予定調和とピリオド



ゼロの距離



 きっかけは本当に些細なことだ。
 クラサメが0組の指揮隊長に任命されるよりも何年か、それこそ一年か二年程前の出来事だった。
 その日はルブルム地方にしては珍しく、雪がちらつく寒い日だった。無論ミリテスのように豪雪が吹き荒れる訳でもなければ、雪遊びに興じられる程でもなく、ただ雪が舞いテラスのベンチが薄らと白くなる程度。
 外ではお情け程度のそんな雪にはしゃぐ生徒がいるとも知らず、カヅサは自分の研究室に引きこもって拉致、もとい協力してもらう為に連れて来た生徒を眠らせていた。今頃きっとクラサメは朱雀領に入り込んだ皇国兵の掃討任務を遂行しているだろうし、エミナは相も変わらず好き勝手院内を徘徊しているはずだ。そんなことをぼんやりと考えながら、薬の効果が薄れ目をゆっくりと開ける生徒を見ていた。
 そう、それはただ凍えるような寒さであっただけで、他は何ら過ぎ去って来た日常と変わらなかったたった一日の出来事。



 扉の外は吹雪。
 積もることはないだろうし、むしろ数分もすれば止んでしまうだろう。
「……寒いなぁ」
 薬の完全に切れた生徒を教室まで送るついでにカヅサは噴水広場に出て来ていた。白衣のポケットに手を突っ込み、鉛色の空を見上げる。別段変わりはないように見えるが、白い粉が風に紛れて通り過ぎていくのが見える。
 先程5組の教室で時計が示していた時間はクラサメの帰還予定時刻に程近かった。ならばついでに、頭に粉雪を引っ付けて任務から戻ってくるであろう親友を迎えてやるのも悪くないはずだ。気まぐれとはいえボクが他人を待つなんて珍しい、そもそもお出迎えなんて初めてじゃないか、一体クラサメ君はどんな顔をするだろうと彼は頬の筋肉をたっぷりと緩ませる。
「クポ? カヅサがこんなところにいるなんて珍しいクポ!」
 近づいて来たのは水色の衣を纏った1組モーグリだ。雪の中を飛んで他の担当モーグリと遊んでいたようだったが、寒くなってエントランスから温かな空気が入り込んでくる定位置に戻って来たように見える。遠くを見てみれば同じように体を震わせながら飛空挺発着所までぱたぱた飛んでいく4組モーグリの後ろ姿。
 そんな可愛らしい生物をカヅサは白衣の中に導き、ぎゅっと抱きしめたまましゃがみ込む。カヅサの体が温かかったのかモーグリはとても上機嫌にボンボンを揺らした。
「こんなところでカヅサは何をしてるクポ? 実験は終わったクポ?」
「今日の分はね。今は……そうだなぁ、待ちぼうけ」
「待ちぼうけ?」
「そう。もうすぐだろう? 皇国兵を散らしに行った部隊が戻ってくるのは」
「そうクポ……あ、クラサメ君クポ? 二人は今でも仲良しで、モグは嬉しいクポ!」
 腕の中で再びボンボンが揺れた。頬に当たってくる柔らかく冷たい感触に目を細めながら、カヅサは微笑んで答える。
「ボクも。今でもまだクラサメ君がボクに構ってくれるなんて奇跡みたいなものさ。だから、今日はボクがお返しにと思ってお出迎え。手続きが終わったらお酒にでも誘おうかとね。まぁ、思いついたのはついさっきなんだけどね」
「今? 相変わらずカヅサは几帳面に見えて、適当クポ!」
「それはクラサメ君もだよ、モーグリ君」
 もふもふと顎で白いモーグリの頭をつついてやる。
 そんな他愛もない話に興じているうちにちらつく風雪は弱まり、白んでいた視界も開けてくる。残念クポ、このまま雪合戦ができるほど降ってほしかったとカヅサの白衣の中で身を捩ったモーグリが飛び出し、くるくると回ってボンボンに着地した雪を落とす。それに倣いカヅサは薄らと白んだ頭を手で払い、雪で染みのできた白衣の前をしっかりと閉じてぶるりと身を震わせた。
「クポ! そろそろ時間クポ! せっかくお迎えに行くなら、正面玄関まで行くクポ!」
「えぇっ!? いいよ、ボクはここで……」
「クポポポ! 駄目クポ! カヅサも一緒に行くクポ! 今日は1組の候補生も一緒に任務に参加したクポ、だからモグもお迎えに行くことに今決めたクポ!」
 白い生き物に弱い力で手を引かれ、振りほどこうと思えば造作もないのに振りほどかなかったのはカヅサの意志だ。しかし、モーグリが張り切ると碌なことがないのが常だ。少しばかりの不安を胸に抱えながら、カヅサは寒空の下正面ゲートへ向かって白い息を吐き、歩き始めた。
 その僅かな時間、終始モーグリは上機嫌であったが案の定、そんなカヅサの悪い予感は的中する。
 数十分の後正面ゲートで一人と一匹が迎えたのは寒さで鼻と耳を真っ赤にし、既に待機していた文官に毛布を渡されながらガチガチと歯を鳴らす候補生と朱雀兵だ。雪なんて最低だ! と騒ぐ若い兵士の隣で座り込んだ候補生が同意を示し無言で頷く。しかし、その中にクラサメの姿は見えない。
 話によれば今回は三名の1組候補生が出撃していたらしいが、姿を現したのは朱雀兵と二人の候補生だけだ。補給部隊として回ったはずのもう一名の候補生とその指揮を執っていたクラサメがいない。
「残りはどうしたクポ?」
 状況を把握できておらず立ち尽くすカヅサを横に、モーグリは呑気にそう尋ねた。
「任務は完遂しました。しかし、補給部隊が強襲されて、負傷者が出ています。直に来るとは思いますが…」
「クポ〜! なんてことクポ!」
「幸いクラサメ士官のおかげで大事にはいたりませんでしたが……あぁ、いらっしゃいました」
 若い兵士が扉を開けてやると、凍える風と共に候補生に肩を貸しているクラサメが入ってくる。なぜか呆然と立っているカヅサに目を丸くしたものの、院の方向から駆けて来た1組の隊長であろう男に生徒を引き渡す。しっかりと礼を言っている様子で大した怪我でも無さそうに見える。
「すまないが、傷の手当だけでもしてしまいしたい。軍令部へは一時間後に伺うと伝えてくれ」
「クラサメ、君……」
「負傷者は医務室へ運べ。どうせ軍令部は会議中だ、帰投の報告だけでいい、詳細はそれが終わってからでも構わないだろう」
「了解しました」
 骨を折った兵士がいるから医務室には4組を呼べ、破損した武具は武装研に突き返せ。的確な指示を飛ばし、次々に兵士達は散っていく。本来の部隊長である朱雀の武官も走り去っていくものだから、残ったのは必然的にクラサメのみとなる。
 あまりにもその様子が流れ作業的であり、カヅサは目の前を過ぎ去っていった負傷兵と候補生を見送ることすらできずにただクラサメの姿を見ていた。
 傷の入ったマスクには乾いた血がこびりついている。腕に巻かれて薄らと赤を染み込ませているのは応急で使われたであろう候補生の空色をしたマント。あのモーグリはいつも生徒を出迎えていると言っていたからこのような光景は見慣れていたのであろう。取り乱した様子もなくただ冷静に担当の生徒に付き添っていった。
「……カヅサがいるなんて、珍しいな。雪でも……いや、もう降ってるか」
「あ……うん」
「どうしたんだ?」
「いや……暇だったから。……それよりクラサメ君、怪我……診るよ。研究室においで」
 君は医務室が嫌いだろう、とどこか心此処にあらずといった表情で告げるとクラサメはそれに気付いていないのか、同じように気のない声で「あぁ」とだけ返して背を向けるカヅサについていく。
 ゲートを潜り、再び噴水広場に戻ればまたも雪が舞い始めている。分厚い薄灰の雲によって太陽は隠されてしまい、空が狭く感じられる上に時刻に見当をつけることもできない。
「……雪、久しぶりだな」
「うん」
「院を出発する直前、エミナがはしゃいでいたが」
「うん」
「カヅサ?」
「何でもないよ。早く行こう。外は寒いよ」
 口を開けば中々閉じない友人にしては珍しく、固まりきった表情だ。触らぬ神になんとやらだ、クラサメは肩を並べて歩くのを諦め、わずかに歩調を緩めて彼の後ろをついていくことにする。医務室は確かに苦手な場所であったが消毒するだけに立ち寄るのは何ら問題ない。見かけこそ派手だがカヅサの手を煩わせる程の怪我でもないということだって告げない方がいいだろう。
 クリスタリウムの管理者でもある文官が濡れたまま入ってきた二人を見て顔を歪めたが、真っすぐと研究室へ向かうカヅサの後を追いながら振り返りクラサメが一礼すると呆れたように額に手を当て、首を横に振る。どうやら今回も見逃してもらえるらしい。
「座って」
 カヅサが部屋の隅から救急箱を引きずり出す。言われるがままにクラサメはベッドに腰掛け、止血の為に使っていたカラーマントを解いた。候補生にとってのマントは誇りそのものだ。赤黒く染めてしまったそれを見て、クラサメは悪いことをしてしまったと苦い表情を作った。
 手当の為にと傷ついたマスクを外すと、その口元には相変わらず生々しい火傷の痕。そこに上書きするように擦り傷が走り、躊躇無く袖が切り裂かれてある左腕の肘から先も同じような状態だ。皇国兵のロケット砲を回避するのに失敗したらしく、爆風に煽られて盛大に転倒したらしい。要するに、ただの擦り傷だ。
 向かいにかがみ込みカヅサは傷の具合を見る。
「痛みは?」
「ほとんど、もう」
 部屋の片隅には主不在の蜘蛛の巣。しばらく前にエミナが指摘し、取り払ったはずだったがまた復活したらしい。
「そう。それなら……よかった。本当に、よかったよ」
「別に大した怪我でもないだろう? こんなこと、日常茶飯事だ」
