サナトリウム


サ:さよならをきみに(ヴィンセント)


 彼女は美しい。
 生命の気配を感じさせぬ姿となってなお美しいのか、それとも限りある命を捨てたからこそ美しいのか、どちらが正解かは分からない。だが今目の前に全てを拒絶するように生成されたマテリアの結晶の中で心を鎖ざしたかつての最愛のひとが美しいという事実に違いはない。
 彼女を愛していたか?
 そう尋ねられれば間違いなく首肯するであろう。
 しかし、今でも彼女を愛しているか? と問われれば。即答はできぬし、恐らく答えは出ないまま。愛していない、とは言えない。間違いなくルクレツィアというこの美しい女性に対しては特別な感情は抱いている。が、それが『愛』かと問われれば。性愛などではない。もはや彼女に触れて欲しいなどと思いはしない、情念を持って触れたいとも思わない。
 この感情を言葉で表現するのは不可能、というのが答えだ。
 あの時神の御子を望まれ産み落とされた赤子はやがて成長し、無垢な大人となり、そして純粋が故に今やこの星を憎み滅ぼさんとしている。北の大空洞で眠るジェノバがセフィロスの意志によって動いているのか、それともジェノバの持つ星への怨念がセフィロスの死体を未だ動かしているのかは分からない。ただ、彼(か)の意志は星を焼き尽くすほどの憎悪であるということだけ。
 ヴィンセントは縋るように泉の中へ足を踏み入れ、許しを請うように結晶へと額を当てて目を閉じた。
 あの美しい地獄の中で過ごした僅かな時の流れは終わりのない永遠のように、昨日のことのように美化されたまま、それこそこの結晶に囲まれ時の流れを止めた美しいルクレツィアの姿のように脳裏に焦げ付いている。
 だというのに、だ。
 思い出そうとすれば美しい『彼女』の表情が笑顔を見せるのも束の間、そのはっきりとした輪郭を捉えるよりも先に悲嘆に暮れ、激昂し、彼を拒絶する姿ばかりがフラッシュバックする。
「君は……君は、私を愚かだと言うだろうか」
 答えはない。
 全てを拒絶した女が選んだのは永遠に流れ続ける時に身を任せ、星の一部になることすら叶わないまま死に続けながら生き続ける地獄。かつてのヴィンセントのような、しかしながら彼よりも何十倍も強い意志を以ってしてそれを選んだのだ。
 愛して欲しいなどとは思わない。
 感情に名前をつけることも諦めた。
 あの赤く美しい唇でこの名を呼んで欲しいとも、あの宝石が如く輝く瞳にこの姿を映して欲しいとも、あの穏やかな声を、あの暖かな視線を、あの あの美しき、日々を。
 全ては遠き過去の幻想でしかない。この手に残るのはそんな華々しい残滓などではなく、血に塗れた罪科のみ。せめて記憶の中に残る彼女の姿だけはどうか汚されず美しいままであってほしいなどという願望もまた、己が歩んできた修羅の道が可憐な足跡を消してしまっている。もう、思い出すことは叶わない。
 君を愛した日々は消えねども、君を愛した日々は嘘ではないけれど、君を愛したあの日々は永久凍土の更に地下深くで眠りについたのだ。二度と目覚め、解き放たれることのないよう鍵をかけて。
「ヴィンセント」
 クラウドが諭すように名を呼んだ。
「…………セフィロスは 死んだ。死んだのだ」
 あの子供は、彼女が産み落としたかわいい坊やは。
 事実がどうであるかなど重要ではない。彼女が愛していた世界は、科学を信じた彼女たちの楽園は、枯れ果てた大地に根付いていたサナトリムはもうどこにもない。それだけの話だ。自らに言い聞かせるようなヴィンセントの口調にクラウドは首を横に振る。
「……行こう。ケット・シーがうるさいんだ、早く戻ってこいって」
「あぁ」
 今ここでどんな言葉をかけても彼女が『心変わり』してくれることはないだろう。何より、ヴィンセントは今まさに嘘を吐いた。
 いかなる理由をつけようが彼は最愛だったはずの女性に息子は死んだと嘘を告げ、今まさにその息子を殺そうとしているのだ。二人を隔てるものはあまりに大きく、そして更にヴィンセントが溝を自ら広げ、彼岸と此岸よりも遠くなる。
 名残惜しそうに彼は一切の反応も見せない女のもとから離れ、クラウドが促すように洞窟から出る。ひょんなことから偶然見つけたこの洞穴のことをユフィは「マテリアの匂いがする!」と大騒ぎしていたが、あながち間違いでもない。しかし内部で待ち構えていたものを見るや否や彼女は非常に退屈そうに──面白くなさそうに──踵を返し外で待っているはずだ。
「すまない、ユフィ。待ったか?」
「待ちましたよーだ。……でも、もーちょっと待ってもよかったんだケド。いいの?」
 彼女にしては珍しい気遣いにヴィンセントは力なく微笑んだ。そして、
「……星が滅びなければいつでも来れる」
 と精一杯の返答をすればユフィは彼なりの気遣いに目を丸くしながらも視線をそらして返す。
「……そう、だね」
 ヴィンセントとルクレツィアという男女の関係は未だに謎だ。
 ただ単純にヴィンセントが一方的に想いを寄せ続けているのならちょっと粘着質なだけとでも軽口を叩けたものだが、ルクレツィア・クレシェントという彼にとってのファム・ファタルはあのセフィロスを産み落としたのだ。茶化すにはいささか重たい事情がある。
「ユフィ。ケット・シーが呼んでる、船に戻るぞ」
 クラウドは耳元で叫び続けている猫にうんざりとしながら微妙な空気にそう言って割って入った。「ミッドガルに動きがあったらしい」と言えば、
「りょーかい」
「了解した」
 と揃って表情を引き締めた。
 今は個人の事情は後回し。思うところがあろうとも、立ち止まりたいことがあろうとも、今この時は脇に置かなくてはならない。ヴィンセントが告げた通り、この星が在り続けるのであればいつでもこの場所に来ることはできる。カオスという身の内に存在する混沌の化身はどうやら、どれほど心と魂が壊れようともこの身体を捨てようとする気はないらしい。なら、どうにだってなる。
 本懐を成し遂げ、セフィロスを殺したあとにでも。
 宝条との決着をつけたあとにでも。
 嘘の一つや二つどうってことはない。もう引き返すことのできない大きな大きな、彼女自身も嘘と分かってしまうほどの見え透いた嘘を口にしてしまったのであれば、これから告げる言葉にはなんの意味すらないのだから。
 次にここを訪れるときはきっと、あの巨星が空から消え去った後であろう。もしもこの星が終わる事態となれば、『次』はない。ただそれだけのことだ。
「……ヴィンセント。事情を話せとは言わないさ。だが……無理は、無理だけはするなよ。アンタ、なんでも溜め込むタイプだろ。……ティファと似てる」
「…………」
「どうした」
「いや……お前にだけは言われたくはない言葉だと」
「……そうかよ。よかった、いつも通りのアンタだ」
 不服そうな顔をしながらもしかし、クラウドは肩を竦(すく)め皮肉っぽくいつもの笑みを作った。



ナ:なげきのかみさま(ヴィンセントと仲間たち)


 ケット・シーは大仰に手を広げてみせた。
「これがガハハとキャハハが持ち出した神羅の最新・最終兵器ですわ。名前は……」
「プラウド・クラッド……」
 ガタリ、と大きな音がした。
 寡黙で冷静・熱くなりがちなメンバーを少し冷めた目で外から見てくれる。そんな印象だったヴィンセントは今、目をまんまるに見開いたまま手にしていた腕輪を取り落とし、せっかく嵌めたマテリアを床に転がした。
「知ってるのか?」
 コロコロと揺れるハイウインドの床を転がり回るマテリアも目に入っていないのか、彼は目を丸くしたままケット・シーを凝視し口を半開きにしたままだ。
「ヴィンセント、さん?」
 嗚呼、そんなまさか。嗚呼、けれど、嗚呼。
「今……なんと言った? 本当に『あの』プラウド・クラッドなのか?」
「何が『あの』かは分かりませんけど……プラウド・クラッドいう名前は確かです。長年神羅がこっそり製造してた秘密兵器や言うてましたけど、まさか完成してたとは…」
「小型魔晄炉を搭載した……試作型の人造ウェポン……」
「ご存知なんです?」
