L-O-V-E


L:Long, long ago(エッジとカイン)


 遠い遠い、気が遠くなるほど昔の話。
 彼の謳う物語はいつだってそんな言葉からはじまった。それは一体どれほど昔の出来事なのか、本当に『実在』したお伽話なのかすらも分からない。けれども心をくすぐり胸が踊る冒険譚にとって、重要なのは内容だ。事実であるかはそれほど大事じゃない。
 それはあなたが見てきたもの?
 それはあなたが触れたもの?
 それとも……かつてカインがそうであったように、他の誰かからあなたが伝え聞いたもの?
 摩訶不思議な寝物語たちの真偽は誰も知らぬまま。きっとそう、その物語を唇に乗せた魔人ですら知らぬのだろう。
 在るは結末のみ。
「それでも……だとしてもだ。奴には矜持があった」
 カインは静かに告げる。
 無に包まれた月の大地において声は静寂の闇にあっという間に吸い込まれ、冷たさすら感じる音のない音が響き渡る。
 奴とは誰だ、なんて無粋なことをエッジは聞かなかった。
「それこそ、だとしてもだ。オレの両親を殺したのだって事実だぜ」
「……そうだな」
 おやじ、おふくろ。
 ただ殺されるだけなら、ただ命を奪われるだけならどれほど『幸せ』だっただろうか。
 あの時目の前に現れたエドワード・ジェラルダインの両親は人間の姿を失っていた。魔物として第二の命を与えられたのではない。望まぬまま、人間としての命を失うよりも前に人ならざる肉体に命を押し込まれてしまった、哀れな異形。それが彼の両親だった。
 あの時一体エッジはどんな顔をしていたのだろうか? 誇り高きエブラーナの王と王妃であり、自らを孕み産み落とした母親と、忍としての全てを与えてくれた父親と。変わり果てた彼らを前にして、果たしてエッジは。
 プライドの高いお調子者、自身の力を過信してばかりのお調子者、女好きを公言する、お調子者。
 落ち着きのない年長者である彼はしかし、最愛の両親が最期の矜持を振り絞り自滅していったあの時、涙を見せた。カインはその光景を当然だと思いながらも、同時に自分自身が父親を喪ったあの日には流せなかった涙を目の前の男がやすやすと零して見せたことに少しばかりの羨望を抱いたのも事実だ。
 ただただ純粋に両親の死を嘆くことのできた、彼を。
「だが、オレだって忍だ。おやじだってエブラーナの王だったんだ。……戦争だったらあんなことは当然だって、頭では分かってる」
 未来永劫忘れることのできない痛みはあれど、これは『いくさ』なのだ。
 青き星の未来を賭けた、人類と月に住まう強大な悪意との。
 誰の命が奪われようとも、誰の命を奪おうとも、大義の中では指折り数えられるだけの命。どれほど『誰か』にとって大切な人であろうとも、大局の中では運命のうねりの中に吸い込まれていった、無数の命のうちのひとつ。
 それを奪われる側の事情も、奪う側の事情もまた、意味なんてものはない。
「戦争に善悪などない」
「あぁ。それによ、オレは奴を買ってるぜ」
 と、エッジはカインの予想を裏切る言葉を紡いだ。
「ほう」
「一人でエブラーナの城を落としたんだ。大した奴だぜ」
 あの獄炎に包まれ、破壊の限りを尽くされ、魔物の棲家ともなったエブラーナ城に残る戦禍の爪痕が癒えるのは遠い未来のこととなるだろう。破壊された城壁を再建するだけが復興ではない。あの地下洞窟に立てこもる僅かに残った民たちの住処を確保することだけが復興ではない。炎の魔人・ルビカンテが奪い去っていったのはそんなちっぽけなものたちではないのだ。
 ゴルベーザ四天王の一角であると同時に最強と謳われるあの男はエブラーナの全てを蹂躙した。
 人々の心には消えることのない恐怖を、豊かな薬草が芽吹いていた大地には二度と花が咲くことのない荒廃を。周辺地域に生息していた魔物たちは人間の気配がなくなったエブラーナ城になだれ込み、まるで太古の昔から『そう』であったかのように我が物顔で闊歩する。
「城攻めに関しては見事、であっただろうが」
「占領して自分が使うためじゃねぇ、破壊するのが目的なら……落とした城に魔物を送り込むのは手っ取り早くていい手段だったろうぜ」
「……取り返せるのか?」
「できるできないじゃない、やるだけだ。残った忍衆らは少ないが、それこそエブラーナ忍者の矜持の見せ所だぜ」
「セシルが知れば手を差し伸べると思うが」
 腕に力こぶを作ってみせたエッジはしかし、カインのそんな言葉に「ばっかやろう」と答える。
「バロンに貸しを作りたくないなんて言うつもりはねぇが、自分たちの城一つくらい取り返せずに何が忍の国だってんだ」
「ふん、調子のいいことだ」
「ま、それでも? もしだぜ。ゴルベーザに操られてたなんていう大馬鹿野郎がいたとしてだ。そんな輩がもし、本当にも〜しだ。罪悪感で押し潰されそうだから罪滅ぼししたいってんなら、心の広ぉいエブラーナ忍衆たちは追い払ったりはしないぜ」
 猫ならぬ、竜の手も借りたい気分だからな! とエッジはあっけらかんに言った。
「……本当に……調子のいい奴だ」
 どこまでこの男には『視えて』いるのやら。
 末恐ろしさまで感じたカインは息を吐いた。
 エブラーナの国力は底知れない。生前バロン王はそんな話をセシルたちに聞かせてくれたことを思い出す。彼らの力は目で見えるものではない。その目が見えているのはかりそめの強さにしか非ず、彼らの持つ真の強さは『忍』という生業を体現するその忍耐力と我慢強さ。どのような雨風でもじっと耐え忍びながら雌伏の刻をただひたすらに過ごし、雄飛の刹那すら身を隠す。
「安心しろよ。エブラーナが本気を出せば、10年もすりゃあまた忍溢れる隠密の国に戻れるさ」
「……アンタの言葉は常々薄っぺらいと思っていたが、そう言うと本当のように聞こえるな」
「あッ。お前今バカにしたろ! 見てろよ、10年後にはギャフンと言わせてやるぜ」
「ギャフン」
「てめェ!」
「…………嘘は言わないんだろう。なら、今のうちに10年後のギャフンを言っておいてやっただけだ」
「!」
 真顔でカインがそんなことを言うのだから、思わずエッジも押し黙る。
「アンタならやれるだろうよ」
「……なんだよ、辛気臭いな。そんな顔するなって。バロンだってセシルもローザもいる、エブラーナと違って城も破壊されてねぇ。元通りになるまで10年もかからねぇだろ」
「当たり前だ。我がバロンは最強だからな」
「おう。最強……最強ね」
「なんだ」
「ルビカンテ」
 あぁ、とカインは頷いた。エッジは再び息を吐き、「……奴自身の強さは本物だった。武人としてのルビカンテは間違いなく、オレが今まで出会った奴らの中で最強だぜ。そりゃあゴルベーザ四天王だか知らねぇが、奴がやったことは……どんだけ殺したって許しはできねぇけどよ」と続けた。
