彩色の空


おわりの赤(ヴィンセントとバレット)


 血のように赤い 赤い夕焼けが眼前には広がっていた、それも 無限に。
 雪が舞う。
 それは因縁の終わりか、悪夢の終わりか、それとも新たな後悔の始まりだったのか。
 正しい答えは誰にも分からない。明白な事実はミッドガルの寿命がほんの僅かに延びたということ。大空洞を守る腕(バリア)が消え去ったということ、そして数十年続いた神羅カンパニーという強大な組織が瓦解し崩れ去り、一つの時代が終わろうとしていること。
 上空に停泊するハイウィンドに次々と姿を消していく仲間の背中を見送りながら、バレットは小さなため息をついた。
「……戻らないのか?」
 どこまでも赤い夕焼けと同じ色をした瞳をのろのろと向けたヴィンセントは崩れかけた不安定な足場に座り込んだまま動こうとはしなかった。視線の先で机に突っ伏すように息絶えている黒髪をした初老の男に最後の一発を見舞ったのは他の誰でもない、ヴィンセントだ。今まで他の誰もが聞いたこともないような罵声と怒号を宝条に浴びせ、怒りに任せてその体を蜂の巣にした本人はしかし、達成感ゆえか脱力感ゆえかは分からないがその場に崩れ落ちてから一言も口を聞くことがない。
 どうしようもないのでとりあえず先に戻っていると言ってクラウドたちはハイウインドに乗り込んでいく。
「……」
 虚ろな瞳をぐるりとバレットから上空へと向けたヴィンセントははらはらとゆっくり落ちてきた白い雪の欠片に視線を移す。
 どんな言葉をかけてやればいいのか、どんな言葉すらもかけてやらない方がいいのか。自他共に認める言葉足らずな男は腕を組み、ヴィンセントではなく自身の態度に苛立ちを覚え始めながら俯いた。そもそもこの男はかつての後悔を自身の誤りであると責め続けた挙句の果てに数十年という単位で悪夢と苦痛の中で永遠に続く死を選ぶような人間なのだ。そのような人物に対してバレットが精神状況によい影響を及ぼすような『気の利いた』言葉をかけてやることはほぼ不可能だ。
 タラップを上りきったティファが何か言いたそうな視線を少しだけ地上に残るバレットとヴィンセントに寄越したが、ゆるゆると首を横に振って鋼色をした扉の向こうへと消えていく。
「……ヴィンセントよぉ」
 寒いぞ?
 風邪引くぞ?
 みんな待ってるぞ?
 とりあえず名を呼んでみたが、それに続く言葉を考えてみたところでどれも却下、だ。人ならざる身を持つ彼にとってこの冬の寒さは風邪を引くようなものでもなければ、みんな待っているだなんて言ったところで置いていけと言うに違いない。
「私は、」
「ヴィンセント?」
 バレットが吐く息は白い。対して冷たい鋼鉄の床にべったりと腰を降ろしてしまったヴィンセントの口から吐かれる息は白く染まらず、彼のいつにも増して正気の失せた青白い頬にひらり舞い落ちた雪の粒は溶けることはなかった。
「……私は とんだ馬鹿者だ」
 誰に対してでもない言葉だった。決してバレットに語りかけるような言葉でもなこえれば、彼の常である自虐的な響きを持っている訳でもなければ皮肉も含まれていない。突き抜けるほどの空虚な声でヴィンセントは少しばかり首をかしげ、骸となって朽ちた男の背中を見つめた。
「私は……最後の希望をも、自らの手で消し去ったのだ」
「……希望?」
「奴ならば……この身を終わらせることができたろうに」
 なるほどそういうことか。バレットは目に手を当てて嘆いた。この男は生きたいのではなく、死にたいのだ。
 強烈すぎる希死念慮に埋め尽くされた今のヴィンセントの心には誰の声も届きはしない。彼は生き残る術を無数に持ってしまっているのだ。腕や脚をはじめとする身体器官はもちろん、内臓すらも吹き飛ばされたところであっという間に『再生』する上、街中では非常に目立つ赤いマントや黒いライダースーツすらも魔物の表皮が一部であるときた。およそ生物的な意味での人間らしさというものを全て奪われてしまった彼は死ぬ術を持たず、また、そのことに対して誰もが恐れる死を何よりも焦がれる彼を罵る術をバレットは持っていなかった。
 そんなこと言うなよ、という言葉をぐっと飲み込んで褐色肌をした彼は右手で少しばかり伸びてきた顎髭を弄りながら言葉を探した。
「……ルクレツィアさん、だったか? あの人なら……なんとか、なるんじゃねぇのか?」
 記憶を手繰り、確かそんな名前だったと思い出しながらバレットは問いかけた。
「……」
 しかし答えは無い。
「世界中探せば……きっと手がかりはあるぜ。お前の時代よりもカガクってやつもずいぶん進歩してるしよ」
「……」
 やはり答えは無い。
 だが声としての返事はなくとも、その小さな頭が僅かに動いたのを見るとバレットは少しだけ心が軽くなる錯覚を覚えた。首肯のようにも見えたその仕草は親友の子供のように幼く、脆くいじらしい様相に映る。赤マントの隣に彼はしゃがみ込むと男にしては華奢な細い肩に大きな掌を無造作に置いた。
 まだヴィンセントにも人間たる部分は残っているはずだ。
「……ヴィンセントよぉ」
 次はなんて言ってやろうか。頑なに心を閉ざそうと試みている仲間の姿に見ている側まで心が痛くなってくると彼は微かに震え始めたヴィンセントの体を支えるように僅かに手に力を込めた。
「笑いたくば……笑うがいい」
「?」
 憐憫か、同情か。
 ヴィンセントは消え入りそうな細い声で告げる。
「好きに笑え、罵れ、嘲るがいい。これが……既に人間ではないモノが、最期に人間でありたいと願った末の戯言だ」
「お前……」
「あの男を……殺さずには いられなかった。嗚呼そうとも、全ては奴の言う通りだ。ガストが、ルクレツィアが……神羅の科学者たちが夢見た結果が……この世界だ、悪夢だ。だがそれでも、私は……私、は」
 そこで初めてバレットはヴィンセントが涙をこぼしていることに気づいた。
 人肌よりも冷たい肌を伝う水は雪ではない。相変わらず雪は溶けることなく頬に張り付いていたが、赤い瞳からこぼれ落ちた一筋の涙によってそれは溶け消える。
「私は許せなかった。彼女が……ルクレツィアが 全てを捨ててでも叶えようとしたものを……踏みにじった あの 男を」
「ヴィンセント……」
「だから私は……残る最後の希望を 自ら葬り去った」
 死こそが我が希望。ヴィンセントはさもそう言いたげな言葉を選んだ。
 嗚呼!
 ひらひらと舞い続ける雪を手のひらへ浴びるようにヴィンセントは両の腕を広げると、血よりも赤い空を見上げて喉を反らした。
 途端、変貌する身体。バレットの目の前で仲間の男は人間の身体を放棄し始めたのだ! 全身の骨が打ち砕かれていくような嫌な音、内臓も、表皮も、ヴィンセントという人間そのものが全て崩れていくような光景である。青白い顔は土気色のそれになりヒビ割れが頬を走る。黒く長い髪の毛は逆立ち赤いマントは異形の翼へと変わっていく。
 翼は。
 翼は自由に成りたい人の憧れよ。
 螺旋トンネルで出会ったタークスの女がつぶいた言葉が脳裏を駆け巡った。人間が魔物になるってどういうこと? なんていうユフィの単純な問いに対する答えがそれであったのだ。年の頃はティファと同じ程度であろうに、どこか達観した表情をして見せた女タークスは翼のある人間は化け物だというヴィンセントの言葉に反論して見せた。
 きっと彼女とて思うところはあったのだろう。だが、とバレットは足の先までも『魔物』へと成り果て変貌したその姿を見ても同じことを彼女は言ったであろうかと考え始めた。ヴィンセントは己の姿を知って化け物だと言い、あの女は彼女自身の心からそれは魔物ではないと言う。
 死こそ 我が救いだった。
「ヴィンセント!」
 眼の前の悪魔が数時間前に後輩にあたる女から言われた言葉を覚えているのかは分からない。怒りに任せ暴走状態で変貌した先ほどとは打って変わってその悪魔はたいへん大人しく、ヴィンセント自身の意志をもって『それ』はのろのろと首をバレットの方へと向けてきた。ぎょろりとした金色の瞳に怯んだバレットは思わず手を離す。
「なんという傑作だろうな……カオスよ!」
 バレットへと顔を向けてはいるがその声を投げつける先は己自身。混沌の名はその悪魔の名。『それ』に対してヴィンセントは高らかに声を発した。「貴様はさぞ愉しかろう、面白かろう! これが人間だ! 愚かだと嘲るがいい、嗤うがいい!」
 普段からは考えられもしない声量だ。バレットの背中にはゾクリとした本能的な悪寒と恐怖が駆け巡り、宣告のような言葉に次いで大声をあげて壊れたように笑い始めたヴィンセントに思わず眼を背けた。
 悲しみなのか、怒りなのか。それとも憎しみなのか。
 訳のわからない感情に支配されているであろう仲間は自ら悪魔へと姿を変え、その悪魔へと罵りに近い言葉を投げつけた。どれほどまでに破壊されても再生する身体を持つがその心は未だ人間のそれなのだ。いくら壊れようとも再生す身体に相反して悪魔の宿主たるヴィンセントの心は再生する術を持たないのであろう。ヴィンセント! と気を取り直したようにバレットは深淵へと沈み込みつつある盟友を呼び止めた。
「いいか、ヴィンセント」
「……」
「死にたくねぇって思うのは……人間の本能だ。お前は確かに宝条を殺したんだ、世界で唯一お前を殺せるかもしれなかった男をな。てめぇの魔物として死にたいって気持ちよりも人間として生きたいっていう本能が……奴を殺してぇっていう人間の心が勝ったんだ。それはきっと……お前がまだ人間の心が残ってる証拠だ」
「ならば……この身体は 何だ。首を落とされようとも……私は 死なぬ。それでもまだ私が人間であるとでも?」
「心の問題だ心の。オレにゃお前の身体がどうなってるかなんてよく分からねぇ。そりゃすげぇ苦しくて痛いってのはよう、そりゃ流石に分かるぜ。けどお前はまだこうやってオレと会話してる。魔物の姿になってもちゃんと喋ってる、笑えてるじゃねぇか。もし今のお前がもう心の奥底まで魔物だってんなら……そんなこともできねぇはずだ」
「……それは詭弁だ」
「詭弁だろうが嘘だろうがなんでいいじゃねぇか」
 バレットはそこでようやく視線をヴィンセントの方へ戻した。
 涙の筋はもう見えない。ジェノバと化した宝条と戦った際に負った傷も全て再生されており、失った四肢も、跳ね飛ばされたはずの頭部も元どおりである。果たしてそれをもってしても魔物ではなく人間だと言えるのか。その定義をバレットは知らないが、故にまだ人間であるとも言えるのだ。
 ヴィンセントという人間は。
 少しどころではなく大いに不器用であり、どこまでも純粋な男だ。
 真面目すぎる性格が災いしてか全ての過失は自らのみにあると信じてしまっている。
 そんなことはないと誰が言おうとも信じず、己の有罪こそが世の真理であるかのように謳う。
 だが同時に誰よりも人間臭く、敵であるタークスたちの行動にも理解を示す。
「思い込みでも勘違いでもいいさ。なんであれ、少なくともオレらのうちの誰かが生きてる間は人間だ。もしそれをてめぇ自身が諦めるって言うなら……ぶん殴って止めてやる。お前を人間でいさせてやるよ」
「……時間は私を置いていく。いずれ老いて死にお前たちを看取ることで……お前の言う人間らしさも死んでいくのやもしれない」
「言っただろ。オレらが生きてるうちは人間だって。……そのあとの保証はできねぇけどよ、これまでの旅、これからの旅……どうなっていくかなんて誰にも分からねぇ。でもオレたちみんなの旅がお前の心に残っててくれるんなら……忘れないでくれるならきっと大丈夫だ」
 根拠も理由も何一つないその言葉は優しい。ヴィンセントは悪魔の顔(かんばせ)にひどく幼い子供のような表情を浮かばせると、ふわりと浮かんでいた足先を鋼鉄の足場に着地させ、意志を持ち蠢いていた翼が再び赤いマントの姿へと戻っていく姿をバレットに見せた。
 黒く艶のある長い髪の毛とライダースーツの姿はバレットが良く知る男のものであり、左手に装備した無骨なガントレットはきらきらと光を帯びながら消えていく。
 悪魔から人間へ、そして 過去の真実へ。
 過去の姿を取り戻すことすら身の内に秘めたるジェノバの力を借りる必要があるのだと以前ヴィンセントは漏らしていた。異様な風体はカオス化した身体がどうにか人間らしい姿を保持するためのものであり、人間として『死ぬ』直前の姿を自然の姿とすることはもうできないのだと。自在に自身の姿を変化させるジェノバはヴィンセントの姿を赤いマントの旅装束から群青のスーツ姿へ、長い髪の毛は短い清潔感のあるそれへ。
 ガントレットに覆われていた異形の手は細く長い指を持つ青年の掌へ。唯一つ、生前からそうであったという夕日と同じ色をした深紅の瞳だけを同じくした若者がバレットの前に姿を現した。
「……バレット」
「おう」
「……たとえ私が人間の心を失い、魔物と成り果てたとしても」
「……」
 頼りなく細い声は消え入りそうなほどだ。
 不安、恐怖、期待。因縁の相手を無残なほどに殺し尽くした青年は俯いたまま呟いた。「お前たちはきっと、私を人間であったと言い……人間であった私を覚えてくれているだろうか」と。
「言ったろ。オレたちが生きているうちは…」
「だからたとえの話、だ。私がジェノバかカオスか……そのどちらでもいい、自我の全てを奪われ心まで成り果てたその時は……」
「やめろヴィンセント、それ以上は……」
 絶望じゃない、希望だ。
 タークスの制服を身にまとった青年は哀しげに微笑んだ。
「お前たちの手で殺してくれ。私が宝条にそうしたように……ジェノバの再生能力が全て途絶えるまで、何度でも何度でも……人間をやめた私を どうか……殺してくれ」



