モンスターズ・イン・ザ・クレイドル




 目覚めはいつだって緩慢だ。
 おおよそ悪夢としか言いようのない、漠然とした泥沼の中からゆるゆると引き上げられる感覚はまだ人間だった頃に惰眠を貪る休日の朝にも味わったことがある、ような。激しい頭痛と喉の渇きに魘されながら金縛りに封じ込められた瞼を無理やりあげようとすればそれは痛みを伴い、けれどこのまま無理にでも目をこじ開ければそこに広がっているのは『いつもの』光景かもしれない、だなんて甘い期待を抱いてしまう。
 会社の独身寮の天井は薄汚れていて、しょっちゅう入り浸りにくる同僚たちが室内で喫煙するせいで黄ばんでいたような気もする。ああ、後輩が買ってきてくれてた冷蔵庫に入れたままのケーキはとうに腐ってしまっているだろう。卵だってどうなっているか分からない、鍋に入れっぱなしだったカレーはどうなった? とか。
 たくさんのことが頭の中を走っていく。
 身体じゅうをくまなく駆け巡る八つ裂きにされるような痛みだって金縛りのせいに違いない。嫌な夢を見ていた、のだから。
「(夢ではなかった)」
 そう、頭では分かっている。
 あの燃え上がる火の海は、あの高らかに笑い声をあげるかつての赤子は、あの悲嘆に暮れる村人たちは決して幻覚ではなかった。逃げ込んだ先の死の夢に微睡んでいるだけのヴィンセントが作り出した都合のいいまぼろしなんかじゃなく、きっと。
「起きてよヴィー。お寝坊さん」
「……」
「ヴィー。僕らもうとっくに起きてるのに」
「…………イン、 ヤン」
「そう、僕らはイン」
「僕らはヤン」
 棺桶の中で沈み込んでいたヴィンセントを覗き込んでいたのは二人の青年たちである。
 起きて、起きてヴィンセント。彼らは輪唱した。
 白銀(しろがね)の髪色をした可愛らしい双子たち。懐かしい群青のスーツをまとった二人はそれぞれ『区別がつかない凡人ども』のためにありがたくも色違いの髪飾りをして、左右対称に色違いのピアスをして、同じ笑顔を浮かべていた。
「……なぜ」
「どうしてかな、でも 今は分かる」
「ヴィーのこと、自分たちのこと、世界のこと」
 二人の姿を最期に見たのはいつのことだろうか。すっかり変わり果てた姿を魔晄ポッドの外側から見た、あの時? まだヴィンセントが人間の形をしていて、人間一人ぶんだけの命を持っていて、可哀想に、なんて傲慢な感情を抱いたあの時。
 彼らの身体は髪の毛のように美しい銀灰色ではなく、全ての血が抜かれてしまった真っ白な魔物のそれとなり、一つの胴体に二人ぶんの頭部が生えたモンスターとなっていたはずだ。それが何故か今、『生前』そうであったような可愛らしく人懐こい笑顔で棺桶を二人別々のからだで覗き込んでいるではないか。
 ああ、やっぱりこれは悪い夢。
「眠らせてくれ」
 更に深い深い悲しみの奥底で。こんな中途半端な希望を抱かせるような夢ならば見ない方がマシだ。
「だぁめ。もう、たくさん逃げ回ったでしょ ヴィー」
「逃げて逃げて、逃げて、どうなった? もっと後悔したでしょ ヴィー。僕らは知ってるよ」
 目を閉じて耳を塞いで何も知らないフリをしたって、世界は無慈悲に動いて行く。
 一度投げられた賽は目が決まるまで転がり続け、ミルクが溢れ始めた盆は空っぽになるまで止まらない。矢のように放たれた世界の光陰を止めることはできないのだ。傍観者であろうとしたって全ては流れて行くのだから。
「けれど 何をしたところでもう手遅れだ」
 どれほど後悔したところで起きてしまったものは変えられない。
「そうかもしれない」
「そうだと思うよ」
 双子は笑いながら、しかし有無を言わさずヴィンセントの手を取り弛緩した彼の上体を無理やり持ち上げた。おいでよ、おいでよと親を誘う子供のように彼らは赤マントの男を死臭に満ちた棺桶の中から引き上げる。
「ならば意味などないだろう、今更……」
「そう、今更だから。意味なんてなくてもいい」
「今更だけど、意味は探すものだからね」
「……」
「さぁ起きて、ヴィンセント」
「君にはまだ体も 心も魂も 全てが残っている」
「イン、ヤン……」
「「そう、僕らとは違う」」
「!」
 途端、二人の影はそこらに散り消えていく。
 異国風の整った顔立ちはもうそこにはなく、虚ろな赤い瞳のまま棺桶に座り込んだままのヴィンセントをじっと身を屈め覗き込んでいるのは──一つの身体を二人で分け合うインとヤン。正気(せいき)のないのっぺろとした顔にずんぐり埋まったマテリアのような輝く丸い瞳。両手には鋭利で巨大な爪をぶら下げた、魔物。
「グル、グルルル……」
 起きて、とでも言いたいのかソレは唸る。
