おれはしょうきにもどった!


お:黄金水晶の呪い(カイン)


 幾重にも広がり続ける低い声は悪魔の囁きそのものだ。
 暗い洞窟の中であろうとも、酒宴の席であろうと悪魔に関係はない。夜毎にカインの脳を犯す誘惑の声は甘く堕落を誘い、白昼に頭を突き刺す罵声は憎しみを謳う。それが誰の声であるか、考える必要はあまりなかった。今だってそうだ。丸くなり眠るセシルが抱く黄昏色をしたクリスタルを奪い去れという声が聞こえる。
 もうセシルを殺せという命は消え去った。
 何故ならこの声が望むのはセシルの死ではなく、闇のクリスタルだ。
「(違う…か)」
 悪しき毒虫ゴルベーザの声ではない。
 かつてバロンやゾットで聞いた黒甲冑の支配者に見え隠れしていた狂気が牙をむいたのだ。突発的に魘され、暴れていたゴルベーザの癇癪が意思を持ったのか、それとも最初から狂気が意思を持ってゴルベーザに棲み着いたのか。それは分からない。だが確実にカインには分かっていた、『アレ』は最早ゴルベーザではないのだと。
 迫り来る壁のかたちをした異形を打ち倒し、疲れ果てた仲間たちはぐっすりと夢の中だ。こんな暗闇の洞窟からはさっさと出て行きたいという気持ちは大きかったが、満身創痍のまま出口まで駆け抜けようとしたところで下手をすれば命を落とすやもしれぬ状況だ。狭い石造りの洞の中、親友は身を丸めて目をきつく閉じていた。今、彼を殺せば。カインがかねてより内に抱いてしまっていた暗澹たる想いは憎しみのかたちをしたまま昇華され、闇のクリスタルを奪い去ることで『声』の主人は満足いくのだろう。
「…セシル」
 名を呼んでも返事は来ない。
 よくも一度でも槍を向けた相手に見張り番を任せこうも熟睡できるものだ。不自然なほどに静かな年の近いエブラーナの王子は起きているのであろう。カインを見張っているのか、それとも周囲を警戒しているのか。おそらく彼の性格からすれば後者だ。悪意の声に悩まされ不眠の日々をカインが送っていることを知る無鉄砲な王子は念には念を入れて眠らずに、だがカインには知られぬようにして起き続けているのだろう。
 幼女だったはずの召喚士も、今尚愛し続けている大切な幼馴染の女も、泣いてばかりの虐められっ子だったセシルも。そして仲間を愛するがこそ、おそらくはカインのこともまた仲間として想っているからこそ警戒し続けるエッジも。誰も彼もを裏切る選択をしなければならないのだと考えるだけで頭痛は一層ひどくなる。
 長身を縮めて膝を抱いたところで何も変わりはしない。
 きらきらと光り輝いていた過去の懐かしき日々はどす黒く塗りつぶされ、思い出そうとするたびに暗澹たる黒ずんだ気持ちが津波のように押し寄せてはそれらを拐(さら)っていく。一重に、二重に三重に重厚な声音は全てを全て黄金水晶を抱き『戻って』来いと囁きかける。戻ったところでそこに待ち受けるは甘美な楽園ではない。裏切り者の烙印を背負い、世界を傷つける罪人がつくる地獄へ落ちるのみだ。
 エッジが目をきつく閉じているのをいいことに、カインは手で顔を覆い、ぎりりと歯を食いしばった。
 この誘いを断らねば。そう、考えてきた。己の良心が悪魔の誘いへと警鐘を打ち鳴らす。それはならぬのだと。堕ちてしまえば、もう戻って来ることはできないのだと。選択しなければならない。二度と覆すことのできない究極の選択に迫られているのだ。
「…セシル」
 もう一度親友の名を弱々しく呟いた。
 お前とよく似たあの男をどうすれば、どうすれば救うことができる?
 悪意に犯されたあの哀れな支配者をなぜ見捨てることができる?
 最早これまで。迷いの中にいながらもカインの心はいつしか引き返せぬ選択を手に取っていた。この手は、この槍は愛する者を守るために振るうべきものだ。セシルを殺すことはできない。だからといって、この心のうちを彼らに吐露したところで到底受け入れられる話である訳がない。
 ならばできる限り彼らを『傷つけぬ』ように『裏切る』ことこそが、カインに残る最後の正気だ。この正気すらもすでに狂気にすり替わっているやもしれぬと何度自問自答したことか。このままセシルの元にとどまることを選び、近い未来に毒虫の声に屈服し心を壊されるならば。
「セシル」
 三度目の呟きに応えたのは、エッジだ。
「…どうした、カイン」
 目の下を真っ黒にして虚ろな瞳をした竜騎士にやさしき王子は身を起こした。ほら、やっぱり起きていたじゃないか。そんな言葉を飲み込んでカインは「寝ていろ」と告げる。
「あと一刻もしたら出発だ。後は俺が変わる。おめぇこそ寝てろ。…酷い顔だ」
「ここを出たら移動中に寝る。構わん」
「…ならいいけどよ。いい加減にしねぇと、取り返しがつかなくなるぜ」
 そんなに酷い顔か。カインはくつくつと笑った。
 ジオット王が治めるあのドワーフの城へ襲撃に来たゴルベーザの言動はどこをかいつまんでもちぐはぐであった。壊れかけたオルゴールが不協和音を奏でるような、死にかけた飛竜が嘶く断末魔の叫びか。黒き竜の冷気に蹂躙され薄れる視界の中でカインは確かにあの男が名を呼ぶ声を聞いてしまっていたのだ。それが幻聴であれなんであれ関係はない。それほどまでにあの男の影はカインの心奥深くまで貫き、巣食い、蝕んだ。
 カインは手元に転がっていた竜の兜を弄りながら誰に対してでもなく告げる。
「どうして…こうなったんだろうな」と。
「…カイン、お前…」
 彼はもしかしたら気づいてるのかもしれない。カインがこの先選ぶ道を予見しているのやもしれない。直感の鋭い王子は竜騎士の目の前にあぐらをかき、水晶のように透き通った空色の瞳を不躾に覗き込んだ・
「いいか、お前が何をしようがきっとそれは俺が口出すすべきことじゃないかもしれねぇ。…だがな、誰かが傷つくような真似は やめろ」
「誰かが か」
「てめぇ自身を含めてな」
 全くこの男はどこまで分かっているのやら。
 カインは再び喉の奥で鈍く笑った。きっと彼はカインを許さないであろう。生易しい微睡みに揺蕩いながら破滅の声を聞き続ける道よりも、仲間を傷つけてでも愛するものを守る道を選ぶのだから。親友の抱く闇水晶を奪い去り、適度に彼を殴りつけてやろう。皆がカインを憎むように、三たびの和解すら諦めるほどに。
「…お前はやさしいな」
「当たり前だろ。俺は王子なんだ」
「いずれは王になるんだろう?エブラーナは安泰だ」
「だといいがな。バロンはどうなるんだ」
「さぁ…セシルは陛下の養子、だが…周囲に、敵が… 多い から」
「カイン?」
 不意にかくんと首が落ち、膝を抱えたままの奇妙な格好でカインは眠りに落ちていた。エッジが仕方ねぇなぁ、なんて言う声が遠くに響き、やがてどっしりとした支配者の声が心を押し潰さんと流れ込んでくる。
 澄み渡る夜空に広がる星々のように輝く思い出は明滅しては闇色に溶けていく。青白い月が放つ強すぎる闇が照らす心模様にはもう、数えるほどしか星は残っていない。幼い日々の些細な出来事も、昨日の食事も、閉じた瞼の向こう側で眠る幼馴染の笑った顔も、全てが黒く塗りつぶされていく。
 どうか、どうか皆が俺を許さないままでありますようにと破滅の願いを抱きながら、カインは僅かばかりであろう最後の休息に甘んじた。



れ:黎明導く道化(カインとゴルベーザ)