ふりそそぐ橙のあめ(ヴィンセントとクラウド)


「……綺麗だ」
「どうやらこの季節だけのものらしい」
 男二人、忘らるる都と呼ばれた古えの街に座っていた。星降る峡谷とはまた違った美しさを持つそこはクラウドにとっては少々トラウマというやつが詰まりすぎた場所ではあったが、晴れて携帯電話という人類の叡智を購入したヴィンセントによって呼び出されてやってきたのだ。
 どうやらこの都でも電波は通じるらしい、という少々的外れな雑談から始まった会話は都の中心部である巨大な貝殻造りの家屋の前で止まった。
 燦々と降る、光の雨。
 ジェノバ戦役と呼ばれた旅路で立ち寄った際には夜の記憶でほとんどが埋め尽くされていた上に、カダージュ一味と交戦した際も夜だった。昼間に訪れたことがない訳ではなかったが、こうして意識して白昼の都を歩くのは初めてとなる。
 雲間から漏れ出た太陽光が光の粒となって、まるで雨のように大地へと降り注いだ。
「アンタ、どれくらいここにいるんだ?」
「それなりに。お前が住み着いていたという教会のようなものだ」
「じゃあ、ここで生活してたのか」
「そういうことだ」
 都の外れになる家屋を間借りしている。ヴィンセントはそう言った。
 星痕症候群を患って以来『家族』のもとから離れて五番街スラムの跡地に残る教会に住み着いていたクラウドはそんな流浪仲間の行動を非難しなかった。場所は違えど、やっていることは同じだ。
「でもここ、電気なんてないだろう? 携帯の充電はどうしてるんだ」
「マテリアがあればなんでもできる」
「……信じられないな」
 どういった出力調整をしているのかは知らないが、要するにこの男は自身の魔力を電力に変換して携帯を充電しているという。それだけに飽き足らず、火を起こすにも魔法を使い、蒸し暑い日にはブリザドで氷を作り出して涼を取るそうだ。
「昔は……セトラもそういう暮らしをしていたと聞いたことがある」
「誰にだ?」
「エアリス……と言いたいところだが違う。ガストだ。古代種研究の第一人者だった……エアリスの父親だ」
 ふぅん、とクラウドは天から視線を外した。「彼はジェノバを見つけ出しただけでなくボーンビレッジでの遺跡発掘にも熱心だった。古代種の生活史は未だ明確には判っていないと言われてはいるが、ガストはかなりのことを知っていたようだ。それを世に出す前に……彼は神羅から逃げ出した」
「エアリスの母さんと駆け落ちしたらしいな」
「あぁ。その手伝いはした」
「……初耳だ」
 彼は目を丸くした。
「別に不思議ではあるまい。ガストはニブルヘイムでのプロジェクト途中で逃げ出した。私はその護衛だった。神羅の立場からは社秘を持ち出される前に彼を殺さなければならなかったが……人体実験を告発するつもりもないと言っていたし、そもそもエアリスの母親とは私も仲が良かったのでな。友人たちを逃がす方にした」
「たまにつくづく思い知るよ。アンタは俺たちの仲間だが……エアリスのご両親や、セフィロスの母親の世代の人間だったことを よく忘れる」
 その身なりは多めに見積もっても30代前半の優男だ。多少見てくれは異様ではあるものの、白い肌に加齢の痕跡など見受けられない。普段隠されている指先も長く美しく、同じ男性であるシドやバレットのそれとは比べ物にもならない。クラウドでさえ剣を振り回す手指は荒れている。
「安心しろ。あと50年もすれば、つくづくどころかいつも思い知ることになる」
「違いない」
 一百年経とうとも。一千年経とうとも。この男は年を重ねることなくただ心だけが老いていくのだろう。レッドというもともと長命な一族ではなく、自然の摂理を捻じ曲げられた人間が果たして何百年も未来であっても人間の心を留めているかかは分からない。ヴィンセントは座り込んだままゴツゴツとした岩肌に背中を倒した。
「お前たちが死ねば……私を知る人間はいなくなる。レッドが生きている内は多少なりとも付き合ってやるが……人間の住む社会では生きてはいけまい」
「……だから古代種みたいな生活を?」
「誤魔化せばいくらでも人間社会に溶け込めるだろうが、そこまでする気もない。隠遁生活の準備だ」
「てっきり俺は棺桶に戻るのかと思ってたよ」
 あの暗がりのなかに。そう言ってやるとヴィンセントは小さめながら声を上げて笑った。
「それも悪くはないな。だが、この星にはまだ見知らぬ場所がいくらでもある。この都で細々と生き永らえ、星の声を聞き……そんな場所を探すのも悪くはないと思った」
「星の声、聞こえるのか?」
「多少は」
 それは古代種のみに許された能力のはずだ。
 だが、ハーフ・ブラッドではあるが最後の古代種エアリスが死んだ以上星が選んだのは『星の力』とやらを持つヴィンセントであったのだ。ジェノバに起因するモンスターとはまた異なる魔獣の因子を持つ彼はブーゲンハーゲンやエアリス曰く、星に近い存在らしい。詳しい事はクラウドにもわからなかったし、本人もあまり興味はないという。
 しかし本人にその気がなかろうとも、どうであれその星の力を持つヴィンセントが現代のいわば『古代種』的な役割を背負っている状態である。星の声を聞くちから、それを解釈する星詠み、更に人々の祈りを星へ捧げ想いを伝える能力。それら全てを併せ持つのは純血のセトラのみとされており、現にエアリスはこの古代種の都まで来なければ祈りを捧げる事ができなかった。
「キャニオンの連中が騒いでたな。アンタを探そうと躍起だ」
 人気者め、とクラウドは皮肉った。今のヴィンセントには星の声を聞くことはできるが星詠みが大抵うまくいかないらしい。それがどういう状態かは説明に難いと言っていたが、その事実を知ったキャニオンの学者たちはこぞって彼の行方を追っている。
 ただでさえWROのリーブやタークスたちに人里へ顔を出せば捕まるような生活だ。心底うんざりした顔でヴィンセントは橙色の光を浴びた。
「大空洞にもまた行くのか?」
「変なものを掘り起こすのは勘弁だ。しばらくは近づかない」
「その口ぶりじゃ、あの戦いの後は行ったのか?」
 一度だけ。ヴィンセントは上体を起こす。
「『忘れ物』をしたのでな。それを取りにだけ行ったが……悪寒がしたのですぐに戻ってきた。思えば、あの気配がジェノバの首だったやもしれない」
「……そうかもな。他にはどこに行ってたんだ?」
「古えの森に入り浸っていた」
「趣味がいいとは言えないな」
 あんなトラップだらけの森のこと、思い出しただけでも頭が痛くなる。アルテマウェポンを追い回した先にたどり着いたあの森でクラウド一行はそれなりに痛い目に遭ったのだ。当時の記憶が掘り起こされるのを感じてクラウドは首を横に振った。「他には?」と尋ねる。
「一度ユフィと会ったが……あれはニブル山だったな。彼女は魔晄炉の跡地でマテリア探しをしていたらしい」
「アイツらしいな。一度セブンスヘブンに来たのはその後だった訳か」
「そうだ。その時にゴンガガの魔晄炉も行ったが……後はいわゆる『未開の地』とやらばかりだ。あまり詳しい場所は忘れた」
 ライフストリームが地表に吹き出し、聖なる泉を作り出していた洞窟。チョコボも嫌がるような魔獣の楽園。美しいクリスタルの彫像にその身を閉じ込めた想い人の祠。ウータイの北、誰も足を踏み入れたことがないという土着神の祭壇。人っ子一人近寄らない心霊スポットとなった螺旋トンネルと神羅の旧ジュノン支社。
 たまに人々の生活に近づいたりもしながら、この忘らるる都を拠点として世界を転々としていたと彼は言った。
「それこそ携帯なんぞ繋がらないだろうな」
「話を聞いてたらアンタが携帯を持とうとしなかったのも分かったよ。竜巻の迷宮にも行ったのか?」
「勿論」
 星を守る兵器たちが眠っていた大地、セフィロスがその身をライフストリームに漂わせて辿り着いた先。クラウドとしては忘らるる都に次ぐトラウマスポットではあるが、ジェノバの痕跡探しをするにあたっては重要な場所にあることは違いない。
 黒マントたちが集まる場所、リユニオンの先。
 セフィロスが黒マテリアによってメテオ召喚の術発動した場所でもあり、ティファが絶望に落ちた場所。物理的にクラウドはライフストリームに落ち、解き放たれた数多くのウェポンがジェノバによって理性を失い甚大な被害を与えた。
「相変わらず『あんな』感じなのか?」
「ジェノバの本体が消えたからか……多少はマシだったが。何度か吹き飛ばされはした」
「それは……災難だったな」
 吹き飛ばされただなんて軽く言ったものの、彼の言う『軽く』は大抵生身の人間にとっては致命傷だ。吹き飛ばされながらもたどり着いた先には何もなく、ただウェポンが消えていった際に空いた巨大なクレーターがあるだけだったそうだ。
「その後この都に戻ってきて……しばらくしてだ。見知らぬ奴らが住み着くようになった」
「それが、カダージュ……」
「あぁ。見た目からしてロクでもないことは分かっていたが……確証が持てなくてな。そのうちイリーナとツォンが連れてこられて来た」
「なるほど」
 それから更に星痕症候群の子供たちも集められてきた。ツォンが大切に隠し持っていたフルケアのマテリアをもぎとって彼らを回復した後の出来事だ。そしてクラウドがやってきて、マリンに携帯を持っていないと罵られ、エッジへ戻るバイクに乗せてもらえず置いて行かれた。
 もしかして恨んでるのか、というクラウドの問いかけには口の端をあげて応える。
「イリーナとツォンを抱えてカオスになって飛んでいたらミッドガルでシドに拾われた」
「それは……悪かったな。だが俺のバイクには定員がある」
「分かっている」
 橙色の雨はやがて止み、美しい色合いの夕暮れが訪れはじめる。今から帰ると遅くなる、とクラウドはその場で立ち上がった。
「泊まっていっても?」
「場所はいくらでもある。好きにしろ」
「……そうだったな」
 ここは都。
 かつて二千年という気も遠くなるような昔に古代種はこの街を拠点として生活してきた。一晩寝泊まりする程度ならば問題ない。「じゃあ、お邪魔するよ」とクラウドは言って歩き始めた。ヴィンセントはそれを追おうとはせず、ただただ暮れ行く都の空と泉の水面を見つめていた。