 ヴィンセントの知るインとヤンの姿がそこには在った。夢などではなく、これが現実。
「……まだ 私の言葉が分かるのか」
「ウウ、ゥ……」
「分からない……すまない、分からない」
 まだ痺れの残る右手でヴィンセントは魔物のつるりとした肌を撫でた。
 不気味なほどに滑らかでとろりとした肌は彼らが人間であった頃とそれほど変わりはしないようにすら感じる。先ほどまでの光景が現実に即したかたちの幻だと言うのなら、体の左側がイン。右側がヤンだ。少し挑戦的なのがインで、冷静なのがヤン。女の子がインで、男の子がヤン。二人を区別する言葉はたくさんある。
 彼らはまるでヴィンセントを促すかのように棺桶から離れ、とてもゆっくりとした動きで地下室のドアへと向かっていく。
 まだぼんやりとした頭では現状を認識できていないという自覚がある。
 ヴィンセントは棺桶の淵に掴まり身体を解すようにゆっくりと立ち上がった。
「「こっちだよ ヴィー」」
 廊下から聞こえるのはやはりあの双子の声。
 見回せばこのすっかり見慣れた小さな赤い部屋には人骨が何柱も増えていることが分かる。『あれ』からどれだけ時間が経った? そもそも『あれ』とはいつだった? 違う、『あれ』は今じゃない。
「イン、ヤン」
「ゥゥ……」
 名を呼び、覚束ない足取りで扉まで辿り着けどもそこにいるのはあの魔物。
「…………ヴェルド、そうか アイツか」
 最後の記憶は、と頭の中をひっくり返してみればそれは随分と最近の出来事だったように思われる。
 一体何の目的があってインとヤンはヴィンセントを覚醒へと誘ったのかは分からない。彼らにはまだ自我と呼べるだけの理性が残っているのだろうか、それすらも今は分からない。少なくともヴィンセントには自分が自分自身たる、ぼんやりとはしているが自覚はある。ヴィンセント・ヴァレンタインという元タークスの男はかつての同僚だった双子の新たな姿から目を背け、明かり一つない地下通路を迷うことなく歩き始めた。





 分かったことはいくつかある。
 暦は変わっていた、とうに。以前目覚めた時には既に知らない暦になっていたようだが、その時は気づかなかったらしい。部屋の片隅に転がっていた缶コーヒーの──誰かが割れたドアから投げ込んだのであろう──底には知らない数字が賞味期限として記されていた。
 地上階に出るのはもうどれだけぶりかは分からない。だが、少なくともあの地下室に人間の気配もなく、この地上部分は荒れ放題、人っ子一人の気配すら感じられない。神羅はいよいよ本当にこの屋敷を廃棄してしまったようだ。何箇所かガラスの抜けた窓は木の板が打ち付けられてはいるが、割れたままの箇所すらあるほどに手入れはされていない。
「すごいわよね、ここ。あれからも色々使われていたみたいよ」
「……レベッカ」
「あなたはいつもそうね。起きるのは一番最後」
 玄関ホールに立つは赤みがかった茶髪の女。かつての同僚だった彼女は懐かしむように傷み、床板の隙間から雑草すら生えてきた屋敷を見回した。そしてしゃがみこみざらついた大地に触れる。
「君も私を起こしに来たクチか」
「だってもう 眠っている時間は終わったのよ」
「……インとヤンもそう言っていた」
「あの子たちは物分かりがいいから。気づいていない、ヴィンセント? もう 走り出しているのよ」
 世界は。
 そして再び目の前の女は霧散する。
 懐かしい面影が消えていなくなると同時に視界はさらにクリアになる。世界がもう走り出しているだって? そんな当たり前のことは言われなくとも分かっている。どこか嫌な焦りを覚えながらも、ヴィンセントはガチャガチャと鬱陶しい音を立てるガントレットに覆われた左手に視線を落とし舌打ちした。
 壁にかけられたカレンダーはヴィンセントが人体実験を受けたあの年から数年が経過した時点で終わっている。じゃあ、あれは? あれは? と次から次へと続いて湧き出てくる疑問は至極当然のもの。
 あの悪夢が夢ではないとすればなんだったのだ。
 そしてヴィンセントは広間のがらんとした空気の中に一つ、突然気配が現れたことを感じ取る。
「誰だ」
「……うぁ……あ、ぁ……」
「……何者だ」
「リユ、ニ……」
 久々に喉を震わせ声を張って尋ねてみたところで返ってきたか細い声が訴える言葉の意味は分からない。
 声がした方へと歩いていけば、かつてピアノが置いてあった部屋へとふらふらと吸い寄せられる。最初から屋敷に置いてあったものだが、弾く人間などいなかった。ごく稀にヴィンセントが他の研究員にせっつかれて少し触る程度の、はじめから打ち捨てられていた可哀想なピアノ。
 その下から声はした。
「……お前は……」
 誰だ?
