この数、面倒くさそう。
 ティファがそう告げるとヴィンセントも同意した。
「巻き込まれないように立ち回れ」
「ちょっと! どう、い う……」
「いくぞ」
 こと、と尋ねるよりも先にティファの隣に立つ男の影が膨れ上がった。
 真っ暗闇が膨張し、赤いマントの優男はあっという間にその姿を変化させる。銀色のたてがみに青い体毛のおそるべき獣がゴウと吠え、嘘でしょ、と呟くティファの目の前へ跳ねた。
 彼がガリアンビーストと成る時はほとんどがそうせざるを得ない状況に追い込まれた際だ。それ以外のタイミングではなるべく変身を避け、生身で戦おうとする。それは自分自身の身体への負荷を考えた上でもあるが、同時に仲間たちに万が一にでも危険が及ぶことを避けているからでもある。変身した直後は急激な身体変化に追いつかない精神が疲弊ししばらく動けなくはなるが、それでも彼が最初からこんな手段をとるのは珍しい。
「(あれ……?)」
 おかしいと気づいたのは直後だ。
 いつもなら無闇構わず火の玉を吐き出してはあちこちを黒焦げにするものだから仲間からはバーベキュー野郎だとか言われているビーストが何故かおとなしい。おとなしく襲いかかる雪女の冷気を火炎で相殺し、並の男ならコロリとやられてしまいそうな官能的な誘惑にも見向きせず足元を狙って岩の床を叩き割る。確実に制御できている。妙な確信を得たティファはその後ろに続き、ビーストの大ぶりな一撃をひらりと避けた雪女の足元を払った。
 殺すつもりもないらしい。
 先ほどのヴィンセントの話が本当ならば、このスノウたちはかつてセトラだった者たちの末裔だ。例えジェノバに冒されていたとしてもその事実に変わりはない。足元を穿ち、致命的な傷は与えないように立ち回るビーストは理性のある獣だ。
『もうよい。我は応えよう』
「あ……アレクサンダー?」
 再び聞こえるのは幻獣のひびき。
『星の声に 応える刻はきた』
「……あ いっちゃう」
 もうよい、の言葉と共にそれまでビーストとティファの牽制で大わらわとなっていたスノウたちが一斉にスゥ、と気配を消して行く。
 次いでガリアンビーストもまた、変身する際そうであったように再び真っ黒な影となり今度はどんどん縮まって行く。一体どんな変化が身体に起きているのかは想像もつかないが、全く別の生き物へと成り替わるような感覚、だそうだ。身を一度全てバラバラにして肉を膨れ上がらせて再びつなぎ合わせるだとか、そんなことを以前言っていた気がする。
『心せよ』
 再びの忠告と共にスノウたちの姿はもう見えなくなる。
「……どうやら……」
「終わった、ね。大丈夫?」
「判断は任せる」
 ぜぇぜぇと聞くからに辛そうな息でヴィンセントは答えた。
「大丈夫じゃなさそう。少し休もっか」
 アレクサンダーの言葉でスノウたちが退散したのなら、この洞窟内はしばらく安全だろう。魔除けに、とティファは言われた通り先ほどスノウたちがわらわらと押し寄せてきた洞窟の入り口に温泉で汲んでおいたお湯をふりかけた。
 ヴィンセントはふらふらともつれる足取りで台座に安置されていたマテリアに手を伸ばし、再び触れる。
「……機械仕掛けの……けだもの、か」
 すると先ほどまでが嘘のようにマテリアはパリッと小気味のいい音と共に台座から外れ手中に収まった。
「どんな召喚獣なの?」
 声は聞けどもその姿までは分からなかった。するとヴィンセントはそれを「要塞だ」と表現する。
「私も実物は見たことがない」
「じゃ、呼び出すまでのお楽しみだね」
「楽しみ……か」
 エアリスならきっと本心からそう言ったことだろう。しかしティファは違う。声は震え、どことなく瞳には恐怖すら浮かんでいる。
 真実を消して見逃さないというアレクサンダーの言葉が重くのしかかり、ともすればあの召喚獣は嘘を口にできないまま黙りこくっている自分たちに鉄槌を下すのではないかと怯えている様子にすら見える。
 が、その恐怖があるならば心配はないだろう。
「旅、もっと……楽しくできたらよかったな」
 最初の頃はよかった。
 他愛もないことで笑って怒って、ミッドガルという狭い場所から飛び出して広い世界へと解放されたなんて思っていたのだから。見たこともない世界に触れて、見たこともない街と人々と出会い、見たこともない魔物に追い回されて、時折辛いことがあったって楽しい旅。それがずっと続けばよかったのに、とティファは自嘲した。
「……セトラの旅の果ては……いつも決まっている」
「……あのね」
「……」
「ヴィンセントはきっと 私たちの知らないことを……知って、るよね」
 ティファは多くの質問をしまいこんでそう聞いた。
 旅の果てが『死』だなんて誰が決めたの? とか、エアリスは最初からそれを知ってた? とか、いろんなこと。それら全てをひっくるめた問いにしかし、ヴィンセントはふるふると首を横に振るのみである。
