七つの大罪


傲慢:愚者の王(ゴルベーザとギルバート)


 砂漠の王が仲間の輪から離れて一人食事を摂るゴルベーザの隣に腰掛けたのは、異空間とも形容できる月の渓谷からさらに奥へと進んだ無機質な石の床上だった。
 ローザの張った結界によって魔物の視界から消え去っていうrためどれほど騒ごうが敵襲を受けることはあまり考えられないが、それでも楽観視できない状況下であるためか皆一様に口数は少ない。あのパロムですら大人しくレオノーラに魔法の手ほどきをしていたほどだ。
「私はあなたを誤解していたようだ」
 ダムシアン王たるギルバートはそう言って薄い粥をかき混ぜた。既にゴルベーザの持つ器の中は空であり、彼はただじっと座って彼方に見えるエネルギー源の中心を見つめていたのだ。
「誤解?」
「私はあなたを…ただ力で全てをねじ伏せる 暴君だと思っていた」
「その理解で違いはない」
「いや。ここまで来てよくわかったよ」
 多くのものを見、聞き、肌で感じ取って。
 以前までのギルバートならば間違いなくゴルベーザというこのセシルの兄を嫌悪したことであろう。ゼムスという悪魔に唆(そそのか)されていたとはいえ間違いなく己の意思でダムシアンの街を焼き、家族と民、そして愛する女の命を奪っただけでなくその父親すら殺した張本人なのだから。青き星を恐怖に貶めただとか、ゼムスだとか。世間一般的に言われているゴルベーザの悪事にそれほど興味はなく、ただギルバートは私怨として彼を恨んでいた。
 守るものなどなくただ破壊し、奪い、侵すだけの男。
 そんなように思っていた印象がガラリと方向転換したよ。人懐っこい笑みを浮かべてギルバートは続けた。「私は先の戦いで途中離脱してしまったからね。あまり多くは知らないけれど…カインの話を聞いてよくわかったよ。彼はあなたに心酔している」
「馬鹿な」
「あぁ、馬鹿だ。自分の国の王を殺し…全てを奪い去った相手に酔うなんて、どうかしているとしか思えない」
「…いつの話だ?」
「今もだ。戦いのたび…セシルが目覚めるまで、彼はセシルの代わりに皆を率いてくれていた。時に折れそうな心を鼓舞し、竜騎士の象徴たる槍を持つことを諦め守りに徹することになっても 何一つ弱音を吐かない。そんな頼り甲斐のある仲間だ」
「アレは元がそういう役職だっただろう」
 バロンが誇る竜騎士団の団長。空を舞う竜騎兵がバロンの主戦力であった全盛期からは外れてしまっているが、間違いなく彼はバロンの歴史の中で数えられるほどの実力を持った竜使いであったはずだ。たとえ十年以上のブランクがあろうと骨身まで染み付いたその気質はやすやすと変わるものではない。
 ゴルベーザがそんなことを言うとギルバートはやはり笑った。
「あなたは彼のことをよく知っている。…きっとセシルが知らないことも 知っているのでしょう」
「かもしれんな」
 彼がセシルに抱き続けていた黒い感情とか。そのどす黒い感情の下には最愛の情が宿っていたりだとか。
 おそらく彼が誰にも告げることなく墓場まで持って行ってしまおうと画策していた想いの数々を、全てをゴルベーザは暴いてきた。その感情に任せて行動させてみれば裏切ってみたり、それでも殺せなかったり。どこまでも理性強く己よりも他ならぬセシルとローザを愛する男であることを知るはゴルベーザのみなのだ。
「私はあなたが彼を力づくで従わせていただけだと思っていたよ」
 そんな心を知ってか知らずか、ダムシアンの優男はそう告げた。
「似たようなものだ」
「だがなあたの支配から逃れても…カインはあなたを慕っている。驚いたよ」
「…」
 それだけじゃないんだ、ギルバートはすっかり冷えた粥のことなど忘れたかのように少しばかり熱のこもった声で続けた。
「ここに来るまで…あなたの配下だった魔物と戦ったでしょう。彼らの誰一人としてあなたを恨まず憎まず…ただ、あなたに殺されることだけを願い 生き絶えるその時は…安らかに消えていった」
「彼らは私の忠臣だった。いや、死して尚…忠を誓ってくれた」
 淀みのない返答。腐臭撒き散らすアンデッドに、バロン国王を殺した亀の魔物。テラが死んだあの忌まわしき塔を支配していた黄金の髪の毛をした女に、最強の敵ルビカンテ。のっぽふとっちょちっちゃいの。非常に個性的な仲良し三姉妹の魔物たち。
 ギルバートが直接相対した敵ではなかったものの、それでも古き戦いに見を投じてきた仲間たちにとっては死闘を演じた相手だ。
「ひどい言い方だが、あなたを慕っていた魔物…いや、人々がいたことにひどく驚いた」
「無理もなかろう。私は青き星に生きる者からすれば 諸悪の根源だ」
「えぇ。ですが今は違う。私たちの仲間であるあなたは…皆から慕われている」
「どうだろうな」
「子供たちは緊張しているだけです。パロムなんてあなたにちょっかい出しっきりじゃないか」
 身長が伸びてもいたずらっぽい性格が変わらない双子魔導師の弟は暇さえあればゴルベーザを尾け回している。レオノーラに黒魔法の手ほどきをしつつ、彼自身は禁術魔法といった類を多く知るゴルベーザから知識を引き出そうと必死なのだ。かつてはスカルミリョーネらアンデッド軍団と戦った彼ではあるが、今となっては物怖じ一つせず「オッサン!」なんてひどい言葉を吐きながら執拗に魔法の講義を乞い願うのだ。
 昔の行いゆえではなく、その厳しい人相ゆえに恐れられてるだけ。
「だが、そうやって甘く見ていると痛い目を見るぞ。私が再び思念を乗っ取られる可能性とてゼロではない。セシルがそうであったように」
「…そうなった時には 我らがあなたを誅するのみ。だからどうかそれまでは、どうか『彼ら』に慕われていて欲しい」
 彼ら、と。
 それに含まれているであろう人物らは今となっては地獄へ堕ちた魔物達だけではない。パロム、レオノーラ、リディア。黒魔法を扱う魔術師たちにとってのゴルベーザは『師』の立ち位置に居るし、セシルからすれば立派な『兄』であり。
 ゴルベーザ自身が望まずともすでに彼は他者にとって慕うべき場所にいる。
「お前がそうとまで言うのなら」
 と彼は言う。「せめてこの戦いが終わるまでは、私は傲慢にも何も知らぬ者として彼らの信を受け続けよう」
 かつての愚者の王はどこか諦めきった表情でそう告げた。