「日常なんかにしてもらったら困るよ。……痕になるかもしれない」
「今更増えたところで、何も変わらないぞ」
「……それ、自虐のつもりかい?笑えないからやめてくれよ」
 一瞬カヅサの手が止まる。
 クラサメが自ら揶揄したのは顔の傷だ。それ以外にも本人曰く『若気の至り』で傷痕は体中にたくさんある。それは自虐の種とするにはいささかブラックだとカヅサは言いたいのだろう。
「単に転んだだけだ。魔法でもう殆ど傷も塞がってる。マスクのおかげで、鼻の頭を擦りむくなんてこともなかっただけマシだろう」
「だから、やめてくれよ」
「さっきからどうした。怒ってるのか?」
「当たり前だろ!」
「ッ! …………痛い」
 消毒液を含ませたガーゼを押しあてていたが、ピンセットの先が触れてしまったらしい。クラサメの端正な顔が歪む。
「あ、ごめん……」
「いや、大丈夫だ」
 気まずい沈黙が室内を包み込む。
 黙々とカヅサは消毒を終え、包帯を左腕に慎重に巻いていく。丁寧すぎるほどの手つきで随分とそれは緩かったが、手当をしてもらっている身で文句を言えるはずがない。口に入らないようそっと顔の傷に消毒液をつけ、白いガーゼで包み込む。些か手厚すぎるような気もしたが、これまた何も言うまい。
「……クラサメ君」
 改まったその言い方に違和感を覚えるが、用の済んだ道具を箱に戻すカヅサの横顔は真剣なものだ。
「どうしたんだ?」
「……ボクは、君を知りたいんだ。ボクの知らない君を教えてほしいんだ」
「……何?」
「お願いだ、教えてほしいんだ。ボクは君の全てを知りたい」
 真新しい包帯を巻かれた左腕を抱きこみ、カヅサは真っすぐにクラサメの顔を見つめた。同じように白いガーゼで覆われた右頬に、すぐ下に小さな切り傷を作った抜けるように透明な緑の瞳。切羽詰まったような瞳をしているのはカヅサだけだ。
「本当にどうした、何かあったのか?」
「何かあったのは君の方じゃないか!こんな怪我をして……」
 そう言われると事態をいくらか把握できたのかクラサメは呆れたように大きくため息を吐き、ぐいとその手を離した。傷が少しばかり痛んだのか、顔をしかめたがそのまま両の手で今にも泣きそうな表情をしているカヅサの頬に添えた。
「いいか、よく聞け」
「……」
「私は朱雀軍の武官だ。兵を率いて前線へ出ることだってある。軍の作戦に参加することもある。皇国兵をこの手で殺すこともある。逆に、殺されそうになることもある。今日はただ転倒しただけだが、次は無いかもしれない」
「……うん」
「だから、いつ死んでもおかしくない。それを『おかしい』とは思わないでほしい」
「それは飛躍しすぎだ」
「飛躍してない。軍人とは、そういうものだろう? 皇国のシドが元帥になって、いつ本格的に戦争に発展したところで何らおかしくない。それは私たちが候補生だった頃から変わらないはずだ」
「それは……そうだけど……」
「前線へ出ることは死を隣にするという意味だ。気を抜けば死ぬ。……11組だったお前は知らないが、こっちは候補生の頃からいつも言われていたさ。武官になって、前線に立つ機会が極端に減ってもそれは変わらない。そのことを理解して私は朱雀の軍監となったつもりだ。お前は違うのか?」
 いつにもなく強い視線を向けられている。その強さに耐えきれなくなり、カヅサは顔を背けようとしたがクラサメの腕は離さない。がっしりと掴まれたまま、目を背けることを封じられた。
 勿論カヅサに覚悟がない訳ではない。訓練生として魔導院にやってきた頃からある程度のことは考えていたが、どれもこれも漠然としたものだ。訓練生から候補生に上がり、クラサメやエミナと親交を深める中、今のようにクラサメが派手に負傷して戻ってくることもあった。当時は気が気でない毎日であったものの、カヅサ自身も演習とはいえ前線に立つ機会は何度かあり、無傷で帰還できた回数の方が少ない。補給部隊として行動中に奇襲を受けたこともある。
 きっと、とカヅサは弱々しく口を開いた。
「ごめんクラサメ君。ボクは……混乱してたみたいだ」
「カヅサ、」
「文官になってから戦場になんて出なくなったからね。武官としての君とはあまり関わらなくなったから、少し……感覚が鈍っていたんだと思う」
「悪いが、今のカヅサが何を考えているかわからない。……よければ、順を追って説明してくれないか?」
 随分取り乱している、とクラサメは首を傾げた。頬に添えていた腕をそっと離すと、カヅサはこくりと頷いて救急箱を机の上に放置してベッドの上にクラサメと並んで腰掛けた。
「任務から戻って来たクラサメ君を出迎えるだなんて、思い返せば一度も無かったから」
「……」
「君が作戦に支援なりともで参加して、戻って来たら負傷していたってことは珍しくないのもわかってる」
 だけど。
 カヅサは思わず膝を抱えてその顔を合間に埋めた。そして寂しげな表情でクラサメの顔を見上げ、弱々しく微笑んだ。
「突然恐ろしくなったんだ。ボクは文官で、君は武官だ。お互いの職務に口出しするようなことはしないつもりだけど、もし……もしボクが知らない間に君が死んでいたらどうしようって」
「それが唐突だと言ってるんだ。そんなの、今までも同じだっただろう」
「だから最初に言ったじゃないか。突然だったって。なんだか……それを突きつけられたような気がしてね。今回は軽い怪我で済んだけど、次は帰ってこないかもしれない。ボクが知らないままに……ボクは、君を忘れてしまうんじゃないかって。だから、なるべくたくさんの君を知りたくて、全部知りたいと思ったのかもしれない」
 基本的に任務の内容には守秘義務が課せられている。同じ部隊の者ならともかく、作戦を遂行する仲間であっても場合によっては口外することを禁じられている場合すらある。それが武官と文官という立場になれば、大まかな任務内容すら語り合うことはない。
 それが『当たり前』のはずだ。例え死を前提とした捨て駒のような任務を与えられていても、文官であるカヅサはそれを知ることはできない。
「そんなことを考えていたのか」
「そんなことってなんだい。ボクはいたって真面目に考えていたんだけどなぁ」
 数分前までの自己分析をしながら慎重に言葉を選び語ると気が抜けたのか、カヅサは顔を上げた。たった僅かな過去のことであるのにやけに第三者的に考えられるのはそれほどまでに発想が突飛なものだったとカヅサ自身でも気付いているからであろう。
「わかってる。真面目だから、そんなことを考える」
 クラサメはそう言ってベッドから立ち上がり、裂けた上着を見ながら「また始末書だ」とうんざりした様子で零す。
「……冷たいね」
「そういう性格だ」
「それを冷たいって言ってるんだよ」
「構ってほしいのか?」
「わからない」
「どっちなんだ」
「どっちでもいいや。なんだかバカらしくなってきた」
「疲れてるなら寝るといい。トンベリを貸ししてやる」
 ひっそりと足元で控えていたトンベリを抱え上げ、カヅサに押し付けてやる。
 渡されるがままに受け取ると、ぎゅうと抱き枕のように冷たい生物を両腕で抱きしめる。トンベリは少しばかり抵抗する仕草を見せていたが、しおらしいカヅサの態度が気になったのかすぐに大人しくなる。
「……ボクは君の全部を知りたかった」
 少し遠い目をしながらカヅサは零した。
「さっきも言っていたな」
「うん。作戦内容なんかよりもずっとずっとその先まで。知りたかった」
 君が今までボクの知らないところで何をしてきたのか、何を感じたのか、どんな人とどんな話をしたのか。どんな想いを抱いていたのか、と。
「……他人である以上それは永久に無理な話だ」
「そうだね。ボクは君にはなれないし、なるつもりもない」
「それはそれで傷つく言い方だな」
「ボクはボクのままで君と接したいだけさ。ボクがクラサメ君にでもなってみてよ、研究はできなくなるし戦場に出ればあっという間に殺されちゃう」
「だろうな。お前はいつもブーツの紐を絡ませては転んでいたな。戦う以前の問題だ」
「……忘れてくれよ。あの紐、すごく解けやすかったんだ」
 クラサメが指摘したのはカヅサがお気に入りでずっと履いていたブーツのことだ。候補生の頃ずっと履いていたそれは、コツコツと支給された生活費を削って買ったワークブーツでかなり動きやすいと評判だったものだ。足場の悪い研究材料の採取場所だってこれさえあれば!と意気込んで買ったのはいいものの、如何せん紐が緩かったそのブーツはいつもカヅサの足を引っ張っていた。
 候補生が買うにしては高価だったからか、よく紐を引っ掛けて転んでもひたすら履き続けていたことを覚えている。
「あの靴はまだ持ってるのか?」
「そりゃね。武装研に修理に出せばしっかり履けるようになると思うんだけど、ついつい忘れてて」
「忘れに忘れてもう何年だ。いい加減直せ」
 きっと研究室の棚に放置された箱の中で待っていることだろう。恐らくその箱は自分の研究室を持つことになって引っ越しして以来、開封されていない。
「そのうちね。この靴が壊れたら、直してもらうことにする」
 そう言ってカヅサが自分の足元を指す。まだ少し新しいベルトで止めるタイプのものだ。
 魔導院の外は愚か、本館から出ることすら数えるほどしかないカヅサが履けなくなるまでに靴を壊す訳がない。また数年間はお蔵入りす事になるだろう。