「……否定はしないが肯定もしかねる」
「教えて欲しい、って言ったら……どうする?」
 ティファの声は震えている。
 寒さからではない。雪女たちが散り散りとなった洞穴に冷たい風が吹き込んでくることはなく、アレクサンダーの力が秘められた召喚マテリアはヴィンセントの手の上できらきらと行儀よく煌めいている。あの幻獣は全てを見透かしていたのであろう、その上で裁きを下す日は近いと二人に告げた。
 言葉にしないことを、真実から目を背けることを、アレクサンダーは見逃しはしない。
「それを知って君はどうする」
 ガリアンビーストへ変貌した後の消耗は激しく、ヴィンセントは誰もいなくなった洞穴に盛大に倒れ込んだ。
 他の仲間たちがいれば何事もなかったかのように立っているかもう少しマシな格好をしていたやもしれないが、今は気を使うべき相手もいない。足を投げ出し、頬を冷たい岩につけたまま低い天井を見上げれば視界いっぱいに広がるのは氷のクリスタル。イファルナがガストに証言していた、春の来ぬ大地だ。結晶化はしているがライフストリームという肝心な生命エネルギーは全て北の大空洞へと向かい、マテリアが生成される気配はない。
「知ったら……どうなるんだろう」
 ティファもまた座り込む。
 だらりと投げ出された長い手に指を伸ばしてもやはり、そこにあるのは外気と同じ冷たい肌。
「私は 君を傷つける言葉しか知らない」
「……教えて、ヴィンセント。あなたの知ってること」
「……」
「……お願い」
「……何も」
「えっ」
「私は 何も知らない」
 ヴィンセントは瞼を閉じて少し身を縮めた。
 全身を駆け巡る再生の痛みに耐えるように、そして嘘を口にすることで走る身を裂く心の痛みに耐えるように。
「ヴィンセント……」
「君が望むものを……私は 知らない。何も語らぬことが……今の私が君にしてやれる唯一のことだ」
 ティファの心を守るために。
 彼の言葉は嘘まみれだ。何も知らないなんて嘘。彼はきっと、最初から全てを知っている。ティファが恐怖する真実の意味を、セトラの祈りの意味を、クラウドの正体を。それを知りながらも口にしないのは彼が無責任だからではなく、他でもない仲間たちのため。
 それを口にすれば今まで積み上げてきた旅路が全て崩れてしまうと知っているからだ。
「……ごめん ありがとう。……私たち、ずっとあなたに甘えてる」
「……恐怖するのはまだ心が生きているからだ」
「…………ヴィンセントは 怖くないの」
「怖い?」
「この先……どうなるのか」
「……さぁ どうだろうな。そんな感情ももう失せて永い」
「私は……怖いよ、ずっと」
 最初から。
 エアリスが死んでから、とかそういうスパンじゃない。古代種の神殿で? ううん、それも違う。ニブルヘイムで、カームで、ミッドガルで。
 遡るのは数ヶ月前、あの『再会』の日からずぅっと。7年ぶりだね、と言おうとしたティファの言葉をさえぎった幼馴染を自称する男の5年ぶりだという言葉。それまでニブルヘイムで家族や仲間を全て失い、唯一残されたつながりであるクラウドのことだってミッドガルへ旅立った7年前からなんの音沙汰もないまま。
 その彼が言うのだ、5年前だったと。
 否定できるはずもなくティファはとりあえず結論を先送りにし、先送りにし続けてここまで来てしまったのだ。
「恐怖しながらも進めばいい」
「でも……もし もし、クラウドに何かあったらどうしようって……」
「……君の知る『クラウド』はそんなにやわな男か?」
「……」
 これまでの旅路を思い返してみろ、とヴィンセントは優しく語りかけ、ティファの手をとった。冷え切っていても彼女の薄い肌の下には人間の血が流れている。
「こんな雪山でも顔色ひとつ変えないような男だ、ちょっとやそっとでは死にはしまい」
「本当……?」
「本当だ、こんなとっころで嘘はつかん。そして……どんな結果になろうとも 我々は君を守ろう。君の心が折れぬよう、君の心が壊れてしまわぬよう」
「!」
「それくらいしかできることはない」
 けれど、それくらいは。
 真実を知りたいと思いながら恐怖するティファに真実を請われたヴィンセントは口を閉ざすことを選んだ。『言わなかった』罪はこれでヴィンセントのものとなり、ティファの『聞かなかった』罪は霧散する。そしてこの先不安と恐怖を抱いたまま進み待ち受ける悍ましい現実を前にしても決して折れることはない、とヴィンセントは断言した。
「……なんだか、分かるな。エアリスがあなたを信じたのも」
「なぜ彼女が出てくる」
「ヴィンセントってモテたでしょ?」
「……は?」
「絶対そうよ。普通の女の人ならそんな目でそんなこと言われたら一目惚れしちゃう」
