最終幻想


最:さいあいなるせかいへ(リディアとカイン)


「ありがとうね、カイン」
 にこにことリディアは笑っていた。
 鞭を握りしめていた掌の皮があちらこちらめくれ、白い包帯をカインにくるくると巻かれながら言うものだから彼は「大したことじゃない」と答える。魔力は節約しなきゃ、と最初に言い出したのは誰だったか。今となってはもう分からないが、リディアは以来、下位の黒魔法ばかり使うようになっていた。
 当然ながら後方から黒魔法の支援が薄くなったために前衛の男たちに生傷は増え、ローザは回復に手を焼き魔力が底を尽きかけた。残り少ないエーテルの残りを彼女に回し、リディアは回復魔法に頼るほどじゃないから、と傷の治癒を断りこうしてローザに内緒で包帯を持ってカインの元に訪れたのである。
「セシルもカインも……エッジも。手、傷だらけ。……痛くないの?」
 大ぶりな剣を、槍を、刀を。
 それぞれに握りしめ振り回す男たちの手はリディアの比ではないほどに傷で覆われている。しかしカインは笑う。
「慣れてるさ。俺もセシルも、うんと子供の頃から剣を握ってる。エッジだって似たようなものだろう」
「ふぅん、そうなんだ。……でもね、さっきの『ありがとう』は……それもあるけど、違うの」
「違う?」
「うん。言いたかったのは……そうじゃなくて」
「じゃなくて?」
 そうだけど違って、とリディアはカインの無骨な手を取った。爪がボロボロに剥がれている部分もあれば、関節がすりむけ爛れている箇所もある。リディアが包帯を巻いてもらった部位よりももっと『痛そう』なその手を彼女はそっと包み込むと、「ありがとう」と再び言った。
 心当たりのないカインは首を傾げる。少なくとも、くりくりした目の少女に手を取られ笑顔で感謝を告げられるようなことをした覚えは、ない。
 だが彼女はそんな様子の男を見てくすくすと笑った。
「ありがとう、カイン。わたしたちを月まで連れてきてくれて」
「!」
 あの日、あの 太陽降り注ぐ真昼。
 バロン郊外に広がる黄色の菜の花畑でカインはリディアの願いを聞き入れてやった。その願いは少女一人だけのものではなく、ローザと、リディア。これまで長い長い旅路を──この月に至るまでの道を共に歩いてきた仲間たち二人は、望んだ。あの青き星で待ち、男たちの帰りを待つことを拒んだ。
 そして彼女たちは聞く耳持たないセシルではなくカインにそれを望み、彼はそれを聞き入れた。
 どちらかといえば女性たちの強い意志に押されたというのが本心ではあるが、結果は変わらない。幸いなことにまだ魔導船に女性たちが忍び込めるように手引きしたのがカインであることは他の二人には発覚していないものの、それも時間の問題だ。
「後悔なんてないよ。あtしたちの星にいる魔物よりも……地底に住んでた魔物よりも、比べ物にならないくらいこの月にはたくさん知らない魔物がいて、すごく 怖い。……本当はゼムスなんてよく分からないものを相手にするのも、とっても とっても怖いのよ」
「……それが普通の反応だ」
 おかしくなんてない。そう言うカインにしかし、リディアはゆるりと首を横に振った。
「でもね、もしあたしたちが星に残ったとして……ただみんなの帰りを待ってるのは、きっともっと 怖かったわ」
「待つ方が怖いと?」
 うん。少女は少しだけ俯いた。
 ミシディアでセシルが縁を紡いだ仲間たちと共に祈りを捧げているだけでは、恐ろしさで潰れてしまっていたかもしれない。
「セシルたちが……だいすきな人たちが あたしの知らない場所で傷ついているかもしれない。あたしの知らない場所で死んでしまうかもしれない。それをただ待つのは、とっても怖いわ。星が死んでしまうのなら、それは……みんなが、わたしの知らないところでゼムスに負けて、死んでしまったっていうこと。その確証もないまま……ただ、死ぬかもしれないのは なによりも怖いから」
「俺たちは負けない。青き星は、必ず守る」