強欲:護り手(セシルとエッジ)


「僕には護るべきものがある」
「そうは言ってもよぉ、セシル」
「分かっているよ、エッジ。お前の言いたいことは。僕が…私が、王が護りたいと思う者全てを護れる訳ではない」
 民を、臣下を、仲間を、家族を、国を、大地を。
 護りたいと願うものの名を挙げていけばキリがないのだ。疲れ切って冷たい月の床に転がり眠る子供たちの顔を愛おしそうにセシルは見つめた。たった数ヶ月で随分と逞しくなった息子の姿は頼もしい限りだ。まだまだ戦闘経験は浅いが、それでも赤い翼が壊滅したというミシディアからバロンまでという短い旅路で相当カインに鍛えられたのであろう、同年代の子供たちを率いてよく戦ってくれている。
 それでも、護りたいという対象であることに変わりはない。
「あんな間抜けヅラして寝てるけどよ…お前が思うより、みんな強いぜ?」
 月の民としての血を覚醒させたセオドア。父譲りの精神的な強さで力の未熟さを補うアーシュラ。エッジ顔負けのすばしこさで駆け回るツキノワ。人形を抱いていたドワーフの王女はその絡繰人形と共に走り回り、ミシディアの若き魔導士たちも大人に負けじと魔力を爆発させる。
 彼らがいなければここまでたどり着けなかったのもまた、事実だ。
「知っているだろう?僕は欲深い。一度手に入れたものは二度と失いたくないんだ」
「護られるようなタマじゃない奴もいるぜ」
 例えば、少し先で寝相が悪くパロムが蹴飛ばした毛布を掛け直してやっているセシルの兄とか。このところ彼はよくパロムに構う。否、パロムが懐いているのだ。暇さえあれば魔術の教えを請い、食事の際も執拗にコツを聞き出そうとする。ゴルベーザもそれを悪い気分だとは思っていないのだろう、パロムに毛布を掛け直してやったあとにそっとその頭を撫でている。
 兄さんだって護りたいよ、とセシルは呟いた。
 体を張った戦いは兄弟揃いである。ゴルベーザからしてみれば、いくら頑強な盾を持っているとはいえ瀕死の仲間を庇い、常に攻撃を引き受けようとするセシルは危なっかしいのであろう。だが、弟たるセシルにとっては騎士の鎧も持たぬ丸腰に近い実兄が攻撃を引きつけているのが気にくわないようだ。
 似た者同士だと誰かが言っていたが、全くだとエッジは頭をガリガリ掻きむしった。
「じゃ、お前の親友さんとやらも護りたい相手か?」
「勿論」
「…お前本気か?」
「僕はもう正気だぞ」
 親友さま。親友さまね。
 その親友さまは今頃無機質な月の床を歩き回ってルカの人形を強化するのに合う素材を探しているところだろう。王女自身が休んでいる間にこっそり人形たちを連れ出していったのだ。
 ファンシィなお人形と一緒にフェイスを相手にしているのかと思うとなかなかに笑える絵面である。
「カインだってそうさ。白魔法が使えるようになったみたいだし、王座で毎日ふんぞりかえってる僕なんかよりもずっと強いだろうけれど…だけど、昔と同じで彼の戦い方は危なっかしいじゃないか。見てられない」
「それには全面的に同意だな」
 どれほど強大な敵であろうともとりあえず突撃する男だ。カウンターで魔法を使ってくる相手であろうが、猛毒のブレスを吐く魔物であろうが、亀であろうがだ。重たい槍で自身の何倍もの重さをもつ魔物を打ち上げ、エッジが追撃する。昔と違って今では最初に自身へとブリンクやらヘイストといった補助魔法をかけてから突っ込むようにはなったが、それでもセシルとしては気が気でない。
 そもそもの話、竜騎士という己の体を武器そのものにして捨て身に近い攻撃を生業とする彼らと暗黒騎士、ひいては聖騎士たるセシルの戦闘スタイルは真っ向から相反するのだ。
「でもあいつはずっとあんな戦い方なんだろう?流石にいい年してんだから自分の限界くらい弁(わきま)えてるだろ」
「それとこれとは別の話だ」
「…それは本当の強欲ってやつだな」
「言っただろう。僕は欲深いと」
「強欲はいつかお前の身を滅ぼすぜ」
「それで滅べばいいんだけどな。兄さんもカインも…なかなか護らせてくれない」
「あの二人だって…お前を護りたいんだよ」
 絶対に口には出さないが、だ。特に親友は死んでもそんなことは言いそうにもないが、セシルがカインを護りたいと願う以上にカインはセシルを護ろうとしている。きっと幼い頃からセシル自身が気づかないだけで護ってきたのであろう。いくら国王の養子であるとはいえ、元が捨て子であったセシルに貴族がいい顔をするはずがない。セシルが国王の椅子に座していられるのも、カインがバロンを出て行く前に有力な貴族に根回しをし、時に恫喝して反乱分子を押さえつけたからだという噂も聞いている。
 ずっと護ってきた血の繋がらない弟分なのだろう、カインにとってセシルは。
 だから護られるつもりはないだろうし、これからもセシルの知らぬところでずっと彼を護っていくはずだ。「セシルよぉ」と、エッジは再び毛布を蹴り飛ばしたパロムに手こずるゴルベーザの姿を視界に入れながら呟く。
「護りたい気持ちはわかるぜ。…だが、本当に護れるものとそうじゃないものがある。気持ちだけで十分な場合もあるんだ」
「…」
「気持ちだけじゃ護れねぇものを…それこそてめぇの息子とか、嫁とかよ。少なくとも兄貴と親友さまはお前が護ることはねぇ」
「でもエッジ、僕は」
「セシル」
 埒の明かない友人にエブラーナの王は語気を強めた。
「強欲は身を滅ぼすて言っただろう。死ぬのが俺やお前ならいいが…欲を出して、本当に護りたいやつすら護れなかったらどうしようもないだろ」
「…でも 僕、は」
 それでも全てを護りたいんだ、と軍事国家バロンの王は十数年前から変わらぬ望みを口にした。



