Aria


Caution!
輪をかけて悲惨/陰鬱なお話が多いです。R18を含まないものもありますが、とりあえず全編そんな感じを匂わせているのでR18でお願いします。苦手なかたはブラウザバック。




魔笛(ゴルベーザとカイン/カイン→ローザ)


 焼け付く、瞳である。憤怒と悲哀に染め抜かれた深紅の宝石が如き一対の瞳がカインを見つめていた。
 殺せ、と命じられた。
 それは出来ぬと答えてしまった己の間抜けさには反吐が出るが、生憎嘘で塗り固めた仮初めの忠誠ほど分かりやすいものはない。
 かつての主人は変わり果てた。残り僅かな最後の正気すら喪ってしまったのやもしれない。それを失った後に残るのは、ゴルベーザという名前を持つだけの狂気である。 何故この男の元へ戻ってきてしまったのかは自分でもハッキリとは分からなかったが、こうとなっていればカインは自らの判断は間違いではなかったのだとどこか確信していた。
 やがて襲いくる暴力の嵐を恐れようとももう遅い。あの狂気の矛先が世界のすべてへと向かってしまう前に、カインの愛するものたちがかなしみに暮れるよりも先に、どうにかこの男の狂気で彩られたこころが救われますように。
 手段は浮かばぬ。ゴルベーザを正気に引き戻せる度量が自分にあるとも思えやしない。全てが手遅れなのやも、しれぬ。
 それでもカインは賭けていた。己が魂を犠牲とし、それが穢される未来が待ち構えていようとも最早取るに足らぬ些事だ。
「恐れながらゴルベーザ様」
 カインが連れてこられたのは狭い塔の一室であった。バブイル、或いはバベルの塔とも呼ばれるこの無機質な塔は世界を破滅へと誘う。破壊せねばすべてが失われるが、今のカインにはこの禍々しいタワーを木っ端微塵にする手立てはなかった。
 鎧を剥ぎ取られ、全裸のままカインは新たな主人に向き合った。
 恐れるな。
 自らを鼓舞する言葉を慰みのようにかけようと喉の奥から絞り出す声から震えは零れ落ちてはくれなどしない。
「このカイン、身も心も既にゴルベーザ様のものであります。…どうか、貴方のご満足行く程、望がままにお使いください」
 その言葉が意味する未来が想像を絶する恐怖であろうが、過去の選択を後悔することとなろうが、最早全てが遅いのだ。セシルとは、愛するひとたちとはもう会えないやもしれない。体と心を壊され、魂をも犯されることも覚悟していた。されどカインの悲愴なる決意知る者は未だおらぬ。
 ゴルベーザの長く大きな手指がカインの首筋へと触れる。少しばかりの高揚感にも似た恐怖、失われる矜持への郷愁。
 どうかこの犠牲で、彼らの笑う世界が訪れますように。

「…愛していたぞ、ローザ」

 ひゅう、と喉から細い息と共に漏れ出た言葉を受け取る者はもう、どこにもいなかった。



復讐の炎(ゴルベーザとカイン)*


 悲鳴にも近い嬌声が上がった。
 男娼の経験などつい半年前まではあるはずもなかったが、今となっては城下街の娼婦顔負けの姿であろう。屈強とした男の上に跨り、天井から吊るされた手枷をジャラジャラと鳴らしながら腰を振る。下から突き上げられる律動によって本来排出にのみ使われる器官が軋み、受け入れる側のことなど考えられていない暴力的な刺激が止めどなく脳天を揺らしてくる。
「あ、ああっ…」
 たっぷりと媚薬を塗り込められた身体は火照り、経口でも与えられた蜜はじくじくとカインの意志と関係なく否応無しにゴルベーザの強姦じみた行為に性的興奮を覚えさせる。十分に慣らされることなく力づくでねじ込まれた熱い雄に叫び声を上げど、カイン自身のそれも挿入されていく熱源に伴い強烈な快感に反応していった。きつく締め付ける下肢の筋肉を緩めれば痛みは軽くなれど、快感の波に押し流され正気を失う恐怖が待ち構えている。
 痛みの中で足掻き、不規則に揺らされる体は徐々に行為への『気持ち良さ』を脳に届けてくるものだから仕方がない。
「ん…ッ、うあ、あ…」
「声を抑えるな。啼け」
「ッ…!」
 その命令を与える男はカインの知らない男であった。