 ピアノの下にうずくまっていたのは黒いマントをかぶった人間である。
 先ほどまでは誰一人の気配も感じられなかったはず。突如として現れた気配はしかし、人間らしきそれでもない。それでもヒトのかたちをしたものにヴィンセントは手を伸ばし、ぐい、とそのフードを外す。
「そう。世界はもう動き出してるの」
「……」
「どうしたの、主任さん?」
 現れたのは男ではなく、女だ。
 マントをばさりととった中から姿を見せた女はヴィンセントを『主任』と言い、いつもミッドガルの街中に繰り出すときに着ていた薄桃色のドレス・ワンピースを身に纏っていた。忘れるはずもない、忘れられるはずもない、懐かしき女の姿。
「…………君は」
「……わたしはね、あなたの記憶の中に残るわたし。あなたが夢見るわたし。あなたが望むわたし。あなたが願う、わたし」
 だから本物じゃあないわ、あなたが作り出した、ただ心を慰めるためだけのわたし。
「……イファルナ」
 さいごのセトラの名前をヴィンセントは呟いた。
「そう。わたしはそのまぼろし」
「…………ジェノバの 擬態能力……」
 合点がいった。
 ヴィンセントは納得するとそれまでの警戒心丸出しだった態度を軟化させ、黒マントだったはずのモノに手を伸ばした。
「よくできてると思わない?」
「記憶から足りないものはどうやって補う?」
 あの古代生物が持つ特異な能力の一つ。それを目の当たりにするのは初めてだが、こうして実際に体験すると百聞よりも分かりやすい。
「彼女の姿を全て覚えてないっていうのは、あなたの主観的な判断。どれだけあなた自身が覚えていないと思っていても……あなたの記憶にはわたしの姿、くまなく刻まれている。だから『ほんもの』になれるの。触ってみて、ほら」
 それなりに親しかったセトラの姿かたちと声をした影は肩をあげて戯けてみせた。ヴィンセントが触れた肌の感触は彼の記憶に残るイファルナのそれと合致する。
 ジェノバが他者の記憶を写し取る鏡としての能力を持つならば、或いは。
「……対象は自分でもいいのか?」
「試したことはない、けど きっとだいじょぶ」
「ふむ」
 ただかたちを写し取っただけと自称するイファルナの瞳に映る己の見てくれをじっと見つめ返す。
 黒い服の上に赤いマントを羽織り、黒い髪と赤いバンダナで表情を隠した人間ならざる男がそこにはある。それが正しくひとであったのはもう随分昔のこととなるのだろうが、イファルナの姿をした何者かの言葉が正しければコピーする記憶は本人が細部まではっきりと覚えている必要はない。
「わ」
「なるほど」
 だからヴィンセント自身が覚えているヴィンセントの姿を写し取ることも可能だ。
 イファルナの前に立っていた幽霊のような姿の男はいつのまにか長い髪の毛はそのままに、とっくに本社では処分されてしまったであろう私服の一部を思い出す。するとあっという間に姿は『その通り』となり、イファルナは楽しそうに声をあげた。
「すごいね」
「……私の記憶の中の君はそんなに無邪気だったか?」
「なぁに、どういうこと」
「もう少し……些(いささ)か、毒があったような気もするが」
「……どうだろう。それはきっとわたしじゃなくて……『この体』の本当の持ち主がそうだから かな」
「元の……?」
 黒マントの姿の男。
 イファルナがはそう告げた。
 すると再び彼女の姿はぼやけ、次に瞬きしたときヴィンセントの前に立っていたのは壮年の小柄な男だ。
「これが、『僕』ですよ。先輩」
「……ヨーサ」
「そんな名前だったかもしれません。けれど……僕自身の記憶も、自我も、もうほとんど残っていないんです」
 黒マントの中から覗く瞳は虚ろだ。中身のない人間が無理に声を発しているような違和感を覚え、ヴィンセントは眉間に皺を寄せる。
「だがお前は」
「それは先輩がいるからですよ。僕は他者が『僕』を認知してくれることでようやく存在できるほど。それほどまでの自我しか残っていません」
「……それも私の記憶を読むのか」
「あなたの記憶にある僕を自分自身と認知することで……ようやく、その延長線上にまだ存在していることを自覚できる」
 だからあなたがいなくなれば僕はまた自我なき黒マントとなり、誰かの記憶を写し取ることしかできなくなる。
 他者に認知されることで初めて自我が芽生えるのだと男は説明した。だからこうして客観的に己を知る相手の記憶を読み取り、その中に生きる自分自身と己そのものを一ミリの違いもなく重ね合せることができた時はじめて、曖昧な己は明確なものになる。
「いずれ私もそうなるのか」
「それは……分かりません。けれどジェノバからの影響を大きく受けた時は……恐らく」
「……気には止めておこう。それで? 何が起きたんだ、ここで。……5年前に」
「……とても悲しいことが。けれどそれは……先輩の方がご存知でしょう」
 何をおっしゃる、とでも言うように男は微笑んだ。
「…………」
「セフィロスが死にました」
 と、ハッキリ口にしながら。
「!」
 もっとも気になっていた名前を後輩の姿かたちと声をした男は発し、そして再び彼はイファルナへと姿を変える。