「『私』はお前を殺せぬ」
 銀髪の男が告げた。
 曇天の鉛色よりも空の色をした、空色よりも月の色をしたその髪の毛の色をカインはよく見知っていた。
 それはただ命朽ち果てるだけの骸であったカインを助け出した黒い甲冑の男。
 力任せに犯し、殴り、陵辱の限りを尽くしカインを屈服させた悪の毒虫。
 子供のように悪夢に魘されては自らにも言い聞かせるように寝物語を微睡みの中で囁いた男。
 幼き日々に突如現れた異邦人と同じ髪色をしたその男はカインを終ぞ殺すことはできなかったのだ。どれほど屈服を拒み暴れようとも、人間にしては強いが魔物としては弱すぎる身体をルゲイエに弄らせることも男はできなかった。男は、ゴルベーザは寝台に横たわるカインの髪の毛をそっと撫でた。透き通る金髪も、強い日差しに晒される竜騎士にしては白い肌も、美しい顔に反して低めの声も、そして自らの愛する者がためならば悪行をも厭わぬ心すら、その全てを手に入れたはずだった。
「どうやら…お前を愛してしまったのやもしれぬな」
「お戯れを」
「…戯れであれば よかったのだがな」
 カインよ、とゴルベーザは名を呼んだ。
「なぜ…お前はここへ来た」
 闇の光を宿す黄金水晶を抱いて、それまでようやく修復されかけてきた絆を、ようやく新しく結ばれつつあった絆を完全に断ち切ってまで。哀れな竜騎士を呼び続けたのは邪心に呑まれたゴルベーザ自身であることに違いはなく、それも自覚しているであろう男はそれでも問うた。
「あなたには…まだ 自我が残っておられる。それが知れれば…他など 構わぬ」
「戯言を」
「…」
 見え透いた嘘にゴルベーザはくつくつと笑った。
 しかしそれは嘲笑うようなものでもなくば怒りの含まれたものでもなかった。ただ、呆れたとでも言いたげな声を漏らすとざらついた髪束にそっと口づけを落とす。
「あなたの自我が…全て奪われたとき この世界は 破滅に呑まれるのでしょう」
「…左様」
「あなたが俺を殺せぬことは知っている。…だから、この俺に命が残り続ける限り、あなたにも終(つい)の正気が残っているのだと 信じられる」
「たったそれだけのために か」
「俺の爪の先から髪の毛に至るまで、全てはあなた様のものなのです。この体は勿論、我が命も…魂も、全てをあなたに捧げましょう」
 ゴルベーザ様、とカインは呟いた。再び自我を奪われるのはいつのことであろうか。今すぐにやもしれぬし、夜明けの頃かもしれない。穏やかで臆病なこの魔術士が悪意の塊へと変貌を遂げるのだ。青きこの星の全てを憎み、大地を焼き払わんとする悪魔がやってくる。正気と狂気の狭間で揺れ動く針が右へ左へと不安定に転げ回る。
 あと一度その針が狂気へ落ちれば。
 バベルの巨人が目覚めるのだと 男は言った。
「巨人が世界を蹂躙する…私は、この世界を破壊するだろう」
「…ご安心を」
 カインは気怠そうに腕を持ち上げ、なんとも情けない表情で膝立ちになっているゴルベーザの顔に手を伸ばした。色の失われた顔(かんばせ)と髪の毛はカインのよく知る男のものである。奇妙な既視感を覚えながらもそのまま上体を起こし、哀れな男の額に口づけを落とした。
 すんすんと匂いを嗅げば鼻孔に広がるのは少し黴臭いようなどこか懐かしい香り。亡き父親の古い書斎のような、打ち捨てられた玩具の木刀のような、郷愁を誘うその香りをいっぱいに灰白色の波打つ髪の毛から吸い込んでカインは口元に笑みを浮かべた。
 大きなゴルベーザの手が脇腹から背中に回り、助けを求める子供のようにぎゅうと縋り付いた。
 先ほどゴルベーザがそうしたようにカインは彼の髪の毛に食むように口唇で触れ、「あなたの自我が失われたその時には 俺は自ら命を絶とう」と呟いた。
「カイン…」
「あなたに最後の正気が残る限り…俺が、死なぬ限り。青き星の民は立ち上がるでしょう。あなたの正気が失われたその時…世界が滅びへ向かうのであれば 俺は舌を噛み切り、喉を爪で引き裂き、魂すら地獄へ落ちることでしょう」
 それはならぬ。
 男はそう言った。
 同時に男は悟っていたのだ、ならぬという言葉もまた、カインには届かぬということを。
「ゴルベーザ様」
 竜騎士はつぶやいた。

「どうか、どうか魂滅ぶまで、この身をあなたの側に置かせて下さい」



は:花咲く頃に君と約束を(カインとリディア)


 ぴょんぴょんと花畑の中で飛び跳ねる緑がいた。
 久しぶりに足を踏み入れた祖国の城下町は別段変わることなく、ただ王の不在を嘆くだけだ。かつての勇敢なるバロン王は英霊となり、菜の花の海で遊ぶ少女の召喚獣となる契約を交わした。それが二日前のことだ。魔導船という月の技術が施された未知の乗り物にシドは大変興味を示し、月へ行かねばと言っても聞きやしない。先立って月へ向かったフースーヤたちが心配だからと言っても、だ。
「すごいねぇ、こんなにお花いっぱいあるなんて!」
「小さい頃はよくここで遊んだ」
「…セシルやローザと?」
「セシルに嫌がらせする貴族の糞野郎を呼び出す俺の決闘場だったんだ」
「なにそれ!」
 キャッキャとリディアは声をあげて笑った。
 赤い翼のドッグから出発した飛空艇はいつも決まってこの花畑の上空を通って遠征に向かっていたし、それよりも昔はカインの父たるリチャードが率いた竜騎兵たちが各々の飛竜に跨り彼方へ飛んで行った。帰ってくるときも同じで、この花畑から遥かに見える飛竜の影を見つけると幼心にひどく喜んだものだった。
 白髪だの、孤児だの親なしだの。そんなくだらない言葉でセシルを虐める年上の少年たちは大人に見つからないこの花畑で伸してやって、大人数相手に喧嘩して殴られた顔を見た泣いてローザにひっぱたかれたのもこの、花畑だ。
「バロンってとっても大きなお城があるから、こんな場所があるだなんて思わなかったわ」
「ミストに花畑は?」
「…あったよ。お母さんと一緒に、いつも薬草を摘みにいってた」
「……すまん」
 不用意にリディアの故郷を口にしてしまい、カインはばつが悪そうに顔を背けた。
 彼女の村を滅ぼしたのは他でも無い、セシルとカインなのだ。悪気がなかった、知らなかった、そんな言葉を並べ立てたところで失われた命が戻ってくることはない。リディアはそんなカインに無理した笑顔で「いいのよ」と告げる。
「あのね、お願いがあるの」
「お願い?」
「うん。セシルにもエッジにも言えない…わたしのお願い。聞いてくれる?」
「俺にできることならばなんでも」
 菜の花の海に座り込んで花の香を確かめていたリディアの横に腰を下ろすと、カインは真摯な眼差しで少女に向き合った。城の白魔道士連中にはまだ寝ていろだの、月で戦うなんて言わないでくれと泣きつかれているカインだが知ったことではない。今頃無人となった医務室を見てローザの同僚たちが真っ青な顔をしているに違い無い。
 ミストの召喚士は宝石のような緑の瞳をくりくりと輝かせて言った。

「月に行きたいの」

 と。
 それに対してカインが何か言う前に彼女は続ける。「分かってるよ。エッジもわたしのこと、心配して言ってくれたんだって。セシルは自分のお兄さんのことだし…エッジにとっては、お父さんとお母さんをあんな目に遭わせた親玉だもの。だけど…だけど、わたしにも戦う理由はあるわ」
「…」
「ローザもわたしと同じ気持ちよ。バロン王の力を貸していただけたって、わたしが地上で待ってるなら意味がないじゃない。わたしたちがここにいたら、回復はどうするの?魔法しか効かないプリンだらけだったら?みんな死んじゃうわ、ゴルベーザたちに追いつく前にきっと、いいえ絶対全滅よ」
「…言い返す言葉がないな」
「でしょ?エッジの忍術だって、そんな大したことないじゃない。それにカインなんて忍術も白魔法も使えないでしょ?」
「気にしてることを言うなよ」
 カインは頭を抱えた。
 ローザとリディアが戦列に加わってくれるならば大歓迎だ。今までのようにどんな相手にも対応できるだろう。それが邪悪な思念であろうともだ。しかしセシルやエッジが彼女たちに突きつけたともすれば残酷な言葉の意味もよくわかる。未知の世界ゆえ、命を落とす可能性が高いのだ。そんな場所に大事な人たちを連れていくわけにはいかないのだろう。
 愛するローザに死んで欲しいわけではない、優しいリディアに傷ついて欲しいわけではない。
 だが、月にいくということは命の保証がない戦いに身を投じることと同義だ。
「…確かに 君たちが一緒に戦ってくれると…心強い」
「でしょう?」
「だが俺の一存で決めれることでもない」
「エッジとセシルとカインなら、多数決で置いていかれるの。だからわたしたちの側にカインがついてくれれば勝てるのよ」
 勝ち負けの話はしていないはずだが、とカインは再び頭を抱えた。
「リディア」
「できることならなんでもしてくれるって 言ったよね」
 カインは数分前の己をひどく呪った。
「…シドには日暮れまでに片付けろと言ってある」
「うん」
「出立は明日の夜明け前だ。全員が寝てる頃に…出発する」
「わたしたちが寝てる間に、ね」
「……タラップを上がってすぐ右手側に小部屋がある」
「へぇ」
「女が二人くらいなら…入れないこともないだろう」
「いいこと聞いちゃった」
「俺たちは夕飯を食ったら仮眠をとって夜中に集合する。…それまで魔導船は無人だ」
「……あのねカイン」
「これ以上は何もできんぞ」
 あくまで俺は大きな独り言をこぼしたまでだ。別に今夜のうちに小部屋に隠れて離陸するまで待ってろだなんては明確には言っていない。
 カインは溜息を零し、目頭を手の平で覆いながら隙間から少女の顔を見た。どれだけうきうきした表情をしていることやと思ったが、そんな予想に反してリディアは凛とした眼差しで普段のふわふわとした掴み所のない雲のような気配は消えていた。
「わたしたち、絶対に死なない」
「!」
「みんなが危ないときにはローザが白魔法で助けてくれるわ。わたしも黒魔法で援護する。わたしたちが危ないときはセシルが絶対に助けてくれるもの。絶対に…絶対に死なない。生きてみんなでこの星に帰ってきたいの」
「…そんなに現実は甘くないぞ」
「分かってる。だから、約束してほしいの」
「約束?」
 少女は立ち上がった。少し風が強くなり、菜の花がひときわ大きく揺れる。それに伴ってリディアの長い髪の毛も彼女の顔を覆い隠してしまうほどに膨れ上がり、毛束が散り、緑の瞳を光らせた。
 新緑の色をした唇が開く。
「わたしが挫けそうになったら、叱って」
「…」
「絶望してしまいそうになったら…ついてくるって言ったのはお前だって、怒鳴り散らして。諦めるなって、甘えるなって」
「そんなことエッジに頼めばいいだろう」
「ダメだよ。エッジは優しいから、きっとわたしを励ましてくれる。それじゃ ダメなの」
 随分と『お願い事』の多いお仲間だ。カインは頭を抱えたままであったが、口の端をにやりとあげて「覚悟してろよ」と答えてやった。



し:死ある場所に命あり(カインとエッジ)