「いつになることだか、な。手当ありがとう。報告があるから、もう行ってもいいか?」
「あぁ、引き止めてごめんよ。ほら、トンベリもご主人様のところへお行き」
 両腕を広げればカヅサの拘束を逃れた魔物は膝から飛び降り、みるみる内にクラサメの肩へとよじ上っていく。その鼻面を主人に撫でられると、気持ちがいいのかむき出しの首筋に顔を埋めるようにすり寄っている。
「……相変わらず、トンベリは君の事が大好きだねぇ」
 冷たいマスクを手渡す。
「カヅサにもずいぶん懐いただろう?」
「最初みたいに噛まれることもなくなったし、抱っこさせてくれるからね。でも、ボクもトンベリだったら君に頬擦りしても嫌がられないのかと思ったら」
「…………お前が、トンベリになるのか?」
「そう。ボクがトンベリになったら、今以上に君を知れるかとも思って」
「まだそんなことを」
「冗談だよ。…………多分」
 クラサメがマスクをつけ直し、トンベリを抱いて研究室の扉をくぐった後にカヅサは小さな声でそう付け加えた。





    はつこい



 一

 鴎歴八四二年 炎の月。夏服にはまだ早い季節だ。
「珍しいよね、ジャックとシンクはともかく隊長が遅刻だなんて」
 ケイトの口の中で転がされるのはストロベリーの飴。昨日カヅサの研究に『協力』した褒美として貰ったもので、甘い香りが彼女のピンク色をした唇から漏れる。
 0組の誰かが授業に無断欠席する時は大抵カヅサの研究室だ。ナインやシンクはわざと授業のある時間帯に研究室に訪れていることも既に周知の事実だ。つまり、授業が始まっても来ないクラサメの居場所は予想がつく。
「十中八九、カヅサに拉致られたんだろうね〜」
 シンクの口でころころ回るのはブルーベリーのそれ。行儀悪く口内から顔をのぞかせる青紫色の玉は甘酸っぱい香りを発している。
 クラサメ自身がカヅサの研究に付き合わされて授業に来ないということは前代未聞だ。常ならばチャイムと共にトンベリを伴って教室に入って来、遅刻したナインを立たせているはずだ。だが、そうでない場合は時間をとうに過ぎた今になっても教室に現れない理由は浮かばない。
「それ以外考えつかない〜。だってカヅサってさ、二言目には隊長のことばっかりじゃん?この間僕さぁ、薬が切れて来たみたいでぼ〜っとしてたら、カヅサが独り言で『やっぱりクラサメ君の体が一番だ〜』って言ってるの聞いちゃったよ」
「そんなこと言ってたの? 隊長も大変だね〜、妙なお友達がいて」
「でもさ、隊長ってカヅサのこと邪見に扱ってるよね。なんか隊長って誰に対しても平等に厳しいイメージだったから、アタシちょっと驚いたよ」
 肘をついたままケイトはそう呟いた。
 先日彼女が目撃したのは軍用のナイフを構えてカヅサを追い回す姿だ。課題を提出しに行こうと武官の部屋がある棟へ足を運んだ際に見たもので、人気のない薄暗い廊下を鬼のような形相で走るクラサメを発見したのだ。一体何があったのかは分からないが、その先を全力疾走で逃走するカヅサが何かを叫んでいたのだけは覚えている。
 良い意味でも悪い意味でも無表情であることの多いクラサメが珍しく本気で怒っているように見えたと彼女は言った。
「そういうのってさ、逆に仲がいい証拠だったりして。あの二人、確か同期で候補生に上がったんだって?」
「らしいね。それに同い年の候補生が少なかったってのも聞いたよ」
 ガリガリと音を立ててケイトは飴玉を噛み砕いた。それを見たジャックが「最後まで舐めようよ!」と非難の声を上げる。
 見渡せば喋っているのはいつも私語を指摘される三人だけ。ジャックの席にシンクとケイトが寄って来て小声で話していたが、見渡せば皆が皆無言だ。不真面目組、とよくまとめられているナインは珍しくいびきをかかずに寝ているし、サイスは化粧直しに必死だ。
 教科書を開いたり、未提出の課題を仕上げていたり、次の作戦で向かうであろう要塞のリサーチ。
「……僕ら、黙ってた方がいいかもね」
 ふと我に返ったかのようにジャックは呟いた。
「だねえ。シンクちゃんも眠くなって来たし、おやすみしようかな〜」
「ふーん。ジャック、アンタは?暇ならカヅサんとこまで行かない?」
「カヅサの所?別にいいけど〜、それで隊長が起きちゃったら授業になるのかなあ」
 そうなったら嫌だな、とジャックは苦笑いした。それは遠回しな否定だ。しかしケイトは気を悪くした様子など微塵に見せず、「そっか」と言い立ち上がった。彼女の背中にぴっとりと張り付いていたシンクがひっくり返っておかしな悲鳴を上げるが知ったことではない。
 土足のままで机を乗り越え、通路に飛び降りる。静粛に、というトレイの忠告も無視したまま、足を広げ腕を組み顔を天へと向け眠るナインの席まで駆けていく。
「ほらナイン!行くよ!」
「ん……んあぁ?」
「カヅサんとこ! ほら早く!」
「んだよ…人が気持ち良く寝てたのによお……」
 寝ぼけ眼ながらもナインはのろのろと立ち上がる。
 彼女に半ば強制的に腕を引かれるかたちであったが、あくびを漏らすナインと二人教室の扉を開けて出て行く。お喋りの相手が一人いなくなってしまったジャックは残念そうな顔をしたが、寝ると言ったはずのシンクが先程までケイトの座っていた場所に腰を下ろし、にやにやしながら彼の顔を覗き込んでいた。
「寂しがり屋さんのジャックのために、シンクちゃんがお話し相手になってあげよっか〜?」
「ん〜、優しいね〜。でも僕は平気だよ〜? それより今はお話するより、二人で報告書を終わらせよっか? いい加減にやらないと、隊長カンカンだと思うよ〜」
 やんわりと含まれた刺にシンクはあからさまに面倒くさそうな顔をしたが、優しげな笑みを向けているジャックには逆らう気がないのか、それともいよいよこれ以上喋り続ければクイーンに怒られると感じたのか、観念したように自分の席から未完成の報告書を持ってくる。
「……ケイトってさぁ、隊長のこと好きなのかな」
 まずはメモ作り。カリカリとペンを走らせ、視線を下に向けたままシンクは呟いた。
「どうしてそう思うの〜?」
「だってあのケイトがだよ?カヅサの研究室までわざわざ行こうなんてよっぽどだとわたしは思うんだよね〜。わたしなら、あの人の所へは行こうと思わないよ」
 あんな変態さんのところ、とシンクは書き始めのわずか二行で投げ出した。



「ぶへっくし!」
 その『変態』は盛大にくしゃみと共に唾を飛ばした。
 日頃の労をねぎらうという名目でクラサメを連れ込もうと画策し、実際に疲れが溜まっていたのかクリスタリウムにのこのことやってきた彼をあっという間に眠らせることに成功してしまったのだ。上手くいくとは露とも思っていなかったのか、研究室の簡易ベッドに転がしたところで動きは止まっている。
 彼が肘をついてその寝顔を観察していてやろうかと思い立ったところでしかし、大きな音と共に研究室の扉は開かれてしまう。
「コラァカヅサ! 隊長どこやった!」
「ちょっとナイン、ここじゃまだクリスタリウムに声響くって! ただでさえクオンに目付けられてるんだから!」
「……そうだよ。君たちがうるさくすると、ボクの立場もあるしね」
「そうそう。って、乗らないでよ!」
「声がでかいぞコラァ!」
「……本当、0組はくせ者ぞろいだね。話を聞く前に、まずは扉を閉めてくれ。まずはそれからだ」
 ガコン、と鈍い音を立てて研究室は閉ざされる。それを確認した後、次にカヅサは二人が口を開くよりも先に長い指を唇に添え、「しー」っと静寂を促した。その目線の先にはすやすやと眠るクラサメの姿だ。その枕元ではトンベリが丸くなっている。
 口元を覆う金属のマスクを外し、白衣をかけられて静かな寝息を立てながら彼は目を閉じている。
「やっぱ、ここだったんだ」
「てっきりまたブリザガで追い返されると思ったらね、今日は上手いこと眠ってくれたんだ」
「俺ら、授業だぞ」
「だから言ったろ。失敗するつもりだったんだ」
 彼は眼鏡を掛け直して肩をすくめた。本当に想定外の事態であったらしい。
「うーん、じゃあせっかく来たけど授業は休みだね。叩き起こすのも悪いし」
「ケイト、お前初めから起こすつもりなんて無かっただろコラ」
「授業の時間が少なくなったら起こそうかと思ってた。だって、丸ごと休みになると隊長のことだもん、絶対あとで補習するじゃん」
「……一応聞くけれど、今は何の時間だったんだい?」
「炎魔法。初級なんだけどさ、新しい魔法の型を習ったからその復習と実技の演習」
「実技かぁ。座学だけなら、特別にボクがしてあげてもよかったんだけど、実技なら無理だなぁ」
 カヅサはそう言って二人を奥の方まで導き入れると、椅子の代わりか知らないが鉄製の箱に座るように促した。彼自身はテーブルに腰を持たせかけたままだったが、飲みかけのコーヒーを一口含んだ。
「飲むかい? せっかく来てくれたんだ。お茶くらいは出すよ」
「アタシ、マザーがいつも出してくれるお茶がいいな」
「ドクター・アレシアの? ……残念だけど、そのご要望にはお応えできないね。彼女のお茶ってあれだろう? 飲んでいるうちに味がどんどん変わるお茶。どんな魔法を使っているのか知らないけれど、ボクには到底用意できないよ」
「……アンタでもわからねぇことがあるんだな」