「……」
「告白とかされたこと、いっぱいあるでしょ?」
「……君が……何をもって私をそう評価したのかは 知らんが」
「どう?」
「覚えてない」
「え?」
 覚えていない、本当に。
 ヴィンセントはややあってから上体をようやく起こし、手の中でマテリアを弄んだ。
 いつだって蘇るビビッド・カラーの中で踊る思い出は分厚いスカーテン越し。それが間違うことなく自分自身の正しい記憶であると断言できないまま、それらは走馬灯のように、巡るランタンのように駆け巡っては消えていく。
「……もう……はっきりとは 思い出せない」
 記憶を切り刻まれた代償か、身体を切り刻まれた代償か、それ以前に降り積もった記憶の新雪に押し潰されてしまっただけなのか。
「ヴィンセント……」
「私にも……君たちのように 少しは……人間らしく生きていた頃もあった、はずなのだがな」
 どんなことをしたっけ、と思い出そうにも全ては血濡れの光景に塗り潰される。彼の乾いた笑みはどこか寂しそうだ。
「……思い出せないって もどかしいよね。それが本当なのかどうか……答えを誰にも聞くことができなくて」
「だが過去の記憶が曖昧だろうが生きていくことはできる」
「普通は……だよね」
「普通は」
 何を物差しとして普通かそうでないかを分けるかはまた別の話として。
「……いつか あなたの話も聞きたいな。……ちゃんと、聞けるようになったら」
「そうだな」
「聞けるかな」
「……そのうちな」
 ぼやけたシルエットは捕まえた。
 あとは本人の口から答えを得るだけ。しかし続けてティファが何かを告げようとしたその時、
「……何してるの、二人とも」
「……レッド?」
「……昼寝」
 と、山小屋で休んでいるはずのレッドが洞穴の中に顔をのぞかせた。一体どうして? と聞くよりも先に頭上でぴょんと黒猫が跳ねる。
「いやぁ、これ言うたら怒られるおもたんですけど。ティファさんにはちゃっかり発信機、つけさせてもろてますんや。帰り遅うてみなさん心配してはったもんで……」
「……ケット」
「……すいませんて。いや、こればっかは本心です」
「出番がなければ黙っていたつもりだろうに」
 この性根の腐った猫が、とヴィンセントは吐き捨てた。それなりに仲間に対しては冷静だが柔らかい物腰で対応する彼ではあるが、どうにもケット・シーに対しては乱暴な言葉を使うことが多い。それでもケット・シーはひどいわぁ、なんて言うだけでレッドの頭から飛び降りると、マテリアを弄んでいたヴィンセントの膝下にてくてく歩いてくる。
 一体なんのための発信機だとか、他にも誰かにつけてるのか? とか、そういったことは今この場で聞いても無駄であろう。ケット・シーの向こう側にいる人物は抜け目のない男だ。
「これですか? マテリア言うんは」
「持ち出していいと言われたのでな。有り難く持っていくことにした」
「誰がそんなん言うんです」
「マテリアよ」
「はぁ」
 要領を得ない回答に可愛らしく首をかしげたケット・シーをティファは持ち上げた。
「発信機の件は後からキッチリお説教するとして……そんなに遅かったかな。早く戻りましょう」
「クラウドたち、もう出発しようとしてるよ。急いで!」
「ヴィンセント、大丈夫?」
「当然だ。……ティファ、腕を」
「あ 切ってる。寒くて気づかなかったかな」
 先ほどまでの弛緩しきった様子はどこへやら、スッと立ち上がった長身はティファの腕に残る赤い筋を指摘した。スノウたちとの戦闘中に氷の破片で切ってしまったのか、出血は既に止まっているが肘の下からまっすぐに切り傷ができている。
「あとで消毒しておけ」
 この程度の傷なら魔法で無理やり塞ぐのは本来の治癒能力の妨げになる。そう言ってヴィンセントは適当な布がないかと少しばかり考えてから額にお飾りのように巻かれていた赤いバンダナをするする解いていく。スカーフにでもできそうなしっかりとした、しかし柔らかな布で傷を綺麗に覆っていく。
「ありがとう。やっぱりヴィンセントってモテたでしょ。……違いない、私が断言するわ」
「……なんの話してたんです、お二人とも?」
「……さぁ」
 ヴィンセントは歩きざまにレッドの頭をわしわしと撫で回す。
 無造作に見えて優しい手つきにレッドは心地好さそうに喉を鳴らし、二人と二匹は仲間のもとへと戻るべく雪原へと足を踏み出した。





「ハイウインドだぁ?」
「えぇ、えぇ。そのハイウィンドです」
「ハイウィンド?」
 訝しげな顔をしたクラウドにシドは「オレ様の飛空挺さ!」と吹雪に負けぬほどの大声で叫び返した。
「オレの、オレ様の! 飛空挺だ! ルーファウスの奴、誰の許可で動かしてやがる! あぁクッソ、ハイデッカーのアホタレか!」
 バカタレ! クソッタレ!