色欲:よいこの性教育(パロムとゴルベーザ)


 ムラムラしちゃって。
 年若き天才魔道士が訴えかけてきた内容をとても簡単にまとめるとただの思春期の子供が抱える悩みに等しくなる。プライドの高いこの子供が相談しにくるのだ、よほど勇気を出してやってきたことに違いはないが、相談された側であるかつての魔人は大きな岩にもたれ掛かりながら食事の輪から離れ今後の行軍のどうしたものかと考えあぐねていたところである。頭をいくら抱えても見えない答えを探る中に投げつけられた少年の悩みはその男にとって非常に可愛らしく、有無を言わさず頬を赤らめてそっぽを向いたパロムを隣へ座るよう促した。
「お前の年齢を考えれば少しばかり遅いやもしれぬが…なる程、『そういう』年頃なの…「そうじゃねぇ!」」
 ぎゃんぎゃんと噛み付いてきた少年にゴルベーザは声量に頭を抑え、「…間違いではない、と思うが」と呟いた。
「真面目に相談してんだよ!俺は別に…別にそういうんじゃねぇって」
 黒魔法を派手に使うことが許された(と言うよりは使わざるを得ない)状況でパロムは凄まじい成長を見せていた。基礎魔法の高位魔術はもちろんのこと、フレアだって今ではお手の物だ。あっという間にリディアにも並ぶ魔力を得た少年はしかし、最近ある悩みがあったのだと言う。
 戦闘中に魔法を使いたびに心踊るのは昔からだ。戦闘狂ではないが、魔法を思い切り使える環境はパロムにとって楽園だ。そんな状態では連戦に連戦を重ね続けていれば気が高ぶるのも自然の摂理だ。それを『ムラムラした』という表現で片付けるのは正しいとゴルベーザは判断したのだが、少年のプライドは許さないらしい。
「私は冗談を言ってはいない」
「はぁ?」
「…黒魔法は滅びの力。白が再生を司るならば…黒は破壊。衝動、欲望、己が負の感情によって増幅するものだ」
「んなこたぁ知ってるけど、けど…」
「その欲望の中に色欲が含まれていたところで何らおかしいところはあるまい?」
 諦めろ、とゴルベーザは自嘲気味に笑った。
「黒の魔法を究める以上、己の破壊衝動とはいずれ向き合わねばならない。早熟すぎたのだろう」
「…破壊衝動なんて、俺は…」
「人それぞれだ。ミストの召喚士のように無垢なまま黒魔法を扱う者は稀だ。尤も、彼女も抱くものがあるのやもしれぬが…少なくとも私は自らが欲の塊であることは自覚している」
 贖罪だ、償いだと周囲は思っているのだろう。青き星を破滅へと追いやった月の傀儡と成り果てたゴルベーザに同情と憐憫を抱く者は少なかったが、彼の振る舞いの根元にあるのは自身の咎に対する罰のようであると思われている。間違いではないが、償いのためだけに生きている訳でもないと彼は言ってのけた。「ゼムスに操られていたとはいえ、あれは対象の感情を爆発的に膨らませるもの。もとより悪意のない人間には通用しない術だ」と。
「オッサン元々が悪人だったのかよ」
「悪をどう定義するかに依るが、な。人は皆種類は違えど抗いがたい衝動に駆られるときがある。…それを律することができるか、できぬか。その違いだ」
 それを悪だと言うならばゴルベーザは生来の悪人ということになる。「私は子供の頃から他者よりも膨大な魔力を…それこそそう、今のお前のように黒魔法を操ることができた」父亡き後、修羅の道へと落ちていったゴルベーザは次々に黒魔法を習得していった。古文書を読み漁ることもなく、ただ己の欲望にのみ従い魔力を自然界の裁きのかたちに変化させてきた。
 それを人はブリザガだとか、サンダガだとかという名称を付ける。
「…つまり、オッサンもムラムラしてるってこと?」
「……身も蓋もない言い方をする」
「でもこの話ってそういうことだろ?」
「否定はせぬ。だがお前の悩みとやらの本質はそこではないだろう。知識があろうとも肉体に訪れる変化は止められない。魔術を使うことによって悶々とするならば、一発女と寝ればいいだろう」
「なッ なんでそうなるんだよッ」
「そう言う話だろう」
「そうじゃねぇ!」
「ほう?」
「……いや………そう、そうだけど そうだけどさぁ」
 身も蓋もないことを言われた仕返しだとでも言いたそうにゴルベーザは意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前の悩みは…確かに、原因を突き止めるという意味では私に聞くが適切だったやもしれぬが、解決方法に関しては私では役不足だな」
「…あんちゃんには聞ける訳ねぇじゃん」
「同感だ」
「エッジの兄ちゃんは聞くとロクでもねぇし、カインの兄ちゃんはなんか…聞くの、悪いし」
「それも同感だ」
 エブラーナの若き王はそういった下世話な話が大の好物である。パロムなんていう絶好の『オモチャ』がそんなことを聞けば最後、秘蔵のえっちなほんを端から端まで並べてテクとやらを享受してくれるであろうし、最終的にはリディアに発覚してアスラとリヴァイアサンのとんでもないオイタを食らうところまでがセットで易く想像できてしまう。それによってもたらされる様々な意味での甚大な被害を眼前に描いてしまい、パロムは大仰に身震いして見せた。
「でもだからといってオッサンに聞いてもなぁ」
「本人を前にして言わんでもいいだろうが」
「じゃあやっぱ聞いた方がよかった?流石にオッサンも童貞じゃねぇだろ?」
「……かく言うお前は女を抱いたことはなかろう」
「どどど、ど 童貞じゃねぇ!」
 声がでかい。
 ゴルベーザは大きく、そして深いため息をついた。
 パロムが大声で主張した思春期の叫びを聞いてしまったエブラーナの王が楽しそうな顔をしながら、二人の食事を手にしてやってくる光景を視界に入れてしまったゴルベーザは観念したようにうな垂れた。