 こりゃあたまげました。ケット・シーはうってかわって『本当に』大仰に驚いてみせた。
 そもそも余程のことがない限り決して感情を露わにすることのない男が嘆くのだ、とてつもない重大な話のはず、と黒猫はマテリアを拾い集めてその肩によじ登り、長い髪の毛で隠した瞳の色を伺った。
「ウェポン? あれがウェポンだって?」
 クラウドは怪訝な顔をした。
「……製作所時代に名前を聞いたことがある」
「そんな時代からあったんですか」
「忌まわしき機械仕掛けの絡繰(からくり)……」
「? なんだそれ」
 詩的な言い回しにクラウドは「まどろっこしいな」と感想を述べる。ヴィンセントという男は確かに様々な知識を持ってはいるが、如何せん話し方が古風であったり難解であったりする。しかし今は急ぎの刻。
 クラウドは腕を組んでどういうことだ、分かりやすく言ってくれと告げた。
「誰が設計したのか分かってないんですよ、あれ」
 代わりに答えたのはケット・シーである。
「分かってないって、どういうことだ」
「そのままの意味です。いつの間にか兵器開発部門に計画書が存在して、いつの間にか製造されて……いつの間にか完成してたんです。こんなタイミングで出てくるとはボクも思ってませんでした」
「……開発したのは……社外の科学者だ」
 ヴィンセントはそう告げると、ケット・シーにプロジェクタを用意するように言いつけ、机に放り投げる。
 どうしたんですかと聞けば彼はただ「取りに行くものがある」と言うだけで。スクリーンに映し出されているのはケット・シーが本社のネットワークから調達してきたプラウド・クラッドの資料だ。どう考えてもあのハイデッカーやスカーレットでは考えつきそうもない高度な技術によってかたちを成している兵器は見上げるほどの巨人で、いくつもの砲門を持ち、小型魔晄リアクターによる半永久的な活動が可能と来た。
 一体どうやって地中から掘り出し加工して電力として使用している魔晄を地上から離れた場所で動力としているのかは原理を読んでもサッパリだ。
「どうしはったんでしょうね、急に」
「ヴィンセントが慌てるなんて珍しいな」
「珍しいいうか、初めてちゃいます?」 「だな」
「……神羅はかつて、セフィロスという『神』を造ろうとした。だが……それより遥か昔、星の守護者をその手で作ろうとした愚かな科学者がいた」
 そしてすぐ戻るという言葉通りヴィンセントは言葉の通りものの数十秒で部屋に戻って来た彼は一枚のぐしゃぐしゃになった紙切れを片手に握りしめている。それは? と聞けば「『答え』だ」となんとも解釈に迷う言葉が返ってくる。
「星の守護者……?」
「ウェポン」
「それで……ウェポン、か」
「人造ウェポン。かつてそれを目指した男がいた。それを元に神羅が勝手に解釈して開発を進めたのであろう」
 実際には『愚かな科学者』という奴がウェポンを作ろうとしたのではない。
 純粋な興味。
 ともすればとてつもなく悪質なきっかけによって設計されたのだ。
 千切れないように丁寧に広げられた紙切れにクラウドは首を傾げる。
「で、それは? 手紙か?」
「……ケット・シー。これを見ろ」
「なんや突然、手紙なんか…………」
 見せられても、と黒猫は言いかけた口を固まらせた。
 ヴィンセントが差し出した紙を広げてみると、そこにはケット・シーが先ほどスクリーンに映し出したものとそっくりな図が記されていた。几帳面な字体でビッシリと書き込まれているのは小型魔晄炉の理論。地上何メートルまで稼働するかという机上の計算に、『もし』実現した場合のエネルギー効率等。
 ケット・シーが神羅のデータだと言って引っ張って来たモノの原型がそこにはある。
「プラウド・クラッドの構想を最初に考えたのは……製作所の人間ではない」
「誰なんだ?」
「……グリモアという科学者だ」
「グリモアって……」
 ヴィンセントがクラウドたちと初めて対面した際に名乗った偽名だ。
 彼は視線を逸らし「個人的な知り合いだ」と言うに留め、グリモアとの関係についてはそれ以上聞いてくれるなと言わんばかりにピシャリとシャットアウトした。
「グラン・グリモア。偉大なる星命学者だかなんだか知らんが……あの男は 世界で最も愚かな男だった」
「……その名前、コスモキャニオンでも聞いたことがある」
 アンタの口以外から、と聞けばヴィンセントは観念したようにふるふると首を横に振る。
「言っただろう、個人的な知り合いだ。……頼む、それ以上は聞いてくれるな。だが誓って、『コレ』のことは故意に隠していた訳ではない」
「……それは、信じるが」
「だがプラウド・クラッドが設計図通り……計画通りの出来であれば、あれにも弱点はある」
「そうなのか?」
 ケット・シーは神羅の最新・最終兵器だとか言っていたが。
 すると黒猫もプロジェクタの上で跳ね、ヴィンセントから白い紙を受け取った。兵器開発部門やら科学部門の関係するような内容はあまり詳しくはないが、ケット・シーはそれを睨みつけるように凝視し、ミッドガルで頭を抱えているであろう中年男の唸り声を喉から鳴らした。
「図体はデカいが……小回りはきかない。魔晄炉の小型化には成功しているようではあるが、それでも相当な重量だろう」
「……確かに。プロトタイプのプロトタイプ、ってとこですかね。もし実戦でも使えるような代物ならさっさと投入されてるはずですわ」
 背中に大きな大きな、『小さくなった』魔晄炉を背負っているマシンだなんて。そんなもとは今の今まで遭遇してこなかった。と言うことはあのプラウド・クラッドという兵器も発展途上ということになる。
「その通りだ」
「……なら決まりだな。走り回って翻弄して真っ二つにしてやる」
「…………お二方とも、そうは言いますけど」
 相手は鋼鉄のカタマリだ。
 全身から砲弾を放ち、レーザービームを振り回すような。それを生身で相手にすることのほうが自殺行為だ。超人的な肉体を持つクラウドやヴィンセントならまだしも、ティファやバレットは真の意味で生身の体しか持っていない。銃弾がたった一粒身体を貫くだけで命を落とす、脆い人間でしかない。
 確かにプラウド・クラッドのような巨体相手では利があるかもしれないが、それ以前の問題だ。
 しかしクラウドは涼しい顔をして平然と言い放つ。
「俺と、ヴィンセントと。あとはレッドとお前だ、ケット・シー。これで問題ないだろう?」
「同意する。バケモノには人間モドキたちをぶつけるのが一番だろう」
「ですよね」
 そう言うと思ってました、とケット・シーは頷いた。
「……とはいえアンタ、中身は忙しくないのか?」
「忙しいに決まってますよ。白いウェポンがもう海岸線まで迫ってるっていうのにミッドガルの避難はナシ、ガハハもキャハハも魔晄キャノンの試し打ちのことしか考えてないし社長はそれどころじゃないし……あぁもう、でもやりますよ、やりますってば。本当、猫の手も借りたいところですけどボクの体も連れて行ってください、是非、是非! この死なへん身体はこう言う時に使わなあきまへんからねぇ」
「……」
「……」
「……どないしました?」
「いや……」
「……統括も苦労しているな」
 次から次へとやってくるマシンガン・トークをクラウドとヴィンセントは口を半開きにしたまま右から左へと聞き流した。
 いやだって本当たまったもんやないですよ、今まで会議散々弾いとったくせにこういう時だけは呼びつけて魔晄炉の出力調整せぇって、あんまりに都合いい話やないですか? もしもボクに何かあった時のためにこっちは技術者必死で育ててきた言うのに、うちの技術は全員キャノン設置に借り出してまだ一人も返してくれへんのですよ。
 いやぁありえませんわ、今回ばっかはミッドガル守るためですし出力調整はやりますけどこれ以上あのアンポンタンどもの好きにはさせられませんよ、今に見てろ、この可愛らしいぬいぐるみでギャフンと言わせたりますわ、せやからクラウドさん、もしボクが忙しくてこの子の調整できてなくても絶対に連れていってくださいよ、そのまま起きなければ腰にでもぶらさげといてくださいよ絶対にですよ!