 ありとあらゆる罵声をシドは喉から絞り出した。
 山小屋の外で待っていた仲間たちに合流してすぐ、ケット・シーはこれまでもそうだったように耳と尻尾をピンと立てて「あっ!」と叫び声をあげたのだ。そして神羅の現社長であるルーファウスたちがタークスやハイデッカーたちを連れ立ってこの絶壁の向こうへやってくることを告げた。
「パルマーさん、止められなかったんやろなぁ」
 あれは元々は宇宙開発部門の所有物である。それがルーファウスたちを乗せているということは、どういった経緯を辿ったかおおよその予想もつく。
「休んでなんていられねぇ、テメェら行くぞ! クレーターだかなんだか知らねぇが、オレ様のハイウインドを好き勝手されてたまるかってんだ! チクショウ!」
 とてつもやかましい声が響く。
 ミッドガルで神羅の本社ビルに乗り込む時のバレットだってこんな大声出したか知らないわよ。ね? とティファがクラウドに尋ねれば彼は「そうだな」と答えてくれる。
 大丈夫、まだ まだクラウドはいつものまま。
「ルーファウスたちに先を越されるな。急ぐぞ」
「崖登りが嫌だとか言ってらんねぇぜ! うおおおお待ってろハイウインド!」
 その場でスクワットをし、体温をあげようとするシドにクラウドは苦笑しながらも「いくぞ」とだけ言い、ガチガチに凍りついた氷の地面にステッキを突き刺す。足を滑らせればクレバスへと真っ逆さま、強大すぎる大自然を越えたその先に目的地は待つ。
 ティファは防寒着の下でぎゅっと先ほどの切り傷を押さえた。痛むのほどではないが、どうにもチリチリと刺激は残ろう。
「安心しろ」
「えっ」
 すると背後から囁くような声が聞こえ、思わず彼女は振り返る。が、あるのは絶壁に挑もうとする仲間たちの姿だけ。声の主人は誰だかはっきりと分かるのに、その男はティファの方を向いていないどころかユフィに背負え! と騒がれて鬱陶しそうに手をひらひら振っているだけ。
 幻聴かと思い彼女は再び前を向く。
 その先を歩くのは金髪の幼馴染を自称する元・ソルジャー。大きな剣を──ティファにも見覚えがあるバスターソードを背負った、一人の男。
「何が起きようとも 旅は終わらせない」
 と。
 やはり後方からは騒ぐシドやユフィの声しか聞こえない。
 けれどはっきりと聞こえたそれは誰か一人の声ではなく、真実に怯えるティファへと向けられた仲間たちみんなの声。それならきっと信じられる。ティファは誰に対してでもなく「私 耐えてみせる」と呟いた。


三.


 絶壁を登った。
 ただただ無心になって、凍りついてしまわないようにだけ気をつけて、他のことは何一つ考えず。
 考えたらそこで足は止まり二度と進めなくなるという妙な確信だけがあったから。出発時ほど威勢良く吠えていたシドも今は口数も減り、黙々と絶壁に手をかけ、足をかけている。幸い雪も収まり敵はそびえ立つ氷の壁のみだ。ザク、ザクとクラウドが先行し足場でロープをぶら下げ、登って行く。その繰り返しがひたすら続くのみ。
 景色も変わらず、白く濁った視界では大陸側を見渡すこともできやしない。
 幾度も同じ景色を越え、幾度も同じ断崖を登り、幾度も同じクリスタルの洞穴を抜け、そして。
「チクショウ、あのヤロウそういう意味だったのかよ!」
 シドは叫んだ。
 双子頭のドラゴンを倒したところまではいい、恐らく。
 リユニオンだかなんだか知らないが、辛くもドラゴンの襲撃から逃れた黒マントたちの行列を追い越し、それでも『動こう』とはしないヴィンセントを横目で見ながらクラウドの言う通りに動いていたら、これだ。
 気づけばセフィロスの姿をした『何か』の大群に取り囲まれ昏倒させられたかと思えば黒マテリアは既にそこにはなく。それに気づいたヴィンセントは誰に声をかけるまでもなくその場から弾かれたように翔び去り姿を消しクラウドを追い、残された仲間たちも迫り来る竜巻の壁を越えてクレーターの中心部までやってきた。
 だというのに。
「何してんだ、アイツら!」
「見てよあれ!」
 神羅の飛空挺!