憤怒:竜の骸(ゴルベーザとエッジ)


 黒煙だった。
 ごうごうと立ち消える気配のない毒を孕んだ業火は横たわった邪竜の腹を包み続け、果てのない漆黒の虚空へと向けて煙を吹き出し続けている。ローザの加護を受けたカインの聖なる槍をその身に受けた邪竜は最後の悪あがきとばかりにその白銀の鎧を持つ竜騎士を跳ね飛ばし、血を吹き出しながら咆哮した。
 その光景を目の当たりにしたゴルベーザは体内に持つ莫大な魔力を暴発させるようにフレアを発動し、骨一片たりとも残さぬほどの火力を見せつけたのである。
「やりすぎだろ」
「…むぅ」
「ったく、メンバーが俺たちだったからいいものの、ここにお嬢ちゃんや坊主がいれば魔力にあてられて大惨事だったぜ」
「面目無い。言い訳もできぬな」
 幸いにして聖竜騎士に大きな傷もなく、ローザの暖かな回復魔法によって傷跡も残らないほどに快復している。
 吹き飛ばされた直後はかなり派手に出血していたようにも見えたが、そうでもないらしい。しかしながらゴルベーザは硬い岩場に叩きつけられたカインの姿を見て焦りを感じたようである。あまりに大人気のない行動に嫌気がさしてしまったゴルベーザはその場に座り込み、燻り続ける臭いに包まれていた。
「カインにどやされるな」
 物言いたげにこちらを見つめている金髪の男の目を見ないようにかつての魔王は再び息を吐く。「あんまし気にしすぎんなよ。『次』も同じことをしなければいいだけだ」と。刀を鞘ごと帯から抜き、彼の隣に腰を下ろした。
「……言い訳ではないが」
「ん?」
「ミシディアの召喚士が同じ状態なら、お前も同じことをしただろう」
「いや そりゃそうだけど」
 そんなことを言われてしまってはエッジも弱い。
 あの無愛想な聖竜騎士を可憐な召喚士を同列に並べるのは如何なものかとは思うが、ゴルベーザにとってのカインはエッジにとってのリディアに近しい。肩を並べ時には命を預け合う戦友でありながらも想うべき相手でもある。そんな二律背反の相手。エッジは「しっかし、いつまでも燃えるねぇ。もうちょっと弱火なら食えるもんが残ったかもしれねぇのに」なんて愚痴をこぼした。
 傲然、邪竜となってしまった以上は食用にできるはずもなく、ただ滅ぼすべき対象ではあるが。
「食らってみるか?」
「アンタにしては笑えない冗談だ」
「冗談でもないが…」
「冗談じゃねぇってことは食ったことあんのか?」
「多少なら」
「嘘だろ」
「さぁな」
 どっちだよ!とエッジは声をあげた。
 しかしながら彼の表情からはどちらの答えも読み取れない。ゴルベーザがかつて父母を喪い弟を捨てた幼少時代に魔物と暮らしていたことはセシルからも聞いている。その頃は人の食べるものではないようなものすら口にして食い繋いでいたともカインから聞いてはいるものだから、ゴルベーザの邪竜を食ったことがあるなんていう告白の真偽はあまりにも不確かだ。
 意地の悪い答弁にエブラーナの王は「ったく、どいつもこいつも」とぼやきながら再び立ち上がる。
「……どんな味がするんだ?」
「食いたいか?」
「気にならねぇって言ったら嘘になるな」
「ではカインに聞いてみるといい。奴ならば邪竜を食うという意味をよく分かっている」
 それは竜騎士であるが故。
 ゴルベーザの言葉にエッジは顔をしかめた。
「食ったら腹下すってレベルじゃなさそうだな」
「それだけで済むならお前も魔人か魔竜の仲間入りだ」
 全くどこからどこまでが事実で法螺かが分からない。何度目かになるため息をぼとぼととひたすら零す。
 どいつもこいつもしょうがねぇ。エッジは己自身を含めて『しょうもねぇ』と言い切った。今頃故郷たる青き星は巨星の接近によって大嵐が吹き荒れ、天変地異に頭を抱えているというらしい。ダムシアンの植物を介すれば言の葉を交わすことができるほどにこの月とあの星は近づいてしまっている。一刻も早くこの忌まわしき月の体内を突き進み、核へと辿り着くことが求められている。実際休憩を挟みながらではあるが着々と攻略はできている、の、だが。
 緊張感を持ってことに望まねばならないはずだというのに。
 いうのに。
「しかし折角こんな場所まで来たんだ。二度と来れねぇだろうし、邪竜じゃなくともなんか食ってみてぇな」
「……何故そうなる」
「いやだって 食いたくねぇ?俺は食いたいね。地底に行った時もそうだったし、月に行った時もそうだったしよ」
「月のドラゴンを食ったのか?」
「流石にカインは食わなかったけどな。リディアが毒味してくれたもんだから、俺らもちょっとだけ」
「…感想は?」
「はぁん。やっぱお前も気になるんじゃんか」
 フースーヤに聞いた話だが。
 にやついたゴルベーザの顔ほど気味の悪いものはない。エッジの素直な感想も聞いていなかったのだがセシルの兄は続けた。「月の民は邪竜の肉を食らうことを一族の掟として禁じた。それを口にした者は魔力を失い、一族を追放されるそうだ」なんて言うものだから、背後に腕を組んでじっとその様子を見ていた傷の癒えたカインが左手に作った握り拳を容赦無くその男の頭に叩き落とした!
「ぬぅっ」
「何を無茶苦茶なことを言ってやがる、このペテン師!」
「よぉカイン、傷はいいのか?」
「お陰様でな。エッジ、こいつの言うことは零から百まで出鱈目だ。月の民にそんな掟はない」
「…そうなのか?」
「古来より竜の骸は黒魔術の強力な媒介となる。そのため月の民は生活の場を壊す邪竜は容赦無く殺したし…死体を有効活用するために血の一滴まで余さず使ったという」
「なんだ、別に食ったってなんてことないじゃねぇか」
「……というのも、嘘だ」
「はぁ!?」
 ニヤリと再びカインは口の端を持ち上げた。
 ごうごうと竜の骸は未だ炎を孕み続けている。あまりに性格の悪い二人に囲まれ、エッジは短い髪の毛をかきむしりながらその場から勢いよく逃げ出した。