「……カインは 負けないって言うけれど……死なないって言わないから」
 彼女は静かに口を開く。俺たちは絶対に負けない、そう彼は言う。けれど決して死なないなんてことは。
「……」
「意味ないよ、みんなで生きて帰ってこなきゃ。ゼムスを倒しても……誰かが死んじゃったら、なんの意味なんてないのよ」
「全員が生きて帰れる保証なんてないだろう。あの星の命と俺たちの命、天秤で比べられるようなものじゃない」
「それは、そうだけど」
 悲観でもなければ、自分たちが無力だと嘆いているのでもない。『事実』をカインは並べ立てた。
 月、そして青き星。物理的に考えの及ばぬほどの離れた箇所から月の血を目印として他者へと悪意を吹き込み、意思を奪い去る思念体ゼムス。そんな未知を相手にして無傷で帰還することなぞ到底思えはしなかった。
 ぞれはカインだけでなく、エッジもまた。
 国の老臣に『万が一』を考え後片付けを全て任せてきたと言っていた。生きて帰れぬ、と。楽観的なあの王子も考えてはいるらしい。  ゼムスを打ち倒し、青き星に住む命を守ることが彼らの背負った第一の使命なのだ。個人の感情はそこに含まれておれど、真実を求む者であろうた敵討ちを望む者であろうが、等しく背負う命の重さはローザもリディアもまた、同じなのだ。
「……大義のためにならば時には命を捨てる必要もあるだろう」
「……捨てるなんて軽々しく言わないで」
「命を賭す、とはそういうことだ。俺たち騎士にはその覚悟がある」
 いつだって命を賭けてきた。いつだって命の保証なんてなかった。だから生きて帰るだなんて簡単に慰めであろうと言ってやることはできやしない。そう告げてやると、リディアはそんなカインの割れた爪先に優しく触れた。バロンの男たちは皆揃って成人となれば髪を伸ばし、割れた爪には美しい紅を塗る。
 何度も剥がれ、割れを繰り返した彼の爪は血の塊がこびりつき、拳や関節にもたくさんの傷跡が残っていた。
「あたしには……覚悟が足りないの?」
「……」
「あたしには 誰かを憎む気持ち、ないよ。勿論ゼムスは許せないけれど……それよりも、あたしはあたしのすきなひとを守りたい。そう思う」
 それこそが汚れぬ彼女の強さ。仲間たちの誰一人が持つことのない、慈愛と言うにはひどく自分勝手な愛。
「リディア、」
「セシルを。エッジを。ローザを。……カイン、あなたも。今のあたしはもう白魔法を使えないけれど、守りたいっていう気持ちは消えないよ。あの星を守りたいっていう大きな気持ちは……あるけれど、それよりもきっと大きいの。だいすいな人があたしの知らないところで傷つく姿は……もう 見たくない。一緒に戦いたいの」
 ぱたりと。
 暖かい雫が少女の目からこぼれ落ちた。それは乾いた血の浮く指先へと落ち、続いて翡翠の瞳がぱらぱらと雨のように落ちた。「ごめんなさい」とリディアは泣いた。
「……あのなぁ」
 カインはため息をついた。「お前が泣くと俺がエッジに怒られるんだぞ」なんて見当違いな名前を引き出してやれば少女はくすりと涙を落としたままで笑う。そういう不器用なところも、下手くそな取り繕いも、リディアのだいすきなカインのいいところ。
「生きて……帰ろ」
「……」
「じゃなきゃ、星が救われたってみんな悲しむわ。ギルバートもヤンも、シドのおじいちゃんも、ミシディアのあの小さい子たちも……たくさんの人が悲しむわ。誰も欠けちゃだめ、みんな一緒に帰らなきゃ。帰ってからのことは……あとで考えよう? 今はただ、みんなで帰ることだけを考えようよ」
「そうは言うけどな、リディア。仲間だけじゃなくて……自分の命も守りながら戦うのはお前が思うよりもずっと難いぞ」
「……そうよ。難しいわ。だって 生き残るってそういうことだもの」
 カインの言葉を借りるように彼女ははっきりとまっすぐ男の目を見返した。
 そろそろご飯にしましょう。手当を終えたのを確認しにきたローザの声にリディアがかわいらしい声で「はぁい」と応え、カインは一人その場に残された。