 そこから身を乗り出しているのは見覚えのある赤毛、タークスのレノだ。
 ホバリングしていたハイウインドは今まさに飛び立とうとしている。既に神羅はこの現場を確認した上で撤退しようとしているのであろう、赤毛男の口が大きく「乗れ!」のかたちに動く。
「何がどうなってやがる、エェ!?」
 既に足場は崩壊をはじめ、樹木のように絡み合った結晶体の中で眠るセフィロスの上半身がライフストリームの海へと落ちて行こうとしている。あれが『本体』だ。そう確信したシドはティファとユフィの手を引き、バレットに大声で「こっちだ!」と叫んだ。
「どうすんだシド!」
「こっから離れろ、とにかくだ!」
「でもクラウドが……!」
「いいから乗れ!」
「嫌よ離して!」
 既にウェポンは目覚めた。
 黒マテリアという星を滅ぼす可能性のある因子が近づいたからか、既にメテオが発動したからか。どちらがトリガーとなったかは定かでないが星の中心に眠っていた古代の兵器はガラガラと周りを囲っていた結晶を破壊し、人工的なフォルムをしながらも生物的な瞳をギョロリと動かした。
 ユフィが飛空挺からぶら下がったハシゴに飛びつき、ガニ股で駆け上がっていく。
 これに乗り込むことは神羅の捕虜となることに他ならないのだが、背に腹は変えられない。ここで崩落に巻き込まれれば確実に死ぬ、という確信があった。
「ティファ!」
「ッ」
 乗れ、と叫んだのはレノだ。
 既に足場の崩壊は始まっている。ティファの腰を背後から抱えて無理やりシドがラダーに捕まり登り始めると、身を乗り出したレノが服ごと引っ張り上げる。やめてよ! とパニックに陥ったティファは叫んでいるが今はこうするしか手段はない。
 誰しもが思っているのだ、『このままではいけない』と。
 それでも現状を打開する解決方法など見つからず、どうしたものかと考えあぐねている時間もない。その中で唯一行動を起こしたのがヴィンセントだったが、それすらも手遅れでしかない。何もしないよりはマシ、何もしないよりは自分の行動に納得が持てる。その程度でしかない。
「全員乗ったか!?」
「クソッタレのバカヤロウども以外はな!」
「ルード! とっとと離脱するぞ!」
 トランシーバーに大声で怒鳴ると寡黙な男が珍しく焦って「了解した」という返事を送ってくる。神羅もいよいよこれはマズいと判断しているのだろう。
「あんのヤロウ、文句くらい言わせろや!!」
 渋るティファを抱えながらもシドは眼下に向かって毒づいた。
 手遅れとなるまでに必ず。
 その決意に間違いはなかった。
 あの時ヴィンセントが語った言葉の意味をシドは終ぞ誤解していたのだ。否、誤解『させる』ように導いたのは他でもない、ヴィンセントだ。
「どうする気だアイツ!」
「相討ちになる気だ、アホンダラ!」
 クラウドは殺さない、殺させない。決して。
 これまで旅を共に歩んで来た仲間を手にかけることなあど絶対に許されない。ヴィンセントの語った言葉に嘘はなく、それは行動で示された。
 黒マテリアをセフィロス・コピーの内誰かしらが主の元へ届けてしまうことは想定のうち。かつて二千年もの昔、セトラにウイルスを与えその殆どを滅ぼした外来生物を出し抜くことは不可能であると早々に諦めていたようである。決してクラウドは殺さない。たった一つの感情論を優先しただけで選択肢は信じられないほどに狭まった。それでもヴィンセントはその中で最後に残された可能性に賭け、行動に出た。
「どういうことだよ!」
 バレットは吹きすさぶ暴風に負けないくらいの声をあげた。
「セフィロスを殺すつもりだ、あのバカタレ!」
 そうして彼は仲間を遠ざけたのだ。
 共犯者になるよう持ちかけたかと思えば、最後の最後でヴィンセントはシドを裏切った。
 狂戦士(バーサーカー)となってバスターソードを振り回すクラウドを適当にあしらい、背後に控えるセフィロスの周囲に浮かぶセフィロス・コピーの一人をファイガで焼き尽くす。目指すは本丸ただ一人、劣化したコピーに用はないとでも言うが如く。
 ひらりひらりと舞うセフィロスと同じ姿をしたコピーたちが長い刀を振り回しヴィンセントに襲いかかりはするが、その切っ先が身体を掠める寸前、ガリアンビーストが出現する。獣の固い皮膚は切り裂かれることなくまがい物の刀を叩き折り、ライフストリームの結晶で守られた本体に近づこうとするが、すぐにそれは復帰したクラウドによって阻まれる。
 大ぶりな動きで闇雲に振り回される巨大な剣の一太刀でも浴びればひとたまりもない。真っ二つにされたところで即死は免れるだろうが、目的は果たせない。
「おいおいおい、こんなことなるとか流石に聞いてないぞ、と!」
「離してレノ、まだクラウドが……!」
「そうもいかねぇ、オレらはアンタらを生け捕りするよう言われてるんでね!」
 確保させていただきますよ、と言ってレノがティファの腕を掴もうとすると、彼女はそれを振りほどって大声をあげた。
「やめて、バカッ バカ!」
「るっせぇな!」
「!」
「バカで結構だがよ、アンタ今ここで死ぬつもりか!」
 それがお前の望みかよ!