 率直にナインがそう零すと、カヅサはくすくすと苦笑しながら言った。
「当たり前じゃないか。そもそもボクの専門は魔法じゃない。人体の方さ。確かにここの装置は魔力を動力源としているものが多いけれど、その魔力については魔法局から提供してもらっているからね。……それで、お茶は?」
「コーヒーでいいよ。ナインも?」
「おう。俺は砂糖ドバーっと頼むぜコラァ」
「あ、アタシはミルクたっぷり!」
 満足げにカヅサはにっこりと微笑み、二人分のカップを出そうとするが戸棚に並ぶのは不揃いなものばかり。ヒビこそ入っていないものの、随分と年季の入ったマグカップを出すと一度水で洗ってから湯気を立てるコーヒーを注いだ。
 足元のフリーザーからミルクをコーヒーに入れてやる。チョコボのミルクを入れたコーヒーは独特の味がしてカヅサは好きだったが、他人に勧めるべき飲み物ではないとクラサメに言われて以来封印済みだ。ナインのものには要望通りいつのものか分からないコーヒーシュガーをざらざらと投下する。
「それで、君たちは授業が終わるまでここにいるつもりかい? クイーン君あたりがカンカンなんじゃないかなぁ? 彼女、真面目なんだろう? クラサメ君から話はよく聞いているよ」
「あぁん? クラサメの奴、俺らの話なんてしてんのか?」
「あぁ。君は報告書を中々出さない。シンク君はそもそも書かない。ジャック君は……なんだっけな、やればできるのにやろうとしない」
「……へぇ、隊長って意外にアタシらのこと見てるんだね」
「ケイト君は落ち着きがない。セブン君はむしろ落ち着き過ぎ、キング君は絶対年齢を鯖読んでる、エイト君とエース君の身長は将来に期待、ってね」
 なんだそれ! とナインは大声を上げて笑いそうになる。しかしケイトに向こうずねを思い切り蹴られ、足を抱えて声に鳴らぬ悲鳴を上げた。幸い薬で眠らされているからかクラサメに起きる気配はなく、静かに眠ったままだ。
「……てっきり君もナイン君みたいに怒るのかと思ったよ」
「ア……アタシは、その……落ち着きないのは自覚してるし」
 急に縮こまり、詮索から逃れようとしているのか冷たいミルクを注がれて温くなったコーヒーを冷まそうとする。明らかに挙動不審となった彼女を見て、カヅサは分かりやすいなぁ、と小さく零した。
「君は、クラサメ君が好きなのかい?」
「なっ、なっ、なんでそうなるのさ!」
「別に。ただ、そんな気がしただけさ」
「……知らないわよ。隊長、いつもぶすっとして笑わないし、寝てると本気で怒るし、課題多いし、作戦評価良くったって褒めてくんないし」
 小さなマグカップに無理矢理顔を突っ込んで表情を隠そうとしている。目の前には眠りに落ちているとはいえ話の中心にいるクラサメが居るのだ、彼女は顔を林檎のように真っ赤にしてしまっている。
 そんな兄妹の様子を見ながらナインは首を傾げる。かなり鈍感なように思えるが、きっと彼が抱いている感情とケイトのそれは限りなく近いはずだ。
「けれど、たまに褒めてくれるのが嬉しいんだろう? 君も、ナイン君も」
「…………うん」
「俺は別に……いや、まぁ嬉しいよな。ほんっと滅多にしか褒めてくれねぇけどよ、頭撫でてくれんだよ。そういう時は……悪かねぇなって」
 がたがたと貧乏ゆすりをしながらナインは告げた。ケイトがマグカップで表情を隠そうとするなら、彼は落ち着きのない行動を取って動揺を隠そうとするらしい。実に微笑ましい。カヅサは再びコーヒーを一口含む。
「それを『好き』って言うんじゃないのかな? まぁいいや、君たちみたいな素直な子を持ててクラサメ君は満足だろうね」
「なんか……綺麗にまとめられたな、コラァ」
 そう言いながらもケイトと同じくしてナインの頬は薄らと赤い。
「褒めてるのさ。君たちの隊長になって、クラサメ君と飲む時に話の種にさせてもらえそうだしね。感謝してるよ」
「アンタも、隊長のこと好きな訳?」
「あぁ大好きさ。この世の何よりね」
「じゃあ、アンタの『好き』はアタシらの『好き』と一緒?」
「唐突だね」
 思わずカヅサは目を丸くした。そういえば彼らはこの魔導院に在籍する生徒の大多数のように育ってきた訳ではない。あまり明らかとされていないが、孤児を集めてドクター・アレシアが育てたというのがもっぱらの噂だ。年齢不詳の魔女(軍令部長談)が何年も手塩に掛けて用意してきたというなら年相応の常識が欠落していても何ら不思議ではない。
 だがいくらクラサメの教え子であるとはいえ、そんなことを教える義理はない。僅かに意地悪げな笑みを浮かべたままカヅサは続けた。
「……どうだろうね?君たちがもっと大人になればいずれわかるかもしれないよ?」
「大人になる頃じゃ遅いっつーの!」
「どうして? クラサメ君が知らない女性と結婚してしまうかもしれないから?」
 アホ! とケイトはついに叫んだ。
 その瞬間にもぞもぞとクラサメが寝返りを打ち、慌てて彼女は自分で口に手を当て、あっと声を出した。
「大丈夫、ちょっとやそっとじゃ起きないよ」
「……それはそれで大丈夫じゃねぇぞオイ」
「ここぞとばかり強い薬を使っちゃったからね、まぁでも、あれくらいの量ならぐっすり眠るくらいで済むのは確認済みだよ」
「……じゃあさ、教えてよ。カヅサしか知らない、隊長のこと」
 ぐいっと一気にケイトはコーヒーを飲み干し、空のコップをテーブルに置いて告げた。
「ん?」
「隊長はアタシらのことアンタにべらべら喋ってるんでしょ? じゃ、アタシらは隊長のこと知る権利ってのがあると思うんだけど」
 それはあまりに身勝手な権利だろう、カヅサは少しだけ眉根を寄せた。
 無邪気故の傲慢なのかは知らないが、思わずアレシアは教育方法を見直した方がいいのではないかと頭を抱えたくなった。無論あの女性にそのようなことを面と向かって言えるような度胸はない。なるべく平静を装い、カヅサは問うた。
「じゃあ逆に聞くよ。君はクラサメ君の何が知りたいんだい?」
「ん〜、たくさんあるけど、とりあえずは隊長の過去に何があったかとか? なんかさ、0組の隊長は『あの』クラサメだってよく言われるんだけど、そんな隊長ってすごい人なワケ?」
「すごい、ねぇ……。そりゃ彼の強さはとんでもないからね」
「でもよ、そんだけじゃねぇだろ。あのマザーが認めるってことは、何かあんだろオイ。あー、なんだっけ、朱雀四天王だったか? そんなんだったって聞いたぞ」
「そうそう!『氷剣の死神』っていうのも、その時ついたんでしょ〜? カヅサ、何か知らない? 他の候補生たちが絶対知らないような耳より情報とか!」
「……それを知って、君はどうしたい?」
「えっ?」
「例え君がクラサメ君の全てを知ったとして、何になると思ってる?」
 いつにも増して感情のない声でカヅサは告げる。
「幼稚な恋心を抱くのは勝手だけど、他人の不可侵領域にまで土足で入ろうとするのは関心しないなぁ」
「どーゆーことよ」
「そのまんま。君は何も知らないからそんなことが言えるんだと信じるけどね。……そうだなぁ、どう言えばわかりやすいだろう」
 そう言って彼はすっかり冷めたコーヒーを机に置いた。
「いいかい?ボクは君たちの望むことを何一つ教えられない。ボクが知るのは、君が嗅ぎ回って集めた情報とほぼ同じ。……当時同じ候補生だったっていう有利はあるけれど、それ以上は何もない。他の候補生たちと同じで、風の噂、いわれのない誹謗中傷。そんなことしか知らないよ」
「…………」
 コンコンと指を机に打ち付けるサイン。口調は穏やかでも、内心に募った少しばかりの苛立を隠すつもりはないらしい。
「だけど、真実を知ることが重要な訳じゃない。知りたくないって言えば嘘になるけれど、知りたい訳でもないからね。誰かを好きになることはけっこうなことさ。若いうちに色々な感情を育てるのも悪くない。……けれど、あまりに君たちの態度は身勝手だ」
「身勝手……?」
「気になる相手の全てを知ることが愛だとでも思ってるのかい?君たちのそれは幼い恋だ。自分勝手で、迷惑で、どこまでも利己的な、ね」
 眼鏡を外し、その曇りを確かめる。一息つくごとにため息を織り交ぜそうなほどの口調だったが、咎めるようなそれではない。ケイトとナインは相も変わらず首を傾げ、顔を見合わせるだけで話を理解していないようだが、カヅサはそのまま続けた。
「君たちの母親にでも聞けばいいよ。恋と愛の違いでも聞いてみるといい。言ったよね?ボクと君がクラサメ君に向ける好意は同じかって。同じさ。誰かを大切に思う気持ちに違いはない。君たちが君たち同士を想い合うように、ボクもクラサメ君を想ってる。けれどそのアプローチが君たちとは違う…と信じたいね」
「どういうことだよ」
「相手を知ることが全てじゃないっていうことさ。もし相手の全てを知っていたら、もうそれは他人じゃない。自分自身だ」
「……なんとなくしかわかんないよ。つまりカヅサは、自分の知らない隊長がいても平気な訳?」
「全く平気な訳じゃないけどね。彼が口を閉ざす以上ボクは追求しない。ただそれだけさ。さ、ボクの話はこれで終わり。これ以上話すと君たちの大事な隊長さんが安眠できないからね。帰ってくれると嬉しいな」
「もしかして、怒った?」
「少しだけね。けれど君たちには君たちの価値観がある。それを否定するつもりはないよ」