暴食:命を喰らう(アーシュラとローザ)


「あら 慣れてるのね」
 何に、とは言わなかった。
 ファブールの王女はバロン王妃の隣で黙々と肉の塊を捌いていた。月面を飛び回るウサギ(のような生き物)が今となっては貴重な肉源だ。乾燥したパリパリの肉よりも特に男性諸君はやはりぷりぷりの肉の方がいいらしい。得体の知れない生き物の肉であれ、干し肉よりもマシだと文句を垂れたのはローザの幼馴染たる竜騎士だ。
 食事当番は平等に回ってくるが、それでも女子が担当することの方が多い。
 何故かと問われればそれは至極簡単な理由で、男どもは大抵日中の戦闘で傷だらけになるからだ。巨大な魔物や無機物を相手に果敢に飛びかかり、切り込み、そして女子を守る。戦いに男も女もないという信条のアーシュラにとっては気に食わないが、実際のところ女性を守ろうとする人間の方が多いのだ。
 今日も本来ならば料理当番はゴルベーザとアーシュラという奇天烈な組み合わせだったはずだが、そのゴルベーザは昼間にアーシュラを庇って派手に右腕を負傷したためにローザと交代した。前に出すぎたアーシュラが魔法の直撃を覚悟し目を閉じた刹那、彼女は大きなバロン王の兄によって守られてしまっていたのだ。
 また守られてしまったという遣る瀬無さと自らの力不足を不甲斐なく思う陰鬱とした気持ちを包丁に籠め、無言で肉を削いでいた。
「…私は…弱い ままです」
「アーシュラ?」
 人は言う。
 王女なのに修行だなんて『すごい』のねと。女の子なのに男どもについていこうとする勇気は『すごい』と。そして今この瞬間にもローザは王女であるアーシュラがウサギを捌くことに慣れているという事実を『すごい』と言うのだ。
 『すごく』なんてどこにもないのに、とアーシュラはぎゅっと包丁の柄を握りしめて「強くありたいと願うには…もう、遅いのでしょうか」と。
 パロムやポロムのように幼少期のうちに戦いに身を投じた訳ではない。セオドアのように立てるようになってすぐおもちゃの剣を振り回してきた訳ではない。アーシュラは父王に稽古をつけてもらうことができず今の今まで戦ってきた。ヤンの心持ちが変わっているのかもしれないが、過去はもはや変えられない。
 周囲の同年代に比べて私は圧倒的に経験不足なんです、と彼女は俯いた。
「……そうねぇ」
 ローザはそんな思春期の少女にしては少しばかり『ズレ』た悩みに首をかしげる。
 彼女はといえば、アーシュラの年頃は恋愛に花を咲かせ、白魔法の勉強はもちろんしていたが兵学校の学生という身分だったはずだ。幼馴染二人は学籍こそ兵学校にあったものの、既に戦場を飛び回っていた、気がする。
「焦る必要、ないんじゃないかしら」
「でもっ…!」
「守られることが不満?自分が弱いことが苦しい?女の子だって、王女だって見られることが辛い?」
「!」
 アーシュラが綺麗に捌いた肉塊を次々に野菜の入った鍋に投下し、塩と胡椒を追加する。
「でもね、女の子って…どんなに強くても 周囲は守ってくれるものなのよ」
「……それは…そう、ですけど」
 男性に比べて弱いといえど、女性陣の中でアーシュラの力は群を抜いている。拳一つで亀の甲羅くらい叩き割ることだってできる。それでも目の前に硬い亀の魔物が現れれば、狼のような比較的『やわらかい』魔物をアーシュラへ渡して男性陣が亀退治にいそしむのが常だ。「仕方ないのよ。みんな女の子なんて弱いって思ってるもの。昔からずっとそう。自分の方が怪我してるくせに、無傷の私やリディアをいつも守ってくれていた」とローザは笑った。
 誰が守ってくれたとは言わなかったが、それがセシルやカイン、エッジのことを指しているだろうことはすぐに分かった。どれだけ傷ついていようとも、どれだけ毒に侵されていようとも男性陣には関係なかったのだ。リディアが詠唱を途切れさせぬように盾となり、魔力が枯渇し回復さえ儘ならなくなり弓を構えるローザの前に立ちはだかる。
「今でも同じ。何度言っても…セシルは私を守ってくれる。カインはセシルと私を守ってくれる。エッジはリディアを守ってばっかり。でもね、昔と違って…今は 私たちだって強い、っていうことを知っていてくれるのよ」
「…」
「私たちは強いから、だけどセシルのように大きな盾を持っていない。カインみたいに戦闘経験が豊富な訳じゃない。エッジの使う分身術だって使えない。…死んでしまえば、それで終わりなのよ」
 例えば、強大な魔物を相手にしたとして。何度も戦場で死線を彷徨ってきた幼馴染二人や、無鉄砲な戦い方で死にかけたエッジはどれだけ『無茶』をすれば死ぬかをよく心得ている。そんな彼らは決して自身が死なぬようにローザやリディアを守ってくれてきたのだ。「お義兄さんがどうだかは知らないけれど…」と前置きをしてから、ローザは
「あのカインが歯が立たないって言うくらいだもの。死なないって…無茶じゃないって分かっているから、守ってくれるのよ」と言った。
「だけどそれは…!」
「そうね、勿論アーシュラが女の子だからっていうのは大きいと思うわ」
 麗しく咲き誇る牡丹のように可憐な王女だ。敵陣のど真ん中に飛び込んでいくには薄すぎる装備だし、それこそまだまだ戦闘経験は無いに等しい。アーシュラに火炎が降りかかるならばローザの義兄はブリザガで盾を作り出し、間に合わぬならばその身を呈して美しい柔肌を守ってみせる。レオノーラが詠唱に手間取っているときにはセシルが巨大な盾で敵の攻撃を全て跳ね返し、イザヨイがしくじればカインがその体を魔物の毒牙から拐(さら)っていく。
 けれど、と王妃は鍋を火から下ろし、皿を出すようにアーシュラに告げた。「よく見ていて?きっとアーシュラを守ってくれるみたいに…お義兄さんはセオドアを守ってくれてるし、エッジはツキノワのことをよく見てる。セシルだってしょっちゅうパロムを気にかけているし…カインもギルバートを庇ってくれているわ」
「あ…」
「女の子を守るのは騎士として当たり前だってバロンでは言われてきたから。でもそれと同じくらい、仲間を守るのも当たり前なのよ。それが血縁であろうと…部下であろうと、年の変わらない仲間であろうとも。大丈夫よアーシュラ。あなたは弱いから守られているんじゃない。…仲間だから守られているの。王女だからというのも勿論、あるとは思うけれど」
「…私は 強くなれるでしょうか」
 アーシュラが捌いた肉はすっかり火が通り鍋に浮かんでいる。
「なれるわよ、きっと。こんな戦い…この先また起きてほしくなんてないけれど、そのときはアーシュラが皆を守ってあげてね」
「私が、守る…」
「えぇ。しっかり自分の身を守る術を身につけて…仲間を守ってあげてね」
 だから今は仕方ないのよと言外に伝えたバロンの王妃は、肉の匂いにつられてやってきた男どもに皿を配っていった。