 寝るなよ、寝るなよ絶対寝るなよ、寝たら死ぬぞ!
 ガンガンと脳髄を殴りつけられるような痛みの中に響く粗野な声にカインはうるさい!と思わず怒鳴り返した。なんでこんなになるまで黙ってたんだ、馬鹿野郎なんでしかもこのタイミングなんだ、阿保垂れ、意固地の頭でっかち、黙ってりゃいい子だと思ってたのか?
「いいか…エッジ」
 ぐったりと完全に弛緩した体を抱えられている側だというのに竜騎士の男はうんざりした口調でため息を漏らす。「お前が思っているよりも俺は強いぞ。…こんなことじゃ死なない」
「それは鏡見てから言えよ。あーもう、いいから動くなって、でも寝るなよ」
「…注文が多すぎだ」
「馬鹿野郎。動けば毒が回る」
「それくらいは分かる」
 蛇のようなかたちをした魔物の毒牙にかかるとは情けない。
 カインの不注意だけが原因ではなく、むしろリディアを庇って蛇に突っ込むはめとなったカインが反撃を受けただけだ。手持ちの毒消し草では足りないと言って『代用品』になるものがないか女子とセシルはあちこちを探し回っている。暗い洞窟の中に運び込まれたカインはその場に寝転がされ、鎧を剥がしくっきりと牙の残る二の腕をエッジへと晒した。
「…どうなってる」
「恨むなよ、応急処置だ」
 カインの質問には答えずにエッジは懐から鋭い小刀を取り出すと、容赦なくその腕を切り裂くように刃を突き立てた。
「ッ!」
「血を出す。安心しろって、死ぬほどの量は出さねぇ」
「先に 言え!」
「黙ってろ、あと動くな!」
「馬鹿王子が!」
 どくどくとやたら自身の心臓ガポンプとして血液を送り出す音が聞こえてくる。生ぬるい血がゆっくりと流れていき、気怠い身体の重さは増していく。
 エッジはその様子を見ながら慣れた手つきでストールを首から外すとカインの腕を突き刺した小刀で薄手の布を切り裂き、一本の長い包帯にしてみせた。よすぎる手際にカインは嫌味の一つでも言ってやろうとはしたが、あっという間に血液と共に気力が失われていく。
「…寝るなよ」
「どの口が」
「憎まれ口叩けるなら結構だ。これ飲め、エブラーナのがんやくだ」
 とんでもなく苦いその小粒をエッジはカインの紫色した唇をこじ開けて口内に押し込んだ。
 徐々に失われていく血液と体力、そして意識が引きずり去られていく感覚は死そのもの。勿論エッジにカインを殺す気など毛頭なく、カインもまた、『こんなところ』で死んでやるつもりもない。口にねじ込まれたその苦いものをカインはなんとか飲み込むと、重くなる瞼に抗うことを諦めた。
 おいおい寝るなよ、というエッジのわずかばかり焦った声が聞こえる。
「…死ぬ 気はない。起きたら動けるように なってるんだろうな」
「…」
「どうなんだ」
 もしそうでもないなら後で殴る。
 カインは重たい唇でそんなことを告げ、エッジは応えて「当たり前だろ」と笑う。
「死んだら目覚めりゃ美女まみれの天国、生きて目覚めりゃとんだ地獄だ。好きな方を選べばいい」
 信頼しているとは絶対に言おうとしない竜騎士の唇の端が、僅かに上がった。



よ:黄泉への手向け(ラスメン)


 聖なる鎧、群青の兜、破魔の弓矢、緑の外套。隠密の刀。
 この場所に来るまでたくさんのものを失ってきた。自慢の光り輝く鎧は砕け散り、竜騎士たらしめる異形の兜は月に来る前にはもう破壊され、残されたのはただ槍の一振り。ローザが肌身離さず持っていた弓に強く張りつめられた弦はあっという間にちぎれさり、召喚士のマントは燃えてしまった。エブラーナの王子が持つ刀の片方は根元からポッキリ、だ。
 さよならと告げた実の兄は最後まで素顔を見せてくれることなく月の果てへと消え去ってしまった。
 傷だらけで取り残された五人はしばらくその場に立ちすくんでいたが、カインが「…帰ろう」と言って一番に踵を返した。揃いに揃って死の淵を漂っていたが、だからといっていつまでもこの月にいる訳にもいかないのだ。
「カイン 待って」
 ぱたぱたと軽やかな足取りでその後をリディアが追い、エッジが続く。行きましょう、というローザの声に促されついにセシルも硝子の部屋を後にする。
 今兄の後を追えば間に合うかもしれない。せめてあなたの声を、せめて父母があなたに与えた名前を、せめてその顔を見せてくださいと叫べば届くのやもしれない。それができないのはきっと、たとえ実兄であろうとも彼が『ゴルベーザ』としてセシルの愛するものたちを蹂躙した事実が拭い去れないからなのだろう。
 後ろ髪を引かれる思いを引きずりながら、セシルは背を向ける。
「…なぁ」
 二度とこの月に訪れることはないだろう。
 二度とあの兄に見(まみ)えることはないだろう。
 二度とあの声を あの姿を その名前を 知ることはできないのだろう。
 セシルはたまらず階段を駆け降りるカインの隣に追いつくと声をかけた。
 しかしながら親友の声にカインは応じることなく、ただ淡々と階段を降り続ける。なぁ!とセシルがもう一度声をあげて彼の顔を見ると、そこにはかつて見たこともない恐ろしいほどの無表情があったのだ。氷のように冷たく、人形よりも無表情で、洗脳され操られていた頃ですらまだ正気らしさが残っていたようにも見える。
「カイン…」
「セシル、行こうよ」
 まだ何か言いたそうな聖騎士をたしなめるように止めたのはリディアである。向かいではエッジが小さく頷き、黙々と歩き続ける竜騎士の後を追う。少し後ろからローザが急いで駆け下りてきてセシルの隣に並ぶと、「行きましょう」ともう一度促した。
 誰一人としてお互いの胸中を察することはできない。
 セシルの無念さは誰が見ても明らかであったが、その奥に秘めたる憎しみと並列する愛情の程度を知ることはできない。本人だってどうしていいかわからないはずだ、だから自身よりもゴルベーザをよく知るであろう親友に声をかけたのだ。
 けれどその親友もまた、複雑すぎる心模様を呈していたのだ。
 いくら一度でも命を救われた相手とはいえ、それまで彼が築いてきた全てのものを粉砕し取り上げてきたのは間違いなくセシルの兄だったのだから。憎しみをぶつけることもなく、ただ言葉を交わすことすらもなく何かを言いたそうに互いに目を合わせただけで別れてしまったのだ。きっと言いたいことや聞きたいことがセシルと同じくしてたくさんあったに違いない。
「な、地上に戻ればきっと宴会だぜ」
「エッジ?」
「俺たちがどうあろうと、俺たちはきっと『英雄』扱いだ。みんなしてセシルを持ち上げて、世界を救っただの あの星を救っただの そんな言葉に塗れるんだ」
「私たちはそんな…」
「そんなたいそうな気持ちじゃなくても、だ。俺たちには俺たちそれぞれに理由があった。だけど世界を救ったっていう結果がある以上、そんな理由なんてどうでもいいのさ」
 セシルが暗黒騎士として行ってきた所業などなかったことにされ、ミシディアの大虐殺も全ては月の悪意に操られたゴルベーザという魔人が行った悪事にすり変わる。ダムシアンを空爆したのもまた、あくまでゼムスに唆されたゴルベーザの行動であり、カインの裏切りもまた些事として消えていくのだ。
 彼ら五人に一切の罪はなく、世界を救い出した英雄譚の主人公として語り継がれていく。
「俺も国に戻らなきゃなんねぇし、みんなで騒げるのも最後だ。…せっかくだしよ、魔導船に戻ったらちょっとでいい、俺たちだけで飲もうや」
「…賛成だな」
「…珍しいなカイン。てめぇが賛同してくれるなんてよ」
「国に戻れば…それどころじゃないだろう」
「そうね。…先王陛下がいつ亡くなったのかもわからないまま…バロンの王は不在だもの」
 ダムシアンやエブラーナのように世継ぎがいる訳ではない。勿論このままの流れならば世間はセシルかカインを王として祭り上げる算段であろうが、それも一筋縄ではいかないのだ。竜騎士の男は「忙しいのはこれからだ」とぼんやり告げた。
「次期国王が決まるまでの僅かな期間が命取りだ。今までは世界の危機だのと言って大きなトラブルはなかったようだが…ゴルベーザがかき回した軍備は乱れたまま、貴族院も封鎖されたまま。…金食い亡者共の勢力争いが起きる。…どこまでも醜い戦争だ」
「次の王はカイン お前だろう」
 セシルは少しばかり自虐気味につぶやいた。「お前の血筋は僕なんかよりもしっかりしてるじゃないか。元を辿れば王家の血だって入っているんだろう?誰も文句を言わない家柄だ」と。
 それに対して親友はくつくつと喉で声を出すように笑い、決してセシルを振り返らずに答える。
「馬鹿め。竜騎士が空を支配する時代はもう終わった。俺に…ハイウインド家に未来はない。それに俺もお前も先王陛下の養子であることに変わりはない。お前はなにより聖騎士だし、赤い翼の隊長だ。…まぁ、俺たちが望まぬとも バロンの貴族は挙(こぞ)ってどちらかを王に推薦するだろう」
「……やだよね、そういうの」
「まったくな」
「じゃあやっぱり、魔導船でパーティしなきゃね?」
 リディアは大きな瞳を輝かせた。
 難しい話も、悲しい話も、過去の話も、未来の話も今はおしまい。
 凶暴化が収まった魔物たちは聖者の帰還を妨げるような真似はせず、往路は信じられないほど苦労した月の渓谷を軽々と戻っていく。邪竜の群れはカインに頭を下げ、黒の魔女はリディアを微笑みかけるような仕草で見送った。
「一生の思い出にしよう。みんなでいっぱい騒いで、疲れるまでお話して、笑い疲れたらみんな一緒に眠って…あの星に帰ろうよ」
 決して本心を明かそうとしないバロンの男たちは傷だらけで無理な笑顔を浮かべ、少女の誘いに乗っかった。