終:おわりへみちびく(エッジとカイン)


 カチャリ と首筋にひんやりとした感触が通った。
 背後からエッジに忍び寄られていたことは知っていたが、刀を向けられるのは少しばかりの想定外だ。夕食の準備をする仲間達に囲まれて物騒なものを突きつけられたカインはしかし、それでも非常に落ち着いた様子で「なにしてる」と問いかけた。プラチナブロンドがさらさらと刃の上を水のように流れ、リディアは向かい側で小さな悲鳴をあげた。
「ちょっとエッジ」
「お前らは黙ってろよ。……カイン、てめぇ言ったよな。次操られたら遠慮なく叩き切ってくれって」
「……」
「でもよぉ、考えてて気づいたんだ。お前の『操られる』ってのがどういう意味か……まだ聞いてなかったもんでな。確かめさせてくれよ」
 軽い調子で彼は言う。しかし、手にした刀に込められた殺意は本物だ。
 エッジはカインの『裏切り』にはあっているものの、『洗脳』された姿を見たことはない。セシルとローザの嘆きを聞き、リディアの懺悔を聞いたまで。下手に動けば煌めく刃で喉を切り裂かれてしまうという状況でありながらもしかし、カインはやけに冷静であり、少しばかり思案するような仕草をしてから「そうだな」と呟いた。
 チリチリと薪が燃え上がる小さな音がやけに大きく響く。
「操られる、なんて言い方。しなけりゃよかったかもな」
「……どういうことだ」
 動揺する様子もない平坦な声音にエッジは目を細めた。
「今この瞬間にも、俺の頭にはゼムスの声は響いている」
「! てめぇ……!」
「セシルを殺せ、ローザを憎めと。竜騎士をバロンから追いやった赤き翼を、父を暗殺したバロンの同胞(はらから)を恨めと……衝動に身を任せろ、と」
「……なんだよ、そりゃ」
 カインは顔を歪めて嗤った。
 ゴルベーザの術は確かに『洗脳』という言葉が近かったが、と彼は呟く。「ゼムスがゴルベーザに囁きかけたのはきっかけだけだ。あれが生来持つ人の破壊衝動……支配欲、独占欲。父親を殺された憤怒……助けられなかった自身への嫌悪、母親を奪われた罪のない弟へ抱いた 憎悪そんなところだ」なんて。他人事のように彼は己の抱いた暗い感情を言葉に連ねた。
 そんな話をゴルベーザ当人から聞いたのはいつのことであっただろうか。
 バロンでのことだったかもしれないし、ゾットでのことだったかもしれない。カイン自身が既に術にあてられ自我を失いかけていた頃であったのは違いなく、麻痺した思考回路の中で聞いた言葉であったことは覚えている。
 セシルが背後で小さく息を飲んだ。弟たる彼に過失はない。ただ母親の胎から生まれただけで、結果としてその母親が死んだだけだ。それでもゴルベーザは弟を憎んでしまったのだと、兄たる男は懺悔のようにカインに訴えかけていた。厳しいながらも優しかった父親すら青き星の民に殺され、乳飲み子の弟を残された少年が持つ真っ黒な心をゼムスは弄んだ。それと同じだ、とカインは顎を上げて鎧に覆われていない喉仏を刃に晒しながらエッジを見上げた。
「誰もが持ちうる負の感情を増幅させ、正常な良心の判断を失わせる。ゴルベーザが術をかけてくることはない以上、俺が狂うとしたらゼムスの思念に当てられて、だな」
「……なんでてめぇはそんなに冷静なんだ」
「分かっているからだ」
 得体の知れない魔術によって正気を奪われるのではない。
 心当たりのある感情に突き動かされ、その心のままに行動すること。それを人は『洗脳』と呼んでいた。「最初こそゴルベーザは俺を洗脳する類の術をかけていたようだが、じきに俺の正気自体が狂気にすり替わった。それからは術をかけられてはいなかった」とカインは続け、伏せ目がちの長い睫毛を瞬かせた。
「じゃあ俺はどうやってお前が正気か狂気だか判断すりゃいい。狂気が正気になるってんなら……何にしたって同じじゃねえか」
 再びカチャリという音がしてカインの喉元から刀が離れた。エッジはそれを腰にぶら下げた鞘にくるくる回してから納めるとカインの隣に腰を下ろし、不躾に彼の顔を見上げた。同じ男でありながらも整った睫毛、精悍ながらも物憂げな目鼻立ちに白金の長い髪。それでいて戦いとなれば誰よりも先に敵へ切り込み撹乱する勇敢なる騎士でもある。
 ゴルベーザという男のこともエッジはよく知らないが、側に置きたくなる気持ちは分からないでもない。
「俺が正気を失えば最初にセシルを斬る。一番分かりやすいだろう?」
「カイン、あなた……!」
 非難じみた声を上げたのはローザだ。だがセシルはやけに落ち着いて「だと思うよ」と答えた。
「僕が聞いている声がカインに送られている声と同じか違うかは分からない。けれど……僕も、僅かにだが頭に声は響いている。『あれ』がゼムスなのか?」
「やたら殺せだの言ってくる奴がいるなら違いない」
 うんざりしたようなカインの声にセシルは「うん」と頷いた。
「セシルもかよ。……ったく、介錯はお一人様限定にしてくれよ」
 諦めたようにエッジは大げさに嘆いた。
 かつてゼムスが月から囁き続けた悪意は月の民であるゴルベーザの深い深い意識まで届いた。ならばその声がセシルに聞こえていてもおかしくなんてない。尤も、聖なる力を得たセシルはこのゼムスの本拠地と言っても過言ではない月の大地にあっても今は正気を保っている様子ではあるが。彼は温度のない表情でカインをまっすぐに見つめ、「僕を殺したいと願うお前を殺せ、と」と言った。
「僕からローザを奪うお前を……僕から兄を奪ったお前を 屠れと。僕にはそう聞こえるよ」
「……奪った覚えはないんだがな」
「そういう話じゃないよ、本当に」
 カインは口の端を歪めた。間違いなくセシルへ囁きかけているのはゼムスだ。正気を失ったカインをセシルにけしかけ、そのセシルをも狂気に染めようとしているのか。あるいはその逆か。意図はどうだっていい。僕も同感だと言ってセシルはぐつぐつと煮え始めた湯の中に干し菜を入れた。残りの食糧は決して多くない。魔導船に戻ればまだ幾らかあるが、今更戻ることはできない。ゼムスの気配は徐々に大きくなっているというカインの言葉を信じ、僅かな食糧を食いつないで最深部まで突っ切るしか道はなかった。
 ただでさえ腹が減る行軍だというのに更に食事が粗末になればたまったものではない。
 エッジの丸薬や回復役の類で倒れる心配はないが腹は膨れない。穀物を多めの湯で煮込んだ粥ばかりの食事にも飽きてきた。
「ともあれ俺を殺すなら早めに頼む。ったく、こんなこと早く終わらせてさっさと炊きたての米にありつきたいぜ」
「……飯時の話じゃねぇが、承知してやるよ。お前がセシルに槍を向けたら問答無用で斬ってやる」
 と、そこで。
 声が。
 くすくすと笑えない冗談に笑っていたセシルが手を止めた。どうしたの? と尋ねるリディアには「なんでもないよ」と首を振って応え、何か言いたそうなカインは目で制した。
 声が 聞こえてしまっている。
 セシルの耳元で囁く悪意とカインの脳髄に溶け込む悪意は同じ思念であれど、響く言葉は違うのであろう。
 あ、 これはきっと。駄目な類だ。
 そうセシルがはっきりと確信を得たとき、彼は中身の入った鍋を思い切り蹴り上げた。



「どうしたのセシル?」
「待てリディア、あっちに魔物がいるぜ!」
「後ろもよ。囲まれた!」
 さすがは聖騎士、気配だけで魔物を察知するとは大したものだが食べ物を粗末にするのはいけねぇぜ。
 エッジがそんな言葉を吐こうとし、カインも苦笑しながら「行儀が悪いな」と槍をくるくると回し腰を落とす。弓を取り出し矢に手を伸ばしたローザの隣でリディアが小さく呪文を唱え始め、