 レノは叫んだ。
 腹が立つ、どこまでも。
 天から勝手に落ちて来てエアリスの心を奪って、ミッドガルのお姫様を外の汚い世界へ連れ出して、彼女が願った空の下を連れ回して、殺して。
 どれだけ願おうともレノやザックスが与えられなかったものをクラウドはいとも容易くエアリスへと差し出した。そして世界でいちばんの宝物を、エアリスの命だって奪っていったのだ。それだけでも醜い嫉妬心で腹が立って仕方がないというのに、更にこの女たちは彼女が『仲間』と言って愛したその命を諦めようとしているのだから。
「おいレノ! どうするつもりだオラ!」
「離脱に決まってんだろ! 起きちまったもんは仕方ねぇ、これ以上ここに止まってると全員死ぬぞ、と!」
「チッ 全員捕まってろ! 生きてりゃどうにだってなる、オレ様を信じろ!」
 そんなのはガラじゃない。
 自分自身がそんなことは一番よく分かっている。助手であるシエラに八つ当たりを繰り返し、神羅26号の打ち上げに失敗したことすら未だ彼女に謝罪できないでいるのだから。シエラがいなければ、シドはこの世にとうの昔、別れを告げている。彼女が粘りに粘って確認し続けたからこそ、そしてシドが彼女を見殺しにできなかったからこそ、結果として宇宙への夢は一度鎖されはしたものの二人の命は助かったのだ。
 それを認めることすらできないちっぽけな自分が言うべきことでは、ないが。
「ティファ!」
 バレットがそれでも柵から乗り出し徐々に小さくなるクラウドに手を伸ばそうとするティファの細い身体を抱きしめた。もう届かないのだ、彼には。
「バレット離して! 私……私、クラウドに……!」
「あぁそうさ、オレだってよ、言いたいことはいっぱいあるんだ! まだアバランチの報酬だって払えてないしな!」
 でも、今は。「いいかティファ。アイツは伍番魔晄炉のときだってそうだ、オレらが必死に探してる間、平気でエアリスと公園で遊んでたって言うじゃねぇか! そんな奴がこんなところで死ぬかよ!」と声を荒げた。
「ッ……いない、 いないの、エアリスはもういないのよ!」
「ティファ! それ以上言うと殴るよ!」
 ユフィが激震の中走り寄り、バレットの腕から逃れようとするティファのサスペンダーを乱暴にひっつかんだ。
「ユフィ! 離して!」
「離すもんか! アタシらはまだ生きてる、生きてたら絶対なんとかなる! 死んだらそこで終わりなんだよ、分かる!?」
「でもクラウドが、クラウドが死んじゃう!」
「死ぬもんか!」
 大きな声でユフィは叫んだ。「アタシらのヘンテコリーダーがあんなんで死ぬもんか!」と。
「どうでもいいがテメェら捕虜だからな!?」
「うるさいなこの赤毛チンピラ野郎! 外野は黙ってろ!」
「あァん!?」
「だァーーーー! お前らもうちょっと落ち着けや! 今はさっさとここを離脱するのが先! 神羅もオレらも見境なく襲ってくるぞ、アイツは!」
 眼下の死闘は続いている。
 ヴィンセントが召喚したのであろう、アレクサンダーの姿すら小さく見える。
 聖なる炎が周囲を焼き散らし、火柱と光線が我武者羅に走り回る。目覚めの刻を迎えたウェポンたちはしかし、大空洞に突如として現れた巨大な不可視のバリアによって星に害をなすジェノバへ接近できずにいる。その腹いせかは知らないが、解き放たれたいにしえの幻獣たちは八方へと散り散りとなり、その内の黒いボディを持つ飛行能力のあるものが飛空挺の周囲を旋回しては口から黒いフレアを吐き出している。
 あんなもん当たったらひとたまりもねぇ!
 シドはそれでも柵からしがみついて離れようとしないティファを無理やりに引き剥がし、バレットと二人がかりで船内へと押し込める。レノが最後の確認をして扉を閉ざせば──そこはもう、鋼鉄に囲まれた世界。
「クラウド、クラウド……」
 彼女が最後に見たものは。
 理性を失い制御を失った『だいじなおさななじみ』が仲間を斬り伏せ、遠い遠いバリアの向こう側、地割れの中へと吸い込まれていく姿であった。





 いつから 決意を捻じ曲げてしまったのだろう。
 勝てる見込みがないと知りながら戦いを挑むのは愚かな己が少しでも『間違っていなかった』と思いたいがための自己満足。どうせもう手遅れだ。全ては遅い、メテオは止められない。やがて来たるは怒りの日。裁きの刻は近い。
 眼前を羽虫のように舞うセフィロスたちの奥に眠る『それ』を消滅させれば、全ては終わるというのに。
 いくらでも機会はあった。
 ニブルヘイムで初めて出会ったあの日から、何度も、何度も。
 最初に抱いた疑念が大きな確信と変わるまでに大した時間もかからなかった。情が移る前に殺してしまえばよかったのだ。
「(同じだ あの時と)」
 感情に蓋をして銃を放つだけでよかった。
 それだけで世界は救われた。