う:君の誕生に 嗚呼、祝福を(カインとパロム)


 君に祝福あれ。
 願わくば、末永き平和と繁栄が君の治世によって民に与えられることを。
 全ての罪を享受して俺は消え去ろう。逃げ出したと嗤うならばそれでいい。どれほどの理由と苦悩を口から吐き出そうとも敗者の嘶きなのだ。
 遠き日々の悲しみも怒りも、その全ては郷愁となり心のうちにひっそりと棲み着いた。空に浮かぶ月へと消えた男は嗤うであろうか。無様に死の淵を彷徨い続けながらも生き延びてしまった愚か者だと、せめて指を向けて高笑いと共に罵ってくれればどれほど幸せであったことか。
「カインのあんちゃん」
「子供が一人で来るような場所じゃないだろう」
「…じゃ、帰れねぇからミシディアまで送ってくれよ」
「セシルの差し金なら帰れ。無駄だ」
「そんなんじゃないって」
 年若きちびっこ魔道士は白昼に浮かぶ月を見上げていたカインの隣に並ぶとその場に座り込んだ。手にはサンドイッチの詰まったバスケット。「長老が持って行けって。断られたら全部食べていいって言われたけど、どうする?」なんて。あくまでミシディアの長老に頭を下げてこの山に留まることが許されている手前、あの老人の言葉を無下に扱うことはできない。
 妙などころで義理堅いカインは諦めたようにため息を零すと、少年の隣に座り込んで「好きなのを食べるといい。余ったらくれ」と言う。
「セシルのあんちゃんがさぁ」
「…」
「こども 生まれてさ」
「…」
 ハムと卵がたっぷり入ったミックスサンドを頬張る童(わらべ)はカインの心を知ってか、何気なくだけ告げる。淡々と、ただ事実を述べるだけ。
 双子の姉と違ってこのちびっこは他人に必要以上には干渉しようとしない。こうして長老の使いとして山にやってきては少し豪華なサンドイッチをカインに渡して、最近エブラーナでは流行病で大変らしい、ダムシアンは砂嵐がひどくて大変だ。ファブールの王女は元気すぎて大変だそうで。
 そんな他愛もない言葉をぽつぽつ紡いで、それにカインが少しばかり意見を述べて終わる。パロムが見聞きしたことないような世界の話、飛竜が空を支配していた頃の話。少しだけ自慢げに話すときはいつだって父親の話。
「ポロムはどう思ってんのか知らないけど、俺 あんちゃん取られたみたいで少し嫉妬した」
「!」
「俺とポロムがあんちゃんと一緒にいたのって短い間だったんだけどさ」
 小柄な二人のために歩幅を合わせてくれたり、街にいけば必要以上に子供扱いして肩車をしてくれて。最初は監視だからな!と恥ずかしがっていたパロムも、遠慮していたポロムも気づけばセシルの腕に抱かれてパロムと一緒に遊んでもらっていた。
 嫌いなピーマンとトマトはこっそり回収してくれて、逆にセシルが嫌いなニンジンはパロムが食べて。ポロムに見つかる度に怒られていたっけ、テラをおじいちゃんと呼び、シドもおじいちゃんと呼び。仲間から可愛がられていたパロムとポロムであったが、「もう子供じゃねぇのに、すごい俺 子供だなって思った」と小さな大人はうなだれた。 「…俺からしてみればお前はまだまだ子供だ」
「…」
 23になるというカインからしてみれば5歳も7歳も変わらない。7歳、と言えばミストで出会った頃のリディアもその程度の年だった。とにかく母親に甘えてばかりで、俺たちを母の仇だと言いパニックになった挙句タイタンを召喚してな。
 パロムはその間ずっと静かに年長の竜騎士だった男が語る言葉に耳を傾けていた。
 可哀想な、可哀想なあんちゃん。
 言葉の端々で途切れ、眉間に皺が寄り苦しそうに言葉を選ぶ。それは決まってセシルとローザの名前が出るときで。
 強烈な魔術による洗脳を受けたというのは解術されても相当の間被術者を蝕むものだ。バロンに残る彼の幼馴染らは知らないであろうが『そんなこと』は黒魔法を学ぶ上で初歩中の初歩だ。深い洗脳を受けた者に降りかかる災厄はむしろ解けてからが本番である。聞いた話だけではあるがゴルベーザが彼にかけていた術は黒魔法の中でもかなり原初的なそれに分類され、黒魔法というよりも呪術に近い。
「あんちゃん」
「…なんだ」
 申し訳ないが、幼いリディアがタイタンを召喚したところまでしかまともに聞いていない。セシルやローザの名が出てくる度に悲しそうな顔をしているのを見ていただけだ。
「どうせ、バロンにはしばらく戻らないんだろ」
「…」
「本当はさ、セシルのあんちゃんが…子供が生まれたら帰ってきてくれるかなって 言ってた」
「俺がそんなことで戻らないことは奴の方が知っているはずだ」
「うん。戻ってこないとは思うけど、って」
 サンドイッチと一緒に入れられていた牛乳瓶を小気味いい音とともに開栓して子供はこくこくと飲み始める。バスケットに余ったレタスと薄いチーズのそれをカインは掴むと、久しぶりに味わう新鮮な野菜に少しばかり目を細めた。
「……きっと 俺の言葉も全て長老はお見通しなのだろうが」
「ん」
 この子供をどんな意図で試練の山まで使いに寄越したのか。
 何かとカインを気にかける長老のことだ、その報せを伝えてサンドイッチを恵むだけにパロムをやったわけではない。
「……バロンへ 伝言を頼みたい」
 祖国から遣わされた使者を何度も追い返している内にそれらは途絶え、今となってはカインが交流を交わすのはミシディアの双子か長老だけ。ミシディアの街に生活用品を買いにいくことすらカインは諦めていた。魔道士の村では目立ちすぎる長身と顔立ちだ。長老もそれを理解してくれているのか、双子はここぞというタイミングで雪が降り始めれば暖かな毛布を、服の裾が擦り切れる頃には新しい服を持ってきてくれている。
「伝言?」
 二度と使者を遣るなという言葉以外に何かをセシルたちへ伝えるのは初めてだ。
 嗚呼、この伝言を聞いた彼らはなんて言うだろうか。
 心の奥底で友の顔を思い描く度に魔力の残滓が憎しみと悲しみを伴って蠢き、平常心を蹂躙していく。一体いつまで続くのかも分からぬ闇色を押し殺し、カインは俯いて中途半端に伸びてきた髪の毛で表情をパロムから隠してしまった。
「君に 祝福あれ」
「…」
「願わくば、末永き平和と繁栄が君の治世によって民に与えられることを。王子の誕生を このカイン・ハイウインドは故郷から遥かなる場所から祝おう」
 嗚呼。
 まだ見ぬ王子よ。
 名も知らぬ異国の王子よ。
 カインはサンドイッチを持つ手とは逆に、右の手のひらを額に当てて果てに消え去った月を懐かしむかのように天を仰いだ。空色の瞳が閉じられた目蓋から小さな小さな雨粒がするりと乾燥した肌を滑り落ちていく様を見て、パロムは目を丸くした。
 言葉を持ち帰らなくては。なるべく早く山を降りて、デビルロードを使ってでもセシルの元へと走らねば。
 愛する友よ。
 カインの唇は疑いようもなくそう動いていた。
「バロンの王子よ 君が この青き星に産まれ落ちたことに 祝福を」



き:郷愁の灯火(セオドアと謎の男)


 何度ゾンビの群れを薙ぎ倒したであろうか。
 魔の道、悪魔の道。デビル・ロード。
 確か他の呼び名もあったはずと男は記憶していた。何にせよ、邪の道だとかそういった類の名前ではあったが。歩けば歩くほどに心を蝕み破滅の誘惑を語りかけ、失われた半身が持つ憎悪と悲しみがからっぽの心に流れ込んでくる。次から次へととめどなく現れてくるアンデッドを片端から切り倒していくことでなんとか平常心を保ってはいるが、それでもセオドアや体力のないミシディアの魔道士たちが足を止めるたびに『それ』はゆっくりと鎌首をもたげてくる。
 殺せと。
 本能が囁くのだ。一般兵とは明らかに異なる騎士の鎧を身につけた少年を殺せと。上流階級の家柄なのだろう。ファミリー・ネームを聞けばその出自を知ることは容易だ。バロン屈指の名門出身である男が知る名であれば、それは紛れもなく高貴なる血筋が証。そうでなくば中流か下流の家出身ということだ。
 しかし少年の出自に執着するほど興味もなかった。
 壁に凭(もた)れ掛かり、急にゾンビが出てこないかを見張る男の背後で黒魔道士が持参のエーテルを口に流し込んでいる。白魔法をそれなりに使えるセオドアと、専門家でもある白魔導士がいるために回復が追いつかなくなることはないが、攻撃魔法を扱う黒魔道士は一人だ。数で押し寄せるゾンビなど手当たり次第に切り刻めば済む話ではあるが、セオドアや魔導士といった戦い慣れしていない者たちを守るためには魔法で一掃する方が易い。  故に黒魔道士の炎を頼りに戦ってしまっているのが現状だ。
「あと…どれくらいででしょう」
「…」
「ここは…ひどく、気分が悪い気がします。早く抜けられるといいですね」
「もうじきだろう。何度か魔法陣を通ったが…徐々に魔力が薄れてきている。一番魔力の濃い場所はとうに通り過ぎた」
 気分の悪さも少しはマシになっている。黒魔道士の回復が終わると男はずんずんと大股で廊下を歩き始める。遅れないようにと他の三人が少しばかり早足で着いていき、運の悪いゾンビがひょっこり現れればあっという間に男の曲刀で斬り伏せられ、追いついたセオドアの勢いをつけた突進で身を砕かれ、最終的に黒魔道士が描いた魔炎で燃え尽きていく。
 そして、
 更にまた何度かテレポの魔法陣を幾つも踏み抜いた先に待っていたのは大理石でできた小部屋である。