 等々、諸々。
 とりあえずプラウド・クラッドと相対しボコボコにしてやる時は何がなんでもケット・シーを連れていけと。そういうことらしい。
「ほんまは生身でどつきたいとこですよ、えぇほんまに」
「……死んでも知らんぞ」
「えぇ、えぇ。だからケットとあなたたちに頑張ってもらって、あの二人引きずり出してもろたところでボクが物陰からバキュン、といかせてもらいますわ。一番イイトコ、狙わせてもらいます」
 どこからどこまでが本気なのかは分からない。が、恐らくケット・シーの裏側でぐったりと疲れ切っている神羅の重役は本気だ。そのために作戦を組み立ててくれとまでは言わないであろうが、そのタイミングを伺っていることには間違いない。
「止めても無駄らしいな」
 だが頼むから気をつけてくれよ、というクラウドの声音は呆れながらも妙に優しい。
 じきにダイヤ・ウェポンはミッドガルへ上陸する。果たして魔晄キャノンが火を噴くほうが先か、それともプラウド・クラッドが出撃するのが先か。それともウェポンがミッドガルに興味を失ってくれるなんていう奇跡が起こるのか。
 どんな結果になろうが関係ない、やるべきことをやるだけだ。
 今クラウド達にできることといえば、神羅に華をもたせてやる結果となろうとも星の兵器がミッドガルに到達するまでを1秒でも先の未来にズラすこと、それだけだ。
「そりゃ、ボクは猫ですから。神羅の犬みたいに忠実じゃあありませんからね」
 忠猫なんて聞いたこともありませんから! とどこか誇らしげに黒猫の向こう側で神羅の都市開発部門統括はくたびれたスーツの胸を叩いた。



ト:とわへのふなじ(ヴィンセントとガスト)


『親愛なる息子へ』
 手紙はそういう文面で綴られ始めていた。
 ジュノンを出港した定期船に人影は少なく、いるとしても辛気臭い顔をした神羅の社員ばかりだ。半年ほど前、ウータイに攻撃を仕掛けた神羅は大敗を喫した。その噂を聞いた世界各地のレジスタンスらがこぞって勢力を増強させつつある。とはいえそれもまた、全て神羅の策略通りだ。
「(……プレジデントの捨て駒、か)」
 最初からプレジデント神羅はウータイを今回の攻勢で制圧する気はなかったのだ。
 警察課と調査課を投入したものの敗走した本社は遂に私設軍隊を組織することを決定した。どうせそれも攻撃前から水面下で進めていた計画なのであろうが、改めて思い知らされる。犠牲になった多くの警察課に所属していた若者たちは何も知らぬままだったのだ。その方がまだ幸せだったのやもしれない。
 神羅軍と銘打っていても中身は警察課の有能な連中や調査課の生き残りを引き抜くだけであろうが、どうやら上層部はそれだけではない『隠し球』も持っているとも噂を聞いた。
「ヴィンセント、こんなところにいたんですね」
「ガスト博士」
 このたびそんな『隠し球』に関する任務のため、ニブルヘイムという辺境の地へ派遣されることが決まったタークスの男をジュノンまで迎えに来てくれたのは若い科学者であった。
 ガスト・ファレミスというお人よしで生真面目な科学部門の主任研究者とヴィンセントは何年も前ににコスモ・ビレッジの学術塔で初めて顔を合わせている。お互いに星命学に興味を持ついち個人として出会った二人は夜な夜な酒を飲んでは星の巡り合わせを語り合い、古(いにしえ)のセトラ論というやつを話し合った。
 だが今は立場の違う、護衛する者と護衛される者だ。
「博士だなんて水臭いですよ」
「あの時は同窓生でしたが、今は護衛対象です。どうかお許しを」
「……あなたも真面目ですね」
「ガスト博士ほどではありませんよ」
 ヴィンセントはそこまで言うと、内ポケットに残っていた数本だけになった煙草と安物のライターを取り出した。護衛任務の終了時期は未定。こんなものを吸える環境でもないと聞く。片手に手紙を握りしめたまま、ライターをおおきく振りかぶって大海原へ投げ捨てると、真昼の強い日差しを受けてキラリと最後に輝きながら塩辛い海水へとライターやタバコのパッケージたちが吸い込まれていく。
 勿体無い、と心のこもっていないセリフをガストは吐いた。
「その手紙は?」
 そして彼はヴィンセントの手に残された紙切れを覗き込んだ。
「……ジュノンを発つ時に、前の主任から」
「ああ、あの女性ですね。調査課の主任でいらっしゃったんですか」
「元、です。私のさらに一つ前の」
 ウータイ出征の少し前に調査課主任となったヴィンセントは今や一般社員だ。社命に背いた上、多くの部下を失った彼は主任の席からたった三ヶ月も経たないうちに引き摺り下ろされてしまい、最終的に山奥の小さな村へと左遷されてしまうことが決まった。
 そんなヴィンセントの前に主任であった女もまた、以前命令違反を理由に本社を追い出され、未完成のジュノン支社へと送られてしまったのである。
「ラブ・レターですか?」
「まさか。父親の遺書です」
「! す、すみません。つい」
「いいんです。旅立つ前に女から渡された手紙であることには変わりはないのですから」
 そこで彼は縁(へり)に背を持たせてしゃがみこむと、紙切れが三枚綴りにされたそれを再び開いた。親愛なる息子へ。遺書である以上この星に父親だった男はもはや存在していないが、もしも彼がヴィンセントの目の前に立っていたら渾身の右ストレートを食らわせていたところだ。一体どの口が、どの手が、どれだけ楽観的な頭でこんな言葉を書くんだ、と。
 目を滑らせていけばいくほどぽっかりと空虚な心にふつふつと怒りが湧いてくる。
「……グリモア博士の噂は聞いていますよ」
「……最低の父親でした」
 グリモア・ヴァレンタインという科学者でもある星命学者の名前を知らぬ同業者はいない。
「科学者としては当然、星命学者としても 高名でしたよ」
「とは聞いています。ですが……私にとっては」
「良き科学者は得てして良き父親にはなれませんね。そのお気持ちは分かります」
「そういうことです」
 そんな父親が死んだのだ。
 仔細はこの手紙を寄越して来た女も知らないらしい。ともあれどうにかニブルヘイムへ出立する前に渡したかったのだと言ってこの遺書だけをくれたのだ。そもそも神羅製作所の所員ではなく雇われ科学者であったグリモアが一体どんな研究をしていたかすら、ヴィンセントは知らなかった。もしかすると教えてくれたやもしれないが興味がなさすぎて忘れてしまった。
 一応は事故、だそうだが。
 科学者でありながらどちらかといえば実験室ではなく外を歩くようなタイプであった。変人、奇人。周囲の科学者からもそんな言われ方をしていた父のことだ、どうせロクでもないものに手を出して死んだに違いない。ヴィンセントは乾いた声で少しだけ笑った。「あれだけ嫌っていたのに……手に取るように分かるんです、親父のことが」と。