はるか黄のたいよう(ヴィンセントとユフィ)


 見上げれば 無限の星々。
 魔晄都市として長い歳月をかけて拡張されていったミッドガルも今や残骸だ。宇宙からやってくる凶星が全てを焼き切り、人々が己を神だと驕り支配してきた大地を焼け野原とするだろう。そればかりか『人間様の都合』とやらに付き合わされたこの星をも大きく傷つけるメテオは目前まで迫ってきている。
 もはや手遅れやもしれぬ。それでもクラウドはこの一晩を各々好きなように過ごせといい、夜明けと共に発つとも告げた。
 星の中心に巣食う災厄を滅ぼしホーリーを解き放つ。古代魔法であるそれは星を食らうメテオとは対をなす白き魔法。古代種のみに扱えるそれは勿論、その古代種がいない今制御不能の代物であることに代わりはない。解き放たれた白き光は滅びの魔法として星を蹂躙したミッドガルを、人間をメテオと共に焼き払うのかもしれない。この世界から消えてしまった愛する仲間が呼び出したその祈りは何を思うのか。
 それは 分からない。
 だからやってみるだけだ。クラウドは最後にそう言った気がする。とりあえず解散、一晩しかないけれどその一晩を使って考えてくれ。なんて無責任な言葉と共に仲間を追いやった我らがリーダーは幼馴染の女と『ナカヨク』やっているやもしれない。
「……寒い」
「そんな格好で来るからだ」
「じじくっさ」
「よくて父親か最悪祖父くらいの歳だろう、私は」
 他の仲間たちは今頃どこにいることだろうか。タイニーブロンコを飛ばして行ったシドはロケット村まで意地でも帰ったかもしれない。ついでに機体に押し込まれたナナキもきっと故郷だ。バレットは親友の娘に会いに行くと言って不慣れなチョコボに悪戦苦闘しながらカームへと向かった。
 残されたのはウータイの忍者娘と、動かない猫のぬいぐるみ。そして流浪の男のみ。
「マント貸してよ、あったかそう」
「断る。毛布がある。そっちを使え」
 準備いいじゃん。ユフィはヴィンセントの革袋から薄手の毛布を引きずり出すとそれを体に巻きつけて大げさに体を震わせてみせた。
「……帰らなくてもよかったのか?」
 ウータイ。彼女の故郷たる島国へは一晩あっても片道分の時間にしかならない。ユフィはゆるゆると首を振る。
「帰ったら……明日に間に合わないじゃん」
「君は大空洞まで来ないと思っていた」
「それはアタシの台詞だよ。ヴィンセントこそ、宝条がいなくなったから……もう いいのかと思った」
「……それもそうだな」
 行く宛のない二人と黒猫は魔晄キャノンの砲身からほど近い海辺で凍えていた。
 吹き付ける北風は大空洞からやってきているのかもしれない。頭上に伸びる神羅の技術が結集された人間の叡智は星の守護神たるウェポンを圧倒はしたものの、北の大空洞に張り巡らされていたバリアを解除するのみでその役目は終わった。
 魔晄炉が爆発するか、砲身が木っ端微塵となるか。星の危機とはまた別に余計な危機を呼び起こしてくれたのは哀れな科学者だった老いた一人の男。ユフィは赤く彩られた空に浮かび瞬く星々をぼんやりと数え始めた。魔晄都市ミッドガルの光は無く、深夜だというのに夕暮れ色の空には美しい満月と共に変わらぬ星が輝いていた。
 その一つが、落ちてくる。
「宝条……セフィロスのお父さんだったんだね」
 息子が星を呼びこの大地を傷つけるならばその手助けを。父としての愛情だとか、そんなことを宣(のたま)っていたはずだ。聞くに堪えない狂言のようなそれらをクラウドたちは黙って聞いていたが、堪え兼ねたヴィンセントが初めて聞くような罵声と共に遮った。
「……どうだろうな」
「アンタも知らないの?」
「……」
 父親、母親、息子。
 ユフィにとってのゴドーが父親であるようにセフィロスの父親が宝条であったかと問われればそれは間違いなく、NOである。だが全知全能たる神とやらが人間を作り出した全ての父であるとすれば、セフィロスの『父親』は宝条を含む神羅の科学者たちに他ならない。
 世界の行く末などよりもあの科学者がセフィロスに執着した理由は誰にも分からない。
「神羅の科学者たちは……最初は悪夢を呼ぶつもりなどなかった」
「ん?」
「ただ純粋に古代種の復活を夢見ただけだ」
「……ジェノバ・プロジェクト?」
 その真相を知るのは今やヴィンセントのみである。神羅の本社に保管されている明らかに改竄された報告書や神羅屋敷に放置されたデータを呼び起こせばある程度の概要は把握できるが、実際その場にいた人間の殆どは悲惨な末路を辿った。ヴィンセントもまた例外ではない。
「全ては仮説の時点で狂っていた。誰もジェノバが古代種であると疑わず……潤沢な神羅の資金を元に計画を進めていった」
「……まだ後悔してる?」
 セフィロスの母体となった女性研究員を止められなかったことに。
 プロジェクトを糾弾し本社へと報告しなかったことを。
 人間の心身を奪われたことに絶望し死の眠りへと逃避したことを。
「後悔していないなら……きっとここにはいない」
「ふぅん。アンタさぁ、セフィロスのお母さんのこと……好きだったの?」
「……」
「大事な話になると黙るよね、ヴィンセント」
「もう……全部 終わったことだ」
 出会った頃の彼ならばそれはそれは酷く憂鬱そうに吐いた言葉であろう。しかし今はどこか吹っ切れたような顔をして、勿論悲しみは声音に溢れてはいたが絶望とは少し遠い音と共に彼は続けた。「全ては変えることのできない……ただ、悔やむだけの過去。どれほど願おうとも、贖(あがな)おうとも……消えることはない」
 私は過去に生きすぎた。
 どこか自嘲気味に彼は口の端を歪めた。
「宝条をこの手で殺しても……虚しいだけだった。私の命を終わらせる 唯一の人間の命を奪った。私はまた人を殺しただけだ」
「でもそのおかげで魔晄炉も爆発しなかったし、ミッドガルも無事だったじゃんか」
「結果的にはな。私が手を下さなくともきっとクラウドは大空洞のジェノバを討ち滅ぼす。ホーリーは……セトラの、エアリスの祈りは巨星からこの星を守るだろう」
 あの満月が地平の果てへ消え去って、メテオなど知らぬ顔でやってくる太陽が再び天上を昇りつめ、西の果てへ姿を消して再びの月がやってきて。その繰り返しがあと何度かすれば全ては終わるだろう。凶星に大地が食い散らかされ終わりを迎えるか、それとも祈りが天に届き命芽吹く世界が保たれ悪夢が終わる日が来るか。
 私の意志とはきっと関係ないのだ、とヴィンセントはユフィの頭に手を置いて呟いた。「もう……私の旅は終わっている。あの男をこの手で殺し、訳の分からない過去の憤りを有耶無耶にした時点でな。だが……その結果を私は見届ける義務がある」
「義務、ね」
 ヴィンセントは優しく少女の短い黒髪を撫でた。
「どうせ後悔はするのだ。ならばやらずに後悔するよりもやって悔やんだほうが幾分マシだ」
「……それ、世間様では投げやりとかヤケクソとか言うんだよ」
「どう言われようが構わんさ。私にも……少しは人間の心が残ってたとでも思ってくれ」
 かつての自分なら間違いなくメテオなど知らず見なかったフリをしていたことだ。お節介すぎる仲間たちに囲まれもみくちゃにされている内に随分と丸くなったものだ。
 タークスとして神羅に所属していた頃のように笑うことはできない。下らないことで堰を切ったように腹を抱えて声を上げることもなくなったし、誰もが忌避するような下品な会話に仲間と花を咲かせることもない。人体改造によって酔えなくなってからは馬鹿ほど酒を飲んでトイレで朝を迎えることもなくなった。
 そもそもニブルヘイムに送られた時点で全てに絶望していたヴィンセントにとって、その先に待っていた世界は自身が浸っていた仮初めの絶望よりももっと陰惨で悲壮なものであった。そんな状態での出会いだ。誰が死のうとも誰が生きようとも、星が滅べども失われた心を取り戻すことなど不可能だとたかをくくっていた、はずだった。
「お前たちと出会ってから……自分がかつて人間であったことを よく、思い出す」
「ヴィンセント……」
 それは二度と戻れぬ心への郷愁。私はもう人間ではないのだ、と何度となく聞いた言葉を再び男は吐いた。「人間として生きることもできず……死ぬこともできない。100年500年先の未来で……お前たちの誰一人として生きてはいまい先の世界であろうと、私は生き続けるだろう。それでもきっと……きっと私は お前たちのことを未来永劫忘れはしない」
「……なんだか寂しいね」
「それが摂理だ」
「じゃ、一緒にセフィロス倒しに行けば……その思い出も増える?」
「勿論」
 悪夢を終わらせるだとか、物語の幕引きだとか。
 戦士(ソルジャー)と古代種(セトラ)が織り成した狂わされた旅路の果てを見届けるだとか。
 それこそ理由を見つけようとすればたくさん出てくるであろう。聞こえの良い、生暖かい理由も。タークスとして人を殺し続けたヴィンセントにとって今更そのような崇高な言葉を並べ立てることはあまりにも滑稽だった。ならばもっと理由は単純明快、簡潔でも構わないのだ。
「あの男を殺したこの世界で……私の目的が消え去ったこの世界が進む道を お前たちとまだ見ていたい」
 愛の告白?
 ユフィは照れ隠しのように呟き頭上に置かれたままの右手を弄んだ。
 革手袋の下に潜むのは人間と変わらない肌色をした腕だが、その皮膚を暴けば人間らしさの一部すら失われた魔物の血と肉が潜んでいる。こんなにも人間らしいことを望み、人間らしく笑う男は世界中の誰よりも人間からかけ離れた場所で足掻いているのだ。
「ヴィンセントは……人間じゃん」
「……」
 慰めではなくユフィは本心からそう告げた。
「ちょっと不器用で無愛想なだけでさ。アタシたちと一緒で……宝条相手にブチ切れたのはヴィンセントだよ。ジュノン脱出した後に……すっごく大変だったのに、それでもミディールに行こうって言ってくれて必死で論文探してくれたのも、クラウドを探そうって皆が言ったからでしょ? コンドルフォートで砦のオッサンたち守ってくれたのも……海底魔晄炉でマシンに捕まったアタシを助けてくれたのも、全部ヴィンセントだって……アタシ知ってる。そりゃ最初はいけ好かないなぁって思ったし、エアリスが死んだとき……アンタ表情一つ変えなかったから、本当どうしてやろうかとも思ったよ」
「……そうだな。殴られてもおかしくない態度だったな」
 泣きじゃくるユフィにマントを貸して鼻水塗れにされた反面、顔色一つ変えることなくただ水葬されていく彼女を見送っていたのはヴィンセントだけだ。古代種の神殿を脱出した直後の夜中にエアリスを連れて仲間の元から離れ、二人だけで忘らるる都までやってきた。そのことを謝りもせず、目の前でエアリスが無残に殺されたことに対する憤りを見せることもなく。
 ただ淡々と事実のみを語るヴィンセントの姿は異常そのものであった。