 目の前には ドアがあった。

 光り輝く魔法陣の姿はもうない。それまで身にまとわりついていた気味の悪い誘惑の言葉はついに消え去った。背後で少年が安堵のため息をつく声が聞こえ、口には出さなかったもののミシディアの魔導士たちも一安心といった様子の顔を見せた。一安心なものか、本当に厄介なのはこれからかもしれないぞという言葉を飲み込み、男は顔を上げた。
 目の前には ドアがある。
 その先に広がる光景はきっと、男が焦がれ続けてきたきらめきだ。
 幼い頃に走り回り、とても仲のよかった友人たちと水路で泳いでは風邪を引き、思春期の頃になると自暴自棄になる度に酒場で馴染みのマスターや娼婦に慰められてきた。
 それはそれはもう遥か遠き日々の記憶。決して忘れられぬ、しかし決して踏み入れるまいと自らに言い聞かせてきた、遥かなる故郷だ。
「…行くぞ」
「はい!」
 重たい扉が唸りを上げ、少年の故郷が顔を出す。
 嗚呼、この 風だ。
 春先特有の甘ったるい香りを伴った風はきっと郊外の菜の花畑からやってくることだろう。幼き日々に親友を虐める上級生を呼び出しては喧嘩に明け暮れたあの菜の花畑。きっと今も黄金の小さな花粒を実らせ、貴族の子供たちが走り回っていることであろう。
 少しばかり砂っぽい景色は男がこの街を捨てたあの日と変わりはしない。  何一つとして、鏡写しのように。
「……どうされました?」
「…」
 扉が開いたため陽の光に眩んでいると思われたのか、それとも具合が悪いとでも思われたのか。少しの合間呆気にとられていた男を不安そうに気遣って見上げる少年の瞳は純粋だ。この少年が愛する故郷は、男が愛した故郷と等しいのだ。
 これより最後の赤い翼はバロン城へと帰還する。
 そして、最後の竜騎士であった男も悲壮たる想いを胸に故郷へと帰還したのだ。
「…この、街は」
「?」
 目頭が少しばかり温まる感覚が襲った。どれほど帰りたいと思ったことであろうか。どれほど愛し、どれほど焦がれ、どれほどに郷愁の祈りを捧げてきたかは分からない。それでも身を喰らう悪意を滅ぼすまではと決意してきた誓いが今、望まぬ終わりを告げたのだ。
 透明な粒が乾燥した頬を伝い、僅かに声を震わせながら男は呟いた。
「この街は…美しいな」



に:似た者同士(カインとゴルベーザ)

 顔のかたち、髪の毛のいろ。郷愁を孕む悲しそうな声。
 色の抜けてしまった薄色に指をかければギシギシと音を立てそうなほどに傷んだ髪の毛が武骨な指先を絡め取った。少なくとも己の半身は、この男を愛していたのかもしれない。お前は私だけのモノだと、私だけの竜であれ、槍であれという妄言を愚直なまでに信じ込んだ若き日々の己はこの男を同時にひどく憎んでいたことをカインは憶えていた。
 身を焼き散らすほどの執着と愛憎を含んだ抑えきれない情念にあの哀れなひとのかたちをした感情は食い殺されてしまっていたのだ。そこにあったのはただ誰かにとっての一番でありたかったという幼稚で、もっとも大きな願望だったのだ。親友の兄であるこの男を視界に入れることなく『目的』を果たせて本当に良かったと彼は久方ぶりすぎる寝床の中で思い出していた。
 『彼』が、あの男に出会ってしまっていれば。
 きっと誰よりも殺そうと狂ったであろう。あの男が月に帰り、自らに巣食い続ける悪しき心と強烈すぎる魔術による後遺症に悶え苦しんだが故にバロンを出奔した日。皮肉にも愛した友らが結婚する前夜となってしまったあの日。愛というには歪(ひず)んだ、憎しみというには純粋すぎる感情に苛まされた若き日の姿のままでもう一人の己は欲望のままに生きようとし、そして苦しんだ。
「…あなたを 心から憎めたのであれば…幸せだったのかもしれない」
「…」
 なぜ置いていったのだと。なぜ連れていってくれなかったのだと。なぜ なぜ捨てたのか。それとも最初から視界になど入っていなかったのか。ただの玩具遊びだったのかと。それならばなぜゼムスに意識を奪われながらも最後までカインの命を奪えなかったのか。残酷な嗜虐心を最後にひとかけら残っていた理性と正気で押しとどめてくれなどしなければよかったのにと。
 勿論、全ては心の内だ。
 隣で横たわるその男になど言えるはずもない。カインはセシルとローザを愛した。だからこそセシルを憎み抜くこともできずその命を奪うこともできず、そのセシルだけを愛したローザを愛することしかできなかったのだ。
 バロン城に泊まれば兵士たちが混乱する。いつの間にかカインが戻ってきていたなど知れれば、面倒臭いことになることは目に見えていた。そしてゴルベーザの存在もまた、今のバロンには些か『刺激』が強すぎるだのなんだのと理由をつけて城下町で慣れ親しんだ宿に転がり込んだという訳だ。それなりに体格のいいカインととても体格のいいゴルベーザという二人が一つのベッドに入るのは非常に困難であったが、空き部屋が一つしかなかったのだ、仕方あるまい。片方が床で寝るかという話もしたが、お互い久々の寝床だ。結局二人ともにベッドを譲らなかったがためにとんでもない窮屈を味わう羽目になっている。
「私は あなたを憎めなかった」
「…」
 鼻が触れ合うほどに近いゴルベーザの顔からはしかし、何一つの感情も伝わってはこない。意図して表情を消しているのか、それとも本当に何も感じていないのか。「憎めばよかろう」と答えのなくなった子供のように大柄な男は言葉をこぼす。
「憎めれば…どれほど 満ち足りていたか」
 数刻前に相対した『アレ』を思い返してカインは自虐気味にくつくつと笑った。空虚であると同時にあの器は憎しみと愛をたっぷりに充し、満たされていたに違いない。大きすぎる感情に呑まれた半身の精神は既にその身に取り込んではいるものの、今は胸の奥底で鳴りを潜めている。
 心の奥底から憎めれば。
 糾弾、罵倒、懇願。様々な方向でゴルベーザを責め立てることで罪悪感をなすりつけることができれば、だ。
「…あなたを 憎んでいたかった」
 カインはもう一度小さく呟いた。



も:物乞いの憂鬱(カインとギルバート)