 そして。



 まるで世界にスロウがかかったかのように。
 城下町で演じられる陳腐な紙芝居にも似通った、年老いた老婆の手で紡がれる糸にも似た。そんな世界だった。
 迫り来る魔物などには目もくれず、セシルは血よりも赤い瞳でそれらに突然背を向けた。腰を下ろし跳躍の姿勢に入っていたカインはその瞳に気づき、途端エッジよりも先に駆け出し、矢を番えるローザへとまっしぐらに剣を握りしめ突進していくセシルを追い越した。
 駄目だ、セシル。
 それだけは駄目だ、絶対に。
 そんな声が聞こえた気もするがもう遅い。女の柔らかな胸を貫こうとしていた聖なる力を宿した騎士の剣は竜騎士の槍に絡め取られたが僅かに軌道を変えただけ。響くはローザの甲高い悲鳴、リディアの大きな声、エッジの罵声。地の底から届くようなセシルの雄叫びは悪意に塗れ、空色をしたカインの瞳に映った憤怒の形相をした親友は止まることなく、手にした剣で女の前に立ちはだかった親友の身体を貫いた!
 その剣は薄く軽い革鎧を打ち砕き、皮を切り裂き肉をねじり切る。心の臓は逸れたものの、カインの右肩に吸い込まれるように突き立てられた剣が抉った穴から噴き出したのは真っ赤な鮮血。
 目の前で突如として繰り広げられた惨劇に信じられぬといった形相で恐れおののいたローザに月の悪魔は笑う。
「セシル!」
 口の中を切ったのか、血の混じった唾を地面に吐いたカインが名前を呼ぶ。
 真紅よりも深い憎しみの色を瞳孔にたたえたセシルが『何』を植えつけられたかは分からない。だが目に見えてその姿は以前のカイン自身と重なり合い、竜騎士の身体から引き抜かれた剣が再び持ち上げられる。「セシル……セシル!」悲痛なローザの叫びは届かない。カインはリディアに「彼女を引き離せ!」と大きな声で命令した。
「でも!」
「セシルの狙いは彼女だ! いいからこの場を離れろ!」
「来いローザ!」
 いつの間にか前線から引き返してきたエッジがリディアの返事を待たずにローザの手首を引いて走り出す。ギョロリと大きなセシルの瞳が逃げる彼女を捉えたが、次に立ちはだかったのはリディアだ。どけというカインの言葉に耳も貸さず、その場に膝をついたカインに代わって震える手でローザが取り落とした弓を引いた。
「セシル……駄目だよ、そんなこと したら」
「どけ」
「どかない!」
「リディアやめろ!」
 再びセシルは突進しようと剣を構えたが、カインが長い足で足元を払う。そのままバランスを崩し派手に転倒したセシルに思い切り飛びついたカインは横っ面に拳骨を食らわせたが、剣を持ったセシルの膂力(りょりょく)はカインのそれよりも上、だ。すぐにセシルは殴られたことなど気にもとめずカインの身体にのし掛かり、その顔を潰してやらんと剣を突き立てる。顔を背けて咄嗟に刃を避けはしたものの、鋭い切っ先が頬と耳を切り裂き長い髪の毛の一部を容赦なく断ち切った。
「馬鹿セシル! 目を覚ませ!」
 思い切り貫かれた右肩が悲鳴をあげる。動かすことのできない右腕は捨て置き、左手いっぱいで剣を握りしめたセシルの手首を掴みなんとか二撃目は食らうまいと力を込めた。
「カインから離れて、セシル!」
 馬鹿リディア、とカインの口が動くよりも先に彼女の手から放たれたのはローザの矢だ。錐揉み回転しながら飛んできたそれはセシルの髪の毛を掠め、すぐに彼女は次の矢を番える。「次は本当に当てるわ」と言う声は震え、緑の瞳に大粒の涙を浮かべていた。そんなんじゃ撃てはしないだろう。いいからエッジを呼び戻せとカインは叫ぼうとしたが、剣をあっという間に投げ捨てたセシルの大きな手指が喉元に食い込み声を奪われる。
「カイン……! お前が、お前さえ、いなければ……!」
 ローザの次は俺か。
 くるくるとめくるめく変わるセシルの憎悪の対象はセシルが愛する順。最愛なるローザを、そして親愛なるカインを。下手にリディアが横槍を入れれば次は彼女が狙われる。カインは下肢を跳ね上げてセシルの拘束から脱するとその腹を思い切り蹴りつけて距離を取る。セシルの背後にはこちらの気配に気づいた魔物が荒い息を立てる。
 ぶらんと垂れ下がった右腕を流れ落ちる血の量は多い。早いところセシルを黙らせてローザに傷を塞いでもらわなくてはならない。幸いセシルが投げ捨てた剣はカインの足元に転がっている。それを背後へと蹴り、手の届かぬ場所まで転がしてやった。
「カイン、血が…!」
「いいから。お前は下がっていろ」
「いやよ。あたしの中の……オーディンが言っているの。セシルを目覚めさせろって」
「……陛下が?」
 あのバロンの地下に鎮座する先王陛下の言葉となれば話は別だ。「カインがセシルを、ローザを大事に思っているのは知ってる。……でもあたしにとっても、セシルとローザは大事な人だもの。あたしだって大切な人を守りたい。守らなきゃいけないの」と彼女は訴えた。
 リディアは弓矢を地面に置いて早口で黒魔法をいくつか詠唱し始める。衝動に囚われたセシルを背後から狙う魔物をけん制するために小さなファイアを何発か遠くへと放ち注意を向け、注意を逸らす。この辺りは魔物の巣窟だ。ローザを連れてこの場を離れたエッジがまだ戻ってこないことを考えると、あちらも魔物と遭遇してしまったのだろう。
「大事な人を取り戻せって。早くセシルを連れ戻さないと、みんな、みんな……セシルも……傷つくわ」