 ナインもコーヒーを飲み干したのを確認すると、それを回収する。二人に戻る気が無かろうと強制的に出て行かせるつもりだ。
「……あのさ」
 流石にその意図は読めたのか、ケイトはナインを伴って立ち上がった。そのまま出て行こうと研究室の扉まで歩いていくが、その足取りは少しばかり重い。首を傾げるナインを先に廊下に追いやり、彼女は呟いた。
「アタシは……隊長が好き。それは間違ったことじゃ……ないよね」
 カヅサはその言葉を聞き、先程の不機嫌そうな表情と打って変わって穏やかな笑みを向けた。
「勿論」
「良かった。少しだけわかった気がする。あとは言う通り、マザーに聞いてみることにする。ありがとう」
 それに対してケイトも幾分か頬を緩ませ、満足したかのように研究室を去っていった。


「さ、狸寝入りもそこまでにするかい? もう二人は行ったよ」
「……いつから気付いていた?」
 クラサメは薄らと瞼を上げた。ぼんやりとした視線はまだ起き抜けである証拠だろうが、言葉ははっきりとしている。
「ケイト君が詮索し始めた頃から。おっきな声出してたからねぇ。……それで、気分は?」
「まだ怠い。どうせもうこんな時間だ、授業は諦めて期末に補講を入れることにするさ」
「ブーイング食らっても知らないよ?」
「責任はお前にある」
「だってクラサメ君、隙だらけだったもん。あ、もしかして怒ってる? 授業を妨害した上に、生徒に暴言吐いちゃったからね」
「怒っていなし、あんなの暴言に入らない。……むしろ、感謝している」
「感謝?」
 気怠げに彼はベッドから起き上がると、頭が疼痛を訴えているのか額を片手で覆い、もう片方の手でマスクを宛てがった。
「余計なことを言わないでくれて、だ」
「……全部事実だよ。ボクが君が四天王だった時に知っていることは、外野と同じさ」
 カヅサはそう告げた。
 飲みかけでもいい? と冷たくなった残り僅かなコーヒーを差し出せば、せっかく付けたマスクを外して啜る。マスクを外せば見えるその火傷の痕も、その服を脱げば見える無数の傷痕も全てカヅサの知らないものだ。存在するという事実だけを知っている。
 しかしクラサメはいつになく深刻な顔をしており、その表情は季節一巡り以上前、雪のちらついたあの日カヅサが見せた表情と酷く似通っている。カヅサは慌てて手を横に振ると曖昧に笑い、「別に言わないでいてくれていいんだから」と告げる。
「前は知りたいと思っていたけれど、今はそうじゃないよ。君が言いたくないことを無理に聞くような真似はしないし、詮索しようだなんてもってのほか。……秘密があった方が、魅力的に思えるからね」
「最後の一言は…余計だな」
「余計じゃないよ、重要な要素だ。互いのすべてを知っていたら最早それは自分自身だって言ったのはクラサメ君だったろう?」
 主人そっちのけで気持ち良さそうに丸くなり眠るトンベリの尻尾を弄ぶ。どうやらケイトとナインの大きな声にも気付かないままぐっすりと眠り込んでいるようだ。二股にわかれているそれを握ったりしていると、くすぐったいのかその魔物は喉の奥からぐぅ、と鳴き声を上げてもぞもぞと更に丸くなろうとする。
 人間の生活に馴染みすぎたこのトンベリは危機感というものが薄れているらしい。再び気持ち良さそうに体を上下させた。
「お前は……それでもいいのか?」
「それでいいとか、駄目とかじゃないでしょ。君が過去を明かそうと仕舞い込んだままであろうと、君自身に変わりはないはずさ」
 言い終わると同時にカヅサはトンベリの尾を少しばかり強めに摘んだ。不意打ちに驚いたのか、全身をびくんと強ばらせ飛び上がった小さな友人はきょろきょろと周囲を確認し、叩き起こしたのはカヅサかと恨めしそうにじっと見つめる。
 本物の恨みを籠められれば冗談ではないが、一応カヅサは『仲間』として認識されているらしい。そんな真似はしないはずだ。起きてしまったトンベリは同じように寝起きで頭の働かないクラサメの膝の上までのそのそと這っていくと、胡座をかいた足の中心に座り込む。
「お前も飲むか?」
「…………」
 コーヒーを差し出されたが、トンベリはぶるんぶるんと豪快なまでに首を横に振る。チョコボミルクの入っていないコーヒーは嫌いらしい。クラサメはそれを確認すると最後の一口を飲み干した。
「カヅサ」
「ん?」
 空になったマグカップを返し、再びマスクで口元を隠す。
「0組に言ったことなら、なんの問題ない。どうせ彼らのことだ。ドクターに直接聞きにいっているだろうな。あの人も子供たちに乞われれば嘘を教えることもないだろう」
「まるでボクが間違いを教えたとでも言いたそうだね」
「間違いじゃないさ。ただ、感情的になりすぎだ」
「だってクラサメ君のことだったもん。熱が入るに決まってる」
「喜ぶべきなのか、それは?」
「さぁ?ご自由に。……あぁ、もうこんな時間だ。眠気が抜けないなら、授業が終わるまでもう一度寝るかい? まだ焦るような時間じゃ…」
「いや。次の授業まで遅れるのは勘弁だ。それより、私の荷物は?」
 それならここに、とカヅサは机に置いてあった書類の束をクラサメに渡す。
 ジャマー影響下で鋼機を相手にした際の立ち回りについて書かせるつもりらしい。見取り図と自らの装備品などが書かれている。どうせ0組のことだ、ジャマーは効かないから魔法を使う、だなんてことを書くであろうことが目に見えている。
「軍令部に提出する課題だ。今後の作戦での参考とするらしいが……それを伝えてもどうせ提出しないのだろうと思うと、な」
「……大変だねぇ。甘やかされて育ったからか、それとも厳しく育てられたけれど外を知らないままだったか……。どちらにせよ、気苦労はこれからも絶えないだろうね」
「戦争が激化すれば出撃回数も増える。報告書も増える。軍令部からの課題は減らない。軍令部長じゃないが、私もお前に育毛剤を頼む日が来るかもしれないな」
「やめてくれよ、そんな笑えない冗談」
「いや……その、……笑ってくれて構わなかったんだが……。そんなに私は禿げそうか?」
 真顔でそんなことを告げるものだから、思わずカヅサはカップを抱えたまま大笑いした。





    アウト・オブ・エデン



 一

 大好きな場所があった。
 広大な敷地を持つ魔導院には、ほとんどの人が知らないようないわゆる『穴場』が多く存在していた。闘技場の裏に広がる人工林、墓地から更に奥へ抜ければ見渡す限り長い間手入れのされていない森。ペリシティリウム朱雀として魔導院が設立されてからは永く、現在存命の誰もが知らないような場所だってあるくらいだ。
 鬱蒼と生い茂る木々はそんな気の遠くなるような昔に植えられて以来、百年近いスパンで変化を繰り返していく内に自然状態にほど近くなっていた。無造作に乱立する樹の中に横たわるのはびっしりと苔むした腐った巨樹。害はないものの気味の悪い虫が這う穴蔵に、極彩色の鳥が嘶く。
「久しぶりだなぁ、ここ」
「全く、こんなところまで来ると……あぁほら、白衣が泥だらけだ」
「ならカヅサは院に残っていればいいだろう?」
「ひどいよクラサメ君、せっかく三人揃って休暇が取れたんだから探検しようって言い出したのは君じゃないか!」
「冗談に決まってる」
「クラサメくんの言い方、相変わらず冗談に聞こえないよ」
「ただでさえマスクで口元が見えないんだから、もう少し柔らかい口調で頼むよクラサメ君」
「…………生憎、寝不足気味なんだ。少しは多めに見てくれ」
 そう言いながらも少しは気にしたのか、表情を隠してしまっていたマスクを外してしまう。カヅサとエミナにとってその口元はもうとっくに見慣れたものだ。マスクの下に浮かんでいたのは僅かな笑み。やはり冗談であったらしい。
 微笑みながらも、「また?」と言いながらエミナは太い丸太を軽やかに飛び越えた。
「トンベリの世話でもしてた? それとも課題の採点?報告書の仕上げ?」
「全部」
「そのトンベリは?」
「武装研だ。本当は傍にいてやりたかったが、魔物の病気に罹ったら始末書が面倒だからと取り上げられた」
 オリエンスで最も謎に包まれていると言われている魔物が故、クラサメが候補生であった頃にいきなり連れて魔導院に戻って来た時には少しばかりの騒動になったのはカヅサ達の記憶にまだ新しい。軍令部と諜報部に散々危険だ始末しろだの言われたが、頑としてクラサメは聞き入れなかったし、人語を解していたのかはわからないがトンベリも敵意がないことを身振りで示してはいた。無論そんなことで許可されることもなく、一度は処分命令が下されたのだが、当時カヅサが11組であり武装研に出入りすることが多かった為に『生態解明を目的として』という助け舟を出してくれたのだ。
 クラサメ自身が既に候補生の中で突出した成績を修めており、カヅサも同時に研究者として頭角を現していたこともあってなんとか院内にトンベリが居座ることとなったのが、あくまで『研究目的の飼育』という名目らしい。未知の生物であるトンベリの生態解明の為に、クラサメが飼育し、逐一その様相を武装研に報告するという建前がとられたのだ。
 無論、そんなもの軍と諜報を言いくるめるだけの詭弁だ。武装研としては様々なデータが得られ、軍にしても諜報部にしても極秘裏に行っていたモンスターの研究に役立つと言われそれを受け入れるしか無くなったのだ。