 甘い昼下がりに木々が囁くような歌声、柔らかな毛布に包まれて望郷の祈りを語る歌。
 気を抜けば深い深い微睡みの中に沈み込んでしまいそうだが、食事が出来上がるまで眠る訳にはいかない。どうせ食事を済ませてしまえばすぐに出立せなばならない。どうにかカインは眠気に争ってはいるものの、その目の前で優雅にリュートを奏でてみせるダムシアン王が狙っているのはその僅かな時間の微睡みそれそのものであった。
 彼なりの気遣いだ。しかし優しい王の気持ちは有難いが、カインは生憎この羽毛が如き睡魔には抵抗するつもりである。
 セシルが覚醒する兆しは、ない。親友は今もカインの隣で意志を全て失った人形のように弛緩した体を岩肌に預けている。時折意味不明な言葉をうめき声として漏らすだけで、コミュニケーションはもちろんのこと、食事を摂る様子もない。
 眠ってられるか、というのが現在の心境だ。
 突発的に夜更けにセシルが暴れ始めることは多々あることだし、そんな状態ではセオドアやローザ、そしてひ弱なギルバートに不寝番を任せる訳にもいかない。カインが『夜明け』ごろまで寝ずの番をし、『明け方』になってようやく他の者と交代する。そんな生活を続けているせいだろう、よっぽど酷い顔をしているらしい。数時間前に食糧を探しに行くと告げたローザには「まるでアンデッドみたい」と真顔で言われたものだ。
「君が眠ってくれないと、後で文句を言われるのは私だよ」
「…今は寝るつもりはない」
「それは頼もしい限りだけど。そろそろ君だって限界だろう?さっきも足元がふらついていたじゃないか」
「うるさい」
 カインの右足に備えられた脛当ては原型をとどめていない。つい先ほどの戦闘でふらついてしまったところに攻撃を受け、美しい鎧を叩き潰されてしまったのだ。幸いにしてローザの白魔法がよく効いてくれたおかげで歩けなくなる事態は避けられたが、骨張った足にくるくると巻かれた包帯は痛々しい。その上ギルバートに指摘されることで身体中が傷だらけであることを暴露されてしまい、今に至る。
 ローザはぷりぷりと隠し事をしていたことに怒っていたが、同時に力至らぬと泣きそうな顔をしていたこともまたカインは知っていた。
 早く起きろよ馬鹿セシル、とカインは深く重いため息とともに漏らした。
「…セシルは目覚めるさ、必ず。それは君が一番知っているはずだ。そう、信じているんだろう?」
「信じてるもなにも、このまま目覚めないようなら渓谷に投げ捨てるつもりだ」
「目が笑ってないよ」
 ギルバートはリュートを奏でていた手を止めた。綺麗な形の目を少しだけ見開き苦笑いを浮かべる。
「本気だからな」
 そうかい、とギルバートは言うとリュートを隣に立てかけて、代わりに瓶に残っていたカイポビールを手に中身をあっという間に飲み干した。
 ファルコンの酒蔵に積み込まれていたビールを樽ごと持って来たのはいいが、魔導船に全て残していてはシドやゲッコウたちをはじめとするタチの悪い酒豪軍団に飲み干されてしまうだろう。そう思ったギルバートがこっそりと手持ちの荷物に混ぜておいたものだ。
「君もどうだい?まだ一本残っているよ」
 彼は皮袋から顔をのぞかせる真新しい瓶に目をやった。
「ビールは好かん」
「そうかい。カイポのものはおいしいのだが…残念だ」
「エブラーナの酒の方が口には合うだけだ。不味いとまでは言わないが」
 それかトロイアのワインか。たわわに実る葡萄畑から作り出される水の都トロイア産のワインはバロンにいた頃屋敷でよく飲んだ味だ。輸入品ということもあり庶民では手の届かないそれであったが、カインはよくそのワインを片手に騎士階級といえど金のない竜騎士たちに分け与えていたものだ。
 あれがそろそろ恋しい、とカインはくつくつ笑う。
「まぁいいさ、ダムシアン王の勧めだと言うならば仕方ない。無事に帰れたら頂くことにしよう」
「その言葉忘れないでくれよ。君とは一度飲んでみたかったんだ。…君がバロンを出てから、会うたびにセシルは君の自慢話ばかりだったから」
「…いい年した王が気持ち悪いことだ」
「違いない。こうして面と向かって話す機会なんて初めてに近いはずなのに…私は君のことをよく知っている気になっているからね」
 カイン・ハイウインド。年の頃はセシルより一つだけ年上。ローザとは元・婚約者。かつての戦役が終わった後たった一月ほどしか滞在していなかったはずのバロンで貴族院を招集し、セシルを王に祭り上げ反対する貴族たちを締め上げたった一つの文句すらも抹殺していった影の立役者。ついでにその貴族院で老人を怒鳴り散らす流れでさらりとローザとの婚約が既に以前から解消されていたというでっち上げを並べ立て、セシルの戴冠式同じくして行われた結婚式の朝に消え去ったかけがえのない親友。
 神経質で繊細そうな見かけをして、華奢な美女にすら見えるプラチナブロンドの髪をした幼馴染。だけど蓋を開けてみれば大酒飲みのどこまでも男らしい性格で。繊細なんて言葉とは縁遠い豪胆で頑固で兎にも角にも意志の固い誇り高い立派な竜騎士。
 次々とダムシアン王の口から流れてる歯の浮くような話にカインはもう一度ため息をついて「人のいないところで何を勝手に」と諦めたように笑った。そして彼はごろりと地面に転がり、虚ろなセシルの表情を見上げて動く気配の見られない彼の唇に指を伸ばした。
「もしも目覚めないと言うのならば…俺は本気でこいつを殺すやもしれない。たとえ目覚めても狂っていたならば…その方がタチ悪いな。また俺が二人になろうとも構わん、セシルを殺す気で殴る。打ちのめしてやる。目覚めるまで殴り続けてやる」
 少しだけ苦しそうに眉を寄せて、そう言う。
  随分と物騒だと相槌を打つギルバートは少しばかり疑惑を込めたような瞳を向けたが、それに気づいたカインは自嘲の笑みを浮かべて指先に力を込めた。
 青紫の唇をぐいぐい押しやったってちっとも動きはしない。もぬけの殻になってしまった空(うつろ)を見つめたままカインは告げた。「…セシルは家族に剣を向けたんだ。血を分けた息子を、セオドアを躊躇いなどなく斬ろうとした。、ローザを斬ろうとした。とっとと正気に戻って百発ほど殴らないと腹の虫がおさまらん」
 そんな言葉を聞き、ダムシアンの優男はあっという間に疑惑を引っ込めて穏やかな顔色に戻る。
「とても君らしい言葉だ。きっと目覚めたセシルはこう言うよ、『変わっていないな』とね」
 気障な言い回し、それでいて友を愛するやさしき心、セシルから聞き続けた噂に違わぬ言葉選びにギルバートは再びリュートを手に持つ。少し離れた岩場できゃあきゃあと女性陣がはしゃぐ声が聞こえた。今日の食事当番は誰だったかな、賑やかだね。
「変わってない、か。…故郷も、身分も…名前も 全て捨てたつもりだったが… 何も変われないまま、どこへも進めないままだ」
 十と余年をかけたというのに得たものは生き恥である。月の民によって授けられた聖なる力は己の闇に相対し打ち勝った故の力だと言われれば間違いはないが、その原因を作り出したのはカインが抱く心の闇であることにも違いはない。
 変われなかった、と小さな小さな弱音を吐いたカインにギルバートは瞼を閉じ、ゆっくりと再びリュートを爪弾き始める。
「ならば、今から変わればいいだろう」
 王が奏でる甘い甘い音色は生まれたその瞬間から騎士となることが宿命づけられていた男とは縁遠いものだ。優しく眠りの底へと包み込む温もりがゆるやかにカインから意識を奪っていく。変われないのは私もだ、とギルバートは独白のように零す。
 さぁ眠れ、さぁ 眠れ。
 砂漠の王は盟友の親友がどんな気持ちでかつての戦いに身を投じていたのかを知らない。セシルはカインの人となりについてはたくさん教えてくれたけれど、あの戦いの最中のことは避けてばかりだ。なぜバロンから消え流浪へと身を落としたのか。なぜそうでありながら、バロンに戻ってきたのか。なぜ なぜ未だに聖なる力を得たというのに苦悩の海で溺れているのか。
「眠っておくれ、どうか。…せめてセシルが目覚めたときに見る君の顔が 少しでも安らかであるように」



ど:道化談義(カインとエッジ)

 白い包帯ぐるぐる巻きにされてエブラーナ王とバロンの元・騎士たる現・浮浪者は魔導船の固い床に転がっていた。
 あちらこちらに小さくない傷を作り、白魔法で治癒を施すよりも無理を続けた身体を労わりなさいとしばしの休息をいちばんの白魔道士に言いつけられたのだ。今頃バロン王は息子や妻を連れて感覚を取り戻すために船の周りで魔物退治に明け暮れていることだろう。
「…疲れたなぁ」
「もう年じゃないのか」
「馬鹿野郎、それはお前もだろ」
「まだ俺は三十代前半だ」
「昔みたいにはもう動かねぇだろ、体」
「当たり前だ」
 しなやかに宙空を飛び、軽やかに敵の攻撃を躱す。非常に関節の柔らかい身体でとにかく敵陣の真ん中に突っ込み撹乱する。若い頃はそんな感じだったなぁ、とエッジは年寄り染みて呟いた。無論、今でも戦い方は変わらない。むしろ若い頃よりも研ぎ澄まされたカインの槍は的確に魔物を打砕き、邪魔をする者は片っ端から叩っ斬る。
 昔のようにはもう動けないやもしれぬが、昔よりも技術は上がった。竜騎士の男はごろりと寝返りを打って隣で寝転がるエッジを見下ろした。
 少しだけ年上の王の顔には貫禄溢れる傷跡が走り、当時は存在しなかった皺の痕が見える。バロンほど腐ってはいないであろうが矢張り忠義に篤いエブラーナといえど政(まつりごと)に携わっていては心労が絶えないのだろう。
「…一安心 やもしれないな」
「ん?」
「もう無理する必要もないぞ、エッジ」
「俺は無理してねぇよ。そりゃこっちのセリフだ」
 どれほど傷が痛もうとも声をあげてはいけない。年少者が心折れそうになれば鼓舞しなければいけない。戦略を考えに考え抜き、寝る間を惜しんでまで進軍の話し合いをする。戦いとなれば『子供たち』の手本となるように率先して敵に飛びかかる。
 要であるセシルが目覚めぬ以上、彼ほどのカリスマと求心力の無い者たちがその穴を埋めなければならなかったのだ。
 エッジやギルバート、ヤンをはじめとする各国の王らが指揮し、実働部隊をカインが率いてきた。決して弱音をあげてはいけない。夫を奪われたローザや盟友たちを奪われたリディアを慰めながらここまで進んできた。
「少しだけ…疲れた かもな」
 再びカインはエッジの隣に寝転がり、毛布にぐるぐるとくるまり芋虫が如く身体を丸めた。通りすがりのギルバートにはせめて部屋で寝てくれと小言を漏らされたが聞かなかったことにする。広間のど真ん中で壮年の男は二人して痛い痛いと呟きながらごろごろと転がる。
「エッジ」
「なんだ?」
 手持ち無沙汰に床を転がっていたカインがぴたりと動きを止め、エッジに背を向けたまま名前を呼んだ。
「…どうも 休んでいるのは性に合わない」
「!」
「ローザの休めという言葉も分かるが…もう十分休んだ」
 たった半日ではあるが。
 糸の切れた人形のように眠りの泥濘に陥っていた二人が目覚めてから数刻が経つ。身体の節々は痛むままだし、白魔法での治癒を拒否された傷はじくじくと針のようなむず痒い疼痛を与えてくる。
「それには同感だな。…それこそ次は俺たちの腕が鈍っちまう」
「どうする」
「そりゃ俺たちも身体の鈍りを取り戻しに行くのが一番だな」
 鈍るほど休んでいた訳ではないが。今まで二人を苛んできた疲労の原因である過緊張が失われたのだ。セシルを支えなければならないことに変わりはないが、セシルの変わりにみんなを支える必要はなくなった。不釣り合いなほどに重かった肩の荷がようやく降りた二人は同時に上体を起こすと、ボリボリと頭を掻いた。
 精神的な疲労さえなくなってしまえばどうにでもなる。
「お前と二人で外に行くのは文句ないが、少し心許ないな」
 エッジは回復用の丸薬を持っているし、カインもなけなしではあるが白魔法を扱える。だが二人はとにかく敵を蹴散らしたい衝動に駆られているのだ。一人くらい回復役として共犯者を選ぼうと悪友は顔を見合わせた。
「ポロム…はダメだな。あいつはローザの言いつけを守るいい子だ」
「レオノーラはどうだ?」
「彼女なら着いてきてくれるとは思うが…巻き込むのは忍びない」
「…考え方を変えよう、エッジ」
「変える?」
 白魔道士を連れて行くのではなくて。
「ゴルベーザを巻き込んでしまえ。奴なら、お前だって共犯にしたところで罪悪感なんてないだろう」
「ひでぇ言い方だな。…確かに奴なら俺も文句はねぇが、回復魔法なんて使えないだろ」
「だからその考えをやめるんだ。回復しなくてもいいように…殺られる前に殺ればいい」
 どれだけ物騒な考えだ。エッジは思わず声をあげて笑いそうになったがそれを堪え、芋虫のまま再び身を起こす。綺麗なプラチナブロンドが無機質な床に流れ、振り返った男の長い前髪がばらばらと顔を横切り憂いを帯びた美形が露わになる。
「…ほんとお前、もったいねぇくらい美人だよなぁ」
「は?」
 突然すぎる告白にカインは派手に眉をひそめた。
「道化は俺一人で十分だってのによ、生真面目であらぁ」
「お前一人じゃ道化も務まらんだろう」  無理を押し隠したままここまで歩き続けた道化を演じてきたエッジはからからと笑い、毛布をはねのけた。ここらの魔物は月の内部にいるものよりもかなり弱い。軽装でも十分だと近くに転がしていた小太刀を腰紐にぶら下げた。
 同じようにカインも気怠げに長い髪を簾(すだれ)のように流しながら起き上がり鋭い槍を手に取った。「…子供の頃は」と言う。
「セシルの尻拭いなんていつものことだった。…慣れっこさ」
「そうかい。俺も前の戦いじゃ一応最年長だったんでな。どっかの意固地に付き合って道化を装うのに慣れちまってな」
「…」
「お互い様だ。さ、とっとと兄貴様を巻き込んでいくか」
 目立たないようにしているだけの三人目たる道化を呼びに行くため、二人はやはり身体中包帯だらけにしながら魔導船の床を裸足でぺたぺた徘徊し始めた。