 今度は製作所の医療課でよく見た姿に。長い髪の毛を邪魔にならないようひとまとめにし、白い制服に身を包んだ彼女がそこにはいた。
「あの日 ニブルヘイムは死んじゃった」
 淡々と彼女は事実を告げ、低いヒールで床を鳴らして窓際のほうへと歩いて行く。
 窓の外に広がるのは命が吸い尽くされ枯れた大地と、そこに僅かではあるが生きながらえようとする樹木たち。ヴィンセントが知るニブルヘイムはやはり、もうここにはない。長年に渡って魔晄を吸い上げられた地面何一つ残っておらず、これから新たな命が芽吹くこともないだろう。
「何が起きた」
「言ったでしょう? とても、悲しいこと。主任さんは思い出せない?」
「……」
 ザックスというソルジャー。
 そう、そうだ。ヴィンセントはぼやけてあやふやになった記憶から一本の糸を掴み上げ引き摺り出すように過去を回想した。『それ』よりも前のことはまた分からない。けれど『それ』のことなら、まだかろうじて。
「星はあの日から病んでいるのよ、ずっと。……そして、ヒトは私たちを生み出した」
「…………宝条……」
 かつて神を創造しようとした愚かな男の名をヴィンセントは口にした。アレが再び狂気を振りまいているとでも言うのか。彼はその名を舌に乗せた瞬間、ひびわれた心に赤黒いマグマのような感情がドロリと湧昇する感覚をおぼえた。
「全ては人の業。あなたと同じ……悲しいひとたちがここにいた。あの地下に……全てが眠ってる。知る勇気、ある?」
「……」
「ないのならまた眠ればいいわ。全てが終わるまで……星が悪夢に呑まれ、全ての生命が生き絶えるその時まで」
「…………手厳しいな、君は」
「当たり前よ。だってわたし、あなたがそうあってほしいと願うわたしだから」
 そしてヴィンセントは「君は何を知っている」と尋ねようとして口を開きかけたが、やめる。
 どうせ答えなど知れている。請えば教えてくれるであろうが、ここは神羅屋敷と呼ばれる場所。悪夢がはじまった場所であり、悪夢が終わった場所であり、そして再び悪夢が目覚めた場所。目覚めた悪夢が未だ走り回っているとすれば──いずれ、この地に再び悪夢はやってくる。
「それまで眠っていればいい、か」
「どう?」
 眠りは苦痛だ。
 永遠に時の牢獄にとらわれ、死の夢を見る。かつての後悔と恐怖がないまぜとなった幻視の中で心を殺し、魂を壊し、精神を狂わせ続けるだけのあの夢の世界で微睡んでいればいいのだとやさしい誘惑を彼女は提示する。
 ヴィンセントはそれを自分自身に対する『罰』として甘んじて受け入れてはいたが、懐かしき姿をしたモノはそれを『逃避』だと言う。
「君は簡単に言ってくれるな」
 誰と関わることもなくただ真実を秘めたままあの寂れた死の世界で眠り続け外界を拒絶すること。それがこれ以上の悪夢を走らせないために自身ができる最善の選択だと信じ込ませてきた。心のどこかでそれは誤りであることを知りながらも目を背けてきた。
 現実は本物の痛みに満ちているから。
 幻の世界へ逃げ込めば体が傷つくことはない。心が、魂が、精神がどれほど傷つこうとこの身体だけは守られる。再びヴィンセントはイファルナの瞳の中を覗き込んだ。
「…………それが、あなた」
「……これが私だ」
 この傷だらけの身体こそが、偽りで固めてしまいたいものこそが。
 ノルズポル特有の白い肌に走るのは赤い傷。
 ヴィンセントは彼女の表情が──恐らくは、彼女の下に眠るかわいらしかった後輩の顔が──ひきつり、凍りつき、悲しい色に染まるのを見た。鏡を見れば映るのは傷ひとつない不死身のそれではなく、縦横無尽に傷跡の走る男。
 簡素なシャツの下も、素肌が見えている肘から先も、指も、爪も、目に見えぬ場所も全て。ジグソーパズルのように身体を一度切り離され、再び戻された痕。ヴィンセント自身が思い出したくもない出来事として無理にでも忘れ去っていた記憶ではあるが、ジェノバはそれらを全て掠め取っていく。
「だから夢に逃げ込んだ?」
「……」
「まだ 痛む?」
 この痛みが何に依るものかなど今は重要ではない。
「……分からない」
「あなたも同じ。わたしや、わたし以外の多くの人たちと……違うけれど、同じ。自分が分からないのね」
「……」
「大丈夫。そうやってまだ自分のことが分かっているのなら……『この人』みたいに見失ったりはしないよ」
 この人はもう無理、諦めて。イファルナの影は悲しそうに断言した。
「ジェノバは……寄生した相手の精神を食い尽くすのか?」
「心、魂、精神。全部、身体以外のもの。そして代わりに人間には手に入れられないモノを与える。人ならざる身体を」
 それは擬態能力・再生能力・増殖能力・その他諸々。
 ジェノバ・プロジェクトが発足した時よりも随分とかのものへの理解は深まっているようだ。ヨーサという男が何故こういった姿となってしまったかは分からないが、元は科学部門にいた後輩だ。どういう道を辿ったかは知らないが、最終的に宝条の実験体となってしまったという結末は驚くべきことではない、やもしれない。
「……だが……あの日のセフィロスは 間違いなく彼自身だった」