 ギリギリと歯を食いしばって声を抑える竜騎士を軽く弄び、半分ほどしか身体に埋め込まれていなかった昂りを一気に突き上げ、男にしては細長い胴体を貫いた。「あぁあッ…ああ、ああぁ!」逃れられぬよう腰を大きな手でガッチリと固定されてしまっているカインは、ただ身を真っ二つに割られてしまう錯覚の中で正気を保つために必死になる。頭を使え!バロン憲法、ファブール法、ミシディアの魔法律、竜騎士の掟。
 頭に浮かぶ世界中の法律を並べ立てようとしたが、そんな馬鹿げた眠け覚ましでは狂気の渦から抜け出すことはできない。
「まるで売春婦のような醜態だな、カイン」
「ゴルベーザ、さ ま」
 偽りの主人へと 偽りの愛の言葉を。
 その破壊衝動が収まるまで、子供の癇癪に似た欲望が突き動かすままの行為が終わるまで。正気の在り処を探りながらカインは耐え続けなければならない。
 内に埋め込まれた逞しい雄がひときわぶるぶると震えるような感覚と共に、揺すられた瞬間に内壁のひどく感じる部分が強く圧迫される。声にならぬ叫び声をカインは再びあげた。最早何度目の夜を迎えたか、抑(そもそも)の話、狭い密室の中では昼夜の違いもわからない。気まぐれのように吊られる囚人を弄ぶ悪魔の如き男は幾度となくカインの内に精を放ち、達すれば達するほどに狂気を増していく変態的行為を強要する仮初めの主に思惑を探られぬよう夜毎に哀れな竜騎士は嘶(いなな)くのだ。
 遊戯はまだ始まったばかりだ。
 吐精したばかりだというのに胎に収められた雄は再び大きさを増してゆく。この道を選択したのは他ならぬカイン自身である。故に後悔してはならず、選択を誤ってはないのだが、それでも胸中に渡来する堕落への誘惑は止むことがない。
 全てを諦めるくらいなら死んでしまったほうがマシだ。
 舌を噛み切れば未だ男としての矜持のいくつかを残したまま死ねるのだ。それがどれほど甘美な誘惑であることか、或いは完全にゴルベーザを操る狂気の主人に堕落させられてしまえば、だ。考えることを全て放棄し、この享楽の波に飲まれてしまえばいい。
 さすれば、
 さすれば
「セシ、ル…」
 現実を投げ出し思考に惚けていたカインの首を鋭い爪を備えた指が締め上げる。首を絞められ、肺が酸素を求めて渇望するのと同じ鼓動で尻に穿たれた雄を締め上げ、痛みと快感がないまぜとなる。
 選択をいずれ後悔することを覚悟の上で闇のクリスタルを手土産に乗り込んでからどれだけの日付が過ぎ去ったのか。最初の数日間で胃袋を含めからだの中を空っぽにさせられた記憶は残っている。ぷつりと喉の薄い皮が切れ、かたちのよい綺麗な丸い粒となって血液が浮かび上がる。首をがっしりと締め上げられるほどに、力が入る下肢が抱えこんだ陰茎の脈打つ音が全身を跳ね回る。
 甘い蜜と濃い精液の臭いが充満した狂気の空間で、再び最奥を尽き抜かれた男の枯れるほどのはっきりとした悲鳴が虚しく響いた。



スケープ・ゴートに魔女の口付けを(カインとバルバリシア/ゴルベーザ×カイン)


「無様だこと」
 女は見下ろしていた。
 まるでこの閉ざされた塔は囚われの姫が魔王に飼われる地獄の檻。魔王の孤独を知った姫はいつの日か王子が白馬に跨り颯爽と現れ助けてくれることを信じ、悪夢に苛まれる魔王を相手に夜枷を甘んじる。歯を食いしばり、からだを犯されるとも魂だけは渡すまいと可愛らしく抵抗する姫の気高き心はあとどれほど正気を保っていられることか。或いはもう既に狂気に犯されたか。
 どちらにせよ、女にとっては関係のないことであった。金色の髪の毛を靡かせる背の高い魔女はさしずめ魔王の愛人になれなかった哀れな美女。はるか遠い過去に聞かされたお伽話の登場人物に当てはめるとしたら、バルバリシアは自らのことながら的を得ている、と少しばかり笑っていた。
「…ゴルベーザ、さまは」
「此の期に及んでもまだ他人の心配?そろそろお前は自分の身を案じる方がいい」
「お前が俺を心配するとは、な。そんなにお前から見た俺は無様か」
「勿論。あのお方は最早以前のゴルベーザ様とは違う。お前の命など取るに足らぬ、その心の一欠片すら残さず蹂躙する気よ」
 そんなことは分かっている。不機嫌を隠さずにカインはがらがらに干上がった声で吐き捨てた。全身を襲う痛みは止むことなく、冷たく乾いた無機質な床に投げ出された手足の指先まで凍えきった彼は既に己を諦めていた。