 けれどね、とユフィはその右手を取るとあどけなさが残る表情を緩ませた。「今きっと誰かが死んだら……アンタは泣いてくれる。アタシはそう思うよ」と言った。
「分かんなかったんでしょ? どうしていいか、何をしていいか……エアリスがいなくなっちゃった時、どうにもならなかったんでしょ。泣けもしなかったし……怒ることも 悲しむことも何をしていいか分からなかったからできなかっただけ。……違う?」
「君はずいぶん私を好意的に解釈してくれるのだな」
「だってその方がいいじゃん。アタシたち、もうとっくに仲間だよ。一蓮托生ってヤツ」
「共に死ぬことはない。君が死のうとも……私は生き残る」
「だけどアタシら全員死んだら、アタシらと一緒に戦ってきたヴィンセントも……死んじゃうよ。そしたらまた無口で無愛想でぶっきらぼうなヴィンセントに戻るんだ。アンタが神羅にいた頃のアンタはきっともう……死んじゃった。生まれ変わったアンタがアタシたちと出会って……今ここにいる。理由がちゃんとなくってもいいよ、セフィロスなんてもうどうでもいい。ただ守ってよ。アタシたちのこと」
「ユフィ……」
 再生という言葉が頭をちらついた。肉体を損傷しても自己再生していくのと同じように。心を何度壊されようとも再生を繰り返したのだ、きっと。新たな仲間と出会い、すっかり変わってしまった新たな世界の中で憎しみや悲しみ、喜びや愛しさを知るうちに徐々に人の心が再生されていったのだ。
 どこかで合点が言ったようにヴィンセントは「そうだな」と小さく呟いた。
「アンタと違ってアタシたちあっという間に……それこそエアリスみたいに、すぐ死んじゃうから。アンタのその力で……皆を守って」
 夜はまだまだ続く。
 なんだか眠くなってきたなぁという少女の手でしっかりホールドされた右腕を動かす訳にもいかず、ヴィンセントはガントレットで黙ったままの猫型ロボットの尻尾を掴んで釣り上げた。機能停止している訳ではない。いわゆるスリープモードだ。操縦者であるリーブは今頃寝る間も惜しんでミッドガルで避難活動を続けていることだろう。
 ミッドガルから脱出するにはもう遅すぎる。そう言って都市開発部門の統括であるその男は全住民のスラムへの避難という馬鹿げたことをやり始めたのだ。反発も全て押さえ込み立ち退かぬ者は無理やりにでもスラムへと送り込んでいるという。タークスや神羅兵たち、スラムの自警団やグラスランドのならずもの。多くの有志が集まってなんとかメテオ直撃には間に合う、かもしれないらしい。
 無論、メテオが直撃してミッドガルが破壊されなければの話だが。
「ケットもさぁ 神羅の玩具なんだから。すぐ壊れちゃう」
「……あぁ」
 人間ではないことに代わりはないがこの猫にも自我はある。古代種の神殿で黒マテリアとなった相方たるデブモーグリの姿はない。それでもこの猫は付いていくというのだろう。本体が忙殺されていようが関係なく、だ。
「アタシたちはすっごい感情的だからさ、ヴィンセントくらいちょっと冷静な人が必要なんだよ」
「……私も昔は感情的だったぞ」
「嘘、そうなの?」
「だから宝条に食ってかかって殺された」
「じゃ、冷静になってもらわなきゃ」
 ケラケラと忍者娘は笑う。
 いい加減に夜も更けてきた、明け方に起こしてやるから寝なさいという言葉に彼女は首を振る。「イヤだよ。興奮して寝れたもんじゃないさ。こっから大空洞まではちょっと時間かかるじゃん? その時に寝るからいーの」
「……ユフィ」
「ん」
「君がハイウインドに戻ったら……きっと彼らはびっくりするだろうな」
「そりゃ、マテリアハンターが化け物退治に乗るなんて誰も思わないからね」
「だな」
「でもヴィンセントが行っても皆驚くよ」
「……ユフィ」
「……なんだよ」
 ヴィンセントは海の果てに見える島のようにすら見える大空洞に目をやった。
 濃い霧に包まれる未開の地に待ち受けるは悪魔か、天の使いか。少なくともジェノバが隠れ蓑に選んだ場所だ、並大抵の魔物がいないであろうことは容易に想像がつく。「もっと……皆を驚かせてはみないか?」と無口な男は似合わない言葉を並べた。
「アンタがそんなこと言うだけでアタシは驚きなんだけど」
「じゃあ、更にもっとだ」
「……ナニしようってんの」
 簡単な驚かし方。
 ヴィンセントはユフィの手の中から右腕をすり抜けてすくっと立ち上がると左手でケットシーを抱え上げた。
「大空洞の様子でも見にいくか」
「…………は?」
「ハイウインドには戻らず、だ。武具は持って来ているだろう? マテリアはどうせクラウドたちが持ってくる」
「いや、そりゃ武器は持ってるしマテリアも最低限持ってるけど、さ…アンタ 先回りしてようっての?」
「いないと見せかけて大空洞で魔物の死骸にでも腰掛けて皆を出迎える。最高の歓迎だとは思わないか?」
「……ヴィンセント、頭打った?」
「いや。……ただ、『人間』だった頃の自分を思い出しただけだ」
「そんなことしてたんだ」
 昔は。ヴィンセントは軽く笑った。
「指令を無視して勝手な行動ばかりしてな。当時の主任にはよく怒鳴られたが……どうにも仲間の驚く顔を見るのが好きだったんだ」
「…!」
 そこに立っていたのは赤いマントを羽織る自身を人外だと宣(のたま)う男ではない。群青のスーツを着込んだスラリとした体躯の若い男だ。鬱陶しいほどの長い髪の毛はどこにもなく、ユフィよりも短めに切り揃えられた黒髪から覗く赤い瞳は爛々と輝いている。
 ユフィは一瞬にして見惚れてしまう。若くてハンサムなタークス。そんな彼がどうしてあぁまでも絶望に入り浸り死を望んだのか。「……ヴィンセント」と彼女は名前を紡いだ。
「いいよ、やろう。その話乗った。二人で……ケットもいるから三人でだね。魔物退治して、皆が『やっぱり来なかった』って言いながら大空洞にくる頃には……ベヒーモスみたいなでっかいのも、見たことない魔物もやっつけてさ、皆に弱点教えてあげるんだ」
 立ち上がって羽織っていた毛布を手放すと、それはあっという間に夜風に紛れて彼方へと飛んで行ってしまう。
 一体どんな顔をしてくれるだろう。
 あの霧立ち込める大空洞に降り立ってみたらあら不思議。魔物たちが手裏剣と銃弾によって悉く屍になっていて、どうしたことか道中一体のエンカウントもなし。神羅に先回りされたか?なんて見当違いの疑惑を抱き進むクラウド一行の前で、ユフィはヴィンセントと共にモンスターの死骸に乗っかって昼寝をしているのだ。
 待ちくたびれて寝ちゃったよ、遅かったね?
 それとも なんて言おう。
 きっと仲間は驚いた後にいろんな反応をしてくれることだろう。クラウドは呆れ果てて頭を抱えるだろうし、ティファは単独行動しない! ってヴィンセントを正座させて怒るだろう。エアリスを連れ出した次はユフィ? だなんて。バレットも図られたなんて喚くだろうし、レッドはきっとクラウドと共にため息をついてくれる。シドは苦笑いしながらもきっと露払いのお礼を言ってくれることだ。
 なんて楽しい未来だ。
「ハイウインドもブロンコも海チョコボないけど、どうやって行くつもり?」
 その言葉にタークスの男は笑う。
「任せろ。私には翼がある」
「……カオス……?」
「そんな顔をするな。人ならざる体を持っていても……それでも人間だと言ってくれたのは お前だ」
 群青のスーツはみるみるうちに姿を変え、赤く綺麗な瞳は金色に輝き始める。魔晄キャノンで宝条と戦った時に見たあの悪魔の姿がユフィの目の前に現れたが、不思議とその時とは違い纏う空気はヴィンセントのそれそのものだ。
「制御、できるんだ」
「何事もなければ、だ。とはいえ戦闘は御免被りたい」
 ヒビ割れた肌と無彩色の唇から漏れ出る声もまた、ヴィンセントのそれである。ユフィは「ケットには何も言ってないけど、いいよね」と言い革袋を持ち上げた。ヴィンセントが持っていたその袋の中には何本かのエクスポーションとエリクサー、そしてエーテルの類が入っていたはずだ。几帳面な彼は自分のものだけではなくいつも仲間の分まで回復薬を持ち歩いている。ユフィの手裏剣には強力なマテリア。腰にぶら下げた脇差にもいくつかのマテリアが嵌められている。
「……酔わないかな」
「保証しかねる」
「だよねぇ」
 よいしょとユフィがその首に両腕をかけると、カオスの姿をしたヴィンセントは軽々と少女の体を持ち上げた。異形の体温は人間らしさからかけ離れているがユフィは回した腕に力を込めて「寒そうだし、かっこつけて毛布捨てなきゃよかった」なんて言った。
「……飛ぶぞ」
「任せたよ!」
 ボロボロの翼が何度かの羽ばたきをその場で繰り返した後、悪魔の姿をした男はふわりと浮き上がった。
 夜明け色の真夜中に広がる星々がぐっと近づく錯覚だった。あっという間にヴィンセントは高度をあげ、凍える空気がむき出しのユフィの肌を突き刺す。
「ね ヴィンセント!」
 眼下に広がるミッドガルはどんどん小さくなっていき、一気に急降下したヴィンセントは海面すれすれを飛行し始める。不気味な浮遊感に胃袋が掴まれる感覚がし、ユフィは気持ち悪さと戦いながらも、風を切り裂く音に負けないように大きな声で悪魔のかたちをした男の名前を呼んだ。
「皆が驚く顔 楽しみだね!」
「……同じ言葉を……エアリスも言っていた」
「エアリスも?」
 忘らるる都で最後に交わしたセトラとの会話。確かそんな言葉を聞いたような気がする、とヴィンセントは飛行速度をまた一度上げた。
「楽しみだな。……皆がどれだけお前を責めるかが」
「アタシ? そりゃ、アタシとヴィンセントだったら……アタシのが怒られるかもしんないけどさぁ」
 きっとそれよりも先に再起動するであろう黒猫のぬいぐるみに罵声を浴びせられることだろう。段々とその姿がはっきりとしていく大空洞を肩越しに見ながら、ユフィは口元に笑みを浮かべた。
「これで大空洞に来るのがクラウドとティファだけだったら、どうしよっか」
「どうにもしないさ。五人で世界を救ってやろうじゃないか」
「……皆、来てくれるよね」
 当たり前だ。
 周囲の音に掻き消されそうな小さな声であったが、ヴィンセントは間髪入れずにそう答えてやった。
「あの時も……クラウドが一度戦線を離脱した時も……バラバラになった私たちは また彼の元に集った」
「……ん」
 彼さえいれば。
 古代種の祈りを聞いた戦士たる、彼が。
 全ての悪夢を断ち切る救世主一人がいれば、誰もが立ち上がる。
「だから全員から嫌味を言われる覚悟だけはしておくといい」
 翼を持った男は少しだけ高度を上げる。きっとハイウインドよりも早い速度で大空洞まで飛ばしているはずだ。人間離れした所業をもってして決戦の地へと向かう異形の仲間の姿がタークスの制服に身を包んだ優男のかたちと瞬間で切り替わる。