「今頃11組の子たちが珍しがってると思うよ。……トンベリには悪いけど、少し遊ばれてもらうしかないね」
 そのトンベリが十年近い人間生活に溶け込んで来てから初めて風邪を引き、ここぞとばかりに武装研が遥か昔の建前を引っ張りだして迫ったのだ。クラサメには渡せと言われて拒否できるはずもなく、渋々ぐったりとしたトンベリを明け渡して来たのだ。その上研究室からしっかり追い出されてしまったという。
「でも、いいじゃない。久しぶりに三人っきりっていうのも。どれだけぶりかなぁ」
「まるでトンベリが邪魔者みたいな言い方だな」
「そうじゃないよ! ただ、クラサメくんがトンベリ置いてワタシたちを誘ったのが意外だったなぁって思っただけ」
「確かにそれはそうだね」
 カヅサは樹の虚(うろ)を覗き込む。気配を察知したのか中で蠢いていた蛇のような生物が消えていく。この辺りを初めて散策した頃はあまりの気持ち悪さに半泣きになってクラサメに泣きついたりもしていたが、何度か訪れるにつれて無心となることに成功したのだ。今はもう鳥肌が立つ程度で済む。
 そのまま木の根を跨ごうとし、苔に足を取られ盛大に転倒したカヅサを見て苦笑しながらクラサメは口を開いた。
「トンベリに遊んで来いと言われたんだ。確かに魔導院の解放作戦以来、丸一日休めた日なんて数えるほどだったから、甘えることにした」
「……トンベリが言ったの?」
「まさか。トンベリは人間の言葉は喋れないぞ」
「相変わらずテレパシーで意思疎通してるんだね」
 手のひらと白衣にびっしりと苔と泥をつけてしまったカヅサが苦笑する。このじめじめとした通りを抜けしばらくしてしまえばお目当ての場所だ。
 今でも武官として鍛錬を続けているクラサメとエミナは次々と奥へ進んでいくが、候補生であった時以上に運動をしなくなったカヅサとしてはついていくだけで精一杯だ。尻餅をついた二分後に再び見事なまでに蔦に足を引っかける。
「もう、カヅサってば」
 見かねてエミナが手を差し出し、クラサメがまたも引っかけてしまわないようにナイフで足元に蔓延る蔦を切り裂く。
「これで少しはマシだろう。もうすぐそこだ」
「……ごめん、ありがとう」
 情けない気持ちになりながらもカヅサはその友人の手を取って歩き出した。
 魔導院という施設自体かなりの高層だが、切り立った崖をくり抜いて建てられたような構造をしている為、そもそも高所だ。故に普段『地上』だと感じている部分は既にかなりの高さにある。事実魔導院の背後を囲うのは自然の要塞で、左右は開けている。高い高い塀の向こうには真っ青な海が広がっているはずだ。
 それを見てみたいと言い出したのはまだ今よりずっと幼い、0組の生徒と同じ年頃だったクラサメだ。
 霧がかった龍神の聖域で生まれ育ったトンベリに、一番綺麗な青空を見せようとしたのがきっかけだった。カヅサとエミナを誘い、三人でただひたすらに森をかきわけたのは遠い夏の日。同じように蔦を足に絡ませるカヅサの為にクラサメがナイフを振り回していた。
「確か、ここを左よね」
「……もう少し先じゃなかったか?」
「そうだったっけ。カヅサ、どう?」
「…………ボクがいつもつまずくところから、もう少し歩いたような気がするよ……。ほら、あそこの折れた樹のところで右だ」
「二人とも間違いだったな」
「そうみたいね」
 どこか嬉しそうに言う方向音痴な二人を助けるのはいつもカヅサだ。完全なお荷物ではないことを感じて内心安堵のため息を吐く。
 彼の言った通り、太陽の光が僅かにしか届かない樹々を抜けた先には少し開けた広場。初めて迷い込んだ時には草木などほとんど生えていなかったが、今ではもう随分と茂って来ている。怪しいキノコでも生えてきそうな倒木を目印に、右へ。まだ三人を取り囲むのは無数の樹であったが、風に乗ってくるのは潮の匂い。
「今度揃って休み取れるの、いつになるだろう。次はトンベリも連れて来てあげたいね」
「確かに。魔物のトンベリにあの魔導院は窮屈すぎるよ」
 本来広い自然の中で細々と生きているはずのトンベリが人間の中に完全に溶け込めるはずもない。最初のうちは人間の食べ物を受け付けなかったし、なによりどこを見渡しても人間がおり、無機質な壁に囲まれた環境でかなりのストレスになっていたはずだ。
 今でこそクラサメの昼食を食べたり、布団代わりのブランケットにくるまって眠ったり風呂に入れられたりと人間に近い生活を送っているが、それは無理をした結果だ。たまには魔導院の中であっても自然にほど近い場所でのんびりさせてやりたい、とクラサメは笑った。
「幸か不幸か、これから戦争が激化すれば否が応でも外へ出る機会は増える。作戦のついでにどこか連れて行ってやるか」
「それがいいね。……あっ、ほら。見えてきたよ!」
 ワタシたちの秘密の場所。
 うっとりとした表情で目の前の絶景にエミナは微笑んだ。彼女の出自を二人はよく知らないが、白虎との国境近くだったらしい。なのでこの魔導院から見えるどこまでも青い空がとても珍しく、大好きだと言う。無論クラサメとカヅサもこの景色は嫌いなはずは無かったが、彼女のように何度訪れても感動する訳ではない。
「気持ちいいなぁ」
「そうだねぇ。でもエミナ君はよく飽きないね。確かにここからの眺めは素晴らしいけれど、いつも初めて来たみたいに感動できるのはすごいよ」
 この蔦の絡んだ柵を乗り越え、崖を少しばかり駆け抜ければもう真下は海だ。離れ小島のように浮かんでいるのは第三武装研究所でもあるチョコボ牧場。今頃あの場所では雛チョコボがヒショウの周囲を取り巻いていることだろう。もしかしたらエースが黄色い羽に埋もれて戯れているのかもしれない。
 大魔法陣からでしか訪れることができない為、こうして肉眼で見ることは滅多にない。それもまた、エミナのお気に入りである理由らしい。
「だって、来る度に空の色が違うんだもん。いつもテラスで見ている空の色も、ここから見る空の色も、噴水広場から見る色も毎日違ってるの。…それを見るのが、ワタシの日課みたいなものだから」
「……じゃあ、今日のノルマはこれで終わりかい?」
「うん、そうかな」
 更に何か言いたそうな顔をカヅサはしていたが、真っすぐと空を見つめているエミナの横顔に満足したのかそれ以上質問を投げることはない。
 海鳥の声がどこからか聞こえてくる。波の音、樹々のざわめき。エミナは目を閉じてその音にゆっくりと耳を傾けている様子だ。残念ながら男二人はエミナのように風情を解する心を持ち合わせては居ない。どうしたものかとお互い顔を見合わせ、首を傾げた後とりあえずは彼女の気が済むまで待つことにする。
「ワタシがしわしわのおばあちゃんになっても仲良くしてね」
 少し風が強くなり、癖の強いウェーブした髪の毛が振り返ったエミナの表情を隠していく。その目元も、鼻も、唇も濃い茶色の髪の毛が覆う。
「……どうしたんだい、いきなり」
 音を聞いていたはずの彼女の言葉にはいつの間にか僅かな不安感が混じっているように聞こえる。
「なんとなく。こんなにも広い海とか空を見てたらちょっとセンチメンタルになっちゃっただけ。……でも、しわくちゃのおばあちゃんになる頃には、ワタシたち何してるんだろうなぁって。……たまに、考えるの」
 柵に体を寄せ、寂しそうな表情で振り返る。白いリボンがばたばたと風になびく。
 確かにこれだけの青空を見れば感傷的にもなるものだとクラサメはエミナの隣で柵に背を持たせた。すると自然にカヅサもクラサメとは反対側で寄りかかる。
「このままどんどん歳を取ったら……そうだな、まずは魔力が完全に消えるだろうな」
「そしたらワタシたち、いよいよ武官をクビになるかもね?」
「二人なら前線に立たなくても軍令部長みたいに司令官になれるんじゃないかい?」
「イヤよ」
「イヤだな」
 声を揃えて拒否の意。あまりにもそのタイミングがぴったりだったので、カヅサは思わず吹き出した。その拍子にずれた眼鏡が強風に煽られて飛んでいきそうになり、慌ててそれを外して白衣のポケットへ押し込んだ。視界がぼやけ、二人の表情は見えなくなる。
「じゃあ、二人は魔力を無くしたあとはどうするんだい?」
「そういうカヅサはどうなのよ」
「ボクはもう既に全然さ。ファイアくらいなら打てるだろうけど、全く使えなくなるのも時間の問題。魔力を失っても、武装研ギルドの主任を続けるつもりだよ。研究に魔力は必要だけど、それは今ですら魔法局頼りだ。ボク自身の魔力がどうであれ、何も変わらないことだね」
「まだ人間を作ろうとしてるのか」
 少し呆れた声音はクラサメのもの。しかし決して馬鹿にしているのではなく、途方もない夢に感嘆しているようなものだ。
「当たり前だよ。ボクの夢はずっと変わらない。いつか必ず人間を作り出してみせるよ。今のままでは中々進まないけれど、きっと、必ずだ。ボクの理論を実証することさえできれば、それを足がかりにして……。あぁ、ごめん。つい熱くなっちゃったよ」
「ううん。カヅサはいつまでもカヅサのままってことね。安心した。クラサメくんは?」
「さぁ? ……遠い将来はわからないだろう。今は戦況の予想で精一杯だ」
「じゃあ、ワタシたちで想像してみようよ!」
 振り返って両隣を見、実に楽しそうにエミナは笑った。