「…それで、ゴルベーザ様は。俺はどれだけ気絶していた?」
 随分手酷く犯された記憶はある。凶悪な顔をしたゴルベーザの姿をした狂気そのものに、四肢を拘束されただただ陵辱され続けたことはカインも覚えていた。
 快感よりも痛みの方が強いその行為をひたすら耐える日々ではあるが、バルバリシアの言うとおりそろそろ案じるべきはかつての主人ではなくカイン自身であるやもしれない。
 食事を与えることもない。水を浴びることはできるが残念なことにカインには水浴び場まで身体を動かしていく力すら残されていなかった。たまにこうして憐れみとともに様子を見に来る四天王の面々に世話を焼かれているのが現実だ。スカルミリョーネが持ってくる食べ物は腐敗し食えたものではないが、少なくともルビカンテやバルバリシアが持ってくる回復役の類は有難い救援物資だ。僅かばかりではあるが、エリクサーでも飲んでいれば少なくとも餓死することはない。
「三刻ほど、よ。お前の目が覚めたらゴルベーザ様に知らせるよう仰せつかっているわ」
「…水くらい浴びさせてくれ。気持ち悪くて敵わん」
「好きにすればいい。少しなら待ってあげるわ」
 そうではなくて。
 カインはじろりと自らを見下ろし続ける女を睨んだ。
「…バルバリシア」
「言ったでしょう?一人で立てぬほどのお前がなぜ、まだゴルベーザ様を救おうとするの」
 せめてこの身を滅ぼすまでは。
 かつてのゴルベーザがカインに酷く執着していたのだ、未だあの魔王に僅かでも以前と同じ心が、魂が残っているのであらばカインを嬲り殺すようなことはない…はずだ。あの魔王の世界への怒りが爆発する前にその憤怒をこの身を投げ出すことで、慰みものとなることでゴルベーザが世界を破壊するカウントダウンを遅らせられるのならば。
「お前には…きっと分からんさ、バルバリシア」
「…」
 女はその場にしゃがみ込み、弛緩したカインの身体を軽々と持ち上げた。
 竜騎士という身である以上、そこらの人間の兵士よりもしっかりとした体つきであることは間違いない。だがこの塔に来てから、否、ゾットの塔に連れられてから随分と痩せ衰えた。一度めの洗脳が解かれたのちもゴルベーザの魔力に苛まされ続けていたというのだ、セシルどもと行動していたときにも大して飲み食いはしていなかったのだろう。
 背骨と肋骨の浮き上がった男は「別にあの方のためだけじゃないさ」と呟いた。 「ゴルベーザ様をセシルに殺される訳にはいかんが、セシルを殺すこともあってはならん」
「…あのセシルという男、お前からローザを奪ったのだろう?」
「奪われた訳じゃない。ローザだって、俺ではなくセシルを愛した」
「じゃかなぜお前はそのセシルの命すら守ろうとするの」
 簡単なことさ、とカインは微笑んだ。
 バルバリシアにしては優しく体を床に横たえてやると、センサーに手を翳した。途端に天井のスプリンクラーから冷水が大量に降り注ぎ、哀れな竜騎士だった男の冷え切った体をさらに冷やした。女はそっとカインの体を横に向けてやると、長い爪で傷つけてしまわぬようそっと尻の割れ目に指を沿わせ、散々犯された箇所を洗い始めた。
 ドロリとした主人の精液がこぼれ落ち、同時に鮮血も流れ出づる。食べ物を受け付けなくなってからというものの、彼のこの部位は男性器を捻じ込まれ犯されるためだけの箇所と成り果てたのだ。
 柔らかな女の指先が内壁に擦れるたびにカインは喉の奥から引きつった声をあげる。毎夜女のように、春を売る娼婦のように嬌声をあげる彼がかつては軍事国家バロンが誇る騎士であったと言って誰が信じるであろうか。可哀想に、とバルバリシアは純粋に彼を哀れんだ。
「…セシルは、ローザが 愛した。俺が愛したローザの愛する男だ、あれが死ねば ローザが悲しむ」
「お前が身を犠牲にする価値があるとは思えないわ」
「……セシル は」
 続いて、艶の失われたプラチナブロンドを女は丁寧に洗い始める。悔しいことながらこの男の髪の毛はバルバリシアが唯一負けを素直に認める部分である。今こそバサバサと傷んではいるが、ゾットで戦った際に中空に舞うそれが己の風に舞う金糸よりも疑いなく美しかったことをバルバリシアは知っていた。