 夜明けはまだ、程遠い。



いにしえの緑(ヴィンセントとエアリス)


「ソルジャーもね 他の人と……変わらないのよ」
 エアリスは少しばかり眦を釣り上げてそう言った。「普通の人と同じ、大切の人のために泣いて……笑って、悲しいときは 声を上げて泣くの。ソルジャーだって 古代種だって みんな同じよ」
「……エアリス?」
「あなたが言った通り、わたしは古代種。クラウドは……元ソルジャーかもしれない。でもわたしもクラウドも、他の人と一緒。笑うし、怒るし、悲しむのよ」
 ヴィンセントという名の新参者はコスモキャニオンを統べる長老の寝室で微睡んでいた。クラウドと酒を飲んだ後に夕食を食べたところ、派手に昏倒したその男の面倒を見るためにエアリスは同じ部屋に居座っているが、書庫からたんまりと禁帯出の本を抱えてきた。
 本当は本の内容を教えてもらうつもりであった。
 博識であることは違いないし、長老との会話から彼がかつてキャニオンに所属していたことがあるということも分かった。ならば古代種に関する『ムズカシイ』本を読み解くことができるやもしれないという僅かな期待を込めて、だ。
「私の言葉が気に障ったのか?」
「もちろん」
 彼女は出会い頭に古代種と呼ばれ、その後も名前ではなくセトラだとかそういった呼び方をされたことに腹を立てていた。
「ならば謝ろう」
「じゃ、仲直りの証に……この本読んで?」
 分厚い、古びた論文集。
 ヴィンセントは目を細めて著者を確認するとため息をついた。
「休ませてくれる訳ではないのだな」
「だって、朝までたくさん時間はあるもの。お酒飲んでご飯食べてひっくり返った人は自業自得よ」
「……そうだな」
 だから、これ。エアリスはぱらぱらとその黄ばんだ本をめくり、一つの図を指で示した。
「魔晄炉の地図……だと思うの。ミッドガル、コンドルフォート、ゴンガガ……ニブルヘイム。あとウータイにも印があるんだけど、ウータイって魔晄炉があるの?」
「さぁ。だがあそこは魔晄炉建設をめぐって神羅と戦争をしただろう」
「ウータイ、負けたよ」
「そうか」
 もう何年も前のことだけど。博識でありながらも昨今の社会情勢には多少疎いヴィンセントに彼女はそう言った。
 名前はヴィンセント。偽名としてはグリモア。所属も過去も一切不明。ただ分かっているのは、クラウドとは全く違う方向ではあるが容姿端麗であり、物腰は非常に穏やかに見えはするものの魔物を相手にした際は率先して銃を構え突撃する。
 摩訶不思議な正体の彼を皆は揃って不信だと訝しみはするが、少なくとも悪人のような気配は見えない。
 ただ、謎が多いだけだ。
「……下世話な詮索をする訳ではないが」
 地図を広げていたエアリスは顔を上げた。「以前出会った男から君の名前を聞いたことがある」
「だぁれ?」
「……ザックス」
「!」
 ヴィンセントは積み上げられた昼寝用の毛布に埋もれながらも、その口からエアリスがよく知るソルジャーの名前を紡いだ。
「知り合いか?」
「どうして……あなたが知ってるの」
 エアリスは黄ばんだページをめくる手を止めた。警戒心と疑心を孕んだ言い草をした古代種の姿にヴィンセントは小さく笑うと、「少し話したことがあるだけだ……ミッドガルに本物の空を怖がる……星の声が聞こえる懇意な娘がいると」と言った。
「……どこで 会ったの」
「ニブルヘイム」
「いつ?」
「さぁ。5年か……6年か。かなり昔だ」
「……そっか」
 彼女は手にしていた本を床に置き、長椅子に肘をつき、横たわるヴィンセントの顔を近くからまじまじと見つめた。ソルジャーが持つ魔晄色の瞳とは全く違う、血色の瞳。エアリスの瞳を生命の色だと表現した彼の目もまた、特異な色をしていた。
「ザックス ニブルヘイムで電話したの……最後だった。そこから連絡、つかなくなっちゃった」
「彼は……「死んだの」」
 可愛らしい顔に暗い影を落とした。仲間には決して見せないであろうエアリスのその表情は年頃の娘『らしさ』に溢れていた。少しだけいいなって思っていた程度。ちょっと仲が良かっただけ、と言い訳にような言葉をぽつりぽつりと零していく。
「お花 ミッドガルで売ろうって言ってくれた。わたしのこと 古代種じゃなくって……エアリスだって、一人の女の子だって 思ってくれてた。そんなひと……初めてだったから」
 ヴィンセントの首元に半ば顔を埋めるように少女は囁いた。「ソルジャー、怖いって思ってた。……だけどザックスは みんなと一緒。たくさん泣いて……たくさん笑って……もっと もっと一緒にいたかったの」と。
「何故死んだかは?」
「ツォンとレノは教えてくれなかった」
「ツォンと……レノ?」
「わたしを見張ってたタークスたち。ザックスが死んだことすら……教えてくれなかった。ううんきっと、聞こうとしなかったのは わたし」
「……私は彼が何故死んだかを……恐らく 知っている」
「あなたはなんでも知ってるのね」
「教えたほうが?」
「ううん。今は……いい。でも、この旅が終わったら……教えてほしいな」
 生き返ったセフィロスを追いかけて。ジェノバと呼ばれる化け物退治をして。また世界中の人々が笑顔で暮らせるようになったら。伍番街の直下に広がるスラムに佇む教会で教えて?
 少しばかり嗚咽の混じった声を上げてエアリスは「お願い」と小さい声を出した。昨晩キャニオンの端末から不正アクセスした神羅の記録では、そのザックスというソルジャーは半年ほど前に死亡している。まだ半年だ。何年も待ち続けた少女が死を受け入れるには短すぎる年月であったのだろう。
 黒い射撃用のグローブに覆われた右手でヴィンセントは少女の頭を撫でた。
「喪失は……いずれ慣れる」
「……うん」
「お前はセトラだ」
「……」
「だから神羅に狙われる。クラウドは……元ソルジャーだと言った。神羅の脱走兵ならば奴もまた神羅に追われる身だ。バレットもティファも……壊滅したとはいえ反神羅のテロリスト。レッドは神羅の実験サンプル、ケットとユフィのことはよく分からんが……私も 素性が知れれば神羅から始末される身分だ」
「あなたも 元ソルジャー?」
「まさか。だが……そうだな、似たようなものだ。私は神羅から逃げ出した。君は……星を詠み解く力を持つ。クラウドは魔晄の力によって超人的な力を引き出すことができる。ティファはそれなりに格闘術の心得がある。ナナキはキャニオンの守り神セトの息子。古代種は……君のアイデンティティのつもりで言った。それが気に障ったのならば謝ろう」
「やさしいのね ヴィンセント」
「……」
「ねぇ。ソルジャーってね、目が……空の色をしているの。ヴィンセントの目は……どうしてそんな色をしているの?」
 まるで真白の雪原に鮮血を一滴だけ落としたような。「なんだか 不思議」
 ソルジャーでもなければ勿論古代種でもない。生まれた時からこの色だ、と彼は優しく答えてやった。
「エアリス、お前は古代種だ」
「……うん」
 初めてそう呼ばれたときよりもうんと優しい声色で彼は言った。
「どれだけ『普通』であろうとしても……その事実はきっと お前を苦しめる」
「そう、だね」
「……」
 だから。
 ヴィンセントは小さくそう告げると頭上の手のひらを下へと降ろし、少女の頬をなぞった。
 その目も、輪郭も、口元も。髪の毛も口調も何もかもが母親に生き写しの彼女はヴィンセントが過去にしまいこんで鍵を掛けた心の扉をこじ開けた。薄い桜色をした唇の色も、大きく揺れる緑色をした星色の瞳も。
「ヴィンセント?」
「守ってやる。私自身の意志で、お前を害する者全てから……お前を守ろう」
「!」
 それは愛の告白などではなく。どこか使命を帯びたような物言いにエアリスは更に目を大きくしたが、ややあってから綺麗な三日月のかたちに曲げる。そして左手を頬に添えられた男の手に重ねると愛おしそうに頬擦りし、「ありがとう」と柔らかく笑んだ。
「ありがとう、ヴィンセント。……ごめんね、さっきは怒って。あなたが守ってくれるなら……きっと 大丈夫。クラウドも、ティファも みんないてくれるもの」
「私は既に人ではない」
「……ん」
「だから彼らよりも 己の命を君のために差しだそう。どうせ死ぬことはない。彼らが全て諦めたその時……私は 君を守ろう」
 摩訶不思議な男はまた一つ不思議を作り、エアリスは満足げに頷いた。