 それでも彼は己の国を、民を、親を焼き尽くした男を『買っている』と言うのだ。
「……それには同意する」
 カインは垂れ落ちてきた前髪をかきあげ、静かに頷いた。
「どっちにだよ」
「親を殺された恨みは殺しても晴れない、だがあの強さは芯の通った本物だった。その両方に、だ」
 俺も親を殺されたからな、と自嘲した。
「ケッ、お前もかよ」
「残念ながらな。こんな世の中だ」
 それでもしかし、エッジはそんなルビカンテを貶めることはしなかった。恨みはする、許すこともできない、されどそれこそ『こんな世界』なのだ。親を殺された子供などそこらじゅうにいる。
 戦となれば正々堂々の真っ向勝負を挑み、たとえ相手が格下であろうとも手は抜かず全力を尽くす。一対一の決闘を望むものにはそれを快諾し、体力も魔力も全快させ万全の状態でもなければ戦おうともしない。魔術師めいた姿をしながらも騎士道精神に溢れたその男をエッジは思い返した。
 相対したのは、たった三度。
 それでもルビカンテという魔物でありながらどこまでも人間臭い男のことをエッジは「あいつぁ強かった」と評した。
「まぁ、そもそもお前の両親をあんな目に遭わせたのはルビカンテじゃなかろう」
「それもそうか」
 殺された恨みはあれども。
「それもそうだ」
「恨むべくは奴自身じゃなく、あのイカれたじいさんか」
「ルゲイエ、だ」
「名前なんてどうでもいいぜ、もうどうせいないんだ」
 ルゲイエも、それを従わせていたルビカンテももういない。次に呪うべきゴルベーザすら別の『何か』に操られていたのだというのなら、一体何を呪えばいいのか。何を恨めばいいのか、何を嘆けばいいのか。
 しかしそれすらも『戦なのだから仕方のない』ことだ。
 エブラーナの若き王は路傍の石を拾い上げた。
 樹木の一本すら見えない月の乾いた地表に転がるそれを投げてみれば、地上で戯れるのと同じような軌道で転がっていく。ひゅう、とわざとらしく口笛を吹いたカインは『その戦』において犠牲になった祖国の者たちを想った。
「奴は……バロンの兵士を片っ端から改造しやがった。エブラーナの国王夫妻と同じだ。命を奪う寸前で……魔物と融合させる。近衛兵団の連中は半分以上やられていた」
「カイン?」
 苦々しく忌々しい博士の顔を脳裏に描くことで悲劇を思い出し、カインは端正な顔を歪めた。
 知りたくもない、しかし知らなくてはならないことは多くあった。生き残った飛空挺団や竜騎士団、魔道士団たちの把握は月へ旅立つ前一通り済ませてきた。『もしも』誰一人として月から戻らなかった場合のことなど考えたくはないが、最悪の事態を想定してはいる。それぞれ生き残った団員の中から隊長代理を選抜し、『もしも』の時が来たのであれば、どうか滅びの瞬間まで希望を捨てずに諦めないでほしいと。
「大事な部下たちを殺されたんだ。……殺してやろうかとも思ったが……思ったところで 終わったな」
 次いで、諦めたような自嘲の声。
「操られたからか?」
「さぁな。だが、多分そんなところだ」
 正確には思い出せないが、大きく間違ってもいないはず。実のところ、思い出せないというのが本音。
 激昂したリディアの召喚したタイタンが放った大地の怒りはミストの村とダムシアン砂漠を分断する巨大な断崖を作り出した。それに飲み込まれたカインは『厄介者』を始末したところにバロンへやってきたばかりのゴルベーザによって拾われ、一命は取り留めた。思えばあれが運の尽きだった、というのは今になって気づいたこと。
 そしてバロンに連れ戻された後のことはひどく曖昧だ。
 王はすでに亡き者であったこと、王を囲む近衛兵たちのほとんどが魔物と化していたこと。それを未だ知らぬ兵士たちを半ば人質に取られ、カインは逃げ道を失った。そんな中でできたことと言えば、ローザを生きているやも分からないセシルの元へと運ぶこと。ゴルベーザに精神を蹂躙され、傷による熱に浮かされながらも死にかけていた父が遺した最後の飛竜に女を乗せ、藍色の空へと解き放った。
 あの時ローザではなく己の自由を選んでいれば、だなんて。決して選ぶことのない『もしも』の未来を思い描いてはそれを否定する。
「ルゲイエか。一緒にいたメカの方は結構かっこよかったんだがよう」
「……お前の好みはあんなものなのか」
 息子を称した機械仕掛けの魔物。エッジは「お前なぁ」と呆れた声を出した。
「カイン、もしかしなくとも男の浪漫ってやつを分かってないな? ったく、これだから澄ました騎士サマはよ」
「フン、機械仕掛けの絡繰などしょせん人の手で作られた消耗品だろう。浪漫なんて聞いて呆れる」
 ぷい、とそっぽを向く様子はどう見ても子供のそれだ。
「なんだ。対抗心むき出しじゃねぇか」
「俺を誰だと思っている。バロンの竜騎士様だぞ」
 赤い翼にその全てを奪われた、翼なき、竜なき竜騎士。
 長い尾と広い翼を広げてバロンの朝焼けを飛竜が舞う時代は終わり、シドの作り出した世界一の高速飛空挺がバロン天空の覇者となってそう長くはない。ネジ一つに到るまで人の手によって作り出された鋼鉄の巨鳥は軍事大国バロンの戦力を大幅に底上げし、同時にカインたち竜騎士の居場所を奪い去った。
 シドもセシルも大事な家族だが、とカインは続ける。「竜すらいなくなったが、それでも竜騎士としての矜持くらいはある」と。
「国と親友裏切っても矜持、ね。ご大層なことだ」
 そのプライドなんてものはとうに捨てたとオレは思ってたが、なんていう余計な言葉は飲み込んだ。
「……残ってたんだろうな それが」
「…………何者だったんだ」
 騎士たちの持つ矜持と同じものを抱いていたあの四天王は。
 するとカインは唄うように口を開いた。
「試練の山に登りし者、月光輝く聖なる力を求めて彷徨い歩く。然して其れは邪心持つ者には与えられず……彼の魔道士は 道を失った」
「んだ」
「さぁな」
「さぁな、って……」
 それはあなたが見てきたもの?
 それはあなたが触れたもの?
「誰かから伝え聞いたのか……それとも 本当に見てきたのか。俺は知らん」
「だから、なんだつってんだよ」
「試練の山の伝承だ」
「試練の山?」
 名前しか聞いたことねぇなあ、とエッジはその場に腰掛けた。
「ミシディアの魔道士たちが守る聖なる山だ。……聖なる力が眠っているとされ……見れば分かるだろう、セシルの『アレ』だ」
「アレ? セシルが登ったのか、その山を」
「お前は見たことがなかったな。もともとセシルは暗黒騎士だ」
「暗黒騎士……あぁそういや、リディアがそんなこと言ってたかもしれねぇな」
 そんな山を登ったっていうのか、あのルビカンテが?