「……大方の予想はつくぞ」
「いいの! ……そうだなぁ、このまま軍部で昇進っていうのは軍令部長が変わらない限り無理そうだから、カヅサみたいに文官に転向して武装研ギルドに入るとか! そしたらカヅサとずっと一緒にいられるよね? 何をするかなんて後で考えればいいんだし」
「確かにそれは楽しそうだねぇ。ボクとしても、そんな未来は素敵すぎて大興奮だよ。……でも、龍神の聖域でトンベリに囲まれて過ごすってのもありそうだね。えぇっと……なんていったっけ、あの街」
「アミターか?」
「そう、アミター。去年かな、サンプルの採取にアミターへ行く機会があって、運良くトンベリに遭遇したんだ。中々興味深かったよ。街の人も、『昔朱雀のとある候補生のおかげで、ここは魔物との共生が一部可能になってるんだ!』なんて言ってたしね」
「すごい! クラサメくん、有名人じゃない」
「……有名人云々は置いといて、確かにそれはいいかもな。トンベリに囲まれて余生を過ごす……。かなり魅力的な老後だな」
 芝居臭く言ってみせるクラサメの表情は候補生であった時と変わらない。しかし現実味を伴わない言い方にカヅサは眉根を寄せた。
「割と本気だったんだけどなぁ。君は武官だし、エミナ君と違って前線に行くことが多いから余裕ないっていうのはわかるけど、たまには肩の力抜きなって」
「抜いてるつもりだ? だから今、こんなところにいるんだ」
「もっと盛大に休めってコトが言いたいのよ。……あ、ほら、覚えてる?候補生の頃はさ、この柵も越えて、もっと先まで行ったよね」
 危険防止の為に立てられているはずの薄汚い塀と柵をよじ上り、強風に煽られながらのチキンレースを楽しんでいた時期もあった。無論カヅサは半泣きどころか鼻水まで垂らしていたが、クラサメとエミナに半ば強制的に崖側へ連れてこられ、がくがくと膝を震わせていたことは二人の記憶には鮮明に焼き付いている。
 崖を少しばかり上れば、一番綺麗な景色が見える。
 きっとそのはずだとクラサメが言い、トンベリを抱えて一番最初に柵を乗り越えた。エミナが笑いながらカヅサの手を取り続き、その光景を見ようと試みたのだ。結局カヅサが情けない声を上げながらずっとクラサメにしがみついていたということしか記憶に残っておらず、実際に美しい景色があったのかは覚えていない。
「もうこの歳じゃ無理だよ。クラサメ君ならともかく、ボクなんて崖を一歩でも進んでみなよ、海へ真っ逆さまさ」
「……もう一度、見てみたかったなぁ。でもワタシも無理ね。歳取ったものよ」
「私だって無理だぞ。身体が鈍りきってるんだ」
「そっか。確かに、指揮隊長になったの、いきなりだったよね。魔導院の解放作戦の開始直前に言われたんだっけ?」
「生徒たちを誘導してる最中にな。前々から前線に戻る準備をしろとは言われていたが……。まさかドクター・アレシアから直々に命じられるとは思っていなかったんだ。戦場はまだ感覚が思い出せないな」
 ふん、と自慢の氷剣を振るう仕草をしてみせる。
「ふふ、ワタシたち三人共、しっかり老けたものよね」
「そういう言い方がもうオバサンってやつじゃないのかい?」
「失礼しちゃう! まだ二十五よ? そりゃあ魔力も体力も候補生の頃に比べて衰えてきてるけど、ここはまだまだ現役よ?」
 ここ、と。
 エミナは果てしない笑顔で自分の豊満な胸を持ち上げた。候補生の頃から飛び抜けてスタイルが良く、その筆頭が今なお美しいかたちを保っているその胸だ。明るい性格とその抜群の『出るとこは出る、絞るところは絞る』スタイルでどんな人間からも好かれる彼女は今でも男子生徒がファンクラブを作るほどだ。
「その胸だって、あと十年もしたら萎んでくるんじゃないかい?」
「……胸って萎むのか?」
「いや……どちらかというと垂れる、だね」
「二人ともひっどい! そりゃ確かに、もっと歳を取れば顔に皺も増えるし胸も垂れてくるし、萎んでくるわよ! 悪かったわね期間限定で」
 つんと拗ねた素振りでエミナはそっぽを向いた。慌てて機嫌を取ろうとカヅサが視線を泳がせ、何かいい言葉がないかを探しているがすっかり機嫌を損ねてしまったらしい。たかが胸のことではあるが、それが頭に来たようだ。
「……エミナ」
「なによ」
 彼女の頬はモーグリのように膨らんでいるのだろう。困ったような、しかしどこか穏やかな表情を浮かべてクラサメは彼女の顔を覗き込むように屈んで、下から見上げた。
「気に障ったのなら謝る。けれど、別にそれが全てではないだろう? 年を取れば衰えていく。それでも、エミナはエミナだろう」
「お慰めはけっこうよ」
「別に慰めてない」
 ため息と共に膝を伸ばすと、クラサメを見ようともしないエミナの頬に手を添え、ぐいと向き合わせる。柔らかな頬を両手で挟んでやると、わざとらしく彼女は口を尖らせた。
 すると背後に居たカヅサも回り込み、クラサメの隣に並ぶと苦笑いしながら「ごめん」と告げる。
「キミにとっては一大事だったなら謝るよ。……でも、ボクたちにとってはどうでもいいことさ。さっきエミナ君が言ったろう? 胸がバスルームのヘチマみたいにすかすかのよれよれになったおばあちゃんになっても、仲良くしようよ」
「……ヘチマって、例えが最低」
「じゃあ何がよかったかい?」
「そうだぞカヅサ。せめて……そうだな、梅干しくらいにしろ」
「…………もういいわ」
 頬を挟むクラサメの両手を包むように握り、つい数秒前まで眉尻をいつも以上につり上げていた彼女は笑っていた。
「本当、久しぶりにここに来たのに、ろくなことがないわ。あーもう、ワタシらしくない。感傷に浸るのもほどほどにしなきゃネ」
「たまにはいいじゃないか。柄にでもないことを言う余裕があると思えば、そんなに悪いことでもない」
「そうだ。休暇は今日限り。エミナはどうだか知らないが……少なくとも、私は明日からまた軍令部長に嫌味を言われるんだ。その貴重な休みに珍しいものが見れたんだ、むしろいいことだろう」
「……もしかして、ワタシ珍獣扱いかな?」
「かもな」
「かもね」
 今度はクラサメとカヅサが声を揃えた。
 その様子がなぜだかとても滑稽に見えて、エミナは思わず声を上げて笑い出す。それにつられて残る二人も、懐かしい風を感じながら控えめに笑った。



 再び森の中へと足を踏み入れる。
 復路は迷うことなどない。カヅサが転んで草木を潰し、クラサメが蔦を切り裂いた道を辿るだけだ。院まで続くのはそんな一本道。
「……エミナが歳を取ったとして」
「またその話?」
「歳を取って外見が変わったところで、エミナ自身に変わりはない。今のお前も、十年後、二十年後のお前も皆一緒だ。魔導院で候補生となり、私やカヅサとバカなことばかりをして、武官となった後にもこうやってバカなことをした。それはいつまで経っても変わらない事実だ」
「おばさんどころか、おばあちゃんになっても?」
「当たり前だ。どんな偏屈婆になってもな」
「偏屈って、もう! クラサメ君そんなんだから恋人ができないのよ!」
「いなくて結構。私にはトンベリがいる」
「トンベリだけじゃなくて、ボクもいるよ?」
「……お前は男だろう」
「…………真面目に返さなくても」
 カヅサが鳥肌を立てた樹を通り過ぎ、彼が転ぶまえに倒木に駆け上がったクラサメとエミナが一メートルほどの高さを二人掛かりで引き上げる。それでも尚カヅサは何度か躓いたが、派手に転倒はしていない。
 ギャップを何度か通り越し、ようやく見えてくるのは墓地の塔。ジュデッカ地方にあるアギトの塔とも呼ばれる建造物を模して立てられたそれが見えてくれば後僅かだ。聞き耳を立て、墓地に生徒の一人すら居ないことをよく確認してから一気に駆け抜ける。ガサガサと茂みを抜け、髪の毛には大量の葉を纏わせながら石畳へと戻ってくると、エミナは三人で最も多く葉を髪の毛に付けたらしくうんざりした顔を作った。
「そろそろこの髪の毛も切っちゃおうかな」
「長いのに勿体ない」
 白衣にぶら下げたみの虫をポイと投げ捨て、カヅサはエミナの髪の毛から葉を取り除く作業を手伝ってやる。
「だって、あそこに行く度にこんなことになるもん。それならいっそ、レムちゃんくらいまで切ったら楽かなぁって」
「……レムが言っていたが、『エミナ教官の髪の毛が羨ましい』そうだぞ」
「本当?」
「私は本当のことしか言わない主義だ」
「それにせっかく訓練生の頃からずっと伸ばしていたんだろう? ボクは勿体ないと思うなぁ」
「でも、また伸びるわ。それこそよぼよぼのおばあちゃんになる頃には、今よりずっとずっと長い髪の毛になってるかもしれないよ?」
「歳を取ったら髪が抜けるかもしれないぞ。軍令部長のように……」
「こんなとこでそんなこと言うと、誰かに聞かれちゃうぞ?」
 悪戯めいた笑みを浮かべたエミナはそう言って口に長い指を当てた。細かい枝葉が髪の毛にこびりついているのは諦めたらしい。
 墓地を真っすぐ突っ切って、各教室へ繋がる廊下への重たい扉を開け放つ。貴重な休暇は精一杯活用するべきだ。数年ぶりの秘密基地探索は終了したことだし、どこかルブルム地方の街へでも繰り出して買い歩きをしてもいいところだ。
 しかし今、軍は大きな作戦を考えているようで、武官文官および候補生に関わらず作戦時以外の外出は極端に制限されている。つまり久々のショッピングに興じるという選択肢は最初から却下されている。