つ:罪の在処(カインとセシルとリディア)


「カインがミストの地割れに巻き込まれたのはわたしのせいよ」
「それを言ってしまえば、君のお母さんのドラゴンを殺したのは僕らだ」
「元はと言えばセシルがカイナッツォが化けてた陛下に盾突くのが悪い」
「カインが自分の気持ちを隠してるからだ」
「…」
 とんだ飛躍。
 罪人探しはとんでもなく困難を極めた。そもそも悪いのは誰か、悪いのはきっとゼムス。けれどそのゼムスに悪意を吹き込まれたゴルベーザに付き従ったかつての四天王をはじめとする魔物たちは正気だったはずだ。統括するゴルベーザは操られていたから無罪?けれど陛下を殺したカイナッツォは有罪?ギルバートの想い女であったアンナを殺すきっかけを作ったのだから、どうであれやはりゴルベーザは有罪か?
 そして被告人は当人たちへ。
 セシルとカインはリディアの母親を関節的に殺した。よって有罪。リディアは追い込まれた恐怖のためにタイタンを呼んだ。よってその後の惨事を考えたとしても無罪。望まなかったとはいえゴルベーザに命を救われた恩を返す気持ちを含んでいたとしても、世界を破滅寸前に追いやる手助けをしたのだからカインは有罪。
 愛する人を守りたいと願い続けた親友の心を知らずに踏みにじったセシルは?
 罪有る者と罪無き者の境界は非常に曖昧である。『今回』の騒動に限って言えば戦犯探しは簡単だ。種の存続という意味から言えば純粋な生存本能によってクリエイターたちは青き星を喰らおうとした。怒りの矛先は『高等種』である彼らへ向ければいいだけだったのだ。無論、マイナスという名も無き少女たちは父たる存在が望むままにクリスタルを奪うために多くの人々を傷つけた。彼女たちはおそらく、有罪。
 理由がどうであれクリエイターもまた有罪なのだ。
 そしてそのマイナスたちによって意思を奪われ仲間の多くを大いに傷つけた幻獣神たるバハムートに罪はない。操られ世界各地を襲撃する命を下したセシルも、バロンの兵士たちにも罪は無い。あるとすればそれこそ、自らの心を隠し続け一人で悩み続けたカインだろうが、彼が巻き起こした被害がマイナスたちのそれよりは軽い。かつてよりはマシだ。
「人のせいにするのって…辛いのね」
 リディアはぎゅっと膝頭を抱えた。祝宴はもうすぐだ。魔導船の無機質なテーブルで今頃ローザを筆頭とする女性陣は残り物で特性シチューを作り、カイポビールの在庫を大酒飲みたちが争奪戦を繰り広げている所だろう。主役は黙って座ってて!という王妃の強い声によって談話室にしている小部屋に押し込まれたのはしばらく前のことだ。
 飲み物を持ってきたリディアがそこに座り込み、終わりの見えない犯人探しが始まった。
「自分のせいにすると楽だよね。全部自分のせいだって言えば…楽になれる。そうだろう?カイン」
「…俺に聞くな」
 こんな時、もっとも『自分のせい』にしたがるセシルの実兄がいてくれればまだマシだったやもしれないとカインは頭を抱えた。ゴルベーザには悪いが、彼が抱く罪の意識は誰よりも大きく、また世辞を抜いても世界へ多大なる迷惑を与えたことに違いは無い。
「自分がやったこと以上を自分のせいだって思えると 楽だよね。カイン?」
「…」
「お前のせいだって怒鳴られると…安心するよね」
「セシル、お前…」
 だってそうじゃないか。セシルは少しばかり悲しげな瞳で呟き、冷たい水の入ったグラスの水面を見つめた。「僕が愛した人を、国を、世界を傷つけた。昔はお前の気持ちなんて分かってるつもりだったのにな。…思い知ったよ。自分の犯した過ちの 重さを」
「…」
 罪の意識を持つなと叫んだ。お前は悪くないんだと。カインがかつてバロンを去る日の前夜セシルはそうやって泣き叫んだ。もう祖国にはいられないと告げた親友を引き止めるためだけの言葉だったのか、それとも本当に罪の意識を持つなと思っていたのか。今となってはもう、分からない。
 だが今回セシルが操られ意識を奪われていたとはいえ、世界を傷つけてしまったことに対する巨大な罪悪感を抱いているのは誰の目から見ても明らかであった。お前は悪くないと叫ばれようとも決して癒えることのない傷跡。誰かを傷つけてしまったというまぎれもない事実と記憶。「…なぁ、カイン」とセシルは親友の名を告げる。
「僕は…お前のこと、ちっとも理解してなかったのかな」
 どれだけお前が苦しんできたのか。どれほどお前が僕らを愛してくれていたのか。どれほどお前は自分を傷つけることで正気を保ってきたのか。
 ごめん、と王は頭(こうべ)を垂れた。
「よせよセシル」
「ごめん」
「…」
「セシル、顔を上げてよ」
 そこまで黙っていたリディアが落ち込んだ国王の肩に手を置き、優しく微笑んだ。
「わたしに 償う必要なんてないって言ってくれたの、カインなのよ」
「償う?」
「お母さんが死んで…わたしはタイタンを呼んで…あの時、本当は崖から落ちるはずだったのはわたしなのに、カインが助けてくれた。見ず知らずのわたしを…躊躇いなく助けてくれたのは、カインよ」
 誰であろうと幼女が目の前で落ちそうになったら助けるだろう。昔はそう言ってくれたよねとリディアはにこにこしたままセシルの肩に頭を寄せた。「もしわたしがタイタンを呼ばなければ…あのとき死んだのが、わたしだったら。きっと世界はこんな姿じゃなかったわ。…そう 思っていたの」
 その事実が招いた結果は誰が言うまでもなかった。
 カインはゴルベーザに命を助けられ、セシルは幼いリディアを連れて砂漠を渡った。バロンは危険だと言いローザを老いた死にかけの飛竜の背に乗せてミストの土砂崩れを越えさせたのはカインだ。バロンの城で僅かに息づいていた飛竜たちは竜騎士の数が減るにつれ雪解けのように次々死に絶え、最後の一頭もローザを運び砂漠の中で死んだ。高熱病に罹りながらもセシルを求めたローザを愛していたのはカインだ。
 ダムシアンを木っ端微塵に滅ぼした赤い翼を率いたゴルベーザはその後カインを手駒として世界中に散らばるクリスタルを手中に収めた。もしも、もしもと何度問うたところで仕方のない問答をリディアはかつて続けていた。
 それに対して竜騎士の男は軽く笑ってみせる。
「もしゴルベーザの元に俺が下らなくとも、他の誰かがクリスタルを奪い、ローザを拐(さら)い、お前たちを傷つけた。リディアが死ねば…それこそ俺たちは罪の意識で押しつぶされていたかもしれない」と。
「よく考えろ、セシル。確かにお前は操られた。ダムシアンを空爆し、セオドアにも剣を向けた。だがその結果はどうなった?皆よろしく酒でベロベロに酔っ払って勝利の祝杯だ、祝宴だ。…俺たちは、青き星を守れたんだよ、セシル」
「カイン…」
「そんなことを言ってもお前が持つ罪の意識が消えることはないさ。…俺だって、かつて…そして今俺が起こしたことに対して罪悪感を抱くなと言われたところで認める気はないからな」
「…それこそ結果オーライだと わたしは思うのになぁ」
 カインではなく他の誰かがゴルベーザの優秀な手駒であれば、きっとゼムスに全てを支配されたゴルベーザにも従っていたことであろう。側に在り続けたのがカインであったからこそ、セシルの実兄は正気を取り戻したのだと。「言っても聞いてくれないのよね、わたしには言うくせに」なんてすっかり成熟した女は笑った。
「女は泣くより笑ってた方がいいって言ったのよ。エッジでもそんなこと滅多に言わないっていうのに」
「…お前、本当気障だなぁ」
「性格だ。仕方ないだろう」
 セシルは幼馴染の言動に大いなるため息をついた。歯の浮くようなセリフを平気な顔して並べ立てるこの男は一つも変わりはしない。きっと今だって過去の罪悪を抱き続けているのだ。だが、 だがきっと。
「カイン」
 セシルはその場で立ち上がった。柔らかな物腰は若い頃から変わりはないものの、当時よりも肌は乾燥し、うすらと加齢によってか眉間に皺の跡が見える。聖騎士になってすぐの頃からすればずいぶんと逞しくなった体格は実兄には劣るものの、それでもヤンやゲッコウに次ぐ膂力だ。年若くして王位についた親友はきっと気苦労が絶えなかったのであろう。敵対する貴族には盛大に脅しをかけてからバロンを出て行ったものの、それでもセシルを妬む者は今も多くいるはずだ。
 王としての貫禄をすっかり身につけた親友はその場にあろうことか跪き、カインの左手をとった。
「お前は…我がバロンに戻ってきてくれるか」
 それは親友として、ではない。
 王として、かつて肩を並べバロンの双翼となって国に貢献してきた男へ、一人の騎士に対しての言葉だった。
「……今更俺に戻る場所など」
「役職が欲しいのならいくらでも用意しよう。…お前が売り払ったハイウィンドの土地も、昨年まででようやく全て僕が買い取った。本来あるべき持ち主に返すこともできる」
老いた給仕が一人いるだけの屋敷も、飛竜を自由気ままに生活させるために持っていた広大すぎる庭も全て売り払った。それで得た金は全て孤児院に寄付するようにという言伝は達成されたということをエッジ伝いに聞いたものだったが、いつの間にかセシルが買い戻していたことは寝耳に水だ。カインは目を丸くし、「馬鹿か」と笑う。
「セオドアもお前に懐いている。ハイウィンド公爵、我らバロンは貴方の力が必要だ」
「…お前はもはや大国の王だ。一介の騎士に頭を下げるな」
「頭を下げてでも、私はお前の帰還を望む」
 帰ってきてくれと気安く言える仲では、もうない。互いに互いを傷つけてしまった過去を水に流すことができない気難しい者同士だ。「カイン。お願いだ、私を…バロンを、支えて欲しい。赤い翼は壊滅し、私は王位を追われるやもしれない」
 それ見たことかと異邦人であるセシルを玉座から追い出そうとする諸侯は指折り数えていては足りないであろう。忠臣が手のひらを返し反逆を企てるやもしれない。そのことは構わないのだとセシルは言う。
「私の身はどうなろうとも構わない。だが、私には…先王陛下から託されたこの国を、妻を、子供を…守らなければならない。バロンは軍事国家だ。力を持つことで…世界の均衡を保たなければならないんだ」
「…今の事情は知らんが、確かにお前が退けば暴君の治世だろうな」
 有力貴族の顔を頭に浮かべてカインは椅子から降りると、跪いたままのセシルの向かいで更に低い姿勢をとる。いい年をした大人の道化のような振る舞いに置いてきぼりのリディアは首をかしげたままだ。
「だが、俺が戻ったところでそれをダシにお前を攻撃する者もいるだろう」
 かつての裏切り者を再び受け入れたとして。
「それでも…お前はきっと、私が王位を追われようとも私の家族を守ってくれるだろう?」
「……狡猾だな」
「知っているだろう?」
 罪悪を直視することができず逃げ出した騎士に戻れと言うのは罪悪を直視せねばならぬ王だ。償うべき罪は世界のあちらこちらに残る。戦禍の爪痕を、災禍の傷跡をバロンは癒さねばならない。そのためには有能な兵士が必要なのだ。
 セシルの言いたいことは痛いほどに分かっていた。それでもカインには最後の踏ん切りというものがまだ付かず、ただただ頭を垂れるセシルの額にかたちのいい鼻筋を埋めた。
「セシル」
「…」
「時間をくれ。…お前の望みは かっているつもりだ。俺もまた、バロンへ戻らねばならないことは理解している。…それでも…それでも、せめて青き星に戻る時まで…答えを待ってはくれないか」
「カイン…」
 答えは既に出ている。バロンへ戻る以外に、カインが生きる道はないのだと。それでも彼は待ってほしいと告げた。
「……ね!二人とも!」
 沈黙が支配した二人の合間にリディアが割って入った。片手に透き通った液体を手に、彼女はにこにこしながら「この話はもう終わりましょう」と言う。
「みんな向こうできっと待ってるよ。セシルとカインがいなきゃ、お祝いしたって意味ないもの。…今は、全部忘れて みんなで騒ごうよ」
 それは昔彼女が告げた言葉とよく似ていた。
 すべて忘れて、かなしみもくるしみも。ただただ今は、勝利の祝杯というものに酔いましょう。
「…それもそうだな。久々に酒が飲みたいものだ」
「そう、だな。どうだカイン。久方ぶりの飲み比べでもするかい?」
「やめてくれ。後でローザに怒られるのは俺だ」
「じゃあカイン、わたしとお酒飲もうよ!わたし、甘いお酒は大好きなのよ」
 いつの間にお前酒なんて飲むようになったんだ、とカインは笑う。残酷なほどに年月は経ち、幼女だったリディアは少女となり、少女であったリディアはカインが捨て去ってきた季節のうちに立派な大人になってしまったのだから。カイポビール以外の酒があるのかは分からないが、なければビールでもいい。
 全ての罪も罰も忘れ去って今は皆と勝利の美酒とやらに酔い痴れよう。三人は笑いあい、リディアに腕を引かれながらバロンの双璧は既に酒乱の宴と化していた酒の席へと向かった。