 エッジは数瞬してからことの重大さに気づいたのか、カッと目を見開いた。
「真偽は知らん。俺は聞かされただけだ」
 その寝物語を、その夢物語を。
 言葉を紡いだ男はこの月の彼方。きっと己の滅びを望みながら──その命を失われることをどこかで望んでいるに違いない。
「パラディン、ねぇ」
「道を失い……自らの炎に焼かれ死に瀕したその魔道士を 毒虫・ゴルベーザは拾い上げた」
 同じだ。
 カインは告げた。「アンタの両親とな」なんて。
「チッ そういう話かよ」
「そういう話だ」
 ルビカンテが望んだのか、望まなかったのか。それこそ今は亡き当人以外誰にも分かりはしない。
 けれどあの男はかつてパラディンを望み、試練の山に挑み、破れ、人間としての命が絶える間際に魔物としての身体を手に入れた。それを絶望としたか、はたまた命が救われたという希望としたのか。月への道を望むゴルベーザの野望に便乗したのか、それとも己を拒絶した世界を恨んだか、それとも──
「月を 憎んだのかもな」
「月を?」
「自分で言ってたじゃねぇか。試練の山ってのは、聖なる月の力があるんだろう? それに拒まれたっていうんなら……」
「……悪しき月に堕ちた、か」
「自分の意志でな」
「だから矜持か。はは、なるほどそういうことかよ」
 合点がいった。
 エッジは声をあげて笑った。
「自らの意志で決めた道ならば……どんな過程であれ結末であれ 誇りは失わない。なけなしのプライド、負け惜しみ そう言われれば終わりだが」
「開き直りとも言うぜぇ」
 一度ならず二度までも堂々と仲間を傷つけた割に、今こうして『仲間』だといけしゃあしゃあと槍を振り回してる男もいることだしな、とエッジは揶揄(からか)った。
「どうとでも言え。否定はしない」
「……オレはよ、自分のことそれなりに前向きな方だとは思っちゃいるが……てめぇには負けるな。お前ほどじゃねぇ」
「前向き?」
「おう。じゃなきゃそんなツラ下げて月まで着いてこねぇよ」
「バカか」
「そうか? それなりに真理だと思うぜ、オレは」
「……後ろ向きに歩けるほど器用じゃない。それだけの話だ。立ち止まるか……進むか。今立ち止まればきっと自分を許せなくなる。なら、残された道は前に進むだけ。それだけだ」
 あれやこれや考えることはもうやめた。
 ありもしない過去の分岐点に想いを馳せることも、セシルを取り巻く謎に首を傾げることも、魔人を想い恋い焦がれることも、全部 全部やめた。
 考えたところで何も現実は変わらない。あるとすれば、己の気持ちがほんの少し変わるだけ。それも好転するとは限らない。終わりのない螺旋のなかに取り込まれてしまうかもしれない。そんなリスクを背負うのはもうごめんだ。そんな詮のないことを考える時間が少しでもあるならば、足を動かしていたい。
 ただそれだけのことだ。
「後ろ向きか。歩けるが転んじまうな」
「だろう? なら、バカになって前を向いていたほうがいい」
 かっかっかと竜騎士の男は笑った。黙っていれば女のように美しい顔立ちにも見えるというのに、時折このカインという男はエブラーナの爺に負けず劣らず老成した笑い方をする。きっとそれも彼の魅力の一つなのだろう。エッジはそんなカインのことを『裏切り者』であるというのに心の奥底からは憎めずにいた。
 初対面の頃、頑なに心を開こうとはしなかったカインに対して抱いていた印象は決して良いものではなかった。表情を隠す竜兜のせいだけではない。言葉の端々には棘が含まれ、何があったかは知らないがどうにもこうにもセシルやローザとはギクシャク。終いには、そう。ようやく信じてもいいかな、だなんて思い始めた矢先に苦労して手に入れた闇のクリスタルを強奪して消えていったのだから。
「じゃ、お前は今バカってことか」
「大バカここに極まれり。それこそ……正気じゃいられんさ」
 真実を知ったいまなら分かる。
 カインというこの若い竜騎士は警戒心が強いだけのどこにでもいる男でしかない。大いなる過ちがそこにはあり、大いなる悪夢に苛まされども、彼はセシルのように『特別』だった訳でもない。
 だからこそ、彼はルビカンテが最期まで誇りを失わなかったと言い切れるのだろう。
 この男は、否、この男だけではない。カインだけでなくセシルやゴルベーザもまた、ルビカンテと同じだ。バロンの騎士らがあの魔人たちと同じなのか、それとも逆か。そんなことはどうでもいい。ただ、同じであるということが重要なのだ。
「自分のやったことから目を背けねぇ。……騎士になれなかった男の矜持か」
「お前が思うほどに高尚なものではないだろうさ。……だが、それでも……あった、はずなんだ。俺にも 奴にも」
 あの魔人がどれほど人々を恐怖に陥れる人道を外した行いを繰り返していたとしても。
 二度と会うことはねぇが、次に会ったときもその矜持に免じて正々堂々と戦ってやるか。
 世界を蹂躙する巨人で火の粉となって散っていった、赤の魔人に想いを馳せながらエッジは「覚えておいてやるぜ、お前の矜持をな」なんて、目の前の男か彼方の男かどちらかへともなく言葉を投げかけてやった。



O:Orphan's nightmare(ギルバートとカイン)


「その男はとても悍(おぞ)ましく、ありとあらゆる生物のからだをつなぎあわせた魔物だったのです」
 おどろおどろしい英雄譚を美しい声のギルバートは子供たちに謳いあげた。一度でもセシルと縁(えにし)を結んだ者たちはここ、ミシディアに集い祈りを捧げ続けている。青き星の未来を祈り、邪悪な意識に覆われた月の行く末を案じながら。
 そんな大人たちの様子に不安そうな顔をするミシディアの子供たちに何かしてやれることは、と名乗りを上げたのがギルバート・クリス・フォン・ミューアである。ダムシアンの第一王子であり、王が喪われた今は戴冠を待つ身である。パロン、ポロン、と彼が抱えるリュートが爪弾かれるたびに弦が震え、美しい音が静かな魔道士の村に鳴り響く。
 ミシディアのひよっこ魔道士たちはダムシアンの美しき王が甘い唇で歌い上げるそのストーリィに耳を奪われ、熱心にその内容を聞き入っていた。見たこともない、聞いたこともない、想像を絶する獣(けだもの)を聖なる騎士が打ちはらう冒険譚を。ギルバートは緑囲まれるこの中庭で、ミシディアの東にそびえる試練の山に刻み込まれた戦いの記憶を詩(うた)にして何人もの未来ある子供たちに聞かせてやっていた。
「まるで見てきたような語り口だな」
 そこに現れたのはカインである。
 どうしたことか、出立前には腰ほどまであった長い白金(しろがね)の美しい髪の毛は見る影もなく、首筋のあたりでざっくりと切り落とされていた。何があったのかは誰も口にしない。だからギルバートも聞かないままでいたが、印象は随分と変わる。
「パロムからたくさん聞いてね。アンデッドの王……スカルミリョーネ。試練の山で聖騎士となったセシルの前に最初に立ちはだかった、不死者たちの王」
「王……王、か」
「そう。かつては人の身をした……醜き王の神話だよ」
「神話か。アレはそういった類の生き物でもないだろう」
 話を聞いたならそれは理解しているはずだが。
 鎧ではなく軽装姿のカインは楽しそうに輪になって遊ぶ子供たちを満足げに眺めるギルバートに肩を竦めた。
「君は……彼を知っているのかい?」
「……人間だけではない。様々な生き物の死体を積み重ね……腐り果てた大地の中から生まれた。そう聞いたことがある」
 少なくとも、後世まで人々に語り継がれるような神々しい物語に出現する魔物ではない。
 あるとすればそれはそう、暗黒の力を捨てた聖なる騎士が星を救う物語に登場する腐海の王。腐臭を撒き散らし牙を剥く泥のかたまり。スカルミリョーネが望む自身の立ち位置は、そこだ。
「神話に足る出自じゃないか」
「そんなものなのか?」
「それだけで十分さ」
「…………ゴルベーザだけが 奴に目をかけてくれたそうだ」
 あの腐り果てた男がどのような道を辿ってきたのか、それまで歩まされてきた差別と偏見の旅路がどれほど苦痛であったことか。蔑まれ、疎まれ、醜い身体となってしまった呪いの子。ただ一人の怨念ではなく、多くの『そういった命』がつぎはぎとなり折り重なり腐り果てたのがスカルミリョーネだと言う。
「悲しいひとだ」
 ギルバートは物憂げな視線を手元のリュートに落とす。
 しかしカインはそんな彼の仕草に「やめておけ」とやんわり忠告した。
「その情けはあの男にとって最大の侮辱だ」
 誇り高き不死者の王。それがスカルミリョーネなのだ。
 触れるものは腐り落ち、歩んだ道には蛆が湧くような。見た目は醜く、腐り落ちた魂を薄く歪んだ皮に包んだ肉体を持つ魔物ではあるが、ギルバートが抱く憐憫はかつて彼を蔑んできた者たちと同じそれ。