 だが、ヴィンセントには未練がましく捨てることのできなかった感情が残っていたのだ。クラウド・ストライフという珍妙でちぐはぐな青年はそれでも自我を持ち、奇妙な言動を繰り返しながら、ジェノバに支配され記憶の改竄が起きていると確信を得た後にも『セフィロスを追う』という旗印のもと旅を続けた。そんな姿にどうしようもなく惹かれたのもまた、ヴィンセントだ。
 ティファやエアリスが抱く各々の秘密と同じ。ヴィンセントの決意も遂に為されることなく最後の舞台に到達しまったのだ。
『なぜ邪魔をする』
「……黙れ」
 その顔で、その声で、人間の『セフィロス』と同じ姿で侵略者は語る。
『お前にはもう関係のないことだろう』
「……黙れ」
『全てが終わるまで眠っていればよかったものを』
「黙れッ」
 悪夢のほうが優しいなんてとんだ現実だ。
『眠れ 今からでも遅くはない』
 それは呪いの言葉。途端にジェノバ本体からの強烈な命令によるヴィンセントの視界は昏み、長年感じたこともなかった凄まじい眠気が襲いかかる。
「ふざ、けるな……!」
 こんなところで果ててたまるか。
 なんの為にここまで来たのか、なんの為にエアリスの死を超えて、彼女の屍を見捨ててここまで来たのか。
 全てが無駄になる結末が決まっていようとも、ここで折れてしまえば永遠に来ることのない『死』の時まで後悔するに決まっている。彼らの想いを踏み潰すことをやめた結末がこの負け戦であるなら、それでも尚足掻き続けるのが僅かに残されたヴィンセントの心の在りどころだ。
 それを捨てては、いけない。
『抵抗するだけ無駄だ』
「ッ……聖なる審判を下せ、アレクサンダー!」
 燃えるように輝くのはつい先日手にした召喚マテリア。
 星に仇なすものを対象とした聖光の矛先がどこになるのかはヴィンセントにも分からない。ただ、あの召喚獣にも優先順位があるとすれば──少なくとも真っ先にヴィンセント自身が狙われることはないであろう。
 不安定な足場に現出したのは文字通りの要塞。
 聖なる獣は自称した通り機械仕掛けの動きでその場から湧き出るように地割れの中から現出し、すぐさま認識した『敵』に向かって白い光を解き放つ。直後、それらは方向性を失いまっすぐなレーザーとして無茶苦茶な角度で暴れまわった。
 そしてヴィンセントは気づく。

 恐れだ。

 目の前に膨らんだアレクサンダーが放つ星の意志によるものではない。
 恐怖だ。
 あまりに新鮮で鋭利な感情がヴィンセントの死に果てたはずの心に芽生えていた。
 既に壊れかけていた心が最後の一撃でも食らったのか、痛みすら感じられない。身体を切り刻むセフィロスの姿をしたジェノバの斬撃も何一つの痛みを生むことなく、クラウドを狙ったアレクサンダーの聖なる光が身体を掠めても身を灼かれる感覚が他人事のように転がっているだけ。
 怖い、と。
 その時初めて己の感情を理解した。
 クラウドが発狂したことではなく、セフィロスがメテオを呼び寄せるであろう未来のことでもなく、仲間たちが神羅に囚われるであろうことでもなく、自らの命が奪われることでもない。人間らしさの最後のひとかけら、それを奪われてしまうことがどうしようもなく恐ろしいのだ。
 明滅する炎に焼かれても尚、痛みを感じることを心は拒否した。

『愚かしい人間だ』

 刹那、響く声。
 地割れは勢いを増し、セフィロスの本体から放たれたシャドウフレアの直撃を受けたアレクサンダーはあっという間に瓦解する。
 誰の声だと判断するよりも直感が理解する。『ソレ』は多数のウェポンと同時に目覚めた星の意志。今まで姿を借りたことは数える程度だが幾度かあったが、こうしてハッキリと意志を感じるのは2度目だ。とはいえその声を初めて聞いた時は自身の存在すらあやふやで全てが魔物たちに飲み込まれようとしていた最中であったため、実質まともに声を聞くのは初めてだ。
「(……カオス)」
 名は、混沌。
『ここで壊れるつもりか』
「(それでも 構いやしなかった)」
 はずだ。ここでセフィロスを殺せるのであれば刺し違えようが構わない。その気持ちに嘘はなかった。
 しかし二千年もの時を遡ってもセトラが完全に消滅させることができなかった宇宙生物をたった一人で討ち取れるとも思ってはいない。ただ、クラウド・ストライフという奇妙なリーダーの命さえ繋ぎ止めることさえできれば希望は終わらない。
 それさえ達成できればこの身体が完全に壊れてしまっても構いやしないと、それがかつて犯してきた数々の大罪に対する贖罪であると勝手に決めつけていたがこの悪魔はどうやらそうではないらしい。
『そのちっぽけな命だけで贖えるとでも。それほどの価値がまだお前に残っているとでも。お前はそう謳うか』
「(……)」
『抜け殻が死したところで罪は消えぬ』
「(ならば どうしろと)」
 身体が焼けていく。
 爆発的なライフストリームの奔流が地割れの裂け目から次々吹き出しては木の葉のようにヴィンセントとクラウドの身体を宙空へと吹き飛ばしては波へと飲み込んでいく。セフィロスの身体は未だ結晶と樹根に守られ、そちらはむしろライフストリーム深く、星の中心部へと沈み込んでいく。