 怨讐に呑み込まれたのはジェノバなどではなく、セフィロスという一人の男だった。それはヴィンセントの曖昧な記憶の中でも数少ない事実として信じてよさそうな断片だ。
「そう。セフィロスは己の歪んだ命の在り方を知り……怒り狂い、ニブルヘイムを焼き放った」
 水をかけるだけでは消えぬ永遠の古代魔法で。魔力の炎が彼が『死ぬ』まで村を燃やし続け、怨嗟によってニブルヘイムという薄暗き氷の村は全て喪われていた、はずだ。しかしイファルナは軽い足取りでピアノの椅子まで戻り、スカートを寄せて座ると美しい人差し指を広げた。
 そして両手を鍵盤に乗せ、どこか聞き覚えのあるメロディを奏ではじめる。
「……ソとラが 抜けているな」
「空がない。なんだかロマンチック」
「どうだか」
 もう誰も手入れしなくなって長いピアノの音程は外れ、流れるのはトンチンカンな主旋律。
「いいピアノなのに。なんだか残念ね」
「その曲は?」
「あなたの記憶に聞いてみて」
「…………忘れたな」
 ヴィンセントが肩をすくめるとイファルナは立ち上がる。傷だらけの男はくるりと背を向けると、再び目覚めた場所へ、地下へと足を向けた。
「怖くない?」
「何がだ」
「真実」
「……知らないまま眠る方が今は恐ろしい。どこかの誰かのせいでな」
「…………強いんだね」
「逆だ、臆病だからだ」
「そうなの?」
 待って、と彼女は記憶通りの軽やか声でヴィンセントの後に続く。
 姿形、声言葉。全てがイファルナ・ゲインズブールという最後のセトラと同じそれであるのに、彼女は本物ではない。タネも仕掛けもあれど、ジェノバの擬態能力とは人智を超えている。なるほど確かにこれは驚異的な再生能力や増殖・分裂能力もあります! なんて言われても疑いようがない。
 それほどまでにジェノバという宇宙人は卓越した能力を持ち、科学者たちを虜にしてきたのであろう。
「……あれから何年経った?」
「5年くらい、かな」
「私のように改造された人間は他にもいるだろう? 彼らはどうした」
「……あの人たち、いつからいるんだろう。わたしがここにきたときからずっと、ずっとここで眠ってる。……あなたと同じ」
「……そもそも君はどうしてこんなところに? お前はそれなりに真っ当な出世街道を進んでいたと記憶しているが」
 覚えが正しければ、科学部門からやってきたヨーサという随分年下の後輩は調査課を離脱していたはずだ。ウータイ戦役で負傷し、そのまま行方不明。裏では調査課のやり方に反発した科学部門が優秀な人材であった彼を引き取り調査課名簿からは抹消された、というのがヴィンセントの知りうる最後の足跡だ。
 風の噂でしかないが、その後は着実に化学部門の研究課で結果を出していたはずだ。
 すると彼女は地下室への扉に手をかけたヴィンセントの手に己のそれを重ね合わせた。
「5年前……セフィロスが全てを燃やした日。村が燃えて、セフィロスが死んで……炎が収まらないうちに宝条博士は再びこの村にやってきた」
「……」
「僕はその付き添いで、この屋敷に」
 再び姿は壮年の男の姿となる。
「……察しはついた」
「あぁ、でも僕を殺したのは博士じゃないですよ。こんなんにしたのはあの人ですけど」
「?」
「地下の魔物に。……イン先輩と ヤン先輩に」
「……そうか」
 それ以上は聞くまい。
 ヴィンセントは皺が目立ち始めた男の手を外させると、再び地下へと向かう。
 ぼんやりとした影しか掴めてはいないが、それでもおおよそは理解した。地下に住まうインとヤンにこの男が5年前襲撃されたのが真実だとすれば、何故ヴィンセントは先ほど襲撃されることなく、むしろ友好的な態度を取られたのか。ジェノバの力によって姿を変えたヨーサと同じようにヴィンセントもまた姿を変えることができるのであれば。
 傷跡に沿って身体に走り続ける痛みの正体も予想と大して違わないはずだ。
「リアーナ先輩は医療課、やめちゃったんですよ」
「そうか」
「行方も分からないままですけど、反神羅組織にいるっていう噂です」
「そうか」
「ガリレオ先輩は都市開発に移りました」
「そうか」
「えぇとそれから。ヴェルド先輩は主任になりましたよ」
「……それは前に会った、気がする」
 数日前か数週間前か数年前かは分からないが。
「この村、日中は外に出ないほうがいいですよ。神羅が村を再建して雇った人を住人にして証拠隠蔽のつもりらしいですから」
「そうか」
「……もう なぁんにもないんです。ここには」
「だが……地下には記録が残っている。お前はそう言ったな」
 ここは神羅に、村に、そして世界に捨てられた場所。
 神羅が望まぬ闇を置き去りにした場所だと黒マントは断言した。
「セフィロス・コピー。僕らは宝条博士にそう呼ばれていました」
「……コピー?」
「ソルジャー計画は実行に移された。ジェノバ・プロジェクトの終了後……神羅はセフィロスのようにコストの高い兵士を作ることは諦め、いわば後天的なセフィロスを作ろうとした。それがソルジャーです」
 ウータイ戦役の頃からまことしやかに囁かれていた都市伝説にも近しかったソルジャー計画は現実のものになっていたらしい。