 ゴルベーザという唯一のひとに拾い上げられたことで彼は四天王という立場を与えられ、自らの呪われた肉体に意味を見出した。元を辿れば闇に染まった魔術師であったとか、どこかの国に裏切られた騎士であったとか、古びた街に住まう身寄りのいない物乞いであったとか。諸説あれど、当人すら『最初の一人』のことはもう分からない。スカルミリョーネという魔物が抱くのはそういった多くの命が孕む怨念そのものだった。
「ポロムも言っていたよ。スカルミリョーネの『核』には……たくさんの無念が詰まっていた。あれほどの闇を背負った『人間』にとって同情は罵声と同じだ」
「だろうな。俺にはそういった類の霊感はないが……ポロムが言うなら間違いないだろう」
 白魔法の道を行く幼子はそういったことに聡い。
 美しいダムシアン王に瞳を輝かせながらあれやこれやと自分たちの武勇伝を双子のきょうだいと共に説明している姿は容易に想像できる。当時の状況をカインは知らず、ただ旧い親友が四天王の一人に打ち勝ったという事実が在るのみ。一体どのようにして『悪夢』を打ち破ったのかは知らないままだ。
 だからこそこうして竪琴の音色に誘われてやってきたのであるが。その弾ける音色に乗せて歌われるのは脚色済みのストーリィ。
「よければ、最初から聞いてくれるかい? 君の感想を聞いてみたいんだ」
「俺の感想などあてにならんぞ」
「いいや、君は僕らの……セシルたちの知らないスカルミリョーネを知っている。ならきっと、君の言葉には意味があるはずだ」
 分かった、と承諾の言葉よりも先にギルバートは微笑んでから指先でリュートを弾き始める。
 白い喉が鳴らす透き通った歌声はまさに砂漠の秘宝。ダムシアンの王家は商いの才だけではなく吟遊詩人としての才能も受け継いでいると聞くが、ギルバートの声を一度聞けばそれは疑いようもない事実であったと思い知る。川のせせらぎのように清らかに、乾く砂漠の風のように彼方まで届き、しかして険しい山々のように力強くもある。あくまでリュートは喉という楽器が奏でる声を彩る伴奏であり、ギルバート家が持つ伝家の宝刀とも言える楽器はその喉だ。
 聖なる力を求め険しき試練の山を登る暗黒騎士と、世界の全てを知り尽くした老賢者。そしてミシディアの双子魔道士たちというちぐはぐな四人組が辿った短い旅路。ダムシアンいちばんの吟遊詩人が歌い上げる物語を聞く限りではそれは波乱に満ちた壮大な冒険譚のように聞こえる。たった山を登り、降りてくるだけだというのに。
 それはバロンの城下町で演じられていた美しい舞台のような。愛と哀しみに満ちた古典作品のような。
 嗚呼不死なる王よ。
 死してこその命、腐り落ちた肉塊となりてこその命。
 ギルバートは高らかに謳いあげていく。
 相対する騎士は暗黒の力を捨て、聖なる道を歩み始めた者。
 賢者たちの炎が舞い踊り、幼い魔道士の祈りが天へと届く。
 伝説の聖剣を握ったパラディンがその朽ち果てた魔物を浄化し、物語は幕を閉じる。
「それで、君の感想は?」
 一通り語りきったギルバートの言葉にカインは手を叩きながらも息を吐いた。
「……アレンジが多すぎるんじゃないのか? 五割、いや七割は盛っているだろう」
「そう聞こえるかい? なら、僕としても本望だ」
 それは僕にとっての褒め言葉。そう言うとカインは怪訝な表情を作った。
「それでいいのか? 聖騎士を褒め称える歌にするならばいい具合だが……事実からは程遠い」
 カインは旅路に同行していたテラという賢者の多くを知りはしないが、ミシディアの双子魔道士のことならば眺めているだけでおおよそ予想がつく。
 ひたすら落ち着きのない二人のどちらが兄か姉かは知らないが、早熟すぎる子供たちはセシルを兄のように敬い、このミシディアに顔を出した際には真っ先に駆け寄ってきた。あんちゃん! とか、セシルさま! と両手を広げて走ってくる姿は記憶に新しい。
 そんな子供たちがスカルミリョーネを打ち滅ぼしたという事実はカインに軽い衝撃をもたらしたが、先ほどギルバートが唄いあげた冒険譚にそんな幼子は出演していなかった。聖騎士と老賢者、そして双子の魔道士。パロムとポロムのような子供だなんて彼は一言も口にはしない。
「『本当のこと』は時として残酷で……無意識に人を傷つけるからね」
「……」
「子供が戦う必要なんてないんだ」
 例え神話であろうとも。
 いかに優秀な子供たちであろうとも、あの薄汚く崩れ落ちた腐臭漂う魔物の姿は二度と忘れることはできないであろう。今はまだいい。この星の滅びを賭けた戦いが終われば……『他のこと』が考えられないほどに恐ろしき日々が終われば、彼らには続いて夜毎の悪夢に魘(うな)される日々がやってくる。
 一種の興奮状態に包まれている今はいい。
 世界がかつての通りの姿を取り戻したその時、二人は思い知るであろう。セシルと共に戦ったスカルミリョーネという王がどれほど恐ろしい存在であったかを。大義のためならば小さな命を厭わず投げ出す覚悟のあるあの子供たちがいずれ年月を経た時に思い知るであろう。スカルミリョーネが抱き続けた底知れぬ悍ましき人間たちの悪意の意味を。
 どれほどまでに自分たちが『怖いもの知らず』であったのかを。
「醜く腐り落ちた不死者の話など、現実離れした神話でなくてはならない……か」
「その通り。……悪夢はね、伝染するんだよ」
 彼の言葉は優しく、偽りの神話を語る甘い声であることに変わりはない。
 死者王を打ち滅ぼした聖騎士に共をしたのが幼子たちであると謳えば、それを聞いた子供たちはまるで自分たち自身が聖騎士と共に旅をしたかのように思い込む。ギルバートが奏でる魔法の物語はそれほどまでに人をのめり込ませる力があるからこそ、そんな自身を投影した幼い魔道士たちが世にも恐ろしきスカルミリョーネに相対する姿を想像させてはならない。
 ギルバートが謳う不死者王は世界のどんな生き物よりも悍ましい。口にするも恐ろしき、世界で最も穢れたアンデッドの王に触れるのは見ず知らずの魔道士でなくてはならないのだ。己を落とし込むことのできないような偉大なる魔道士でなくては。
「ではなぜ、伝染するような悪夢を偽ってまで語り継ぐ」
「虚飾を謳うことは無意味だと。君はそう思うかい?」
「……語るは事実だけでいいだろう」
「……言っただろう、時として真実は人を傷つける」
 暖かな日差しが降り注ぐ昼下がり、吟遊詩人の男は静かに言い放った。「僕らの唄が誰かを傷つけるなんて、あってはならないことなんだ」と。
「だが やがてそれこそが真実になる。当人たちが死した後には真実を知る者は残らない」
 パロムとポロムが、そしてセシルが実際に目にした光景を口外しない限りは。
「その通り。だから……僕はこの詩歌を語り継ぐだけでは終わらない。セシルたちが打ち斃しせしめたかの者の神話を歌い……真実を書に記す。そうすることで後世にだって僕の歌が嘘に塗れていると伝わることだろう。虚構の歌と……真実の書。ダムシアンの砂漠に伝わる歌の多くと同じように、ね」
 吟遊詩人が奏でる曲は古の書物から抽出された心踊るたった一部だけ。概して神話はそんなものだ、と優しげに王は言う。
「分かっていてやっているならば…とんだペテン師だな」
「忘れたのかい? 僕は王である以前に……法螺を吹く吟遊詩人。あの歌物語と同じ 矛盾のかたまりさ」
「子供達の悪夢を欺き……死者の寄せ集めを悪党として祀り上げるのが一国の王か」
 言葉は悪いが、カインの声に悪意はこもっていない。
 書を認めたり歌を奏でるようなことに関してカインは門外漢だ。バロンに代々伝わる神話の類だとか、おとぎ話のようなものは亡き父親からたくさん聞いてきた。子供達への教訓となるものや、戒めとなるもの。多くの物語を与えられはしたが、自らそれを作り上げることとは無縁だ。
 ストーリーテラーの考えることは分からん、と言えばしかし、ギルバートは「光栄だね」と返すのみ。
「歴史を語り、詩を奏で、その物語を語り継ぐ。それが僕ら吟遊詩人にとっての『武器』だから」
 剣ではなくペンを、槍ではなく竪琴を。
「……ならば、俺も気をつけねばな」
「なにをだい?」
「お前に恨みを買って、ありもしない神話にされるのは御免だ」
 人々の憎しみが生み出した誇り高き死せる魂の王のように。
 滅びを得た後にありもしない虚飾に囲まれ神話にされてしまうなんてたまったもんじゃない。カインの言葉にギルバートは満足げに頷いた。
「僕が謳うのは鎮魂歌さ、カイン。……あの子たちだけじゃない。君の……終わりなき『悪夢』がせめて 安らぐように。僕は唄い続けるだけさ」
 救済のためなら紡ぐはどんな神話であろうと構わない。真実であるかなどは関係ない。書に記されたもののみが真実であればいいのだから。目的は謳い、癒すこと。手にしたリュートを再び玩びながら、目の前のダムシアン王は甘ったるい声で面食らった表情のカインを横目に癒しを唄い始めた。



V:Violent swindler(セシルとカイン)


 いつから?