嫉妬:痴話喧嘩は誰も食わない(セシルとカインとエッジ)


 勘弁してくれ。
 エッジは目の前で繰り返され続ける舌戦(というよりはセシルの一方的な罵声)を右から左へと聞き流しながらも、せっかく愛しのリディアが作ってくれた飯が不味くなりかねないよな内容に耳を塞いでしまいたくなっていた。やれ兄さんはお前のことばかり見ているだの、やれお前は兄さんに愛されて羨ましいだの。僕だってお前を愛しているのに!なんて。
 言われるがままのカインも整った顔立ちのなか眉間に深い縦じわを寄せてそれらの言葉を好きに言わせている。とどまるところの知らないセシルの主張は聞いていられるものじゃない。
「(おいカイン、ソウイウお話なら他所でやれ)」
「(馬鹿め。俺が好きで言われているとでも?)」
「(惚気を聞かされる俺の身にもなれよ)」
「(ご愁傷様だな、王様)」
 ふざけんな!
 思わずエッジは手元に転がっていた手裏剣を至近距離でカインに投げつけた。しかし彼は首をふいと横に傾けただけでそれを回避し、背後の岩が砕け散る。リディアが作ってくれた魔物の肉を煮込んだだけの名前のない料理は空腹を満たすというたった一つの目的を果たすには十分だが、味覚が悲鳴をあげている。彼女の笑顔というスパイスがあるからこそ辛うじて食べられる味だ。
 だから裸エプロンで料理に勤しむリディアの姿を妄想しながら目をつぶって平らげてしまおうとしていたエッジではあるが、そんな小さな野望はあっさりと砕け散った。
「カイン!お前聞いてないだろう!」
「聞いてる」
「じゃあはっきり答えてくれ、僕と兄さんどっちが大事なんだ!」
「そりゃゴルベーザだろう。お前は頑丈だから多少放っていても死なないが、あっちは死にたがりだ。誰かが見ていなければコロッと死ぬぞ」
「せめて僕の前では僕が大事だと言えよ!」
「おいおいセシル、それが三十過ぎた野郎が野郎に言う台詞かよ?いいから座って飯食えって」
「エッジ、君には関係ない。これは僕らの大事な問題なんだ」
「はいはいそうですか」
 こんな暴走状態に陥ったセシルを止める術をエッジは知り合って十数年だが、一つ足りとも思い浮かばなかった。カインのように彼を雑に扱えるほどの度量はないし、ローザのように笑顔を浮かべて問答無用に黙らせる貫禄もない。
「そこまで言うなら自分の兄貴に言えよ、前衛に出るならローブじゃなくて鎧を着ろと。ただでさえこっちは紙みたいにぺらぺらなエブラーナ王のお守りで忙しいんだからな。面倒見きれない」
「おいカイン!てめぇ、俺に飛び火するようなこと言うなよ!」
「僕はそんな話をしているつもりじゃない!」
「(面倒くさいな)」
「(お前が蒔いた種だろうが!)」
 心底うんざりした顔でカインはセシルから顔を背けて味のない汁を啜った。
「セシル、お前もいい加減それなりの歳なんだ。兄貴と幼馴染に構ってもらえないくらいで拗ねるな。嫁を頼れ」
「ローザを話題に出すなんて卑怯だぞカイン」
「卑怯で結構。エッジを見てみろ、いつまでもリディアのケツを追いかけ回して楽しそうだぞ?お前も野郎どもを追い回さずに女を追いかけろ」
「下世話なことを!」
「下世話でも結構。いいか、お前が兄貴に振り向いてほしければ奴の方をどうにかしろ。俺がどう振る舞ったところでゴルベーザは俺を追い回すからな」
 うわぁ、コイツ言い切った。エッジは隣で顔を青くし、後ずさりする。
「兄さんにそんなこと言えるはずもないだろう!」
「……お前は本当に馬鹿だな セシル」
「なっ」
 カインはそこでけらけらと笑った。
 顔を真っ赤にしてそれなりに本気でぷりぷりと怒るバロン王を前にしても微動だにせず、長い前髪がかかる美しい色の瞳を細めた。
「ゴルベーザがお前を見ていないなんて 本気で思っているのかよ」
「……」
「あの人はいつもお前を見ている。俺がどれだけ愛想を振りまいても…あの方が誰よりも愛しているのはお前だよ」
 セシルのみみっちい嫉妬心などには比べ物にはならない巨大な心の悲鳴が、不味いスープを食べる親友の全身から一気に噴き出した。