「そりゃあ……だって、ヴィンセントは息子なんですから」
「一緒にいた時間の方が圧倒的に短いですけれどね」
「それでも血の繋がりは本人が思うよりも強いものです。……よかったではありませんか。最後にその手紙を受け取れて。ニブルでは恐らく外部との連絡も禁止されますからね」
「……壮大なプロジェクト、とは聞いています」
「ざっくりですね」
「……新たに人間を作るのだと」
「まぁ、えぇ。本当にざっくりと言えばですが」
 数年前に鬼才・ガストが発見した二千年前の地層に眠る化石は古代種であると断定された。それらを利用した人造人間(ホムンクルス)計画が進行しているのが山奥の寒村、ニブルヘイムであると言う。科学者ではないヴィンセントですら人間として生理的な嫌悪感を催すようなプロジェクトの主任がこのガストである。
 人が人を造るのか、それはもはや神の所業であると。
 神羅製作所の野望とガストや周囲の科学者が持つサイエンティストとしての欲望が合致した結果回り始めた恐るべきプロジェクトの歯車は誰にも止められない。既にウータイ侵攻での負傷兵が人体実験に利用されているだなんて噂すらあるのだ。
「任務は遂行します」
「信頼していますよ、ヴィンセント」
 あまりにも途方も突拍子もない計画である以上、警備体制は厳重に作り上げられた。調査課からはヴィンセント以外にも三名、警察課からも数名が派遣される。もっぱら彼らは全員かの侵攻で負傷した戦士たちであり、護衛任務と称してはいるがその実は分からない。いずれ用が済めば噂通りの道を辿るのかもしれないのだ。
 しかしそれをガスト本人に聞くことなど今のヴィンセントにはできず、再びグリモアが残した愛息子への手紙に視線を落とした。
「父は 私に謝りたかったのだと思います」
「謝る?」
「アイシクル産まれなんです、私は。魔物の大繁殖と冷夏のせいで周りの村もろとも住む場所を追いやられたのですが……グリモアはその頃既に世界中をうろついていたので」
「……ご家族は……」
「母もきょうだいもその時に死にました。私自身もミッドガルへ逃れたのですが……製作所に入るまで、父とは会えませんでした」
 あれは雨の日のことだった。
 地元の破落戸(ゴロツキ)どもと派手な銃撃戦を終えて案の定医務課へ運ばれた日のこと。ストレッチャーに乗せられてフロアの廊下を揺られていた時にヴィンセントは数年ぶりに父親だった男を見かけたのだ。それも神羅製作所その場所で、だ。いよいよ怪我やら熱やらで頭がおかしくなったのかと瞬きしてみてもすれ違った男の顔は紛うことなく父親であったのだが、その男は寝かされていたヴィンセントが自分の息子であることに気づかなかったのだ。
 後日科学部門を覗きに行って初めて父親にも存在を知られることとなったのだが、それをヴィンセントは「子供のワガママですが」と断ってから罵った。
「もう……亡くなったと思っていたのでしょう」
「えぇ。本人も言っていましたし……私があの男を嫌うのは全て私のワガママです。あの男は研究者として世界から認められている。だからこそあの日……故郷に魔物たちが押し寄せた日、あの男はいなかった。それが許せなかっただけです。誰に何を言われようとも心変わりはしませんよ」
「厳しいですね。ですがよほど、そんなことを言ってしまうほどまでにあなたはお父様のことが好きだったんですね」
「…………世界で一番。誰にも負けない、自慢の父でした」
 世界のありとあらゆる場所を巡り、星の姿を見知り、時折故郷に戻ってきてはたくさんのきらきらとした寝物語を聞かせてくれた優しい父親だった。家に不在がちなことによる寂しさなど一瞬で吹き飛ばしてくれるほど魅力的な語り部であった彼をヴィンセントは幼少期から心から愛し、尊敬し、それは大人になれば『彼のようになりたい』とすら思うほどであった。
 だからこそ父を憎みました、とヴィンセントは言う。
「素敵なお父様じゃないですか」
「えぇ、きっと」
「遺書まで用意している科学者なんて、このご時世ほとんどいませんからね」
「……それほど危険な場所ばかりに行っていたのでしょう」
 死んだ後に家族へと渡す手紙などを準備するのはウータイ出征に参加した警察課や調査課のメンバーくらいだ。
 ぺらり、と二枚目に紙をめくったところでヴィンセントは手を止めた。ざらざらした紙切れの最後には『父親・グリモアより』なんていうやはりこちらの神経を逆撫でしてくるような文言が書いてあったというのに、手紙自体は三枚ある。もう一枚はなんだったんだ?と紙質の違うそれをめくりとれば──
「設計図、ですか」
「……父が研究の片手間に手をつけていたモノです」
「おや……これは。神羅にも報告されていないのでしょうか? 私も見たことがありませんね」
 ジェノバ・プロジェクトで科学者たちは古代種を作り出そうとしているが、父グリモアはそれとは違う、古代兵器を復元しようとしていたらしい。「星の守護者だとか……あまり私も覚えていませんが。どんな建前であろうが中身はただの兵器です。それをあの男は壮大な夢のように語っていましたが……」コスモ・ビレッジで拳を振り上げて熱弁してみせた姿を思い出す。
 この世界にはまだ見ぬ星の意志が眠っているのだと。
 ほとんどの学者たちは見向きもしなかったがグリモアは構わず研究を続けた。恐らく三枚目として添付されていた紙切れはその名残、彼が生前最期に誰かに遺そうとした証なのだ。
「博士」
「はい?」
「……この手紙は 見なかったことにしていただけますか?」
「……えぇ、えぇ。私はなにも見ていませんしここのところ、見たものを直後に忘れてしまって困っているのですが……地面から距離的に離れた小型魔晄炉、とは。またまたロマンチックなものを」
 わざとらしいガストの物言いにヴィンセントは苦笑したが、こくりと頷いた。
「えぇ」
 科学者らしい突拍子も無い思いつきか、それとも星の守護者を人間が作り出すために必要な機構か。いずれにせよ神羅には流れていない情報であることは間違いない。
「確かにこれは……兵器開発に渡っては大変でしょうね」
「自らの手を汚さずに多くの命を奪う可能性があるのなら……それはきっと 悪行です」
「着眼点は流石グリモア博士ではありますが……人類にはまだ早そうな代物ですね」
 未熟なままの人類に渡してはいけない禁断の書類とでも言いたげにガストは笑った。そして彼は「それはあなたがグリモア博士から託されたものですから」と、ヴィンセントの提案を受け入れる。
「助かります。然るべき未来であれば……きっと 人の役に立つこともあったでしょう」
「技術よりも先に人の叡智が辿り着いてしまったということですか。いやはや、あなたは怒るでしょうが……グリモア博士には驚かされてばかりです」
「本当に。……死んでもまだまだ迷惑をかけ続けてくれるだなんて」
 そっちですか?