 いつからだったのだ。
 スレイプニルと呼ばれる軍馬に跨った軍神・オーディンはかつてセシルの養父であり、カインの後見人でもあった。同時にこのバロンという軍事大国を長年に渡って治め続けていた王でもあり、二人にとっては父であるよりも先に全ての信をおいて頭(こうべ)を垂れ忠誠を誓うべき相手だった。
 しかしその偉大なる王は知らずのうちに命を奪われ、こうして人間としての身体を失った後も密かにバロンという国を守り続けてきた。
 深夜になれば地下より人ならざるものの声が聞こえてくる。もしかしたら恐ろしい魔物が未だ住み着いているのやもしれない。何かあってはいけない、どうか、どうか再び月へ向かわれる前に『ソレ』の真相を確かめてください。なんて怯えきった飛空挺団の兵士に泣きつかれた二人の前に姿を現したのはバロン王その人だったのだから。
「……いつから、だったんだろう」
 オーディンとして転生したバロン王はリディアに力を与え、人間という枠組みを超えた存在であることを二人に知らしめた。
「さぁな」
「ゴルベーザ、からは聞いていないのか?」
 その言葉はどこかぎこちない。
 兄であると。
 己を捨て去り、バロン王に拾われる因果を作り出したのがゴルベーザその人であり、セシルとは血を分けた兄弟であるという事実は未だ受け入れるには衝撃が大きすぎる。
「聞いていれば流石の俺もとうに教えてるし、とぼけたフリはしない」
 確かにカインはセシルを裏切り、結果としてバロンをはじめとする『世界』にも敵対してきた。だが、だからといって本来の主人に対する気持ちを忘れたことなど一度たりともありはしなかった。ただ、ゴルベーザという毒虫に精神を食われた時には既に支えるべきバロン王は醜悪な亀にすり替わっていただけで。
 決して口にすることはできない。
 カインは心の奥底に渦巻く暗澹とした、騎士が抱いてはいけぬ感情に蓋をしようとした。ずっと地下に潜んでいたというのなら、なぜ。なぜ助けてくれなかったのか、と。全てを八つ裂きにされたこの城の地下にずっといたのであれば、どうして。彼は冷たい石の壁に背を預けた。
「僕らは……騎士失格だな」
「……」
 セシルはそんなカインの心を知ってか知らずか隣に並び、ずるずるとしゃがみこんだ。
「どうして気づかなかったんだろうな」
 ミストの断崖から半死半生でバロンに帰還したカインにゴルベーザは言い放った。
 お前が支えるべき王などもういない。どこにもいない。貴様が王だと信じていたのはさて見ろ、この通り魔物にしか過ぎぬのだ、と。
 ひどく激昂したことは覚えている。だが、今となっては分かる。むしろ『殺されて』いたからこそ──こうして、セシルの旅路に力となってくれたのだから。エブラーナの国王夫妻のように命を異なった形で捻じ曲げられていなかったことだけは幸いだったのやもしれない。
「陛下がカイナッツォに入れ替わっていたと聞いて……なぜ今まで、『そう思わなかったのか』すら不思議だった」
「当然じゃないか。陛下が魔物に敗れるだなんて、考えたこともなかっただろう」
「まぁな。でも落ち込むなよ、セシル。俺なんかに比べたらお前は十分立派な騎士だろう」
「……言うなよ、返しに困る」
「バカだな。分かっててやったに決まってるだろ」
 と。
 カインは自虐的な笑みを浮かべた。疲れた声音だ。
 裏切り、裏切られ、許し、許され。
 みんなを母に紹介したいの。そう言って仲間たちをつれてローザは城下町へと向かったため、残された二人は久方ぶりにこの見慣れた城内を歩き回ることとなった。昨夜死闘を繰り広げた地下も、まるでそれが夢であったかのように何事もない静寂に包まれているのみ。こんなにも静かだったか? と二人は顔を見合わせる。
 城で育ったセシルがバロン城を離れていたのはほんのわずかな期間でしかなかったというのに、どこもかしこも目新しさを感じてしまうのだ。
 それは恐らくわずかな間でもゴルベーザという本来とは異なる主人が暮らしていたからであろう。いつも召使いたちが気を使っていた燭台には汚れが目立つ。
「掃除もしなきゃな」
「……だな。月から戻ってきたら兵団全員で大掃除だ」
「生き残った全員で、ね。このままじゃそのうちまた陛下が『化けて』出るぞ。給仕長にも伝えておこう」
「もう化けてるみたいなもんだろう」
「カイン」
 失礼だぞ、とセシルはたしなめたがカインは気に留めない。
「だってそうだろう。……人間が死んで幻獣になるなんて 聞いたことはなかったが」
「……生まれ変わり、か」
 死したバロン王が放った霊魂の叫びに幻獣たちが応え、オーディンとし生まれ変わったというのが当人の口からもたらされた『答え』であった。しかしそれについてはリディアは首を傾げていた。幻獣と呼ばれる特別な存在となるために必要な条件はいくつかあり、それら全てをクリアした時にのみ人は幻の獣となる。そう街では教えられて来たそうだ。
 しかし物事には必ず『例外』というものは存在する。
「何百年何千年生きていれば、魔物はそのまま幻獣になるらしいが」
「ボムとか、いたな」
 あの街には。
 フードを被った人間と幻獣の間を漂う魔を持つ者や、見た目だけではそこらの魔物とは変わらない者が多く住んでいた。そのことを考えればバロン王であった人間が幻獣へと『変わった』ことについてはおかしな話でもないが、残念ながら人間という生き物はどれだけ努力しようと数百年など生きられるはずがない。
 稀に魔力を持つミシディアの魔道士などが命の果てに幻獣となることもあるとは聞きはするものの、それはそれで幻獣界で気の遠くなるような修練を積まねば完全な幻獣にはなれないのだという。
「……陛下の想念 か」
「強いお気持ちがあったから、なのかな」
 お気持ちだなんて言えば聞こえはいい。だが、幻獣として転生するほどの感情を抱いていたというのが事実だ。
 それがカインの言う怨念だったのか、無念だったのか、それは分からない。
 賢王バロンは騎士であり、王でもあった。その強い意志が死した魂に呼応し幻獣へと転生した。それだけのことだ。
「……」
 カインは押し黙った。
 陛下は世界一の王だった。軍事国家としてバロンを成長させ、強大な武力を持つ危うさはあれど、それを見事コントロールしてみせた稀代の賢王。それがカインが支えるただ一人の王であり、だからこそ彼は死してすぐに幻獣として転生した。
 ならば、やはり。
「カイン?」
「……いや」
 どうして助けてくれなかったのか、なんていうのは子供のワガママだ。
「だとしても、僕は納得できない」
「何がだ」
「陛下のことだよ。どうして……あんな魔物なんかに」
「『あんな』か」
「だって亀だろう、あれ」
 セシルは頬を膨らませた。
 魔物の見かけに惑わされてはならない、というのは基本中の基本である。可愛らしい見目麗しい見かけをしていても、凶暴な魔物である可能性は十二分にある。それは士官学校を卒業し兵士となってから魔物討伐に出征し続けたセシルにとっては常識のようなものだ。
 けれど、それにしたって気に食わない。
 パロムとポロムという幼い命を犠牲にするしかなかったあの戦いのことは忘れられない。親である賢王バロンを殺し、王を騙り、仲間の命を奪い去ったあの魔物のことを。
「お前は亀と言うがな、亀をバカにする奴は亀に泣くんだぞ」
 知ってるか?