 せめてその髪だ、と彼女はことあるごとに丁寧に洗ってやる。
「セシルは 俺の友だ」
「お前よりもあの男はローザを選んだというのに。もう諦めなさい、カイン。この塔から逃げ出す術はない。だがお前が自我を捨てゼムス様の支配を受け入れるのならば…あの方もきっとお前を今のように酷くは扱わないわ」
「…優しいな、バルバリシア」
「お前があまりにも惨めだからよ」
「だとしても、だ。しかし俺はまだ生きている。折れるつもりはない」
「死んでしまえばそれで終わり。人間は脆いのだから、いつまでもお前がゴルベーザ様の慰みものではいられない。…明日か、明後日か。それとも今日か。あのお方の最後の正気が無くなったそのとき、お前は間違いなく死ぬわ」
 今のように手酷く犯されるだけでは済まないであろう。呪縛の冷気によって身体の自由を奪われ、どれほど叫べども止むことない狂気の暴力。首を絞められど、カインが意識を失う寸前には決まってバルバリシアのいうところの『最後の正気』が戻ってくる。
 ゴルベーザはカインを愛した。
 その事実をカイン自身知るからこそ未だ均衡が保たれている。
「例え死のうとも 自分の選択に悔いはない。ゼムスとやらの配下に加わるつもりもないさ」
「…お前の意志がどうあろうとも」
 じゃばじゃばと大量の冷水を浴びたカインの唇は青にも近い紫色であった。ガチガチと歯を鳴らし、痩せ細った身体を抱き込み暖をとろうとする姿は酷く滑稽だ。
 それでもまだこの男は抗おうと強い瞳で言う。
「お前が死ねば、きっとゴルベーザ様は我らと同じくして再び命を吹き込むだろう」
「…ゼムスに命を握られる哀れな配下として、な」
 よく分かっているじゃないの。
 バルバリシアは水を止めて言った。炎を操るルビカンテであれば、この目の前で凍えるちっぽけな人間を暖めてやることができたのであろう。身体をこわされ、心をも犯されるこのスケープ・ゴートに僅かながらの安息を与えることすら今のバルバリシアにはできなかった。
 彼女の巻き起こす旋風も雷鳴も、全てを石に変える指先も誰かを傷つける術だ。
「だから これは賭けだ」
「お前が死に、ゴルベーザ様も死に、セシルがあのお方を殺すのが先か…あの男たちがこの塔に来て、救い出したお前と共に正気を奪い返すが先か。…分が悪すぎる、お前が勝つ予見など何処にも見えやしない賭けよ」
「想像を覆すから賭け事は堪らないんだ、知らないのか?」
「その減らず口、いつまで続くことかしら」
 例えカインが死ぬよりも先にセシルらがここに現れたとしても、ゴルベーザが正気に戻るとは限らない。寧ろセシルがゴルベーザを殺すかゴルベーザがセシルを殺すという最悪の未来の方が易く予想できてしまうのだ。
 カインの言う通り、誰もが予想するこの賭けで彼が勝つのであればそれは大変結構なことである。どの道セシルらがこのバブイルに進入した時点で戦わねばならぬバルバリシアをはじめとする四天王らに賭けの行く末を見守ることはできない。
「…俺は死なない」
 カインは再び震える声でそう言った。
 その姿が余りにも哀れで堪らず、バルバリシアは横たえられた男の痩せぎすを大きな腕で抱き込んだ。冷え切った身体から伝わる体温が、冷たい水粒が、カタカタと小刻みに震える恐怖の全てが女の元に伝わってくる。
 可哀想に。再び心から湧いてきたその言葉をバルバリシアは飲み込んでただ抱き込んだ。
「…我ら四天王はセシルを殺す気で戦うわ」
「当然だ。アンタ達に負けるようなら、ゴルベーザの正気を取り戻すことなどそれこそ夢想だ」
「髪の毛のように細い希望ね」
「髪ほどあれば充分だ」
「何がお前を死に掻き立てるというの。私には理解できないわ」
 身体が乾くよりも先に再びカインは犯されることであろう。襲い来る悍(おぞ)ましき絶望に耐え続け、来ぬやもしれぬ同胞を待ち続ける孤独に替え得る魂がこのちっぽけな身体のどこに存在するというのか。
「お前は全てを愛してしまったのね」
 そっと身体を離したバルバリシアは隈の濃いカインの目元を優しくなぞった。
 主人を、友を、女を。誰もを救う手立ては霧中にキラリ輝く芥子粒のひかり。この男はその儚いひかりのために己の身体と心を捨てたのだ。