 ガストは笑い、ヴィンセントもつられて乾いた笑いをこぼす。
 この手紙は見なかったことにしよう、全て。父親の懺悔も、父親の後悔も、父親の遺志も。ニブルヘイムに到着したらストーブにでも焚べて地上から消してしまえばいい。父親との最後の繋がりだなんて知ったことではない、あんな男のことは知らない。
 それでも。
 先ほど投げ捨てたライターやタバコのようにゴミとして海に捨ててしまいたくはなかった。
 この目でこの縁(えにし)が燃え尽きる姿を見続けなければならなかった。ヴィンセントは徐々に近づいてくる対岸の姿を目に入れながら、既に手の中でぐしゃぐしゃに丸められた手紙をより一層強く握りしめた。



リ:りんかいてんをこえて(ヴィンセントと仲間たち)


「捨ててしまえばよかった」
 ざぁざぁと雨音は続く。
 プラウド・クラッドの大爆発と共に突如として降り出した雨は煙の合間を通って地面に叩きつけられていく。ミッドガルの汚れた空気と黒煙をたっぷり含んだ天からの恵みは清浄なものとはとても言えず、ヴィンセントはレッドの頭上に赤いマントを差し出してそれが降りかかることのないようかがみこみ、獣の身体ごと抱き寄せた。
「結局あの紙切れ、何だったの?」
「『遺言書』だ」
「ゆいごんしょ?」
 ジュノンでレノから渡されたというアタッシュケース。その中身は古い型の制服とお気に入りにしていたリボルバー。たくさんのヴィンセントが『人間』であった頃の残滓たちと、それからたくさんの手紙。その中で何度もぐしゃぐしゃに丸めて振りかぶってはそれができずにいた、皺だらけの綺麗に折りたたまれた紙切れたち。
「……捨てられなかった。燃やそうとしていたのに……これが 父とを繋ぐ最期のものだったから」
「……」
「あの男を父親とは認めたくはなかった。……それでも 燃やせなかった」
「……仕方ないさ。アンタが手紙、受け取った時点で神羅にも漏れてたんじゃないのか?」
 クラウドは腕を組んで仲間に珍しい一面に目を丸くしながらも息を吐いた。
 待ち合わせ場所は八番街。一足先に到着したクラウドたちは待ち構えていたプラウド・クラッドをコテンパンに叩きのめしたはいいものの、それでもシドとユフィの姿が見えない。「ケットをつけてあげればよかったですなぁ」とリーブは泥だらけのスーツで腕の中に抱いた黒猫を撫でた。ミッドガルに明るくない人間には螺旋トンネルを通って来いだの全ての景色が同じ八つの区画から八番街に来いというのは酷だったようだ。
 目的地の魔晄キャノンまですぐそこだ。
 幸いタークスどもの妨害やソルジャーたちの強襲も最小限に抑えられたおかげでまだ時間の猶予はある。
「確かに検閲はあった。だが……せめて 遺書くらいはと 主任が個人的に手を回してくれた」
「ならアンタのせいじゃない」
「……だとしてもクラウド、お前が私の立場なら納得できるか?」
「無理だな」
 そうだろう。
 ヴィンセントは喉の奥でくつくつと笑ってみせた。
 仲間に告げるは易い。だが一度(ひとたび)それが当事者となれば話は別のこと。
「どうしてこんな年になっても父親に振り回されなければならんのか……厄介な話だ」
 なぁ? と彼は腕の下で伏せているレッドに声をかけたが、相手を間違えている。彼は逆に、今の今まで蔑んできた父親がいかに偉大かを思い知った息子の側なのだから。
「でも、ヴィンセントのお父さんはすごい科学者だったんでしょ?」
「……」
 いつかその偉大さを思い知る日が来る? 実は家族想いで全ての行動は息子のためだった? そんな奇跡が万に一つあったとしても、もうあの男はいない。歩み寄りたいとも思わない。ヴィンセントは赤い毛並みをガシガシと撫でてからしっとりとした鼻の頭をつついた
「わ」
「セトのような父親が羨ましいな」
「……フクザツだね」
「いいや単純だ。あの男と分かり合いたいとも思わない、未来永劫。だが父親は父親、切りたくとも切れない縁。厄介だが……『人間』の感情としては別段おかしくはない」
 ただ、それを思い描くヴィンセントという者が『人間』からはもはやかけ離れてきているだけで。
 ヴィンセントは乱雑にポケットに突っ込んでいた手紙をガントレットの爪先で器用に引きずり出した。
「オイラにはややこしく聞こえるよ」
「……そうか」
「うん」
 こんな紙切れ一枚捨てられなかったことが自分のもとに戻って来るとは思いもしなかった。
 それも、『父親を大切にしておけばよかった』というのではなく、『父親を完全に見限っておけばよかった』という意味で。ヴィンセントはその紙を右手に持ち替え、レッドの鼻先に差し出して「こんな一枚きりで」と自嘲した。
 そして目の前で指先に魔力を込め、しとしと降り注ぐ雨の中で最早湿った紙くずと成り果てたグリモア・ヴァレンタインの偉業は息子の手の内で赤い炎に包まれ始める。ジリジリとそれでも尚燃やすのを拒もうとするかのように。
「最初から……こうすればよかった」
「ヴィンセント……」
 ジュノンの海に投げ捨てて入ればよかった、ニブルヘイムの暖炉に焚(く)べてしまえばよかった。
 どうせ別の形でプラウド・クラッドの情報は神羅側に流れていたやもしれないが、重要なのは『そこ』ではない。あれほど忌避していた父親との最後の繋がりを捨てられないまま、世界を襲う悪夢に立ち向かおうなどとしていた己の未練がましさに辟易しているだけだ。
 人間をやめたなどと謳いながら、こうして火傷の痛みすらもう感じることのない指先の中で灰となっていいく父親の遺した最後の手紙を眺めるこの心に生まれるは、まさに人間がもつ郷愁の念。
「人は……何度も後悔しては、やり直そうとする生き物です。……そしてまた過ちを繰り返す」
 それまで黙りこくっていたリーブがようやく口を開く。「だからまた、やり直せばいいだけなんですよ」と言い、彼は立ち上がる。
「行っちゃうの?」
「えぇ。他の皆さんにもご挨拶したいとこですけど、ボクにはボクでやらなあかんこともあるみたいなので」
「……気をつけろよ。神羅のマトモな統括はもうアンタしかいないんだ」
 ハイデッカーとスカーレットは今まさにガラクタと共に爆死したところだ。
「クラウドさんたちもお気をつけて。ほんま、ありがとうございました。こんな時にボクのワガママ、聞いてくださって」
 この手であいつらをぶちのめしたい。
 リーブの有り余る激烈な願いを叶えるため確かにクラウドたちは一番の近道を選ぶことなく回り道をしながらここに来た訳ではあるが、効率が全てではない。今まで黒猫のぬいぐるみというモノを通していようとも共に旅をしてきた仲間の私怨くらい付き合わなくてはなにが仲間だ。
「あんなのワガママには入らないさ。……落ち着いたらまた、ユフィたちにも会ってくれ」
 聞いたこともない中年男の罵声と共にのこのこコクピットから這い出してきた元・同僚たちを撃ち殺した男は笑顔で頷いた。
「えぇ、当然。ではボクはこれで。またケット・シー越しにですけど、よろしくお願いいたします」
「じゃあねリーブ。オイラ、会えてよかったよ」
「えぇ。それではこれで。……そろそろ迎えが来ますので」
「…………迎え?」
 嫌な予感だ。
 非常にざっくりとした、しかしとてつもなく分かりやすいソレが帰来する。
「ちーっす」