 少なくとも彼はローザを殺そうと斬りかかってしまったのだ。
 心やさしきセシルがそんな自身を許せるとは思えず、カインは一度手放してしまった槍を地面から引き抜いた。多少乱暴な手を使ったところで致し方はあるまい。手遅れになるよりはマシというものだ。
 カインの命が奪われる前に、ではない。セシルの心が壊れてしまう前に、だ。
「リディア。セシルの気を散らせろ。ついでに魔物をこちらにも近づけるなよ」
「どうするの?」
「どうするもこうするも、目が醒めるまで殴るだけだ。陛下の……『父上』の手を煩わせるまでもない」
「それ本気?」
「本気だ。セシルみたいな頑固な分からず屋は殴って思い知らせるさ。全く、手間のかかる『弟』だがな」
「……分かった。魔物たちは任せて」
 リディアは安心したように微笑んだ。
 中空を踊るように動く指先が再びいくつもの紋章にも似た魔法陣を描き出す。幻獣の元で修行を積んだ彼女の黒魔法は命あるように蠢き、敵を討つ。腕を振り上げ、雷鳴よ、氷柱よ、豪炎よ。魔物たちを屠る言霊は現実となり、轟く魔力の中地を這う蛇が如くセシルの脇をすり抜けて魔物の群れへと巨大な稲妻を煌めかせ、猛吹雪を浴びせ、火柱をあげた。
 それでもセシルの瞳はカインを捉えたまま離さない。まるでリディアのことなど視界には入っておらぬ様子で彼は再び地を蹴り出し突進してくる。手に握りしめるは美しいバロン装飾の短剣。むき出しの刃が煌めく。どうするの! というリディアの問いには答えずに、カインは隣に並ぶ彼女を押しのけて立ちはだかった。
 短刀相手に槍は分が悪い。それでも丸腰よりはマシだろう。体格のいいセシルが全体重をかけて突っ込んできた短刀を槍の柄でしっかりと受け止めると、力を込めた左足を跳ね上げて膝で急所を狙う。
「おとなしく…しろっ!」
 いくら鎧で守られた急所とはいえ、カインの膝もまた硬質な竜骨の鎧で覆われている。足元を狂わせバランスを崩したセシルに再びのしかかると、今度は彼の上腕に膝を乗せめいっぱいの体重をかけ動きを封じる。腕力で劣るとも下肢の力はカインの方が上だ。ジタバタとセシルはもがくが今度は負けはしない。
「馬鹿セシル!」
「カイン、僕。は お前  を」
「馬鹿野郎!」
 頬を殴る。左拳で強烈に、動かぬ右拳で弱々しく。波打つようにカインの拘束から逃れようと動くセシルの上でカインは跳ね回りながら美しいセシルの顔面を容赦なく殴りつけた。取り押さえられた右肘が曲がり、手にした短剣が深々とカインの腿に突き刺さる。低いうめき声と共に一瞬止まったカインの身体を跳ね飛ばして再び自由の身を得たセシルは次なる武器を目で追う。彼方へ蹴り飛ばされた聖剣、カイン以外の者が持とうものならばその重量で手放してしまう魔槍。
「セシルの馬鹿!」
「!」
 リディアが投げ出した弓矢に目をつけたセシルが駆け出そうとした刹那、少女の高い声が響き渡った。
 腰にぶら下げていた強烈な鞭を振り回しセシルの足元に叩きつける。決して彼を傷つけぬように正確無比な鞭打ちで彼をけん制し続けるリディアはその合間に再び早口での詠唱を繰り返し彼方へと爆煙を巻き起こす。
「リディアよせ!」
 深く埋め込まれたナイフを無理やり引き抜いたカインは再びセシルの背後から飛びかかる。上背で勝る彼がセシルの肩から組みかかり、膝でその頭をガッチリと捕らえるとそのまま前転する。伸びやかな身体がぐるりと大きな弧を描いて一回転するのと同時に腿に挟まれたセシルの頭も思い切り振り回される。
 ガシャン、と聖騎士の重装備が乾いた大地に叩きつけられる音が響き渡った。
「セシル、カイン!」
「いい加減に、しろ!」
 なるほど。『洗脳』されたカインを見た仲間が抱いていたのはこんな感情だったのか。
 怒りと悲しみ半分、猛烈な苛立ちがカインのうちを渦巻いていた。うまいこと洗脳されやがって、ローザを傷つけようとするなんてどういう了見だ。
 煮え繰り返るような憎しみなどではない。子供の頃に庭で暴れまわり泣いてもチャンバラをやめなかったセシルに対して抱いていたものと同じ『それ』だ。「リディア」と、地面にみっともなく叩きつけられてようやくセシルが静まったことを確認するとカインは少女の名を呼んだ。「エクスポーションをくれ。それからエッジたちにもう大丈夫だと伝えてきてくれないか」と言えば、彼女は頷いた。
 リディアはまだ涙を瞳に湛えていたままだったが、ちっとも動かなくなったセシルの様子に「……生きてる?」と素っ頓狂な声で尋ねつつももカインの要求通りに残りわずかな回復薬を手渡した。当たり前だ。と答えたカインのしっかりした腿の合間にガッシリと顔を挟み込まれたままセシルは倒れている。その姿はとてつもなくおかしかったし、そのセシルに穿たれた派手な傷にエクスポーションを塗りこもうとする倒れこんだままのカインも酷い有様であった。
 深刻な状況であるのに、成人した男たちがひっくり返った鍋を隣に揉みくちゃになって転がる光景はとんでもなく面白可笑しなものだ。
「魔物たちはもういいの?」
「エッジたちが戻ってくる前に襲いかかられたら戦うくらいの力は残ってる」
「そう。じゃあ急いで呼んでくるね」
 きっと彼らも魔物に襲われているであろうけれど。
 すっかり『正気』のカインが『狂気』のセシルを止めて見せたという事実に喜びを隠せない少女は軽い足取りで遠い岩陰へと走って行った。