た!:ただいま!(カインとローザ)


「…ローザ」
 静かに 名前を呼ぶ。
 乾いた薄い唇から漏れ出づる女の名前を呼ぶことすらた躊躇われた日々はもう、遥か遠く昔のことだ。たったわずかな音を発するだけにどれほど苦しんだことであろう。空は遥か青く遠く、見回りの兵士たちが揃って昼寝をしたくなるような天気だ。
 セシルがバロン王という座についてから何年経ってしまったであろうか。愛するローザが『結婚』という目に見えた形でセシルのものとなってから、どれほどの季節が巡って行ったことであろうか。
 推量れぬほどの痛みと悲しみを抱いてはいたが、吐露する場所を得られなかったカインにはそんな年月を受け入れるに難かった。緑の友人にしてみれば、「一人でなんでも考えすぎるからどうにもならなくなっちゃう」らしいが、ならば誰にこんな弱音を吐けばよかったのだと思わないでも無い。
 歩いて帰ろうと言ったのはセシルだ。
 月での戦いを終えた後に故郷へ戻り、城門から帰ろうと。
 遥か昔のように遠征から帰還したかの如く戻ろう。きみはバロンにかえってきたのだと。
 砦の上からこちらを見下ろす若い兵士たちはどんな気持ちであろうか。裏切り者の竜騎士が帰ってきたか、見も知らぬ騎士がやってきたのか。はたまた英雄譚に語られる男の輝かしき帰還か。
 どのように思われようとも構いはしない。
 ゆっくりと開かれていく城門の内側に立ち微笑みかけるは愛しの女。きっと死ぬまでカインはこの女を愛するのであろう。否、死して尚もこの女を愛し続け、他の女を娶ることはないのであろう。血筋だ、家系だ、そんなものは関係無い。ただ彼は彼女を愛した。たったそれだけの事実が、カインが祖国へ戻るための道を阻んでいたのだ。
 あの頃から随分と長い時間が過ぎた。
 かつては美しく皺一つ無い少女であった女は今や目尻に僅かであるが皺が浮かび、きっと身にまとう白き衣のしたには乳飲み子をあやし疲れた乳房が居座っている。艶かしい大腿も、輝かしき髪の毛も、ふっくらと美しい唇も失われた女だ。それでもカインには彼女が世界の誰よりも美しく見えていた。
 世界は広く、これまで多くの美女を見てきた。だがトロイアの娼婦よりも、ダムシアンの貴族よりも、エブラーナの淑女よりも美しい女はローザ以外いない。
 その声も、顔も、体も、心も、全てはセシルのもの。彼女がカインへ与えるものはセシルに与えているものと同じではない。
 それでいいのだ。

「おかえりなさい、カイン」

 世界で誰よりも愛する女がカインへと向ける言葉にはカインの持つ愛情とは異質のものが込められていようとも構いはしなかった。
 セシルへと向ける愛の言葉を欲しいと思ってしまったのも過去の話だ。これでいい、これでいいのだ。カインが愛するローザはセシルを一生愛し、セシルはローザを一生愛する。セシルがいなければ、バロン王に拾われなければという夢想妄想を今まで何度したかは分からない。だが、愛する女にとってせかいで一番のしあわせはセシルが隣にいることなのだ。カインではない。
 どうか しあわせに。
 十数年前祖国を逃げるように飛び出したカインが最後に女へ告げた言葉は誠となった。彼女は幸せなのだ。ローザの世界で一番幸せをかみしめている顔はきっとカインには与えられなかったものなのだ。セシルがいなかったとしても、彼女と晴れて夫婦(めおと)となる未来を手に入れていたとしても、だ。
 嗚呼、我が愛するローザよ。
 俺はお前を一生愛している。お前が他の誰でもないセシルを愛そうとも、その間に子供をもうけようとも関係ないのだ。見返りなど求めぬ、ただ お前はそこに在るだけでいいのだ。この愛は永遠に変わらず、永遠に続くのだ。
 言葉にしてはいけないこの心をカインは死ぬまで持ち続けるのであろう。リディアあたりが知ればまた怒られるであろうが、知ったことではない。せめて最後の格好悪い男の未練だけは誰にも知られぬまま墓まで持っていきたい。カインは月の女神よりも美しい女に柔らかに微笑み返した。

「…ただいま、ローザ」

 愛するローザよ。
 カインは恭しくその場に膝を付いて頭を下げ、バロン国王妃の祝福を甘んじて受け入れた。


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