 ゴルベーザを呼ばねばならぬ。貴方様の玩具が目覚めたと。身を清め貴方をお待ちしておりますと。カインに死を、近づけなくばならない。
 願わくば彼方の未来にて、この男に僅かなりとも幸がありますように。命失うことなく、爪垢が如き勝算のもとにセシルが、ローザが、その仲間達がバルバリシアたち四天王の身を打ち砕きますように。
 叶うならば二度目の生もカインの手により幕引かれますように。愛するものたちの元へ迎えられたバロンの竜騎士によってこの命を終われますように。
 魔女は願った。
 自らの死は厭わぬ。ただ主人の正気を、一度でも愛してしまったこの男の小さな願いを、祈りを、魔女は見届けることのない未来で叶いますようにと美しい切れ長の目尻にただ一粒の涙を浮かべてうな垂れた。



死を望む円卓の騎士(カインと四天王)


 不愉快ではあるが不快ではない笑い声が耳に響いたのは果たしてどれだけぶりのことであろうか。
 例えその声の主が青い亀の姿をした珍妙な魔物であろうとも、笑い声であることに違いはない。甲羅をひっくり返して笑い転げるほどの声は腹の底から奇妙奇天烈に対して笑っているのであるが、いい加減になさいと吠えたバルバリシアによって思い切り蹴飛ばされた。
「下品な笑い声ずっとあげてるんじゃないわよ」
「だが…笑いたくなるカイナッツォの気持ちも理解できる」
「笑いたくなることには同意ね。あの亀の笑い方が汚いのが悪いだけ」
「…お前たち、人の体を見てそんなに笑うな」
 また一通り笑い声が上がった。
 薄汚いアンデッドの男もフシュルルルル…という不気味な声を上げていた。そんなに俺は貧相な体をしているのか。カインは大きなため息をつき、重たい上体をなんとか起こした。
「飲みな、とっておきのエリクサーよ」
 女が投げてきた小瓶の中身は虹色の液体。どこで毎回高価な回復薬を手に入れてくるのかと思っていたが、バブイルの塔でバルナバが使っていた実験室にたんと置いてあったらしい。念のため全て奪っておいたというルビカンテを横目にカインはそれを一気に飲み干すが、久方ぶりの水分に胃袋が思い切り冷やされ思わず吐瀉してしまいたい悪寒を押さえ込んだ。
 纏ってきた鎧の類はそっくりそのまま返された。返されたというよりもバルバリシアが保管しておいてくれたのだが、そのインナーウェアに足を通したところサイズが合わなくなっていたのだ。太ったのではなく、むしろ随分と痩せてしまったのだ。もともと竜騎士という職業柄、聖騎士となったセシルのように全身に筋肉をつけていればいい訳ではない。かといってエブラーナが忍のように痩せぎすであればいい訳もない。飛翔の際に必要な筋肉はどんな騎士らよりも強くあるべきであったし、それ以外の部位に余分な筋肉はむしろ命取りであった。
 よってちぐはぐな身体をしていたのは以前からであはるが、輪をかけてちぐはぐだとカイナッツォが笑い始めたのだ。
 この青亀はセシルが暗黒騎士であり、カインが竜騎士としてバロンに仕えていた頃の姿を知っていた。話を聞くに、それなりの長い期間先代のバロン王を殺しなり変わっていたらしいが、その頃はむしろセシルの方が痩せ型だったのだ。命を使い敵を討つ暗黒騎士が今となっては筋肉達磨の聖騎士であり、不均一ながら美しいバランスを保っていた竜騎士は惨めな隷属のような身だ。笑い続ける亀を再びバルバリシアが蹴っ飛ばした。
「…セシルたちは?」
「直に来るであろうな。巨人の防衛システムが全て作動しておる」
 どうやらたった一歩ではあるが、賭けはカインの勝ちに傾いたようだ。
 既に終末の巨人は目覚めた。
 八つの宝玉の力により永き眠りから目覚めたこの機械仕掛けの巨人は世界を焼け野原とするのであろう。分厚い壁によって外界と遮断された巨人の内部からは外の様子を知ることはできない。だが、セシルらが突入してきたというのであれば外はそれなりの『惨事』となっていることであろう。
「ようやく、か」