あさやけは青(ヴィンセントとガスト博士)


「ガスト博士」
「どうしました」
 神羅屋敷の暗がりで少し髭を生やした壮年の科学者は立ち止まった。
 彼は今夜、神羅を離脱する。既に辞表とプロジェクトへの関与を一切拒否する旨を本社には伝えてあるという。受理されているかは関係ないと彼は言う。勿論共同研究者である宝条やルクレツィアは引き止めようとはしたものの、ガストの気持ちは非常に強く説得を諦めたのだ。
「彼女に……イファルナに 伝言をお願いしてもよろしいでしょうか」
 夜逃げ。そう形容するが最適である方法を年若い神羅の科学者は選んだ。本社研究室に残してあった書類の中、最も重要なものは全て持ち逃げするらしい。人類の目に止まってはいけなかった、と彼はこの神羅屋敷まで書類を取りに来たのだ。
 全てを捨て去り愛する者と共に世界の果てで生きる。ヴィンセントがそんな茨の道を選んだガストの手助けをした理由は他ならない、彼の『駆け落ち相手』が世界最後の古代種たるイファルナであったからだ。
「以前、ここに赴任する前……彼女と喧嘩をしてしまって、その謝罪を」
 夜明けは近い。徹夜続きとなってしまった他の研究者が力尽きて眠りこけている間に屋敷への侵入を手引きし、そしてその中に逃げてしまおうとガストは大きな革鞄に研究資料を詰め込んで用意していた。
 どこに行けばいいやも決めていないが、イファルナは北に行きたいそうだ。冬のニブルヘイムよりも寒いところだから、と言って皮のコートや毛皮のマフがぎゅうぎゅうに押し込められたそれを持ち上げ、上品なハットを被る。
「イファルナさんと喧嘩ですか。穏やかな方なのに、珍しいですね」
「それくらい私がひどいことを言ってしまったので。……どうか彼女に、あの時はすまなかったとお伝え願えませんか」
「それは……構いませんが」
 よかった。ヴィンセントは力なく微笑んだ。
 『穏やか』という言葉をを形にしたような人間であるとガストが思い込んでいたイファルナと喧嘩をしたというなかなかに興味深い事象に彼はお洒落な顎髭に指をかけ首を傾げて見せた。理由を聞かせろと直接は聞いてこなかったが、どう考えてもガストの瞳はそれを要求している。ヴィンセントは苦笑いしながら後頭部に手を当てた。
「ニブルに赴任する前なので……もう、5、6年は前になりますけれど。出発前に彼女は私にある約束をしてほしいと言ったんです。当時私はウータイ出征の直後で少し荒んでいて……それを拒んでしまった。どうにもそれが気になってしまっていて」
 あの医務室の中で交わした言葉が彼女との別れの言葉となってしまった。
 ウータイから命からがら生還した直後のことである。ちょっとした言い合いになり、大泣きした彼女を追いかけることをしなかったヴィンセントの前からイファルナは姿を消し、廊下で見かけることはあってもお互い意図的に目をそらすようになってしまった。
 だから、とヴィンセントは言う。「今からでも許されるなら、約束をしたい。あの時の約束を……交わさせてくれと、彼女に伝えて欲しい」
「約束、ですか」
「はい。いつか彼女の子供が産まれた時……その子はきっと世界から狙われる。守ってほしいと言われました」
「!」
「彼女は古代種。いずれ望まぬ出産を強制されると」
「そんな、ことを……」
「守れなくてもいいから約束してくれと譲歩されたのに……私はそれさえも断ってしまいました」
 だから彼女に、今からでも伝えてもらえませんか。
 ヴィンセントはまっすぐとガストを見つめてそう尋ねた。
「なんだか、妬いちゃいますね」
「え?」
「僕、これからそのイファルナさんと駆け落ちするっていうのに、君みたいなかっこいい男からの伝言を彼女に、ねぇ?」
 いたずらっぽく彼は笑った。
 整った鼻筋、北方系の白い肌、美しくきらめく赤い瞳。スリムで長身、物腰は柔らかいが戦闘能力は天下一品。その上キャニオンで学位を取れるほどの頭脳がある。並べ立てればキリのないほどのスペックを持つヴィンセントは意味がわからないとばかりに眉をひそめた。「そういう少し天然なところも」とガストは笑う。
「ガスト博士、意味が……」
「あぁ、気にしないでください。僕も君みたいにかっこよかったらなぁ、って思っただけです」
「は、はぁ…」
「分かりました。イファルナさんには責任を持って伝えます。……どうか、あなたもお元気で」
「ガスト博士こそ。イファルナとお幸せに」
 時間もないので、これで。
 ガスト博士は頭を一度だけ下げると、逃げるように裏口から足早に姿を消していった。
 ミッドガルでは今頃、かつてタークスで同僚だった友人がうまく警備を出し抜いてイファルナを脱出させているはずだ。何年も連絡をとっていなかったが、事の次第を連絡してみれば二つ返事で引き受けてくれた友人。そういえば彼とも喧嘩別れしたままであったなぁ、とガストが消えていったドアから差し込む朝日に目を細めた。



藍のとうひこう(ヴィンセントとエアリス)