 そしてソルジャー・第一号こそがあの日生まれた罪なき赤子セフィロス。ヴィンセントは螺旋階段を降り切ったところで足を止めた。次々与えられる情報のピースが最悪にも近い現実のかたちを作り上げ始めていく。
 眠りに逃げ込めばそれで終わりだと思っていた。
 自らの犯した罪を持ったまま死に続けることで、一度死んだ身体を抱き残された目に見えぬモノすらも削り落とすことで償おうとしていた行為が大きな過ちであったという確信が膨らんでいく。
「セフィロス・コピーとソルジャーは違うのか」
「僕らが埋め込まれたのはジェノバ細胞そのものじゃない。……セフィロスの身体で増殖し、彼の思念と共に培養された……新たなジェノバ細胞」
「……だがセフィロスは死んだはずだ。お前だってそう言っただろう」
「そう。人間のセフィロスは死にました。魔晄炉に落ちて。死んだのはあくまで……」
「セフィロスの人間の部分、か」
「魔晄炉に落ちた人間がどうなるのかは……分かりません。けれどまだセフィロスは生きている。そして僕らセフィロス・コピーは……親である彼の元へ 呼び寄せられる」
 はずなんですけど。
 セフィロス・コピーを自称した男はまた姿をイファルナのそれへと変える。
「悪趣味な能力だ」
「かつてジェノバは天より飛来し、この擬態能力でセトラを蹂躙した。そしてウイルスのように人間の精神を乗っ取り……記憶を改竄し、姿までもを改竄した。それがジェノバ。あれはセトラなんかじゃない。天が送りし、忌まわしきもの」
「……」
「ヴィンセント。世界はもう走り出しているの」
 ふらり、と大きな影が二人に近づいてくる。インとヤンだ。
「彼らは?」
「……こっち」
 知りたければついてきて。唸り声をあげ身体を90度以上に折り曲げてしみじみとこちらを覗き込んでくる魔物をよそに、イファルナは軽い足取りでヴィンセントの手を引いて真っ暗闇の地下通路を通り抜けていく。
 炎一つ灯されていないそこは人間の視力では何も捉えることができないほどの暗闇であるはずだが、おかしなことにヴィンセントの目には赤茶けた土の壁がはっきりと見えている。
「さぞ楽しかったであろうな、宝条は」
 あんな時代だ、いくらでも人体実験の素材は手に入っていたのだろう。ヴィンセント一人が決して悲劇的な運命を辿ったのではない。名もなき兵士、名もなき社員、そして現在に至るまでは名もなきソルジャーもきっと。
 多くの人々がこの地下で、恐らくジュノンやミッドガルといった神羅の本部や支社で、所構わず人間らしさを奪われていったに違いない。
「今もきっと、同じことしてる」
「だろうな。生きている限り、アレは科学者のつもりだろう」
「そして……セフィロスは……ここで 全部を知ってしまった。自分が誰の手によって生まれて……何を 望まれたのかを」
 そう言って彼女が連れてきたのはヴィンセントが眠りについていた小部屋の先にある実験室。忘れることはない、彼がかつて『死んだ』場所だ。あの時からものの配置は多少なりとも変わってはいるが、間違いない。割られた魔晄ポッドに散らかった手術台がわりの机。床に積み上げられたままの蔵書はガスト博士が持ち込んだものだ。
 あの日ここで生まれた赤子は健やかに成長していたはずだったとイファルナの姿をした男は言う。
 超人的な力を持ち、最初のソルジャーとして神羅の望んだままに力を振るい、やがて(その当時は知らなかったが)自身の細胞を株分けした多数のソルジャーたちとウータイ戦争を『終結』にまで持ち込んだ。その活躍ぶりからやがて英雄と呼ばれた彼を目指し、星の果てからでも少年たちはソルジャーを目指しミッドガルへとやってきた。
「教育方針を間違えたのか」
「そもそも、ここの魔晄炉の調査にセフィロスを連れてきたのが……きっと、間違いだった」
「……その間違いすらも誰かの手の上だったかもしれんな」
「そう、だね。セフィロスは……世界を、運命を、星を……自分を産んだ全てを憎んだ。人間もセトラも関係ない、罪の有無なんて関係ない。彼は…………命あるもの全てに憎しみを抱いてしまった」
 イファルナは奥の執務室へと誘い、そこに放置されたままのファイルをヴィンセントに差し出した。
「私は……あの日 セフィロスに『殺され』た」
「思い出せる?」
「……ザックスというソルジャーが来た」
 ニブルヘイム七不思議だかなんだか知らないが、底抜けに明るい太陽のような男が地下室に入って来たことは覚えている。あまりにも激しく棺桶を殴り、蹴り、揺らしてくるのだから渋々意識を覚醒させてみれば、「よっしゃ、俺の勝ち!」だかなんだか知らないが訳の分からないことを言われた。
 そして。
「……ヴィンセント?」
「エアリス」
「……」
「エアリス。そうだ、イファルナ。君は……」
 知らないよ、と彼女は首を横に振った。
「イファルナというセトラはもう 死んだわ。ガスト博士も宝条博士に殺され……産まれた子供と……エアリスと一緒に神羅へ連れ戻された」
「なぜ……」
 彼女は北の果て、ノルズポルへと旅立ったはずだった。それが神羅に発覚した? なぜ? 一体誰が?