 ゼムスの声は今も響き渡る。
 なぜあの時誘惑に流されるがままにセシルを殺さなかったのだと。ローザを傷つけようとした男を許したのだと。ケラケラとあざ笑う悪意の声が、みっともなく親友を組み敷いたままの姿勢で転がるカインの脳裏に響き渡った。




幻:まぼろしのゆめ(ローザとカイン)


 声が聞こえなくなった訳じゃない。むしろうるさくなった。
 エッジやローザがリディアと共に戻ってくるとやはり二人は冷たい月の大地に寝そべったままであった。空になったエクスポーションが転がり、すぅすぅとそれこそ馬鹿みたいに安らかな寝息を立ててセシルは眠っていた。「カイン、大丈夫?」とローザが真っ青な顔をしたカインに尋ねた。
「動くのが面倒な程度にやられたが無事だ。……悪いが、コイツをどかしてくれないか」
「お前ら、器用な取っ組み合いしてたみたいだな」
 揉みくちゃになって争い、最終的にはカインがセシルを文字通り引きずり倒して失神させた。「魔物が来るといけないわ。あそこの岩場でもう一度結界を張りましょう。……それから、ご飯も作り直しね」と撒き散らされた干し菜と干し肉の薄い粥を悲しそうに見つめた。



「……セシルは 無事かしら」
「分からん」
 エッジとリディアは見回りに出かけて行った。
 先ほど鍋をぶちまけた場所にはさぞ芳(かぐわ)しい香りが漂っていることであろう。その匂いにつられてやってきた魔物と遭遇しては面倒だ。ローザが聖なる結界を張り巡らせてくれているとはいえ、不安の種は取り除くに越したことはない。
 取り残されたローザは膝にセシルの頭を乗せ、スープの具合を見ながらくるくると鍋をかき混ぜた。セシルとの乱闘で受けたカインの傷はほとんど塞がっており、少し休めばまたすぐに動けるようになるらしい。鎧を脱ぎ去り軽装になったカインは間抜け面で愛する女の膝枕を甘んじるセシルの姿にため息をついてから、そのセシルがカインの腿に突き立てたナイフをローザの方へと差し出した。
「返す」
「え?」
「君のものだろう、ローザ」
 バロン式の装飾が柄に施された簡素な短刀。それは実戦には向いているとは世辞にも言いがたい代物で、白魔道士や黒魔道士が護身用に持つお情け程度のナイフである。一体いつからセシルが持っていたかは分からないが、もともとの持ち主はローザだ。そしてそのローザはゾットの塔において、ゴルベーザによる悪意で洗脳され、危うく救出にやってきたセシルを刺し殺し運命的な再会を悲劇的な再会に塗り替えてしまいそうになったのだ。
 彼女が正気の皮を被った狂気に染められてセシルへと突き立てようとしていたナイフは寸前でカインによって回収され、後日彼女に返されていたはずだ。「いつからセシルが?」と尋ねると、彼女は思い出そうとする仕草をしてから「この間、干し肉を割くときに貸したわ」といういかにもらしい返事が戻ってくる。
「……カイン」
 ローザはセシルがまだぐっすりと眠りに落ちていることを確認してから親友の名前を紡いだ。
「……」
「ありがとう。あの時……ゾットの塔で私を止めてくれて。あなたの言う『洗脳』がどういうことが分からないなんて嘘よ。私は……あの時、間違いなく『正気』のつもりだった。だけどきっと 私、操られていたのよね」
「……その自覚がないことが厄介だがな」
「そうね。私、何がいけないことだったかなんて分からなかった。きっと今のセシルも そうなのよね」
「それこそ分からん」
「そう?」
 魔法の類はあまり明るくないが、とカインは前置きしてから説明した。
「ゴルベーザが俺やローザに施した洗脳は、いわば月の民が扱う一般的な魔法。ローザが使うコンフュみたいなもんだ」
「あれが……ただの魔法?」
「あぁ。だがゼムスがゴルベーザ自身にかけたものや……今まさにセシルが浴びたものは違う。月の魔法であることに違いはないが……何せ『距離』が近すぎる。ゴルベーザが使った術ならアッサリ目覚めるだろうが、ゼムスに直接唆(そそのか)されたのならば……分からんとしか言えない」
 そういう意味で分からん、と彼が締めくくればリディアは「ふぅん」と応えた。
「……目が覚めたら、また襲ってくるかしら」
「それならその度に俺が殴り倒す」
「それじゃあカインの身がもたないわよ」
「セシルと喧嘩して負けるほど俺は弱くはない」
 強がり、意地っ張り。
 ローザは膝上で眠るセシルの髪の毛を愛おしそうに撫でた。その動作一つ一つがカインの心を荒らし回り、槍を握り眠るセシルの顔を穿てというゼムスの声を助長する。この女は知らないままでいい。どこまでも愚かで、狡(ずる)いままでいてくれればいい。聖騎士と月の民という二つの力を持つセシルがゼムスの軽い邪念に当てられただけで敵の手に二度も落ちるとは思いにくい。
 彼が目覚めた時、全てを忘れているか……或いは全てを覚えているか。二つに一つ。
 できれば前者であってほしい、と睦みあう二人を残してカインは散歩だと言って逃げるようにその場から離れた。



想:きみをおもう(セシルとカイン)