「わっ 花火」
 ゴンドラの小さな窓から見える色とりどりの炎が夜空を埋め尽くしていく。
 赤、黄、コーラルピンク。少し見えにくい青色に混じって打ち上がっていくのは少女の瞳と同じ色をした黄緑色。「見て見て、あれ ケットの形なのかな?」と、不恰好な猫型の花火を指差してエアリスはきゃあきゃあとわざとらしくはしゃぎ始めた。
 一箇所だけ寄り道がしたいのと言って向かった先が、ここゴールドソーサーであった。
 今頃置いてきた仲間たちはどうなっていることだろうか。いい加減、そろそろクラウドも目が醒める頃だろう。エアリスは「わたしの未来で彼の夢の中、行って。さよならは言って来た」なんてまたも不思議なことと言っていた。きっと他の仲間たちもそんなクラウドの言葉によってエアリスと共に姿を消したヴィンセントの後を追おうと躍起になっているに違いない。
 だというのに、少女はこの遊戯施設に行きたいと駄々をこねた。
「……綺麗だなぁ」
「ついこの間にも度来ているだろう?」
「まぁ、ね」
 小さなゴンドラでエアリスの向かいに退屈そうな顔をして長い足を組んで腰掛けているのはヴィンセントだ。赤い外套姿ではなく紺青のスーツをきっちり着こなした細身の男の姿をした彼ははしゃぐ少女に適当に相槌を打ちながらも、自らが『人間』であった頃にはその計画しか存在していなかった夢の施設をぼんやり眺めていた。
 大量の電力を消費し、大量の資材を浪費し、人々に夢を与える。神羅による資金援助がなくしては成り立たない巨大な遊戯施設はもちろん魔晄も大量消費し、時として残酷な顔を持つディオというやりての経営者が取り仕切っているある意味では一つの国家であった。
「ヴィンセント、前来たとき アトラクション乗った?」
「いや」
「初めてなのにアンブレラ取れたの? すごい」
「一応銃を撃ちまくるのが仕事だった」
 ジェットコースターに乗りながらおもちゃの銃を撃ち続けて得点を競うアトラクション。
 それこそがエアリスが寄り道してでもこの場所を訪れたかった理由だという。「前にクラウドと来たとき、何回やっても取れなくって。なんだか悪いからもういいよって言ったんだけど……どうしても欲しかったんだ。かわいいでしょう?」と彼女は横に立てかけてあった青紫色の大人っぽい雨傘に触れた。
「……そんなもののために来たのか」
「ヴィンセントにとっては『そんなもの』でも、わたしにとっては大きいの。女の子は可愛いものに目がないんだから。……きっと」
「きっと?」
 どこか既視感のある言い方にヴィンセントは首をかしげた。
「わたし、『普通の女の子』みたいな買い物とか……したことないから。ツォンが服をくれたり、レノとルードが買ってきてくれたりはしたけれど……あんまり遠くまで行っちゃうと、あの人たちに迷惑かかっちゃうから」
「タークスに迷惑なんて考えることもなかったろうに」
「ほんとね。もっと困らせればよかったかも」
 ミッドガルの中でならば行動が制限されていた訳ではない。きっと、伍番街の教会と自宅を行き来するだけではなく、他のスラム街に行ってみることも可能だったはずだ。エアリスは「でも、いつもレノたち忙しそうだったから……」と言った。
 それを聞いたヴィンセントは軽く笑い、近づいてくる降車位置をぼんやりと眺めながら答えてやった。
「護衛対象に気を使われるようなら、護衛失格だな」
「ヴィンセントも護衛、たくさんしたの?」
「君の母親と……セフィロスの母親が主だった」
「……いま、すっごい発言したの わかってる?」
「あぁ」
 セフィロスの母親はジェノバ。父親は不明。かつて堕ちた英雄はそう語っていたという。しかしヴィンセントは笑みを口に浮かべたまま「ジェノバが人間を産む訳がなかろう。まぁ……今はまだ知らなくていい。彼らには刺激が強すぎるだろう」と言ってのけた。
 膝の上に手を置いて両手指を合わせてくすくす笑う姿は赤マントを着込んだヴィンセントと同一人物には到底思えない。エアリスはふぅん、と少しばかり不満げに相槌を打つ。
「母さんともこうやってデート、したことあるの?」
「何度か」
「キスは?」
「……ノーコメント」
「図星なのね。なぁんだ、ヴィンセントも普通の男の人なのね」
「それはどういう意味だ」
 ガタン、とひときわ大きな振動と音がしてゴンドラが停車した。自動で開いた扉からヴィンセントは降車すると、続くエアリスの手を取った。「女の子のエスコート、慣れてるのね」という年若い少女の戯言には答えない。
「わたし うれしい」
 もうソーサーを離れなきゃ。
 彼女は名残惜しそうに打ち上げられ続ける花火の残滓を眺めた。
「ヴィンセント、いつも辛そうで……苦しそうな顔 してたから。ちゃんと女の子と遊んだこともあったのね」
「……無表情のつもりだった」
「ほんと? いっつも眉間に皺寄せてるの、見えてるよ。体も心も すごく痛いんでしょ? ずっと無理して……黙ってる」
 出入り口の方向へアンブレラを振り回しながら歩く少女は振り返ることなく続ける。「クラウドも、ティファもバレットも……みんな苦しそう。みんな自分のせいだって……誰かのせいにしようとしないんだもん。そんなの見てたら すごく、つらい」
 雨が降っている訳でもない空に向かって少女はアンブレラを広げた。
 藍色のそれは骨いっぱいに羽を作り出し、内側に散りばめられた夜空を模した星座柄が桃色と朱の服の背後に広がっていき美しいコントラストを描き出す。ヒュルルル、ドーン。そんな間抜けな擬音語で表される花火の降る空の下でエアリスは立ち止まって振り返った。
「あのね」
「……」
「あなたにも……『視えて』るんでしょ」
 この先に待つものが。
 花火とは全く異なる色を帯びて眩しいほどに輝くネオンを後にしてエアリスは笑った。ロープウェイに乗って移動する必要もない。バギーに乗らなくたって、何一つ問題はないのだ。目指す果ては海を渡り、川を渡る。徒歩で生身の人間が踏破することなど不可能な場所だ。
 そして追跡してくるであろうクラウドたちに追いつかれぬよう、先に『果て』へ向かわねばならない。
「……視えていると言えば、君はどうする」
 ヴィンセントは腕を組み、長めの前髪から覗く赤い瞳を光らせた。
「どうにも。ただ、もっと安心できる」
「死を知っていることが?」
 そう問うて、ヴィンセントはあっという間にエアリスの身体を横抱きに持ち上げた。瞬きの数、たった三回。
 みるみるうちにタークスの制服を着ていた青年の姿は輪郭を変え、グロテスクで生々しい音を立てながらエアリスがこれまで見たことのない魔物のかたちへと変貌していった。背中から伸びる赤黒い翼はともすれば朽ち果ててしまいそうなほどに脆く、しかしながら毒々しい生命力に満ち、普段の姿ではガントレットによって隠されている左手の先に伸びているのは長い長い鉤爪である。
 陶器よりも白くひび割れた肌に浮かぶ双眸は黄金の色をしており、他の魔獣と違って人間と近い形をしているというのに、およそ人間らしさというものを一つも感じさせない悪魔がエアリスを見下ろしていた。
「すごい」
「怖いか?」
「ううん。ただ、綺麗だなって」
「……そう言われたのは初めてだ」
「どういたしまして」
 古えの悪魔そのものはロープウェイ乗り場の端に立つと、折れた翼を羽ばたかせて花火乱舞する夜空へと飛び出した。



「ねぇ!」
 みるみるうちに遠ざかっていくゴールドソーサーの景色にはしゃぎながらエアリスは身を反らし、金の瞳と視線を合わせる。「わたしのお母さんのはなし、もっと聞かせて!」
「……ビレッジに着いてからな」
「ビレッジ?」
 聞かれて、ヴィンセントは失速した。鳥の翼のような構造ではなく、完全に魔力を原動力として飛行する悪魔は直立不動の姿勢で深夜の空に浮かんでいる。翼の羽ばたきによって生み出される魔力の渦が浮遊力を生み出しているのだという。
「ボーン・ビレッジ。まさか行き方も知らなかったのか?」
「……駄目?」
「向こう見ずだな、母親に似て」
「お母さんもだったのね。どうしてヴィンセントは……都への道を知ってるの?」
「イファルナに教えてもらったことがある」
 話し声が聞こえる程度の速度で再び悪魔は飛び始めた。「ノルスポルへと至る道へは…幻惑と眠りの森を抜ける必要があると。古代種の叡智であるルナハープを奏でれば森を突破できる」
「それがボーン・ビレッジにあるの?」
「おそらく。あそこは古代種がかつて使っていた道具なども発掘されている」
「そうなんだ! ……楽しみね」
「……エアリス」
「なぁに?」
「死出の旅だ、分かっているだろう」
 古代種の持つ能力が一つである未来視は彼女に近い未来での死を与えた。如何なるかたちにしてもたらされるかはわからない。いつなのかも、どこなのかも。志半ばで命失うやもしれないし、再びクラウドたちと会うことができてから死へと落ちていくのかもしれない。純血ではないエアリスは明瞭な星詠みを行うことはできなかったが、それでも彼女は自身に降りかかるいのちの終わりを感じ取ってしまっていた。
 ヴィンセントもまた、それを感じていた。
 純血種どころではなく古代種でもない彼が『それ』を視たのは内に潜む悪魔の作用であったのか、それともエアリスと触れ合ったためか。
 理由はなんであれ、ヴィンセントもまたエアリスの死を視ていた。
「死出の旅でも、ひとりじゃないもの」
 エアリスは微笑んでいた。
「……」
「古代種は……セトラはね」
 長い髪の毛が夜風にさらわれていく。風除けを持たないエアリスの腕に直撃する冷え切った風は彼女の体温を奪っていくが、ヴィンセントのそれは人間よりも低い。少しばかり彼女を抱く手に力をこめてみたところで暖めてやることはできない。
 セトラはね。
 エアリスは再びそう言った。
「自分が死んで……そのあと、代わりに『星詠み』をしてくれる人を見つけたとき、死出の旅に出るの」
「……」
「母さんはきっとわたしが星詠みをできること 知ってたんだと思う。だから……わたしを連れて、神羅から逃げ出した」
「私はセトラではない」
「だけど、きっと星の声が聞こえるわ」
「私は……魔物に冒された身。星の声は聞こえども、セトラの祈りを捧げることはできない」
 いいんだよ。エアリスはヴィンセントの首に腕を回し、幼子をあやすようにそっと抱きしめた。
「お願い。わたしが死んだら……星の祈りを、星の願いを、星の声を……聞いて。嘘でもいいの、忘れてしまってもいいの。だけど……わたしを安心させるために、嘘でもいいから約束してほしいの」
 フラッシュバックしていく記憶。
 大輪の花から花弁が一枚、一枚と回転しながらもげては消え去っていくような感覚。
 その言い回しも、涙を堪えているのに大人ぶった言い方も。どこからどこまでも彼女は母親たるイファルナにそっくりであった。それこそ全く同じ人間であるかのように。
「私はきっと……約束を守れない」
「……うん」
「守れない約束は交わさない主義だが……君を失望させたまま、死なせたくはない」
「ヴィンセント……」
 彼の脳裏には穏やかに笑う古代種がちらついていた。とても親しかった訳ではない。エアリスの言うところの、ザックスに対して自称『ちょっといいなって思っただけ』というやつだ。実際のところ恋人ごっこをしてみたりそれこそキスをしてみたりだなんてことはしていたが、あくまで彼女は親しい友人であった、はずだ。
 ニブルヘイムへ左遷されるより少し前、約束をするかしないかでイファルナと最後に喧嘩別れをしてしまったことを思い出しながらヴィンセントはエアリスの顔を見ないまま告げた。
「約束しよう。君が死した後……星の声を 聞こう。善処はする」
「ほんと?」
「二言はない。私の内に棲む悪魔は星の力を持つ。ならば、セトラのようにとはいかずとも……星の声を聞くことは できるはずだ」
 よかった、とエアリスは身を離した。ぐずぐずと涙を落とさないように耐えていたであろう口元には屈託のない微笑み。「だから君も、約束してくれ」とヴィンセントはそんなエアリスに言う。
「いいよ」
「まだ言ってないが」
「だってヴィンセント、わたしと約束してくれたじゃない。わたしも守れるか分からないけれど……約束、しよ?」
「……必ず 祈りを届けろ」
「!」
「君を無駄死にさせるつもりはない。いずれ君は死ぬやもしれない。けれど私は全力で君を守る。だから君も……星へ祈りを、古代種の想いを必ず届けろ」
「それこそ、守れるか分からないね」
「約束すると先に言ったのは君だ」
 藍色の空いっぱいに光り輝く星々が二人を照らした。月の無い深夜はどこまでも暗く、夜空というキャンバスに散りばめられた無数の星座たちが彩る傘の下ヴィンセントはエアリスを抱いて飛び続けた。
 コレルの山を越えて、そこからさらに北へ。古代種の遺産発掘にいそしむ集落までひとっ飛びだ。
「約束、する」
「これでお互い様だ」
「ん」
 悪魔は飛んでいく。
 セトラを抱き、遥か彼方の忘れられた古代種の都へ。「ビレッジに着いたら、母さんのこともっと教えてね」というエアリスの言葉に腕に込めた力を少し強くすることで悪魔は諾として応えた。