 未だ賭けは始まったばかりだ。これから先、ゴルベーザを正気に引きずり戻すという面倒極まりない難関が待ち構えている。カインを囲みあざ笑いながらも鎧を着るのを手伝う四天王の面々もまた、命をこの世界に呼び戻した主人ゼムスがためにセシルと一戦交えに行くのだ。カインの望む世界はセシルに生を、四天王に死をもたらす。それでも良いと彼らは笑い、頷き、死出の旅を快く諾とした。
 それで主人の正気が戻るなら。
 揃って皆はそう告げた。
 転がりながらも不愉快な笑い声をあげるこの青亀も、ケタケタと土塊を飛ばして小さく笑い続ける不死者も、風の魔女も炎の魔人も死を受け入れると言ったのだ。勿論セシルらを相手に手を抜くつもりは毛頭ない。全ての力を出しきり、必ず殺すという気概で戦うと彼らは言った。そんな四天王らを破ってこそ、ゴルベーザを救う可能性は見出されるのだ。
「あちらにはエブラーナの忍がいるはずだろう?どうして全ての警報を鳴らしていくのかしら」
「最初から見つかる気だろう。隠れたところでどうしようもない」
 エブラーナの忍、と言われカインは脳裏にやかましい銀髪の『エドワード王子』を描いた。巨人は止まらぬ。月に住む悪しき者どもが世界を蹂躙し、焼け野原とするために建造した最後の兵器。バベルの塔から生み出される巨人とはよく言ったものではある。それを止めるために乗り込んできた輩がコソコソと侵入するはずもない。雄叫びと共に乗り込んできたことであろう。
 終わりは 近いのだ。
「兜は…これか」
 傷だらけの竜鎧はバロンを出奔した時から身につけていたものだ。そろそろ新調しなければならないと思ってはいるものの、生憎地底世界でドワーフが作るものも、エブラーナの忍が好む外套もカインには合わない。ただの鎧では重すぎて飛べやしない。上等な革鎧の上に必要最低限の硬金属を纏えばいいだけだ。
 比翼の片方が欠け落ち、装飾品に大きなヒビの入った兜は無様である。それでも兜が有るのと無いのでは大きく違う。ルビカンテからそれを受け取ると、バサバサと傷んだ金を靡かせて表情を全て覆い隠した。次いで、じっとしてな、とバルバリシアが伸ばした指先に浮かぶ紫の紅をすでに青い唇に押し当て、薄く乾燥した唇には不自然な紫が乗せられていく。爪紅まで塗っている時間はないが、少なくともこれで真っ青な唇をしたままセシルらの前に再登場、ということにはならずに済む。
 虚勢を張っていることくらい知っていた。
 体が動かずとも関係はない。どれほど惨めな思いをしていようとも、セシルの前では常に対等でありたいと言ったのはかつてのカインだ。
「精々ジャンプして足を踏み外さないようにしな」
「…しかし、本当に良いのか」
「アンタたちは本気で戦えばいい。…それこそ殺す気でな。あいつらは強い。なにせバロンが誇る騎士と白魔道士、忍頭兼任のエブラーナの王子様にミストの召喚士ときた。本気で戦わなきゃ、すぐに殺されるぞ」
「随分と信用しているようね」
「そりゃ、幼馴染たちにやかましいお仲間どもだからな」
「バカな男」
 バルバリシアは指に残った紅を己の唇に押し当てると、ふわりと中空に浮き上がった。カインよりも高い上背が軽々と浮上し、蹴っ飛ばして転がっていた青亀を巻き起こした風によってひっくり返してやる。ルビカンテは炎を纏うマントから小さな炎を幾つか作り出すと、スカルミリョーネに目配せした。彼はこくりと小さく頷き、黄色の襤褸から草の葉や土塊といったものを少しばかり生み出す。それらをバルバリシアが華麗に舞い上げ、炎の魔人が産み出したそれらが腐葉土に灯る。
 葬送の灯火にしたつもりか。魔物たちでありながらも人間臭すぎるその行為にカインは小さく笑う。左手に握りしめる槍はいずれ四天王の切っ先に向かう。郷愁を呼び起こしたルビカンテの炎はエッジを襲い、カッカッカと笑うカイナッツォが轟き起こすつなみは全てを飲み込む。スカルミリョーネの持つ毒爪は掠っただけで命を奪われる。魔女が呼ぶかみなりは 身を焼く。
「我らが再び集うは地獄の果てだ」
 ルビカンテの芝居がかった低い声が轟いた。
 炎の魔人が言う『我ら』の中にはきっとカインも含まれていることであろう。この先の戦いで誰が死のうとも世界は止まらないのだ。その屍を越え、青き星から破滅を退ける救世主となるか人間の身でありながら悪しき毒虫に加担し世界を滅ぼす大罪人となるか。なんであれロクな死に方はしないであろうとカインは笑った。