「ごめん。……ありがとう」
 目覚めたセシルが最初に発した言葉は謝罪と感謝であった。
 それは他の誰でもなく、最愛なる親友へ。ローザの元から起き上がったセシルは隣でポーションの瓶を弄んでいた親友の首元に腕を回し、強い力で精一杯抱きしめたのだ。窒息させるためではなく、愛を伝えるために。首をへし折るためではなく、祈りを伝えるために。カインはどうかセシルが全てを忘れていてほしいと願ったが、そのささやかな願望は打ち砕かれてしまっていた。
 目元に涙を浮かべたままセシルはみっともない声で「ごめん」ともう一度告げた。
「僕は……お前を疑った。信じると言って……けれど、ゼムスの声を聞いているお前を 最後の一欠片だけ、信じられなかった」
「当然だろう」
「……お前は優しいな」
 お前がいなければ、と言いかけてセシルは口をつぐんだ。
 そして言葉を慎重に選びながら、「……僕の愛する人を殺せと言われた。気づいたら僕は……僕は、ローザをこの手で」と己の所業を告白する。しかしカインなそんな言葉に肩をすくめて応えるのみ。
「結果として誰も死ななかったんだ。だから……何もなかった。気に病むことじゃあない」
 それでもカインはセシルの目を見ることもなく、長い髪で表情を隠した。



「……カイン」
 思い出したようにセシルは呼び止めた。どうした? と振り返る親友の髪の毛は相変わらず長く美しかったが、左側だけが不恰好に一部切り取られていることにセシルは気づき、眉根を寄せた。「髪の毛、それ……僕だよな。ごめん」とセシルは謝り、さらさらと流れる長い金糸に触れる。
「あぁ、これか。別にどうってことないさ」
「だけどそれじゃあ不細工だ」
「不細工……」
 その言葉選びはどうかしてるぞ、と言い返す前にセシルが「せめて切り揃えてくれ」と続けた。それに対してどう答えてやろうかを一瞬ばかり考えたが、カインは頭に妙案が突然浮かび上がり口の端をあげた。
「じゃあセシル、お前が切ってくれ」と。
「……僕が?」
「昔は切りそろえてくれたじゃないか。この際だ、一気に短くしたい」
「カイン……」
 その長い髪が飛竜の背で揺れる姿を見るのがセシルはたまらなく好きだった。
 広がる黄金の麦畑よりも透き通り光り輝く薄い色をした髪が風に揺られ、飛竜という人とは相容れぬはずの生き物の上から体一つを武器として槍とともに急降下する際に光を受けてきらめくその髪の毛が、とにかく好きだったのだ。あのバロンの朝陽を浴びて輝く それが。
 今となっては飛竜は絶え、艶を失いつつある髪の毛をセシルは手に取った。
「もう……伸ばさないのか?」
「バラバラじゃ不細工だと言ったのはお前だろう。……別に もうこだわりがある訳じゃないからな」
 ミストに災厄の指輪を手土産に幻獣殺しを命じられバロンを出立したのはもういつのことであったか。
 セシルは旅の途中何度か髪の毛をローザやシドに切り揃えてもらっていたが、カインは一度も切っていないのであろう。目にかかる程度であった前髪は顎の下まで好き放題伸び、結い上げるのが常であった長い後髪は腰ほどまでになっていた。耳の下あたりで切り取られた髪の毛を指し、「いいだろう?」とセシルに尋ねる。
 ナイフという人を殺す凶器を持って首元で髪の毛を切ってくれという願い。
 それは断髪というよりも信頼の証を示す行為であるようにセシルは思えた。言わなければよかった。きっとセシルが髪の毛のことを話題にしなければ、大好きだったそれを自らの手で切り落とすという苦行をせずともよかったはずだ。
「……早く済ませよう。みんなをあまり待たせたくない」
 服に髪の毛が入らないようにいつも肩にかけていた布はない。セシルは自分のマントを外すとカインの肩にかけ、立ったままでいいというその声に頷くとカインの体を傷つけたナイフを腰から引っ張り出した。その短剣を見るや否や、カインは目を丸くして
「いつの間にまたお前が」
 と聞けば、セシルは
「さっき干し肉を切るときに。ローザから借りたんだ」
 と答えた。
 またか。またお前がそれを持つのか。セシルとて自分の腰に刃に反りのある短剣をぶら下げているはずだが、それとは別に持っていたいらしい。「切るよ」という、馬鹿みたいに真面目なセシルの馬鹿みたいに深刻な言葉に苦笑を抑え、カインは「よろしくな、ハーヴィ先生」と戯けて返す。
 大好きだった髪の毛が、はらり はらりと切り落とされていく。
 一メートル近い毛束がざくざくと無造作に切り落とされ、この旅が終われば二度と踏むことはないであろう月の大地へと落ちていく。少し屈んで、という言葉にカインはおとなしくその場に座り込み、肩口近くまで切り落とされた髪の毛をセシルが黙々と細かく切っていく感触を味わっていた。もしもまた、ゼムスの思念にあてられれば。
 彼はきっと無表情のまま手にしたローザのナイフでカインの喉仏を掻き切ることであろう。表情を伺い知ることはでいないが、遣る瀬無い顔で髪を切り落とすその女のような顔から一瞬にして気色が奪われ、なんの躊躇い一つなく鉄のように冷たい表情で命を奪うのだ。
 できればそれは勘弁してほしいと思いながらも、サクサク小気味よく切り落とされていく髪の毛の感覚をカインはどこか楽しんでいた。
 どんな顔をしているだろうか。
 どうせ泣きそうな顔だ。カインが意地の悪い笑みを浮かべていることなど知らずに、黙々と髪の毛を切り落としている。
「また……伸ばす?」
「どうかな」
「カインは……髪の毛短いの、似合わないぞ」
「……」
「僕は 長い方が……好きだった」
「……」
 最初に切り落としたのはお前だからな。
 などと言うことはできなかった。不安定な綱渡りのような関係を今まで続けられてきた方が我ながらに奇跡だったとカインはぼんやりと思い出していた。
 今まで、この場所に至るまで。
 初めて出会ったあの時から幾許の時間が流れ経ってしまったことかはもう分からない。あの時は確か父が竜騎士団で揉めていた時期で、ローザの父親と二人でよく深夜に飲みに出かけていた頃だったかな。母親がいつも心配して体調を崩したものだから、父が酒を辞めた時期。
 頼りない新たな弟分を守る兄と姉として振舞ってきたつもりであった。許婚でもあったローザとカインは、セシルの兄。幼年学校の学年も一つ上で、カインの母親が死んだ日もセシルは大泣きしていたが彼はただただ唇を噛み締めた。大人にならなきゃ、そう言って涙も怒りも『他人』に見せてはいけないと そう学んだ日。
「いつから……伸ばしてたっけ」
「さぁ。……多分 母上が死んだ頃」
 大好きだった母の死と同時にカインは自身がいずれハイウインド家を継ぐであろうことをクリアに考え始めたのだから。成人になれば髪を伸ばす風習のバロンの中でカインは一人、十代中頃からその綺麗な髪の毛を伸ばし続けてきた。まだ顔立ちが幼さを残していても、大人のような膂力なんてなくすぐに疲れてしまう子供であっても。
 すきだったのになぁ。
 セシルは再三そう言いながらも、器用な手つきで親友の髪の毛を切り落とし続けた。