りんとうそぶく紫(ヴィンセントとシド)


 煙草。
 ヴィンセントはシドにそう言って右手を差し出した。ぷかぷかと紫煙を吐いていたパイロットは予想外の言葉に少しばかり目を丸くした。
「お前、吸うのか」
「悪いか?」
「悪かねょ、意外なだけだ」
 シドはゴーグルに挟んであったふにゃふにゃと縒(よ)れた煙草を一本ヴィンセントに手渡す。ライターの火を出してやろうとする前に目の前の男はその綺麗な顔を寄せ、シドの口先で灯る煙草の火を頂戴した。
「ずいぶん慣れてるじゃねぇの」
「昔はよく吸っていた」
「……昔?」
 一番過去を語りたがらない風体の男から過去というワードが飛び出てくる。シドは更に目玉を丸くして指に挟んだ煙草が短くなっていくのを忘れていた。
 元ソルジャーだとか、ミッドガルの花売りだとかテロリストとか。それなりに不透明ではあるがなんとなく把握できるような背景を背負った面々の中で一人だけ何もかもが不明だった男だ。俗に言うイケメンという類に分けられ、射撃の腕はシドが今まで見てきたどの兵士よりも、どのタークスよりも正確。決して前に出て意見することはないが、稀に口を開いたかと思えば的確すぎる助言。
 過去が塗りつぶされたそんな男にシドは「お前、いくつだっけ」と尋ねた。
「……にじゅう……なな……?」
「なんで疑問形なんだよ、ったく。最近は吸わねぇのか」
「吸っても臭いがつくだけだからな」
 煙草の臭いというものは女性陣にそれこそ『煙たがれる』案件だ。クラウドとバレットは煙草を嗜むことがなく、ヴィンセントも自ら吸うようなこともなかったらしい。初めての喫煙者というやつにエアリスは臭い!と眦をつり上げ、ユフィはあからさまに嫌な顔をしてくる。
 唯一ティファだけはスラムでバーを経営していただけあって酒も煙草も平気だとは言っていたが、それでもあまりいい顔はしない。
「俺ぁ安心したぜ。てっきり喫煙者は俺だけかと思ってたからな」
「そうか」
 今度からはお前も非難されっぞと嬉しそうな声でシドは言った。
 それに対してヴィンセントは小さく笑うとかなり濃い煙を胸いっぱいに吸い込み、噎せ返るような煙を味わった。
「なんで煙草やめたんだ?」
 それなりにかつて吸っていたなら禁煙するために努力はしたのだろう。まだシドからしてみれば27という年齢は若いというのにやめてしまうなんて、と首を傾げて指のすぐ近くまで燃えていた煙草を灰皿に押し付けて箱に残っていた最後の一本をくわえる。
 ライターで先端に灯った炎はもうもうとぐずついた空に消えていく。
「しばらく吸えない時期があって……それ以来だ」
「へぇ」
 買い物からやがて帰ってくる女性陣は男二人が仲良く並んで煙草を吸っている姿を見てなんと言ってくるであろうか。古びた廃村に残されたロッジの軒先に座り込んでゆらゆらと臭い煙を漂わせる。
「俺が煙草なんて吸い始めたがそんくらいだぜ。ロケットが飛ばなくて……会社がつまんなくなって、イライラした時に吸うようにしてたら常習だ」
 お前の年の頃にゃまだ『いい子』だったんだぜ、と笑った。ヴィンセントは適当に相槌を打ち、探りを入れてくるようなシドの言葉にも適当に返していく。煙草を吸い始めたのは? と聞かれれば成人までは待った、と。誰と一緒に吸ってた? と聞かれれば友人と、と。好きな銘柄を聞かれたが特に選んでないなんて答えてやった。
「詮索するだけ無駄だ」
 うんざりするほど見え見えな探りにヴィンセントは煙を窄めた口から吐き出して言った。
「そーかいそーかい。ま、今日はここらで勘弁してやる。また煙草吸うタイミングがありゃその度に詮索してやるよ」
「…」
 湿り気を帯びた煙草の先からはただ紫煙がこぼれ出るだけである。



「で? てめぇタークスだった頃に吸ってたのか」
「……なんの話だ?」
 目指す星の核は、すぐそこ。最後に少しだけ休憩しようというリーダー様の言葉に従って皆が思い思いに時間を過ごす中、シドは一人離れた場所でじっと星の中心を見つめていたヴィンセントの隣にやってきて煙草の箱を突き出した。
 吸うだろ? という問いかけに彼は小さく頷くと一本それを取り出し、今度はライターを受け取って慣れた手つきでそれに火を点けた。
「昔はよく吸ってたって言ったじゃねぇか」
「……」
 そんな話をしたかもな。
 出会って間も無い頃に交わしたやりとりを律儀に覚えていたシドは満足げにその場に座り込んだ。「タークスだった頃」と、どうせ最後ならば彼が望む話を聞かせてやろうとヴィンセントは口を開いた。「血なまぐさい任務ばかりだった。……今のタークスのような仕事ばかりじゃない、それこそ戦争にも行ったし……ダウンタウンのマフィアと抗争を繰り返していた頃だ」
「そりゃ、大昔の話だな」
「あぁ。きっとアンタが生まれるより前だ。昼間人を殺して……深夜も殺し。そんなこともあった かもしれん」
「……きっついな」
「途中で着替えもできないしな。そういう時に煙草を吸って……臭いをごまかしていた」
「血の臭い?」
「煙とな」
 だから本当は臭いのキツい銘柄ばかり吸っていたし、多い日は一日で一箱あけてしまうことだってよくあった。ヴィンセントはそう言うと小さく笑う。「喉もやられるし……なにより走り回る仕事だったからな。そのうち煙草をやめにして香水にした」
「香水? ……そういや、タークスのやつらもたまに香水つけてやがったな」
「そういう訳だ。別に色めいてる訳じゃない」
 レノはシトラス系、ルードはフゼアのような少し古びた香り。イリーナは薔薇やラベンダーといった花の香り。そんな強烈なパフュームをつけていることがあったとシドは思い出していた。たまに視察だのでロケット村にやってくる彼らからそんな臭いがする時は対抗するように煙草を吸っていたものだ。
「そんな理由だったのか」
「奴らも全員同じかは知らんが」
「同じだろうよ。レノの野郎、その上煙草ばっか吸いやがって俺様の全部吸いきったこともあるぜ」
 煙草と硝煙と香水と血の匂い。ちぐはぐな組み合わせを常に周囲に纏わせたいけすかない黒スーツの集団にかつてこのヴィンセントも所属していたという事実は皆を揃って驚かせるには十分すぎる情報であったが、今となってはその戦闘能力の高さも、判断力の高さも全てはタークス時代に培ったものだと言われれば完全に合点がいく。
 クラウドと談笑していたティファとバレットがこちらに目線を合わせ、マテリアを此の期に及んでネコババしようとしていたユフィをレッドが引き止める。そろそろ出立だ。
「……本当は」
「ん?」
 ヴィンセントは立ち上がる。まだ長さの残る煙草は星の中心、ライフストリームの中とやらへ投げ入れた。
「煙草をやめたのは……女に言われたからだ」
「な、なんだって!?」
「続きが聞きたくば教えてやる。……全部終わったらまた、な」
「ちょっと待てヴィンセント! てめぇ、なんてこと言いやがる!」
 ひょいひょいと足元の悪い岩場を軽々と飛び移って逃げるようにクラウドたちの元まで引き返してくるヴィンセントにシドは大仰な身振りで叫んだ。「てめぇ! おい、待て! 後で本当にきっちり教えてもらうからな!」と。
「……何を言ったんだ?」
 とクラウドは首をかしげた。そこに戻ってきたユフィが「うっわ、ヴィンセントくっさ」という容赦一欠片もない言葉を吐いた。
「別に。ただ、生き残った暁には褒美がないと張り合いがなかろう」
「ご褒美? マテリアくれんの?」
 アホか。ユフィの頭をクラウドが軽く叩く。
「お前たちにはまだ早い話だ」
「……俺も子供扱いなのか?」
「煙草も吸わん餓鬼には縁遠い話だ。精々生き残れ、『リーダー』」
「……餓鬼じゃないし、俺は最初からそのつもりだ」
 クラウドは思わずむっとして頬を膨らませた。そんな対応を見てヴィンセントは鼻で笑う、少し見下した感じで。纏う赤も、漂う黒髪も初めて出会った頃から何一つすら変わっていないはずなのに目の前に立つヴィンセントは知らない男の顔をしていた。悪戯っぽく笑む姿はエアリスのそれに少し似ていて、だけど不敵な作り笑いはレノたちタークスそっくりだ。
 元来の性格なのだろう、後ろから追いかけてきたシドの方へ振り返って嫌味ったらしい声で「せいぜい生きて帰ることに必死になるんだな」と言ったヴィンセントにクラウドはため息をついてから「ほんと、あんた最後まで訳が分からなかったな。嘘だらけだ」と観念したように呟いた。


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