怠惰:さても悲しき、さても呪わしき(セシルとカイン)


※ずっとずっと未来のお話です。

 手の皺が増えた。
 目元も、口元も額にも。身体の隅から隅まで。隠すことのできない加齢の証が全身を蝕んでいる。それはこの星に生きる生物であれな(基本的には)誰一人として抗うことのできない自然の摂理であり、かつて幾度も星の危機を救った歴戦の勇者たちもまた例外ではない。
 一人、また一人と。
 年老いた者から順に、時にある者は若くして死んでいった。
 世界各国から届く訃報は途絶えることなく、そのたびに空を舞う赤き翼が半旗をたなびかせる。最初に死んだのは誰だったかな。王城のバルコニーに背をもたせて男は呟いた。いつ?という問いに答えたのは隣に佇むもう一人の男だ。
「確か、エブラーナ」
 かつてはさぞ美しかったのであろう金色の髪は色褪せ、夜の空に浮かび上がる月を仰いだ。槍と凧を巧みに扱う忍衆きっての老兵だったはずだと。もとより年老いていたその男が死んだのは冬が終わり、春になった頃。季節の変わり目だったからなぁ、と当時エブラーナ王は寂しそうな顔をしながらも悲しんだ様子は見せなかった。どれほどの猛者も時の流れには抗えない、いずれ俺も死ぬんだからな、なんて言いながら。
 それからミシディアの長老が死んで、ファブールの王が死んで。バロンの技師長もそこから近くないうちに逝った。
「もう百年か」
「まだ百年だ」
 セシル・ハーヴィが息子に全てを委ね、王座を退いてから。
 月の民という人ならざる者の血を継ぐ彼が人間と異なる時の刻み方を歩んでいることに気づいたのはカインだった。どんどん年老いていくローザと歩いていたはずの幼馴染はある程度年を取ってからというものの、それほど見た目が変わらなくなってしまった。なぜ妻であるローザではなく第三者であるカインが先に気づいてしまったのかといえば、答えは非常に明快であった。
 彼もまた。
「お前まで僕に付き合う必要なんてなかったのにな」
「…どうせ遅かれ早かれ人里を離れなければならなかった。結果は変わらないさ」
「…そうだな。そういうことにしておいてやる」
 竜の血を色濃く引き、月の民から力を授かったカインは人とは異なる命のあり方を進んだ。年月が経てば経つほどその身体は竜となり、感覚は自然そのものと一体化していく。
「もう誰も残っちゃいないな、僕らだけだ」
 あの月を戦い抜いた者は。
 ミシディアの大魔導士となり、共に長老の座に就いたパロムとポロムもまた、初めて出会った頃からは考えもつかないほどに偉大なる者として世界にその存在を知らしめ、多くの弟子を作った。それでも彼らは今際の時までセシルを『あんちゃん』と呼んだ。最後に死んだのはあの双子だった。
 いや、ドワーフの王女だったかもしれないな。
 全ての命が二人の周囲から消え去ったその日、城の近郊に広がる無限の菜の花畑の中でセシルとカインは酒を飲み交わした。息子の墓にワインを手向け、美しいまま逝った妻には花を供えた。セオドアに受け継がれた月の民の血は力を授けるほどには強かったが、人間と異なる命の時間を与えることはなかった。セシルにとって初孫になった赤子も今となっては墓石の中で永劫の安らぎに抱かれている。
「まだいるだろ。お前の兄貴とか、叔父さんとか……いや、そもそもリディアも生きてはいるだろう」
「それもそうか」
「ん」
 カインは言う。時折、人でなくなるのだと。
 青き星そのものに全て吸収されてしまうような遠大な感覚に襲われ、たった瞬きをしただけで数日の時が経ってしまっているのだと。バロンに語られる伝承そのものとなってしまったセシルは城の一角、かつて偉大なるバロン王を殺したゴルベーザが根城にしていた塔に住み着いた。日がな一日変わりゆく空を見つめ、膨大な蔵書と戦い、興味本位で肝試しにやってくる若い兵士たちを驚かすだけ。そして気まぐれにやってくる親友を迎え入れては、こうしてバルコニーで他愛のない言葉を交わす。
「あの頃が懐かしいよ」
 この百年もの間セシルは一歩も外の世界へ出てはいなかった。セオドアに王位を譲った時点で彼は『死んだ』こととなり、カインと共に世界の表舞台から姿を消した。誰が死んだ、彼が死んだという話だけはセオドアが伝えてくれたが、そんないつまでも子供だと思っていた彼も妻を娶り、子を成してからはあまりセシルに顔を見せなくなった。後日カインが噂を聞いて回ったところ、どうやら若いうちから大病を患っていたことを隠し続けていたため動くのが億劫だったらしい。
 だから孫が生まれてしばらくしてすぐ、顔を覚えられるよりも先にセオドア王は急逝した。エッジよりも早く、ゲッコウよりも早く、シドが死んでからあまり年を空けずに。
「そういえば、この間リディアと会ったな」
「いいな。元気そうだったかい?」
「あぁ。まだまだ見習いらしくてな、『こっち側』へは出してもらえないらしい。修行ばかりで大変だと」