「その意見に賛成だ。…だがその前に見(まみ)えよう、敵として」
「それもまた一興。地獄への手向けとしてくれよう」
 生か、死か。
 救済か、滅亡か。
 近づいてくるファム・ファタルたちの気配を感じながら、焦げ付いた臭いの中カインはいっときの同胞(はらから)たちに背を向けた。



地獄の復讐が我が心にもえ(ゴルベーザとカイン/ラスメン)


「あなたが下さった寝物語の一つたりとも このカイン、忘れたことは御座いません」
 美しく長い髪がふわりと無重力の檻に浮かび上がった。
 ゴルベーザという名を持っていた主人の姿はもう、どこにも見当たらない。不気味に光る兜の中身はカインが一度でも心からの服従を誓った男ではない。悪の思念に飲み込まれ、破壊衝動をはじめとする己の欲望にただ忠実に従うだけの獣と化した狂人である。竜騎士の背後で仲間の叫ぶ声が聞こえる。離れろ、だとか危ない、だとか。きっとそんな類の言葉であろう。
 プラチナブロンドが視界を覆い、身体ごと浮き上がったカインはやがて自らを押しつぶそうとするであろういっときの甘き無重力を味わっていた。『魔人ゴルベーザ』が指を動かせばこの微睡みは全てを破壊する凶悪な超重力となりて、カインを押しつぶすこととなるだろう。もはやこれまで。その手を以ってしてゼムスが従えた『ゴルベーザ四天王』を屠った以上カインはこの男にとっては用済みであった。
「玩具風情が随分と勝手をしてくれる」
「…ゴルベーザ様。あなたに拾われねば喪っていたこの命、あなたが為に存分に使わせていただきます」
「あくまでこの男に執心するか。ならば貴様の愛する『私』によって死ぬがいい!」
「   」
 馬鹿め。
 カインの声はバキバキと空間が割れる音でかき消される。俺が、あの男を愛していただと?セシルのひときわ大きく名前を叫ぶ声が聞こえ、カインはそこではじめて身を翻して重力の檻から抜け出そうとした。既に柔らかな金糸を宙に漂わせていた甘い無重力は全てを葬り去る過重力へ。
 幼い少年が父親と世界中を旅して見聞きした無限にものぼる夢幻の寝物語。
 しょっちゅう雑草を食べては腹を下して母親に優しく笑われた子供のはなし。
 白魔法が使えず救えなかった命を懺悔する少年のはなし。
 愛する弟を産み落とした愛する母親が命を失い、哀れな毒虫と成り果てた魔人のはなし。
 眠れぬ夜は決まってそんな話を聞かされた。バロンの狭い寝台で、ゾットの塔に広がる無機質な床の上で、褥(しとね)の中で子供のように微睡んだ口調で親友と同じ白銀の雪原色をした髪を持つ魔人が紡ぐ彼方の話を聴くのがカインは好きだった。彼の父もまた世界中を旅した竜騎士であったが、ゴルベーザの語る世界は今の一度まで聞いたことのないそれはもう美しくも悲しい世界であった。
「お前は…何もわかってはいない」
 力の入らぬ全身に鞭打ち足に力を込める。四天王との激しい戦いによって生み出された瓦礫の破片が続々と宙に浮かび、凶器として向かってこようとする。「ゼムスよ」と、カインは思い切り中空を蹴りつけて魔人の重力空間から脱出して見せた。長い長いプラチナブロンドが翻り、しなやかなな背中が弧を描きくるくると回転して着地する姿はまるで舞を踊る踊り子のそれだ。
 その寝物語は全てが罪の告白であった。
 夜毎に魘(うな)されるカインの耳元で囁いたあの魔人にどのような意図があったのかは分からない。当時はそれほどゼムスにより意識を奪われていなかった時期であったが、それでもゴルベーザ自身の自我が失われる日もあった。その度にひどく痛めつけられ、陵辱されたものであるが『発作』が終わればやがて傷つけられたカインに腕枕をしてやり、眠りにつくまで穏やかな物語を聞かせてくれた。
 その慰めの寝物語一片たりとも、一編たりとも忘れたことはなかった。
 愛した弟はもはや生きていまい。生きていたとしても、それを捨てたのはこの私であると。幼い頃に父親を喪ったカインにとって、同じく幼い頃に父を奪われた彼の話は同情するに余りある話だったのだ。赤ん坊の弟を一人抱えて生きて行くことができなかったと言われても仕方あるまい。自身に流れる血の意味も知らず、死にゆく父親を救うこともできず芽生えた悪意によって己の身を蝕まれ毒虫となった哀れな子。