 そしてそれは見事に的中する。
「おやレノくん。ちょうどいいタイミングで」
 数刻前に螺旋トンネルで追い返して散り散りとなったはずの赤毛のタークスが一人、バイクに乗ってクラウドたちの目の前に現れたのだから。
「そりゃあ、オレたちの『新しいボス』のお迎えですし?」
 あの二人が死ねば。
 アレが死ねば、君たちはボクの傘下に入ってくれますか。
 螺旋トンネルでの言葉が蘇る。そして直後、クラウドは理解した。同時にやられたという敗北感が襲いかかる。
「リーブ。まさかアンタ、このために……?」
「そりゃあ、自分は後ろでコソコソ糸引いてるだけじゃあ誰も信じてはくれませんからね」
「おいおいクラウドよぉ、何を勘違いしたかぁ知らないが、リーブさんは腐っても神羅の統括だぜ? そんな感情論だけで動くかっての」
 社長・ルーファウスは斃れた。そしてタークスを率いていた治安維持部門統括のハイデッカーは死亡し、更に兵器開発部門のスカーレットもいなくなった。ならば消去法で次に彼らの手綱を握るのはミッドガルにいない宇宙開発のパルマーではなく、都市開発部門統括たるリーブその人だ。
 しかしケット・シーを動かしてクラウドと共に彼らを倒したとしてもタークスの信頼は勝ち取れない。
 彼はそれをも分かっていて燃え上がるミッドガルの中ここまでやってきた。調査課という、ミッドガルのスラムからプレート街、地下下水道まで全てを知り尽くした優秀な駒(ピース)を確実に手に入れるための手段をとったまでのこと。
「……やられた」
「そんな顔しんといてくださいよクラウドさん。私怨があったのも確かです」
 リーブはそう言いながらも先ほどまでの切羽詰まった表情ではなく、どこかイタズラっぽい笑みを浮かべてエンジンをふかして待機するバイクの後部に跨った。
 確かに彼とはここまで旅の苦楽を分かち合ってきた。時に神羅の強(したた)かさや狡猾とも見える手回しに翻弄されながらも、道は違えども同じ方向を見ていた。そしてこの先も恐らく、クラウドたちとは同じ未来を描こうとしているということも間違いない。
 だが。
「私怨はあくまでおまけか」
「諦めろ、クラウド。ソイツはそういう奴だ」
「ヴィンセントまで」
「神羅の統括だぞ」
 すっかり燃え尽きて灰となった手紙の残骸は雨に溶けて消えていく。
 気づけばそこには初めから何もなかったかのように、薄汚れた黒いシミが残るのみ。目と鼻の先で仲間の『父親との最期の絆』が消し炭となっていく様を眺めていたレッドは困ったような顔をしていたが、「確かに、神羅の偉い人だしね」と息を吐いて同意した。
 計算高い神羅の重役が同僚への復讐心がためにこんな危険な場所までやってくるとも思えない。そんな感情的な性格ならとっくにあんな会社では潰されていたであろうし、今にして思えばリーブという男は兎にも角にもあの手この手でクラウドたちの先回りをしてきた人物だ。純粋な感情だけで突っ走るだけでは統括など務まりはしない。
「……俺たちはどうやらとんでもない仲間と一緒だったみたいだな」
「いやぁ、そんな買いかぶりすぎですよ」
「いやいやリーブ統括に逆らったら家の電気止められちまいますからね」
「流石に独身寮の部屋をピンポイントで停電はさせられませんって」
 やるならミッドガル全体です。
 なんていう言葉を吐く髭面の男は飄々としてはいるが底の知れない男だ。
 クラウドはため息とともに首を横に振り、
「さっさと連れていってくれ」
 とレノにうんざりした声を投げかけた。
「へいへい。ほんじゃ行きますよニュー・ボスさんよ。しっかり捕まってて下さいよ、と」
「はい勿論。バイクの恐ろしさはつい先ほど身にしみて学んで来ましたので……」
「そりゃあよかった。安心してくれ、オレの運転はそのへんにいるどこかの先輩殿よりも安全・安心無事故無違反ですよ、と」
 そ・こ・と・ち・がっ・て!
 わざとらしいレノの物言いにヴィンセントは肩をすくめてみせた。レノの襲来によってその場は一気にやかましくはなったが、本当に急いでいるらしくリーブはケット・シーをクラウドのほうに投げて寄越すとバイクに跨ったまま一礼する。
 それではまたいつか、と。
 彼にはまだまだこのミッドガルでやるべきことがある。住人の避難場所選定から、メテオの落下時間の正確な予測。物音に驚いて逃げてしまったペット探しに腑抜けた社員の尻に火をつける。それから、それからと。山積みの仕事が彼を待っているのだ。
「……どしたのヴィンセント」
 そんな戦うサラリーマンたちの背中が徐々に小さくなっていく中、ヴィンセントはひときわ大きなため息を吐いた。
「いや……バカらしく思えてきてな」
「え?」
「…………これだけ賑やかな仲間がいれば、私の後悔など無駄だったのだと」
 それは先ほど指先の中で燃え尽きた父親の残滓のような。
 あの紙切れの内容がどのような経緯でいつ神羅の元へ届いてしまったのかだとか、さっさと燃やして己の罪悪感を消せばよかったという浅はかな感情への嫌悪感だとか、いくつになってもどころか人間をやめても父親に振り回されることへの拒絶感だとか。
 そういったちっぽけな『人間みたいな』感情は彼らの前ではとてつもなく些細な要素でしかない。
 そんなことより大事なのはバイクの乗り心地とか、まだもや仲間にうまく乗せられて誘導されてしまったとか、そういったこと。
「無駄、じゃないよ。きっと」
「どうだかな」
 彼らとくだらない話をしたり、時に──ヴィンセント自身は話に加わろうとはしないが──未来の話をしたり。過ぎ去った日々のことではなく、これからやってくる新しい朝日の出来事を話している時に、『それ』は強く感じられる。あの仲間たちに満たされた空気の中ではグリモアのことなどは当然、ルクレツィアのことも、宝条のことすらも頭から消えて行く。
 それはとてつもなく恐ろしいことで、幸福なぬるま湯の幻想に引き入れようとする悪魔の囁きだと決めつけていたが、最早その考えすらも吹き飛ばすほどその『悪魔の囁き』は甘めかしい。
「だって話してくれたから、オイラたちヴィンセントの……仲間のこと、知れたんだし」
 そんなヴィンセントの『余計な』考え事など知らず、レッドはあくびをこぼしながら零した。
 実は父親と折り合いが悪かったこととか、その父親は世界的にも高名な星命学者だったとか……彼がまだタークスだった頃はどんな立ち居振る舞いをしていたのかとか。
 謎に包まれ、疑いの目を向けても決して弁明しようとはしない。けれども真意を明かすこともない。そんな霧がかった姿だったはずの仲間はとてつもなく人間臭くて、他の仲間と大して変わらない悩みを抱えていたことが明らかになった。それだけのことだ。
「知ったところで大して変わらんだろう」
「そう? 印象変わったよ、ちょっと」
「ほう」
「……案外子供っぽいってとことか」
「……ほう?」
「お父さんに反抗するの、いい加減やめなとか……」
「……」
「話は深刻かもしれないが、アンタのそれはただの反抗期だろう」
「お前には言われたくない」
「俺は反抗期なんてなかった。……ちょっと村の連中と喧嘩ばっかりして母さんを困らせたりはしたけど……」
 それを反抗期と言うんだ、とヴィンセントとレッドは声を揃えた。