 カインはどこか懐かしむような声で続けた。
 バロンの郊外にあるハイウインド家の敷地にある池には人喰い亀がいたんだ、と。彼は唐突にそんなことを話し始めた。
 記憶の中にぼんやりと残る『大人』が語ってくれた様々な物語のうちのひとつ。成人したバロンの男たちが皆そうであるように、長い黄金(こがね)の髪の毛を纏った父親が幼いカインに教えてくれた、とっておきの話。「何代も昔の当主が海辺で助けた亀を庭の行けで飼っていたそうだ」と。
「海の……亀?」
 アダマンタイマイみたいな? と聞けば、カインは「分からん」と答えるのみ。
「ともあれ、その亀はやがて遥かな峰々に住まう巨長や霧深い幽谷に住む飛竜にも劣らない巨体に成長したそうだ」
 ハイウインドの敷地で飼うには限界となったその亀を当代の領主は海に返したが、亀は恩を忘れることはなかった。
「その亀は……」
「……ある日の話だ。いいか、これはあくまで……親父から聞いた話だ」
「うん」
「その百年後に領地を治めていたハイウインド卿を暗殺した 貴族の一人を食い殺した」
「!」
 何度も言うがこれは父から聞いた話だとカインは繰り返した。
 リチャード・ハイウインドという先代当主はその存在を厭う貴族に暗殺された。決してこの話に出てくる『亀を助けた』ハイウインドの当主は父親ではない。だって親父を殺した奴は今も生きている、亀になんて襲われていないのだから。
「……その亀は……食べたのか?」
「骨も残さずな」
「はじめて聞いたよ」
「はじめて話したからだ。ハイウインドの家に伝わる話は内々にしかしないしきたりでな。……だが、こうなってしまってはもう関係ない」
 家系が断絶してしまえば失われる神話。それをカインは口にしたのだ。
「そんな話があっただなんて……」
「噂だ、噂。あの池は見た目以上に深いからな。子供だけで近寄らせないために大人が作った方便だと、俺は思っているがな」
 だが、いずれにせよ亀をバカすると痛い目に遭うぞ、と再び言ったカインにセシルは「もしかして」と尋ねる。
「カイン、その人食い亀の話しをまだ信じているのか?」
 と。
 そんなに熱心にあれやこれやと話をしてくれるカインは珍しい。
 そもそも人に何かを教えることはどちらかといえば苦手とする部類の人間だからだ。セシルのそんな言葉にカインは「どうだろうな」と答える。
「……信じない理由もないしな。 それに」
「それに?」
 カインはそこまで言って冷たい城の壁に手を当てた。少しだけ埃っぽい。
 俯いたことでバサリと長い髪の毛が表情を隠してしまう。
「どんな意図でも構わない。俺が覚えてる……数少ない親父の記憶さ」
「…………そうか」
 カインの父親は幼い頃に殺された。
 同じ竜騎士団による裏切り行為か、それとも外部犯か。それとも騎士の台頭を厭う貴族が雇った暗殺者か。いずれにせよ、わざわざ国外からやってきた暗殺者による犯行とは思えなかったし、状況証拠から自殺や事故死なんてことは有り得なかった。真相は今となっても公(おおやけ)には明らかにされておらず、当時のハイウインド家は貴族院でも煙たがれていた存在であったため誰もカインの『味方』になってくれることはなかった。王バロンですら積極的に関わることは周囲の大臣たちから強く諌められていたのだとも聞く。
 何せ、大人の事情がどうであれカインの用心深い性格はその事件に起因する。
 なんて曰くのついた亀の話だって、今調べ直せば何か新たな証拠が出てくるやもしれない。が、今更だ。必要なのは亀の真実ではない、父親との思い出なのだから。
「まぁ安心しろ。その亀がカイナッツォで恩を仇で返しただなんてことはなかろう」
「そうであることを願うよ」
 あんな下卑た笑い声をあげるような亀をかつてハイウインド家の当主が助けた、なんてことは。
「だが、お前の気持ちは分からんでもない」
「僕の?」
「……魔物の見かけと直結しない。だとしても、あの陛下がカイナッツォに敗れるだなんてな」
 どれほど下衆であろうと、どれほど性格が悪かろうと、どれほど見てくれがただの巨大な亀であろうと、カイナッツォの実力は本物であった。魔物としての強さだけではない。背後には既にゴルベーザがいたとしても、アレは亀でありながら人間のことをよく心得ていた。そうでもなければ、バロン王の替え玉など務まるはずもない。
 確かに、予兆はあった。
 バロンが持つ強大な軍事力はら国を侵略するためには非ず。しかしながら近年──いつからかは分からない。このところバロン王は他国に対して強硬な姿勢を見せ、各地の魔物討伐を率先して行う傍、見つけた魔物の巣は壊さぬように命じるなど怪しげな振る舞いが増えていた。事あるごとに武力を散らつかせダムシアンを脅し、クリスタルを明け渡すようミシディアにも迫った。長老・ミンウは何かしらを察知していたのやもしれないが、魔法という力に疎いバロンにはそれを見抜く魔道士は一人もいなかった。
「……陛下は……無敵だと そう思ってた」
「俺もだ」
「でもさカイン、それってすごく可笑しいことだと思わないか?」
 セシルは困ったような顔で上目遣いをしてカインを見上げた。
 子供の頃と変わらない。あどけなさが残ると思っていた顔立ちはもともとそういった作りなのだということに気づいたのも最近だ。
「何が可笑しいんだ?」
「だって僕ら、陛下が戦ってるところなんて……見た事もなかったじゃないか」 「!」
 兵士たちの訓練所に姿を現す事はあった。
 激励の言葉を投げかけながら訓練に励む兵学校生だったセシルやカインに手を挙げ、いいところを見せようとしたセシルが転び、カインがそれを指差して笑ったところを指導官の騎士に殴られて。時折の休暇に際しては共に食卓を囲みながら「セシル、油断はいかん」と諌(いさ)めてくれる。そんな優しい父親だった。
 高名な騎士であり、カインの父リチャードやローザの両親と共に世界各地を飛び回っては魔物の討伐に励んでいたという武勇伝はいくらでも聞いてきた、けれど。
「見た事もないのに、不思議だ。僕は今でも陛下には敵わないと思ってる」
「……バカ。そんなことを俺にも言わせるな」
「ふふ」
 ちょっとばかり意地悪めいた笑み。カインやローザにしか見せない、セシルの『ちょっとだけ』悪い子の部分だ。
「……俺だってそうさ。親父と……真剣勝負なんてしたこともない。親父が空を舞う姿も見たことないのに……今の俺じゃ、絶対に敵わないと信じてる」
「…………うん」
 話は、聞いた。
 どれほど強いのかも。どれほどその心が清いのかも。
 その手で育てられた。
 人として正しいことをせよ、騎士に恥じぬ道を歩めと。
 いつも背中は遠かった。
 神話だ。
 父親たちはこうして子供のうちで神話となり、本物の姿を見せないままに偽りの神話を形作っていくのだ。
「親父が 誰かに殺されたなんて……信じられなかった」
「過去形?」
「……親しい人間に殺されたなら有り得る。今はそう思ってる」
「……」
 実体験? とまではセシルは言えなかった。だが、そんなところだろう。
 二人は同時に息を吐き、無音の廊下に視線を投げかける。人が減った。人が死んだ、いなくなった。王すらも姿を消したのだ、このバロンは。
 今でも脳裏に蘇るのは色褪せることのない父王の厳しくも優しい笑顔。幻獣・オーディンとして転生するほどの強い魂の持ち主でありながら、なぜあんな亀一頭に殺されてしまったのか。陛下が敗れるはずなどないと言う息子たちはしかし、父が剣を振るった姿など見たこともなく。
 堂々とした佇まいで馬に乗り討伐任務から帰国する華々しい姿もまた、人づてにしか聞いたこともない。彼らが物心ついた頃にはもう賢王バロンはその玉座に腰を落ち着けていたのだから。
「いつか……」
「ん」
「いつか 子供が産まれたらちゃんと見せておけよ」
「……何を?」
「……父親が 本当に戦う姿をな。神話になんて 絶対にさせるなよ」
「カイン、お前……」
「じゃあな。寄り道してから帰る」