『手遅れだ』
 アレを殺すには遅すぎた、と悪魔の声は告げる。
 チリチリと手足の先から上り詰めていく灼熱の中クラウドに目をやれば、幸いなことに彼はアレクサンダーの尽きることのない聖火を浴びることはなかったようだ。しかしこのままライフストリームに飲み込まれればどうなってしまったか分かったものではない。
「クラウド!」
 手遅れだとカオスが例え嗤おうとも、賽は投げられたのだ。
 手を伸ばし放心した青年へと手を伸ばす。この身がどうなったところで興味はないが、クラウドは生きなければならない。セトラが信じた最後のきぼう、仲間が愛した素っ頓狂なリーダー、星を救う旅の要。星の祈りを聞くセトラが死した以上、悪夢を切り裂くソルジャーまでもを喪ってはならない。
『やめておけ。アレはお前以上の抜け殻だ』
 くつくつと愉快そうな声はあまりに不快だ。アレクサンダーの呼びかけがマテリアから発されたように、その悪魔の声は自身の胸のうちから響き渡る。
「貴様に……何が、分かる」
 ギョロリとクラウドの目が動く。
 未だセフィロスの支配から逃れていないのか、既にライフストリームの影響下で混乱しているのかは分からないが彼はまっすぐに殺意をヴィンセントへ向けてくる。チリチリと燃え尽きた皮膚が生々しく再生する気色の悪い感覚を振り払いサスペンダーを掴むことには成功したものの、クラウドは吠えてそれを拒絶した。
 あろうことか彼はそのまま右手で握りしめたままのバスターソードを振りかぶり、至近距離からヴィンセントの身体を真っ二つにせんと振り下ろしたのだ!
「お前は……誰だ……」
 虚ろな口が動く。
 頭上からまっすぐに下された刀身を避けることすらできず不死の男を切り裂き、更に真横にそれを振り回す。彼が得意とする連続斬りをゼロ距離で受けたヴィンセントは堪らず手を離し、存分に切り裂かれた傷口から生命が溢れ出すのを自覚した。
「クラ、ウド」
『愚かな』
 生命の流れは止まらない。
 クラウド、と名を呼ぶために口を動かそうにも再び彼が放ったファイガによって焼かれた顔面の再生は間に合わない。
 離れていく、全てが。
 のけぞった真紅の瞳に映るはバリアから離れていく機影の姿。少なくとも仲間の命は無事は確保された。どうなるにせよ神羅はティファたちを即血祭りにあげるようなことはしないだろう。彼らの命にはまだ神羅にとっての利用価値があるはずだ。
「(私という器を喪えば 魔物たちはどうなる)」
『……星に還る、のみ』
 だが。
 もみくちゃにされながらクラウドの姿は波に飲まれて消えていく。既にセフィロスもまた星の奥深くへと消えていき、最後に残ったのは淀んだ命の色を帯びた人間のかたちをした肉の塊が一人分だけ。
「(狭い檻から出れるチャンスだ よかったな)」
『諦めるのか』
「(もうどうにもならん)」
 後はエアリスが残した最後の希望を信じ、クラウドが真の姿を見極め、ティファたちが再び立ち上がることを願うのみ。
 そこに己の姿などなくて構いやしない。この不死身たる肉体の終わりなど存外早かったものだ、とヴィンセントは残された意識のひとしずくを零す。手放してしまえば痛みは一瞬、あっという間にあの世にイケるぜとかいうかつての同僚の言葉が脳を横切っていく。それはまるでリボルビング・ランターン。雪に閉ざされた寒村で過ごした幼少期に母から聞いた様々な星の神話。研究ばかりで家に寄り付かなかった父の冒険譚、年の離れた自慢の兄たち。ミッドガルの汚れた空気の下で命を預けあった仲間たちに──彼女の 笑顔。
『お前はまだその運命ではない』
 星の縁はまだお前を解放してはやらないのだと悪魔は告げる。
 世界で唯一愛した女性の面影がちらついては消え、それはやがて身に巣食う混沌の淀みとなる。面妖なおよそ人間から遠すぎる顔は己の顔そのものであり、肉体を持たない淀みは紫炎となって周囲のライフストリームへと溶けていく。
 殺しはしない、殺させはしないと。
 その淀んだ生命がヴィンセントの身体の周囲を取り囲み再生を忘れた肉体を鎧いはじめる。
 人間程度の生き物では耐えきれぬライフストリームが持つ星の記憶たちを遮断する淀みとなったカオスは、糸の切れた操り人形となった宿主に取り付いたまま生命の激流へと身を投じた。

 流れ着く先などどうでもいい。
 ただこの器が滅ぶ刻は今ではない。それはもっともっと未来永劫の先、いずれ星が滅ぶ時。それは決して──今ではない。
 星の奥深くで眠りについていた混沌を呼び覚ました人間どもの世界がどうなろうとは知ったことではないが、星の命と同じ。今はまだ、終わりの刻ではないのだろう。激流に逆らうように、カオスと呼ばれた星の意志は小さな人間の身体を南へと運んで言った。


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