「セシル」
 飛びかかってきた魔物を槍の一閃で屠ったカインが振り返る。揺れるはずの長い髪の毛はもう、 ない。
 エッジが魔物たちの群を挟んで反対側で手裏剣乱舞を食らわせている姿が見える。援護に赴こうとしていたセシルは呼び止めてきた声の主人に首をかしげた。
「俺は……お前を愛してるさ、セシル。世界で二番目にだが」
「カイン……」
 突然の告白にセシルは目を丸くしてしまう。カインが想う『一番』が『誰』であるかなど言うまでもない。カインは槍を魔物の死骸から引き抜くと、べっとりとこびりついた血液を大地へ払った。
「だからこそ俺はお前を憎んだ。お前が『どう』だったかは知らないが……少なくとも俺は、お前を愛したからこそ憎んだ。……もう、隣にはいられない」
「!」
 セシルは惑った。
 お前は何を言っているんだという非難が喉までせり上がってはきたが、同時に仕方ない、そうだろう、言うと思っていたよという言葉も口まで上がってくる。最早きっかけはいつの出来事であったのかは分からない。だがセシルとカインの間に刻まれた溝はどこまでも深く、傷つけあった二人にとってそれを修復することはもう難しいことが明らかであった。
 そうだな、とセシルは諦めにも似た吐息を零した。
「いつか……いつの日にか、またお前と笑いたかった」
「俺もだ。だけどそれは………今じゃない。近い未来でも、きっとない」
「お前がそう言うのなら、きっとそうなんだろうな。ローザには言うなよ」
「当たり前だ。俺とお前だけの秘密だ。エッジにもリディアにも。誰にも言わないさ」
 無理して作られたカインの笑顔をセシルは悲しい目で見て微笑んだ。
 互いに心から笑い合うことすらもう叶わない。ゼムスには負けられない。青き星を生きる人々のためにも、それこそ二人が愛する者たちのためにも負けることは許されない。その使命感が二人をつなぎとめていた。
 軍人故の気質なのかもしれない。使命のためならば私情を捨て置いてでも成し遂げなければならないのだ。
 命を賭してでも。
「セシル」
「……もう何も言わないさ。お前の気持ちは 分かっているつもりだ。お前だって僕の気持ちは 分かっているだろう?」
 相容れぬ訳ではない。
 愛するが故の憎しみだ。今までずっと寄り添いあって生きてきた。ローザという一人の女を二人が愛してしまうよりもずっと前から、幼年学校の頃は泥まみれになって遊び、カインの父親に叱られ、幼年学校に入学してからは少しばかり落ち着いたものの、次は四六時中剣と槍を振り回すやんちゃ坊主たちとなった。その度にやはりリチャードに叱られ、時に容赦無く殴られていたカインが笑うことをやめたのはその最愛の父親を失った あの日のこと。
 不自然なほどの笑顔で葬儀を済ませた彼が学校に現れた日をセシルは忘れない。誰にも涙を見せてはならないという騎士の教えを守るために、あの日カインは子供心をセシルよりも一足先に捨ててしまったのだ。
 兵学校へ進学すればやはり、二人して酒を隠れ飲み、童貞を捨てるだ筆下ろしだと言って深夜の歓楽街で娼婦を引っ掛けた。時折ローザに悪さがバレては責任を押し付けあって、戦場へ送られるようになってもその関係は続いてきた。
 だから分かってるだろう?
 セシルは自らが傷つけたカインの右肩に手を置き、ぐいと身体を引き寄せて抱きしめた。
「大好きだ、カイン。お前ほどの男はどこにもいない」
 俺もだよ。お前ほど世界で愛した男はいない。それこそローザさえいなければこの友情は永遠に続いていたのだろう。全てを差し置いてローザを選んだセシルをカインは愛していた。だが己を殺してでも祝福できる心は未だ持たない。ゼムスの誘惑に打ち勝つことはできても、自分の心にまだ嘘はつけない。
 自身の心に全うでありながらゼムスに誑(たぶら)かされたセシルとはどこまでも真逆だった。腕に込められた力に応えるかのごとく、カインもまたセシルの背に回した手に力を込めた。
 愛していたよ。
 最愛なる君と共に、終わりへと誘うこの道を。幻の未来を描きながら、君を、愛する君たちを 想う。
 いつかまた真っ白な心でぶつかり合うことを望み、二人はお互いの肩を叩いて体を離した。
「……あてにしてるぜ、カイン」
「フッ……まかせておけ」
 なんて情けない声だ。震えてるじゃないか。そうセシルをからかってやろうと思ったが、きっとそんなカインの声も震えていたのだろう。
 ガッシリと握り合った手が離れ、それ以上は何を言うこともなく二人は歩き出した。


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