 その意味は、とセシルは問おうとする。しかしそれよりも早くカインは逃げるように背を向けると、それ以上の言葉を口にすることなくスタスタと石畳の奥へと消えていく。あの細い通路は確か、城の裏門から貴族街へと通じる秘密の抜け道へと続く場所。──あぁ、確か。
 大きな池のあるハイウインド家の領地、そこへの近道だった。
 一人残されたセシルは壁に背をつけたまま、大きく息を吐く。ズルいよ、子供の話だなんてと。
「そんなこと言うなら 僕はお前を神話にしてやる」
 なんて。
 すっかり姿の見えなくなった幼馴染に恨めしそうな声を上げた。



E:Ending story(リディアとカイン)


「すきだったの? あの人のこと」
 恋を知らぬ少女は言う。
 愛を知らぬ少女は言う。
 あまりにも突然すぎる問いかけは魔物の気配を探っていたカインの手から槍を取り落とさせた。ガラガランという大きな音がだだ広い月の渓谷に鳴り響き、「嘘だろ」と次いでカインの低い声が漏れた。岩陰に身を潜めて遠くに姿を現したボムたちの様子を伺っていたというのにこれじゃあ台無しだ。大きな音に気づいたそれらはササッと姿を消していってしまう。
「リディア……」
「あ、ごめん。でもよかったね、襲ってこなかったよ」
「突然変な話をするな」
「うーん。でも、だって。……聞いてみたかったの。あたしには 分からないから」
「分からない?」
「……おかあさんのことはすき。ローザのこともすきよ。セシルとカインのことも、エッジだって あたし、みんなのことがすきなの」
 嫌な予感がする。
 カインは話題を変えようと口を開きかけたが──もう、遅い。「でも分からないの。カインの『すき』は、あたしよりもたくさんの意味がある気がするの」と無垢な瞳で召喚士は竜騎士に尋ねた。
「俺に聞くな」
「どうして?」
「ローザじゃダメか」
「聞いたよ。でも……よく分からなかった。みんなのことが好き。……それじゃ、『違う』のかな」
 ねぇ、セシルのことはすき? とリディアは聞く。
「あぁ」
「ローザは?」
「……今更聞くな。当然だろう」
「エッジは?」
「……」
「あたしは?」
「……リディア」
「じゃあね、カイン」
「誰のことを言っているんだ」
 仲間たちのことではない。一体誰のことだ?  ほんの数秒のうちにカインは今まで『関係を持った女』たちのことを未遂も含めて思い出す。酒場の一人娘か、パブおうさまの3番人気? それとも兵学校でローザの同級生だった彼女? いやいや、ローザによく似た金髪の娼婦? そんなまさか。そのいずれもリディアは知らないはずだ。

「バルバリシアよ」

「……は?」
「バルバリシア」
 緑の少女の唇からなめらかな音が漏れる。
 いや、二度も言われずとも声は聞こえている。誰のことを彼女が言っているのかも理解できる。しかしどうして今になってそんな話題を出してくるんだ。言いたいことは多くあったが、カインは自他共に認める口下手だ。取り落とした槍を拾い上げ、物音で新たに魔物が出現していないかを軽く見回し確認する。
 空の女王、天空を支配し眩き金色をなびかせる、孤高の女帝。
 彼女を彩る言葉は無数にあった。天よりも高いプライドを抱き、天よりも高い塔に住まう魔女。セシルを愛する女を監禁したゾットの塔を根城とした、恐るべき女。
「なるほど、そういうことか」
「ごめんね、あたし変なこと聞いちゃった?」
「あぁ、変なことを聞いたな」
 カインは穏やかな口調でそう返す。
 今のリディアは見てくれこそ成長した女だが、内面は恋も愛も知らぬ、人間が抱く多くの感情をも知らぬ無垢な幼女のまま。人間の物差しで10年もの間を幻獣界という得意な場所で過ごしたというのだから仕方ない。人間に囲まれて生活していれば得ていた負の感情も持たないまま、美しい心のまま成長したのだ。
 誰かを恨む気持ち、誰かを憎む気持ち、誰かを厭う気持ち。
 母親の命を奪ったセシルとカインに抱いたそれは大義の前では些事でしかないと幻獣王に切り捨てられ、彼女の心は『まっさら』のままだ。ゼムスがゴルベーザに、そしてカインに語りかけていた悪意も、黒魔法を自由自在に使いこなす魔人・リディアの前では無力だ。
 優秀な魔道士が必ずぶち当たる破壊衝動の壁も彼女の前には存在しない。
「セシルが『すき』と、エッジが『すき』は同じ、だよね」
「……どう思う?」
「同じじゃないの?」
「同じじゃない」
「じゃあ、エッジのことは『すき』じゃない?」
「そういう訳でもない」
「んもう、分からないわ」
「きっとリディアの『セシルがすき』と『ローザがすき』は同じだ」
「エッジは?」
「さぁ?」
「意地悪」
「意地悪じゃない。他人の気持ちなんざ、本人にしか分からないんだ」
「……そっか。あたし、あたしの気持ちだって自分じゃ分からないよ」
「そうか。ならお揃いだな」
「カインも?」
「言葉にできるなら……苦しまずに済んだかもな」
 恋とか、愛とか。
 たった一つの言葉で言い表すことのできる単純な感情ならこんなことにはならなかった。君のことが好きだ、お前のことも好きだ、君のことを愛している、君を愛するお前を愛する、お前を愛する君を愛する。けれど同時に 君を愛するお前に 心の奥底からの憎しみを抱く。
 それをどんな言葉にすればよかったのか? 答えは分からない。それに、未だ彼に対する感情が研ぎ澄まされた美しき愛だけであるはずもなく。
「カインって難しいこと、たくさん考えてるのね」
「……考えるのは苦手だ」
「そうなの?」
「考えるよりも動いている方が楽だ。……その間は 何も考えなくて済む」
「じゃあ、見回りしてくれるのも考え事したくないから?」
「かもな」
「ふぅん」
 嫌味でもなくリディアは純粋に「そうなんだぁ」と言った。
「そういうことだ。残念だがお前の質問には答えられない」
「自分でも分からないってこと?」
「……どうだろうな」
 あの女に抱いていた感情は。
 恋ではない。愛でもない。リディアの言う『すき』という幅広い範囲に含まれる感情ではある。だが、言葉にすることは難い。
「じゃあねぇ」
「……リディア」
「ん」
「お前は空を飛んだ時、どう思った」
「空? うーん、と……うーん……」
 彼女は首を傾げ、記憶の紐を辿る。
 幻獣界は地底世界。空を見上げようとも広がるは虚空の魔の海で、おかあさんと一緒に見た青い空の姿はどこにもなかった。春の空も、夏の空も秋の空も冬空も。記憶にあるのは全て、今は喪われし故郷・ミストで母と見上げた空。幻獣王リヴァイアサンによって与えられた幻界の空は無限に在れど、どこか閉塞感を持ったそれでもあった。
 空、空。
 リディアは胸いっぱいに広がったあの冷たい『死』の空気を思い出す。
「美しいだけじゃないんだ」
「……とても綺麗で……気持ちよくて、どこまでも行けそうって そう、思ったわ」
「あぁ」
「でも 同じくらい怖かった」
 彼女は恐ろしい、と頭上に広がる無の空を見上げた。
 吸い込まれるような暗闇とは違う。煌(きら)びやかな青が広がる天空は果てのない自由。誰一人として止める者のいない限りないもの。青き星を覆い隠す青き空。リディアが地底世界から脱しておよそ10年もの歳月を経て飛空挺・エンタープライズの甲板から目にした青は『子供』の頃に抱いた感情とは違うものを彼女に抱かせた。
「恐ろしいんだ、空は」
「うん。自由で……誰にも縛られない。だから 死んだって誰も気にしない。孤独ね、空は」
「空は誰のものにもならない。その代わり、誰しもに自由と平等に死を与える。……とても 恐ろしいものだ」
「カインも怖いの?」
「当然。空を跳ぶ時……いつだって俺は恐ろしさを覚える」
 お前だって『飛んだ』だろう? と問えば、彼女は頷く。
 バブイルの巨人から脱した彼らが蔓延る魔物たちを討取る最中、飛空挺から投げ出されたリディアは間違いなく空を飛んだ。
 地上数百メートルの高さから容赦なく木の葉のように吹き飛ばされた彼女の身体はひらりひらりと空を舞い、強風に煽られ、上下左右全てを空に包まれた。とても怖かった、と同時に感じたことのない解放感がそこにあった。或いはとてつもない解放感と引き換えに底抜けの恐怖を与えられたか。もしもカインが助けてくれなければ──そのまま地面へと真っ逆さまだった。リディアはそれを回想した。