「そう言ってもう随分経ったよな。…向こうの時間だと、何百年も経ってるはずだろう」
「幻獣王に言わせてみれば千年は修行しなきゃまともな幻獣になれないそうだ」
「ははは、それは厳しいね」
 クオレと名付けた彼女の娘はすくすくと育ち、そして人間と同じような寿命を全うしてミストの地で死んだ。そもそも幻獣の街に出入りし人ならざる時間を体に持つ彼女がそれを機に召喚士ではなく、『召喚される側』となろうと思い立つまでにあまり時間は必要でなかった。最後までエッジが反対したものだから、心優しい彼女は「じゃあエッジがおじいちゃんになっていなくなっちゃうまでは人間でいてあげる」なんてとても残酷な約束をしてあげた。
 そして言葉通り、エドワード・ジェラルダインというエブラーナの頭領が大往生したその日、リディアは人間の世界を去った。
「全くだ。俺もうかうかしてられないな」
「うかうかって…別にカインは関係ないだろ」
「大いにあるぞ。リディアが立派な幻獣になった暁にはこの塔からお前を一緒に連れ出して世界を見せてやるって約束してるからな」
「…」
「いい加減外の世界に目を向けろ。もう俺たちを知っている人間は誰もいないんだから…むしろ もう、誰にも先立たれなくていいんだから」
「……」
 そんな顔をして。
 カインは手を伸ばし、セシルの固まった頬に指をかけた。表情の変化が乏しくなった親友の柔らかだった顔は石のように硬くなってしまった。
「こうしてバロンに引きこもり続けることを『彼ら』が望んでいるとでも?」
「…かつてバロン王は幻獣となってもこの地を守り続けた」
「だからお前もこの地に留まり続ける?馬鹿なことを言え。ひとところにいることだけが全てではない」
「それは…」
「俺はいずれ竜になる。過去にそうであったように、バロンを守る竜となってみせる。お前は古の王としてこの国を守る。…それが遺された俺たちに……『時間』を与えられた俺たちが為すべきこと。だが未だ俺は竜ではないし、お前も王位を退いてから百年も経つ埃をかぶった木偶だ。国を守れる力もなかろうに」
「カイン」
 ふに、と幼い頃そうしたようにカインはセシルの顔をつまみあげた。顔(かんばせ)に刻み付けられた皺は深く、石造りの彫刻が如く表情はない。それを解してやれば、「痛いぞ」なんて言う。
「いずれこの国の守護者となるならば、力をつけろ。王として…月の民として、幻獣オーディンに負けぬ力をつけろ。塔に閉じこもるのはそれからだって遅くない」
「…けれど、この世界にはもう」
「俺たちを知る者はいない。再び誰かと縁(えにし)を結ぼうとも、いずれ時間は俺たちを置いていく。……いいじゃないか、世界に二人きりでも」
「……」
 お前は知らないだろう、今の世界がどんな姿をしているか。ファブールの王は先代アーシュラの血縁ではなく、僧兵団の頭が継いだことを。ミシディアに遺された大量の書物は晴れて賢者となったレオノーラが人生全てを費やして書き残した莫大な情報量を持つ魔法書であること。先日禁書を幻獣の街から抜け出したリディアが読んでいたっけな、なんて。
 カインは次から次へと世界のことをセシルへと零した。ここ数十年の間はふさぎ込んだセシルを案じて口にしなかった色とりどりのことを。
 エブラーナにある木彫りのエッジ像は現物よりも随分格好良くなっていた、ダムシアンに語り継がれる民謡はギルバートが愛した女に手向けたセレナーデ。トロイアの神官らは黒魔法ではなくファブールに武術の教えを請い始めただとか、ドワーフ王室には代々あの不気味な人形が伝わっているだとか。
「なぁ 行こうぜセシル」
 子供の頃かくれんぼに誘ったのと同じ口調でカインは笑った。
「…お前が連れて行ってくれるのか?」
「少しの合間なら竜にはなれる。丁度人を乗せて飛ぶ練習もしたかったんだ、いずれ竜騎士を乗せることになるからな」
 廃れて久しい竜騎士という単語をわざと彼は挙げた。それが決して叶うことのない夢であっても、諦めたりはしないのだと。「俺のわがままだと思ってくれたっていいから」とまで言われてしまえばセシルに断る理由はない。
「僕は…そう、だね。今の僕を見たら、きっとローザはカンカンだ」
「セオドアもな。シドもエッジもパロムも…いつまでくよくよしてるんだって」
「違いない」
「このままだと幽霊になって化けて出てくるかもな」
 カインの冗談にセシルは小さく笑った。そしてローザを喪ったあの日から暗い影を落としていた彼の表情に僅かだけの光が灯る。
 最初にどこへ行きたい?と手すりに腰掛けたカインが問いかければ、ようやく顔を上げたかつてのバロン王であった孤独な老人はぎこちない微笑みを浮かべた。



「バロンの街へ。僕らの愛した…守るべき世界を見に行こう」
 百年という長き時を経てようやく、月の血を引く男は再び長い旅路へと出発した。


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