「わたしも詳しいことは分からない。けれど……ある日、イファルナはエアリスを連れて神羅から逃げ……星へと還った」
「……その娘はどうしている」
 ヴィンセントの問いにイファルナは首を横に振った。
「ずっと神羅に監視されて……かつてのわたしと同じ。『約束の地』を探してる」
「……あの日ニブルヘイムに来たソルジャーは……エアリスを知っていた」
「ソルジャー1STだったザックス・フェア。彼もあの日の犠牲者」
 これ。
 イファルナがファイルを開くとそこには精悍な顔つきの青年が一人。黒髪のツンツン頭で、ヴィンセントの記憶にある表情と合致する。
「そうか……お前が……お前たちだったのか」
 イン、ヤン。
 名前を呼ぶと先ほどまで地下通路の入り口あたりを徘徊していた魔物が音もなく二人の後ろに立っていた。ヴィンセントの声を認識したのか、どこか嬉しそうに魔物は唸り声をあげると大きな腕を広げ、彼の身体をひょいと持ち上げてみせた。
「どういうこと?」
「あの時……私は……セフィロスを止めようとしたが逆に殺された。身体を切り刻まれ……確実に……人間ならば生き絶えるほどの傷を負って」
「……でも、あなたは生きている」
「再生能力。ジェノバの主たる能力の一つだろう」
「…………」
「気づいているさ、とうに」
 この身体に眠る不可思議なものの正体はおおよそ。
 死したという意識が閉ざされ、次に目覚めたのはそれこそヴェルドが現れたあの時。だがその時は既にヴィンセントはあの地下室の棺桶で眠っていた。5年前にこのニブルヘイムで起きた惨劇からその一地点までの記憶は全くなかったが、ようやく繋がった。
「ふたり、優しいね」
 この『僕』のことは襲ったくせに、とイファルナは自虐気味に笑った。
 長い腕の魔物は村が炎の海に飲み込まれたあの日、屋敷の地下にいて異変は察知していたのであろう。生き絶えたヴィンセントを今まさにしてみせたように、赤子を抱きしめあやす揺りかごのようにあの部屋まで運んでくれたのだ。いつの間にか増えた人骨たちがいつからいたのかは分からないが、とりあえず点と点は線で繋がった。
「降ろしてくれ」
「ウゥ、ヴ……」
 はい、とでも言うようにインとヤンはヴィンセントを床に降ろした。
「彼らもジェノバ細胞を?」
「当たらずとも遠からず、かな。彼らが埋め込まれたのは……魔物の因子そのもの。あなたと同じ」
「……死ねないのか」
「きっと」
 その魔物がどういった性質をもつかに依るところだが、ジェノバ細胞を植え付けれらた魔物の因子を持つならばセフィロス・コピーと大して本質は変わらない。そしてイファルナの声を借りたヨーサの言葉が真実であれば、ヴィンセントも同じであるという。
 人間の身体を保っているかそうではないか。精神を未だ魔物に食われ尽くしていないか、そうではないか。ほんの少しの違いしかない。
「…………」
「わたしを殺す?」
「……」
 ヴィンセントは答えない。
 古い報告書のページをめくればめくるほど、これまで自身の心の安寧のため無為に過ごしてきた時間がどれほど愚かだったのかを思い知らされる。5年前のあの日、英雄セフィロスは魔晄炉に転落して死亡した。それが公式に残る彼の最後の足跡だ。
 そしてセフィロスによって傷つけられた者たちや、立地的に近いウータイでの残党狩りで負傷した者たちは次から次へとこの屋敷へ運ばれ、セフィロス・コピーとして人間としての命を奪われていった。
「今は……まだ、呼ぶ声は聞こえない」
「……リユニオン」
 ヴィンセントは報告書に記された文字を追う。
「けれど……セフィロスが……彼の怒りにジェノバが呼応すれば、それが合図」
「始まれば 君はどうなる」
「……さぁ? わたしに番号はないから」
「番号?」
「コピーたちにつけられた番号。わたしは……きっと失敗作。だから番号はないの」
「まだリユニオンが起きていないなら結果は誰も知らないはずだ。それが知れる前から成功と失敗を分けるとは……宝条らしい」
 だからアレはいつまでもガスト博士と比較され続けるんだろう、とヴィンセントが吐き捨てるとイファルナの影は「そうだね」と同意して笑う。
 ここには多くのものがありすぎる。このひとときで全てを知るには難いほどの知識と情報が詰まっている。ヴィンセントはインとヤンに手を添え、「いい子にしていろよ」と柔らかく告げてから報告書を机の上に戻し、書斎を後にする。
「殺さないの?」
「死にたいのか?」
「……知らないの、わたし。この体が……死ねるのか、死ねないのか」
「試してみるか?」
「もし……死ねなかったら どうしたらいい?」
「使っていいぞ、あの棺桶なら」
 いくつかには先客がいるが、ヴィンセントが眠りこけていた場所は少なくとも空いている。
 それらが一体誰のものだったかはもう分からないし、調べようにもきっと分からない。無数の頭蓋骨、無数の骨、無数の犠牲者たち。その一人一人に人生があり、道があり、果てに待っていたのがあんな屋敷の地下牢だったなんてあまりにも悲劇的な最期だが、物語を遡って知ることすらもはや叶わない。