「不思議。バロンの竜騎士は 空を歩くって……セシル、言ってたのに」
「そりゃあんな重たい暗黒騎士に空は歩けなかろうよ」
「もう、そういう意味じゃないわ」
 風塊を見定める力を持つ竜騎士たちは天空を足場に更に跳ぶ。それは単純に空を徘徊する魔物達は風魔法を放つことが多く、その魔力で作られた風を足場にしているだけではあるが、飛空挺という無機質なモノに立つ暗黒騎士から見ればそれは散歩と同じ。何もない虚空を足枷に竜騎士は自由自在に空を歩くのだと。
 飛空挺団よりも竜騎士団が優っていると言う所以でもある。
 圧倒的な火力を持つ飛空挺団と違い、竜騎士団は個々の兵士が圧倒的な力を持つ。たった一人空を舞い、足場のない天空の中でも魔物を討つことができる。それが 彼らの強さだ。
「分かってる。空を歩くだなんて言われる竜騎士が空を恐れるなんて、だろ」
「うん。もっと自由に空を跳んでるんだって思ってたわ」
 とぶ。ジャンプする。
 幼子にでもできる簡単な動作でありながら、竜騎士のそれは人に身にできうる限界へと挑む極限の行為。己の身一つで空へと舞い上がり、美しい弧を描きながら急速に落下する。身体を長槍とどうかさせ、取り巻く恐怖を振り払い、研ぎ澄ませた殺意だけを込めて目標へとまっすぐに落ちていく。
 巨鳥・ズーの首を落とすことも容易い強力な舞は見ているぶんにはとても気持ちよく見えるが──恐ろしい、とバロンいちの竜騎士は口にする。
「畏怖と憧憬。決して忘れてはならないと、親父が……死んだ竜騎士だった父がよく言っていた」
「いふ?」
「おそれうやまうこと。傲り高ぶり、空を我が手に取れるとでも思い上がった竜騎士たちは皆 死んでいった。決して忘れてはならない、空は自由だが……同時にどこまでも無慈悲なのだと」
 カインが視線を上げた空は永遠の漆黒に他ならない。どれほど時間が経とうとも曇天へと姿を変えることはなく、突き抜ける青空へ変貌することもない、時を止めた黒い空。
 この月の大地でどれほど跳ぼうとも、青き星で抱いたあの臨死体験にも近い高揚感は得られなかった。常に死と隣り合わせであることは変わりないというのに、風もなくば雲もない無機質な月の中においては容易く錯覚する。『この空なら手に入るのではないか』と。
 暗黒騎士や聖騎士のように堅牢なる鎧を身につけている訳ではない。竜騎士たちは革鎧に黒鉄(くろがね)の肩当と兜を身に纏うのみだ。たったそれだけの装備で空気も薄くなる世界から地上へと降りて行ったとカインは語る。
「……でも カインは……空が、『すき』だよね」
「あぁ。愛していると言ってもいい」
「難しいなぁ。怖いけど、すき?」
「そう。すき。……一つの言葉じゃ決められない」
 そして話は振り出しへ。
「バルバリシアも そうだった、の?」
「……あの女は」
 自由だった。
 我が物顔で空を闊歩し、どこまでも高く飛び上がり、雷雲を呼び起こし容赦なく気に食わない相手にはかみなりを落とす。たつまきを呼び嵐を巻き起こす。カインたち竜騎士が恐れ敬い続けた空をも支配した、孤独な魔女。
 その強大な魔力をもってして作り上げたゾットの塔は最早その足元を大地から離れ、空の彼方、雲の上に聳える天空の魔城であった。
 リディアはセシルたちの話でしか聞いたことはないが、賢者・テラが命を落とした最期の地。塔を統べるバルバリシアが敗れ、自壊させたが故に魔力の幻となって消え去った夢がすみの塔。
「すき……それも、すき?」
「空を愛することも全て『すき』だと言うのなら。……あの女は 遥か高みに塔を作り上げ……飛竜ですら届かなかった天高い空の世界を 俺に 与えた」
 同時に味わったことのない恐怖を。
 ゾットの塔で居室として与えられた小部屋は勿論、分厚い外壁に囲まれた塔の内部に窓の一切はなかった。だが頂上にはバルバリシアが外界を舞うために作られたたった一つの扉があったのだとカインは言った。一度だけそこから外に出たことがある、と彼は続ける。
 青空すら眼下遥かに臨み、下界の雨雲がずっと遠くに見えた天国よりも高い場所。呼吸ができないほどの薄い酸素に身を引き裂くほどの強風。その中をバルバリシアは自由自在に飛び回り、長く豊かな金髪を身に纏い高らかな笑い声と共に空をも支配する女をカインは「空と同じだ」と断じた。
「空……」
「それを恋慕だったとは俺は言わん」
 彼女に抱き続ける感情に名前をつけることは難い。
 リディアの言う『すき』とは恐らく違うものであることは間違いない。ローザへと抱く愛情とも違えば、セシルに抱く愛憎うずまく信頼でもない。エッジに対する全幅の信頼でもなくばリディアに持つ罪の意識などでもない。同じ畏怖と憧憬を抱いていたとしても、空を愛するように彼女を愛していたとも言えはしない。
「けれど 特別な人、だったよね」
「かもな」
「あたしね、実は見ちゃったんだ」
「見た?」
「バブイルの塔で……カインはね、バルバリシアと戦ってた時……すごく、楽しそうな顔をしていたの」
「!」
 一度失われた魔物の命を再び拾い上げたのは諸悪の根源、月の悪意・ゼムス。
 故に彼らゴルベーザ四天王は再び牙を剥いた。どうか手遅れになる前に。どうかこの青き星を焦土と変えてしまう前に。焦る願いを抱くセシルたちの前に立ち塞がった四天王たちに槍を向けたのは、他ならぬカインであった。闇のクリスタルを奪い去り『敵陣』へと消えたはずの『裏切り者』はそれでもまだ間に合う、まだ終わりじゃない。然して巨人は止まらぬのだと言葉を口にした。
「自分では気付いてない?」
「全く。……それどころじゃないと 思っていたつもり、だったが」  ゴルベーザによって与えられた強烈な魔力の枷はカインからかつての思考の全てを奪い去ったが、ゼムスの恐るべき思念が猛威を振るったときにその枷はカインを守るものとなり、完全に自意識を奪われることはなかった。そんな中で彼はセシルたちを巨人の中心部へと導き、ゴルベーザの元へと運んだ。
 そんな最中(さなか)のことであった。
「ずっとずぅっと高いところまで跳んで エッジたちがルビカンテと戦ってる間、降りて来なかったよね」
「……まぁな」
「楽しかった?」
「否定はしない」
「そ。じゃあやっぱり、カインはバルバリシアのことが『すき』なのね」
 だった、という過去形ではなく。
 見透かされた、とカインは苦笑いをこぼした。
 ゆびさきから放たれる石化の魔術を物ともせず、槍を握りしめた手が固くなっていこうとも真っ逆さまに女の胸めがけて突っ込んでいった姿を彼女は見ていたのだ。四天王ただ一人の女であった彼女が、その心の臓を貫かれる刹那に浮かべた口元の笑みを。どこかカインとの空中戦を楽しみながらも散っていった女の顔を。
 そして鋭い槍の穂先で躊躇のひとかけらすら持たない終劇を与え、彼女の柔肌を切り裂き布切れ一枚残さず消し去り、魔女の物語を幕引いた男の 満ち足りた横顔を。
「……ヤツと戦っている間は、俺は自分の限界など軽く超えられた。もっと高く、もっと先へ……どこまでも跳べるような感覚だった」
 ゾットの塔でも、バブイルの巨人でも。
 空の覇者を謳うあの女の元へ辿り着くこと、それは己の持ちうる力全てを出し切った尚先のこと。呼吸を奪うほどの天空へと飛ばなければ──届かない。
「見えなくなるくらいまでぴょーんって跳んでたもんね」
 だだっ広いあの空間に広がる虚空全てを戦場として駆け回った。トルネドの嵐をかい潜り、弱まった風刃に足を乗せ遥か高みへと上昇していく。石化した兜が砕け散っても尚跳躍をやめなかったカインの胸の内を初めて聞いたリディアは、大きな大きな緑の丸い瞳を三日月の形に細めた。
 それは思慕ではない。
 慈しみでも畏れでもない。
「あの女は……俺の空だったのかもしれない」
 彼は手にした煌めく重たい槍に視線を落とした。空を望み、空に焦がれ、空を愛した男にとって空を支配した魔女は雲の上をさらにゆく、世界で一番高い空であったのだ。


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