 馬鹿馬鹿しい、どうしようもない言葉の数々の波にヴィンセントが抱いていた鬱屈とした感情は押し流されていく。それも驚いたことに、不快という言葉とは無縁なままに。寄せては遠ざかる波間のように仲間たちの言葉が砂浜に描かれた後悔を何度だってさらっていくのだ。
「フ……」
「なんだよヴィンセント。アンタまで笑うのか」
「いや……いや、そうだな。お前のほうがマシな反抗期だったかもな。親相手には反抗しなかったというのなら」
 父グリモアが死ぬまでに交わした会話など大した数ではないが、どれを思い返しても邪険に扱った記憶しかない。確かにクラウドの言う通り、ちっぽけな反抗期でしかなかったもやもしれない。
 降り注いでいた雨が止んでいくと同時に、橋の向こう側から大声あげたバレットたちがガニ股で走ってやってくる。波は、去った。
 それでもきっとまた波は来るのだろう。
 ヴィンセントは行こう、と小さく呟き立ち上がる。突貫で組み上げられた足場の先に待つであろう、最悪の悪夢へ立ち向かうために。



ウ:うつくしきもの(ヴィンセントとグリモア)


「ミッドガルも随分と変わったね」
 どこも工事、工事、工事。
 魔晄炉にプレート支柱に神羅本社ビル。あれやこれやと林立する足場はもう数えることすら不可能なほど。
「……」
「近くに行きつけのいい店があるんだ。昼食はそこでどうだい?」
「断る」
「じゃあ……」
「昼飯は食べない。この後に仕事で会食がある」
 そう言うヴィンセントはしかし、仕事用のスーツではなく簡素な私服を身にまとったまま。グリモアは寂しそうに目を細めた。
 最後に故郷で会話をしたのは遠い昔のこと。ヴィンセントはまだまだ背も低く、年齢にしては落ち着いていて外で体を動かすことよりも家で図鑑を眺めている時間のほうが長いような子供だった。それでも長兄たちに誘われて猟銃を担いて山に行くこともあれば、長姉に誘われて刺繍をすることもあった。末妹を連れて畑に行くことも。
 絵に描いたような『いい子』だった彼はしばらく見ないうちにぐんと身長も伸び、親のひいき目を抜いても『ハンサム』に成長した。
「……ヴィンセント、いつもはどういう店に行くんだい?」
「……外で食べること、殆どない」
「そ そうか」
 話が続かないのではなく、ヴィンセントが意図的に続けようとしていないだけ。
 八番街という区画分けされた北側のエリアには劇場や商業施設といったものが多く建設される予定らしい。頭上をせわしなく動き続ける鉄骨の塊が横切って行く。そこの曲がり角にある小劇場にはこの間後輩と行って『LOVELESS』を観た、さっき通り過ぎた右手側にあったアイシクル料理の店は最悪だった、あんなのアイシクルの味じゃない。製作所の食堂よりも社員寮の向かいにある定食屋の方が安くておいしい。
 とか、色々。
 本当は話したいことはたくさんあった。
「親父、用がないなら……」
「……ヴィンセント」
「言っただろ、もう来ないでくれって」
 グリモア・ヴァレンタインという学者は神羅製作所から資金提供を受け活動しているフリーランスだ。
 そのため製作所の職員ではないが、受付で名乗れば確認なしに入って来れてしまう。そして総務部は誰にでも開かれた場所。落し物から迷子案内、それから暗殺のお仕事まで。ありとあらゆる仕事を引き受ける部署となれば、グリモア・ヴァレンタインの来訪を拒んだりはしない。
 そして、こうなる。
「ヴィンセント、もう会社には行かないから……」
「じゃあ外で待ち構えるのもやめてくれ」
 ただでさえ仕事場に父親が用もなくやってくるというシチュエーションは好まれた状況ではない上に、それが散々忌避してきた相手となればまた一段面倒な事態となる。課に来るなと言えど会社には来る、会社に来るなと言えば外で待つ。昼休みの時間ごろになると所の入り口で一人ぽつんと息子が出て来るのを待つ父親の姿は課で噂となり、行ってあげなと外野は無責任に声を投げつける。
 けれどこうして二人肩を並べて街を歩いたところで意味のある会話はない。
「ヴィンセント」
「親父」
 それでもまだ食い下がろうとする父親に息子は言い放つ。「迷惑なんだ」と。
「……」
「アンタの自己満足に巻き込まないでくれ、こんなことしてる時間があるならどこへでも行って『研究』だの『調査』だのしてろよ」
「……ヴィンセント、僕は」
「高名なグリモア博士なんだろう? 息子なんかよりも優先することがあるはずだ」
「そんなことは」
「いいから 行けよ」
 もう、早く。
 ヴィンセントは言い放った。
 議論の余地はない。アイシクルの寒村に住んでいた頃からこの男はそうだ。家族との暖かな団欒よりも、自身が持つ星への興味を選んだ。世界中を旅して回り、誕生日には帰るよという約束なんて一度も守ってくれたことはない。時折、本当に突然帰ってくることはあったが、それは全て彼の自分勝手。
 家族のことなんて考えてもいない、自分のことしか考えていない。そんな男を父親だなんて認めたくはなかった。
「ヴィンセント」
「……」
 美しき家族の絆なんて存在しない。
 離れ離れとなっていた父子が再会したところでかつてと同じような関係を続けられるはずはない。一度壊れた絆はひっくり返ったスープ皿と同じ。汚れた床一面に広がってしまってはもう二度と戻らない。口には運べない。
 帰ってくれ。
 ヴィンセントはもう一度だけそう言い放つと、呆気にとられ立ち尽くす父親を一人道端に残し雑踏へと消えていく。
 もう知らない、もう絶対知らない。何があろうともう二度と会うものか。
 どこか悔しそうに人並みを突っ切るタークスの男は歯を食いしばり、自分と似たような顔をして背中を見つめているであろう男の方を振り返らないよう必死に舗装されていない道を突き進んだ。



ム:むげんのせんたくし


 燃やしてしまえ。
 灰燼に帰せば全て 終わる。
 何一つとして残らぬほどの業火で灼きあの日できなかったことを今日この日、成し遂げる。
 君との思い出も全て、あの日宝条に撃ち殺された『人間』が歩いてきた道の全て、この屋敷に残るもの全てを焼き尽くせばきっと 辿り着ける。
 ヴィンセントは大きく息を吐いて、うず高く積まれた書類の山に向かって手を伸ばした。
「こんなところにいたんだ」
 ゆっくりと指先に魔力を籠めたところで背後から投げかけられたのは少しばかりの怒気が含まれた女のそれ。
「……何しに来た」
「マテリア探しに決まってるじゃん。アタシ、マテリアハンターだよ」
「なら帰るといい。ここにマテリアはないぞ」
「…………そのつもりだったけど。アタシがここで帰ったらアンタ、放火犯になっちゃうでしょ」
 その指に灯る青い炎はなんのため?
 ユフィは腕を組み、薄暗い地下室の紙が散乱した床に立つ男を睨みつけた。
「こんな屋敷は全て燃やした方が世界のためだ」
 誰も知らないだけで研究室を探せば恐らくたくさんの明らかにされていない『秘密』が出て来るに違いない。宝条が、ガストが、そしてルクレツィアたち神羅の研究者が社に残すことのなかった数々の研究データが眠っていることだろう。
 そんなものは 全て滅んでしまえばいい。
 見ず知らずに誰かがここに来て『それ』を知ってしまったら? そのために発狂してしまったら? 再び第2・第3のセフィロスが生み出されてしまったら?