「ヴィンセントはどうする?」
「現状は把握した」
 今この時はまだ悪夢が始まってすらいないということは。
 幾度も繰り返されて寄せては引いていく波のような悪夢はまだ遠い遠い水平線の先。それがやがてやってくる。ただ凪いでいるだけ。
 このまま棺桶でなくともいい、現実から目を背けて逃げてしまえばいい。逃げても誰も咎めやしない。ここで馴染みの顔をしたセフィロス・コピーといういずれ脅威となりうる要素だけを排除し、星の命に貢献したと信じ込み、暗闇の中で溶けてしまえばそれで終わり。
 世界が終わるのを待つだけでいい。
「……誰も怒らないよ」
「逃げるなと言えば逃げてもいいと言う」
「それがわたしよ」
「かもな」
 ヴィンセントの夢が作り出した、まぼろしの。
 のっしのっしと後ろからハッキリと聞こえてくる足音はインとヤンのそれだろう。彼らは意志を示すことなく、しかし危害を加えようとする様子もなくただこちらを見ているだけだ。
「……言いたいこと、わかるよ」
「…………」
「わかってる。あなたには頼めない」
 仲間を殺して欲しいだなんてことは絶対に。
「……私は……何を待てばいい」
「星の縁(えにし)を。それが繋いでくれるものを……大切にして。あなたの心が命じるままに」
「まだ私に心が残っているとでも?」
「残ってないなら、もうわたしのこと、殺しているでしょう?」
「やもしれん」
 いいよ、だいじょぶ。
 イファルナの姿は解(ほど)け、ヴィンセントがよく知っていた同僚の姿に戻り、更にそれは彼自身が知る青年の姿へと移り変わって行った。
「僕のことは心配しないで。……あなたのおかげです、先輩」
「……」
「あなたが認識する僕を僕は知ることができた。だから……僕はまた僕に戻ることができた。それが消えてしまうより先に 為すべきことがきっとある」
 インとヤンは静かにそれを見ているだけだ。
 精神を支配される、という感覚はヴィンセントには分からない。だがそれは彼が永い眠りの間に味わっていたような自我の薄れや意識が希薄になっていく感覚の先にあるものだろう。もしこのまま、やがて来たる自我の喪失を待ち続けるしかないのであれば。ならば緩やかな自我を取り戻せているこの瞬間は最期のチャンス。
「ヨーサ、私は……」
「先輩はそのままでいて。優しいままで……仲間も殺せない臆病なままで」
「…………必ず 連れて行こう」
 再び吠えたのはインとヤン。
 ヴィンセントは若々しい姿のヨーサから視線を引き剥がし、縄階段をゆっくり登っていく。やがて訪れる悪夢の波をただ待つためだけの日々を送るために。いずれ姿を表すであろうセトラの血を引く最後の娘が現れるまで。走り始めた悪夢がこの時を止めた屋敷を駆け抜けていくその時まで。

 重々しい石の扉が閉まると同時に、爆発音とともに地鳴りが鎖された階下から恐ろしいほど鮮明に聞こえてきた。




 先ほどは気がつかなかっただけだが。
 いつの間にかこの短い合間にスッキリ調律されたピアノの影から、人の手が加わっていないにも関わらず花が咲く温室から、金庫の影から、机のしたから、ベッドのなかから、詰まるところ屋敷の至る所から。ありとあらゆる場所から魔物たちが姿を見せ始めた。
 セフィロス・コピーのいなくなった屋敷は恐ろしいほどの静寂に包まれている。
「……襲うなよ」
 力の差は分かっているはずだ、と。
 カボチャ頭の小さな幽霊はふよふよとヴィンセントの周囲を漂ってしばし思案するような仕草を見せてから、了解したとばかりに楽しそうな声をあげた。
 キェ、キェッ! と聞いたこともない金切り声に誘われてさらなるカボチャたちが現れ、天井からも魔物が落ちてくるわシャンデリアの影からは無数のコウモリたち。一体今までどこに隠れていたのか問い正したくなるような魔物の数だが、不思議なことに敵意はない。
 それはヴィンセントが身体に埋め込まれた魔物たちの因子によるものか、その魔物たちが埋め込まれたジェノバ細胞によるものか、さてはてそれらとは全く別個の巨大すぎる星の意志の力か。答えは分からないが、安全が確保されたのは確かだ。
 眠りにつく時間は終わった。
 やわらかな母の腕でゆられる時は、ゆりかごの中で甘やかな夢を見る時は過ぎ去った。
 忌まわしきものがこの屋敷へと再び天来する日は近い。ヴィンセントは傷跡に塗れた己の頬を指でなぞり、それらを『消し去って』いく。不都合な真実は全て隠してしまえ。一度に全てが知れれば、また──あの悲劇は繰り返される。おかしなカボチャの一匹がヴィンセントの目の前に降りてきて可愛らしい息を吐く。
 それは普通の人間であれば気が狂い正気を失うほどの恐怖を孕んでいるはずのものだが、ヴィンセントにとってはただの吐息でしかない。
 星の縁が紡がれる時は近いが、まだ時間はある。孤独な男は静まり返って久しくなった地下へと再び足を向けた。


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