「俺はあの男を愛したことなどない」
 その男に抱いていた感情を愛だというならばあまりにもそれは滑稽で悲惨な物語であっただろう。
 バリバリと耳を劈(つんざ)く瓦礫の音がガランとした巨人の内部に響き渡った。ふわりと着地してみせたカインの足は地面に着くことはない。ローザが掛けた補助魔法によって仲間の身体は中空に浮き上がり、ゴルベーザが操る過重力と無重力に対抗しようというのだ。エッジが何か言いたげな様子でカインの横に並び、セシルは意図的に目を合わせずに反対側に並んだ。今は疑心を捨て置くべきだと叫んだのはセシルだ。「ただ…哀れなだけだ」とカインは一度だけ目を閉じてから再び抜け殻となった男を見上げる。
「時間を稼げ、されば私が奴の術を解く!」
 月の民たる老人が背後で叫ぶ。まったく予想外のキーマンであったが、賭けは 勝ちだ。
 カインの一人勝ちとなったところで報酬を巻き上げるべき四天王はもはやどこにもいない。虚しい勝利を得たに等しい竜騎士はまっすぐと怒り煮え渡る毒虫を睨みつけた。
「目覚めてもらうぞ、いつまでも夢物語の中で眠られていては困る」
「後できっちり説明してもらうぜカイン!」
「援護は任せて!後で『ちゃんと』『みんなに』『全部』言ってもらうからね!」
「カイン…私は、あなたを信じるわ」
「…僕も お前を信じる。あのは僕らが最初に知ったゴルベーザでは…もう、ないんだな」
 そういうことだ。カインは一歩足を引き跳躍の姿勢をとる。
「覚悟しろ。必ずお前をひきずり出してやる」
「いくぜ!」
 忍の王子が雄叫びとともに火炎を現出させる。巻き起こる爆煙の中カインは飛び上がり、セシルが手にした盾で煙を封じ込めながらまっすぐ突っ込んでゆく。相対する魔人の手が指揮者のように軽やかに動き、カインを犯したその右手が瓦礫を重力の嵐の中から命を奪う為に方向を指し示す。寝台の上で愛おしく髪の毛を梳いた左手は新たな瓦礫を呼び起こし、突撃してきたセシルに向かって解き放つ。
 目覚めよ。
 月の老人フースーヤがわずかに声を上げた。
 ギョロリとしたモノアイが甲冑の中で蠢き、ざわつく気配が月の術式が発動し始めたことを示した。目覚めよ、と老人は謳う。
「…目覚めろ」
 カインはくるくると槍を上空で何度か回転させ、重力の渦を踏み台としてあっという間に辿り着いた巨人の天井に足を引っ掛けた。宙吊りの状態のまま彼は呟く。犯され続けた身体に残る力はあと僅かだ。目を閉じて体を休めてしまえばしばらく起き上がることも難いだろう。眠ってしまいたいという身体の素直な欲望を無理やり押しのけ、四天王との死闘でヒビの入った甲冑の翼をポッキリ根元からへし折ると吸収され続ける瓦礫の中に投げつけてやる。
 目覚めろ。
 エッジの巨大な手裏剣が全て弾き飛ばされ、リディアの起こした爆煙も魔人からすれば蝋燭の灯火も同然。圧倒的な氷魔法で反撃され、慌ててローザが魔法障壁を貼る。セシルが重たい盾で殴り付けようとも、切れ味抜群の忍刀が振り回されようともびくともしないゴルベーザの姿を見、カインはどこか安心した。
「……俺の手で 終わらせてやる」
 膝を限界まで曲げ、槍を持ち直す。この一撃で槍が砕けようとも構いはしない。甲冑が全て割れてしまおうが構わぬ。フースーヤの言う所の『時間稼ぎ』になるのであれば、ゴルベーザを『救う』ことができるのであれば、『賭け』に完勝できるというならば安い犠牲だ。
 再びエッジの放った火遁の煙がもうもうと立ち込める中、ひときわ輝く黒い甲冑に狙いを定めたカインは回転を加えるために身体を捻る。頭に血が昇る感覚は嫌いではない。ぎゅっと更にひときわ身を縮め、黒煙が鎮まり始めた頃 カインは足の裏で天井を蹴った。
「目覚めろ、セオドール!」
 雄叫びは轟音にかき消され、迫り来る瓦礫の応酬に臆することなく竜騎士が放った捨て身の一撃は真っ逆さまに落ちていった先に待つ魔人の甲冑を粉砕した。


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