 そうならない保証はどこにもない。ならば先手を打って全て焼き払ってしまえばいい。そう告げたヴィンセントにしかし、ユフィは眦をつり上げる。そして彼の指先をぎゅうと握りしめ、一瞬の熱さに次いで魔力が急速に手の中で萎んでいくのを感じ取る。
「やめなよ」
「……」
 痛みはない。
「アンタの言いたいことも分かるけどサ。……でも ここ、大事な思い出だってあったんでしょ?」
 メテオ災害を乗り越えたあともしょっちゅう来てはビーストの機嫌をとるためと称し地下の魔物と世間話をし、地上階に隠れ住むコウモリたちの世話をし、温室のアネモネを狂い咲かせるファニーフェイスたちを可愛がった。
 それらも全て燃やしてしまうというのだ、この男は。
「その思い出とやらが……苦痛でしかなかったとすれば?」
「だとしても、考え方が極端だっつーの」
 建物ごと燃やしてしまうだなんてテロリストもビックリだ。本人はそういった思考回路を人間離れしてしまった所為だのなんだの言いがちではあるが、ユフィは知っている。長いようで短い旅を通して、このヴィンセント・ヴァレンタインという人物生来の性格として、かなりの面倒臭がり屋で溜め込みすぎると爆発するタイプ。真顔で平然とトンデモナイことを言いだすタイプであるということを。
 そう、ティファとちょっと似ている。我慢しすぎである日突然暴れるタイプ。
 ユフィはホコリかぶった机に指を沿わせた。
 視界の片隅では突然現れた人間の来訪者に驚いて怯えるファニーフェイスの影。「ヴィンセントだってさ、ここを燃やして全部消しちゃえば……本当に過去が全部消えるだなんて 思ってないでしょ」と言えば、彼は困った子供のような表情で小さく頷く。
「そんなもので消えるなら誰も苦労はしない」
 この星からありとあらゆるモノが燃えてなくなってしまっていないのが何よりの証拠。
 なにを燃やし尽くそうが、なにを破壊し尽くしそうが、起きてしまった過去の出来事をなかったことになどできやしないのだ。かつて抱いた感情の在り処も、かつて抱いた罪の意識も、かつて抱いた救済への渇望も全てヴィンセントの記憶の中に縫い付けられ、彼がやがて遠い未来に本当の死を迎えるその時まで消えることはない。
「分かってんじゃん」
「……だが」
「だが、もでももしかしもナシ!」
 彼の言おうとしていること、胸に抱くことが一切理解できないユフィでもない。彼女はヴィンセントの全てを知ってはおらず、彼もまた全てを知ってほしい、誰かに理解してほしいなどとは思っていない。しかし『星を救う旅』だなんてものを共にして来たこの偏屈男の性格はそれなりによく分かっていた。
 古代種のこと、ジェノバのこと、セフィロスのこと、神羅のこと。
 今この時代、クラウドたちがセフィロスを追い回していた時に散々な目に遭ったものの数々はヴィンセントがまだ人間として呼吸をしていた頃からずるずる引きずられて来たものが多く、それらの少なくはない事案が彼が関わってきたものであった。
「ユフィ」
「反省とか後悔とかそういうの、するのは結構だけど。いくら煮詰まり過ぎたからってこれはちょっとエヌジーじゃないの」
「……」
 あれもこれも、どれもそれも。
 かつてあぁしていればこんなことにはならなかった。
 あの時こうしていればあんなことにはならなかった。
 そういった今更言っても仕方のないこと──それはヴィンセント自身が最も理解しているが──を溜め込みすぎたが故の行動だ。確かに、全てを焼き払ってしまえばこれから先起こりうるかもしれない悲劇を止めることができるかもしれない。だが、その代償としては些(いささ)か大きすぎる。
「思い出のカンオケ? とかも燃やしちゃったらもったいないじゃん」
「……別に思い入れは……」
「…………全部嫌になって……また逃げ出したくなった時、カンオケないと不便でしょ」
 かつてそうしたように、また悪夢に逃げ込もうとしたら。
「……意外だな」
「へ?」
 するとヴィンセントはその言葉で力が抜けてしまったのか、ホコリだらけの床板に腰を下ろした。
「お前のことだ、もう逃げるなと言うのとばかり」
「……そりゃあ……まぁ、逃げるなとは 思うケド。でも 逃げ場所を自分から壊す必要なんてないよ、きっと」
「逃避を許すのか」
「そういう難しい話じゃねえっての」
 彼女もまたヴィンセントの隣に腰を下ろし、行儀悪く胡坐をかく。「お気に入りの寝床燃やすなんて勿体無いっしょ、てだけ」と言えば、
「お前の話は分からんな」
 とヴィンセントは小さく笑う。
「アタシもアンタの小難しいはサッパリだよ」
「……そうか?」
「うん」
「…………面倒になったから全て焼いてしまおうと思った」
「……」
「何を消すべきかもう分からんからな、屋敷ごと燃やすのが一番近道だと思った」
「…………そういうのを極端だって言うんだっつーの……」
 とはいえ。
 この男は旅を経て、旅を終え、一度別れて再び出会う頃には初対面からは想像もつかぬほどに随分と丸くなった。ユフィが分からないと言えば分かりやすく言い直し、主張を否定されても押し黙ることなく歩み寄りの姿勢(だけ)は見せてくれる。
 今もこうして落ち着いて話を聞いてみれば、事の発端は小さな出来事でしかないことが分かる。それがたくさん、床の埃のように降り積もってしまっただけの話。
「……」
「黙っちゃってサ」
「……どうすべきかを考えていただけだ」
「どうするって」
「お前の言う通り私の取ろうとした手段が極端だと言うのなら……代替案でも考えようとしたんだが」
「へぇ。じゃあ放火犯になるのはやめた?」
「やめだ。万が一村にでも飛び火したらリーブに何を言われるか分からん」
 そうやって他人のせいにしてまで自分を納得させて。
 しかしユフィは笑いながらも「そーだねぇ」と静かに呟いた。
「いいこと教えてあげる。アタシ、しばらく暇なんだよね。どっかの広いお屋敷掃除とかできちゃうくらいにさ」
 例えば、機密文書がいっぱい残ってるかもしれない管理人のいないお屋敷掃除とか、不用品の選別とか。ユフィは腕をいっぱいに広げる。
「ほう?」
「で、アタシは元・神羅でも現・神羅でもないし、そういう奴らとはなぁんの接点もないんだよね」
「そうだな」
「親父とはまた喧嘩して家出中だし、アタシは何を見たってキョーミなし。そんなことよりこういう古い屋敷なら、誰も知らない貴重なマテリアがあるかも、って方がキョーミありまくり」
 指を折りながらユフィはそれから、それからと声を上げていく。シュヒギムは守ります、ただし報酬のマテリア次第。残業も受け付けます、報酬のマテリア次第で。衣食住に関しては宿屋があるので心配ご無用ですが、宿泊・飲食代は雇い主負担でお願いいたします。
「随分と高い傭兵だな」
「女の子がひとり旅で生活するのも大変なんだよねぇ。……で、どうする? どうしちゃう?」
 このままうんうんと頭をひねらせるだけか、それともユフィの手を借りて何かしらの解決案を見出すか。どっちがイイ? と顔を近づけて来る少女にヴィンセントは大きな大きな息を吐く。この様子ではヴィンセントは選択できる立場にはなさそうである。
 だが彼女の言う通りこのままあぁでもないこうでもないと頭を抱えているだけというのも時間の無駄であり。
「この屋敷は広いぞ。部屋も膨大にある」
「その辺は全てコミコミ価格ですので、と。……片付けてたらさ、もしかしたら……『イイ思い出』だって出て来るかもしれないでしょ。全部が全部悪夢だった訳じゃないんでしょ?」
「……」
 忘れていた大切な記憶とか、思い出さないよう自ら封印した幸せなひとときとか。
 ユフィはヴィンセントの手を取り立ち上がる。
「今回は親友価格でのご提供! 『ぜんたいか』のマスターマテリア、3つで手を打ってあげようじゃないの!」
 逆にぼったくりか?
 ヴィンセントは大きく息を吐きながらも、大掃除、やってやるぞー! と息まき始めたマテリアハンターの後ろ姿に少しだけ笑みを浮かべる。
「無駄……か」
「へ?」
「いいや。……やはりお前たちといると、私の悩みなど取るに足らないほどだったようだ」
 あれやこれや考えたって全部無駄。
 やっとのことで決めたことだって嵐のように、台風のようにやってきた仲間によって全部蹴散らされる。そして『いつものこと』ながら、図々しくもある仲間に、彼女に救われる。選択肢は消すのではなく増やせばいい、大事な思い出と共に未来の脅威を消してしまうよりは、未来の脅威に共に立ち向かえばいい。
 言質はとったようなものだ、ヴィンセントはどこか吹っ切れたように物陰のファニーフェイスを引っ張り出して大掃除に参加させようとするユフィの頭を小突いて微笑んだ。


inserted by FC2 system