「何しようかなぁ? クラサメくんは、何がしたい?」
「特に。二人に合わせるぞ」
「いっつもそう言ってる。たまにはクラサメくんも提案してよ」
 エミナの無茶ぶりに「はぁ?」とたまらず声を上げたが、顎に手を添え数秒間考える仕草をしてみた後にクラサメは口を開いた。
「……トンベリの様子を見に行きたい。カヅサがいれば、研究室に入れると思うんだが……」
「確かに、ボクが言えば入れてもらえるとは思うけど……。エミナ君はそれでいいのかい?」
「当たり前だよ。ワタシもトンベリのこと、心配してるんだから! でもお見舞いにサンドイッチとか、持っていっても駄目よねぇ……」
「さすがにそれはボクが言っても許可が出ないだろうねぇ。まぁ、様子だけでも見に行ってみようよ。具合がよければそのまま連れて帰ろうか」
「すまないな、我侭に付き合わせて」
「ううん。だって、これ以上ワタシたちだけで遊んでたらトンベリに悪いもの。お見舞いで決定ネ」
 それがいい、とカヅサが口を開こうとした瞬間、視界の彼方から猛スピードで飛んでくる白い影が見えた。
「クポ! 丁度いいところにいたクポ!」
「……イヤな予感しかしないねぇ」
 眼鏡越しに捕らえたのは0組モーグリだ。慌てた様子でクラサメの周囲をぐるぐると回っている。モーグリが焦るといいことがない。それを身を以て知っているクラサメはがっしりその顔を掴み、「何事だ」と非常に面倒くさそうな顔で尋ねた。
「二人してひどいクポ! モグはただの伝令クポ! 軍令部長が怖〜い顔してクラサメ隊長を呼んでこいってモグをこき使ったクポ!」
「出頭命令か。モーグリを使って直接呼び出すということは、急ぎの用だな」
「それもろくでもない、ね。ホント御愁傷様。これでせっかくの休暇も終わりかなぁ」
「全くだ」
 汚れた服のまま軍令部へ行こうものなら余計な嫌味を言われてるに違いない。急いで自室に戻ってから軍令部へ向かえば何分かかるか、つまるところこのまま赴いてネチネチ言われるのと、呼ばれてすぐ応じなかったと文句を言われるのとどちがら軽傷で済むかを瞬時に考える。
「モグ、すまないがすぐに伺うと伝えてきてくれ」
 どうやら部屋に戻ることは諦めたらしい。モーグリが大きく「モグ使いが荒いクポ!」という非難の声と共に頷き、赤いボンボンを揺らして飛び去っていく。
「いいの、けっこう汚れてるよ?」
  目に見える範囲の泥を落とそうと裾を払う。エミナとカヅサも背中やマントについた砂埃を払ってやる。しかしその全てを払い切ってやることはできない。黒い二股のマントの裾は砂で白んでいる。
「着替えようとしたら全部着替えるハメになる。それだと時間がかかりすぎるな」
「そっか。これで……いっか。はい、できあがり。確かに急いだ方がいいのはわかるけど気をつけてね。トンベリのこともあるし、きっと軍令部長カンカンよ?」
 エミナは自らの頭を差し、戯けて笑った。
「だろうな。……説教がいつ終わるかはわからないが、今夜時間はあるか?」
「……ワタシは大丈夫だけど。カヅサは?」
「ボクも。久々の酒盛りかい?」
「あぁ。せっかくの休暇なんだ。最後まで肩の力を抜いてやる。久しぶりに三人で飲もう」
「……クラサメくんがそこまで誘ってくれるなんて珍しい。でも、いいね。じゃあクラサメくんがお説教されてる間にワタシたちでトンベリの様子を見に行っておくネ。頃合いを見て、説教が終わった頃にまた来るわ」
「そうしてくれ。トンベリによろしくな」
 トンベリは人語を解さないよ、と最後にカヅサは苦笑しながら言ってその砂埃を被った背中を見送った。





 二

「エミナ君は確か、皇国のお酒は嫌いだったよね」
「嫌いってほどじゃないけど、あんまり好きじゃないなぁ」
「だってさ、クラサメ君」
「わかってる」
 相変わらず何もない部屋だ。仕事用の机には書類が山積みで、汚い字で書かれたナインの報告書が一番上に見える。勿論真っ赤な再提出の印が見えた。手の込んだものは作れない為、リフレで作ってもらった料理の仕上げだけを済ませてクラサメは両手にバランスよく小皿を乗せてソファまでやってきた。
「カヅサ、そっちの棚に酒はあるはずだ。取ってきてくれ」
「わかったよ。……これかな?ブラック・タイガーとホワイト・タイガーと……これは? 見慣れないお酒だね?」
「蒼龍との国境あたりで飲まれているものらしい。従卒が故郷の親戚から送られてきたと言っていた」
「へぇ。なかなか興味深いね」
 瓶に貼られた黄ばみの多い紙には龍の紋様。透明な液体を早く味見してみたいとエミナは身を乗り出し、目をきらきらと輝かせた。
「クラサメくんさすが! おいしそうだなぁ。何が合うかしら? 夕食は?」
「私は食べていない。どうせお前たちもだろう?」
 彼がテーブルに下ろした皿に盛られたのは米に合うようなものばかり。濃いめの味付けであろう肉と野菜の炒め物に、海鮮のマリネ。この時間から食べるには如何せん油っこいものが並ぶ上に恐らくクラサメのことだ、白米も続いて出てくることだろう。
「ワタシも。そうだ。トンベリの様子、見てきたよ」
 予想通り再びキッチンへ向かったクラサメの後を追い、エミナはとても嬉しそうに告げた。今この場にいないということはつまり、まだ武装研にいるらしい。
「ねぇクラサメ君、この奥にあるのも飲んでいいかい?」
「構わない、全部空けてもいいぞ。それでエミナ、トンベリは?」
 未だに酒の棚を漁っているカヅサが最後に発掘したのはかなり上物の蒸留酒。ラベルは金色だ。
「それが、まだ調子悪そうだからって。咳、なのかなぁ……喉になにか詰まらせてるみたいな息してて、ホント人間の風邪みたいな症状だったよ」
「どれくらい掛かりそうだ?」
「さぁ? ワタシに魔物の知識はほとんどないわよ。カヅサ! どうだったっけ?」
 飲んでいいと言われた酒がよほど気に入ったのか、床に座り込み酒瓶を抱えているカヅサは首を傾げながら「ボクも分からないよ」と言う。
「魔物には詳しくないからね。一応話は聞いて来たけど、正直向こうもサッパリさ。早く君に返したいとこだけど、軍の連中がうるさくてね。三日ほどすれば返せるんじゃないかなぁとは言っていたけど」
「三日? 長いな」
「愚痴を漏らす相手がいないとそんなに不安かな? 軍令部長にまた嫌味でも言われた?」
 茶碗に盛られた白米を手にエミナは意地悪げに微笑んだ。カヅサの茶碗には普通に盛られているが、クラサメ自身のものには大盛りだ。山盛りと言ってもおかしくない。彼にしては珍しく、自棄食いに自棄酒でもするつもりかもしれない。
「嫌味じゃないさ。いつも通り無茶な命令だけだ」
「……また? もう、いくらクラサメくんが強いからって軍令部長って意地が悪いよね」
「そんなことより早く飲もうよ〜」
「もう、カヅサってばそんなにお酒が飲みたいの?」
 彼はだらしなく瓶に頬をすりつけている。
「……仕方ないな。今日は愚痴無しだ。カヅサ、飯を持っていくからもう少し辛抱してろ」
「やだよ〜もう飲んじゃったよ」
「……嘘だろ?」
 嘘ではないらしい。テーブルの上には空になり、内側に水滴のついたコップと少し減った酒の瓶。呆れてため息を漏らしながらエミナとクラサメが茶碗と揚げ物の乗った大皿を両手に乗せてくる。
「せめて乾杯ぐらいしようよ。ま、カヅサがフライングするのもいつものことだけど」
「だな。何を言っても無駄だ。まぁいい。腹が減ってるんだ。私も早く食べたい」
「……クラサメくんも似たようなもんか。ホント、あなたたちといると飽きなくて楽しいわ。さ、いただきます!」
 ソファがあるというのに、地べたに座り込んで両手を合わせ食への感謝を捧げた直後にスタートダッシュ。できたての唐揚げを頬張る。クラサメが軍令部に呼び出されている間にリフレのマスターに頼んでおいて正解だったようだ。事情を把握していたのか、慰めのつもりにとマスターは多めに盛ってくれたようだ。
 新鮮な野菜スティックも一緒に口へ運ぶと、カヅサが「味が消えちゃうよ〜」だの言ってくるが彼は酔っぱらいだ。食べるよりも飲む方に精を出している。
「クラサメく〜ん、ちゅーしてよ〜」
 そう言い、拒否の返事が来るよりも先にクラサメの頬へキスを見舞う。「ずるい、ワタシも!」と、エミナも身を乗り出しテーブルを跨いで反対側の頬へ触れるだけのキス。
「二人とも、酔ったフリをするな」
「だって最近クラサメ君が足りないんだよ。忙しいのはわかるけどさぁ」
 肘鉄を回避し、行儀よく米を食べていたクラサメのがら空きになった腰に狙いを定めてカヅサは倒れ込む。邪魔だと言われたところで退くはずがない。
 ぎゅうとその腰を抱きしめると、クラサメの足が崩されて蹴り退けようとし始める。ローテーブルの下で繰り広げられているくだらない攻防にエミナはくすくすと笑いながら身を戻してマリネに箸を伸ばす。
「やだ、これおいしい!」
「マスターのオススメらしい。トレイがいつも食べていてな」
「へぇ。生徒の好みも把握してるなんて、見上げた隊長じゃない」
「ボクはクラサメ君の色んなこと把握してるよ」
「お前は飯を食べろ。冷めるぞ」
 文句を言えば渋々カヅサは腰から腕を解いて座り直す。空きっ腹に酒を流し込み転がっていたのがまずかったのか、起き上がったカヅサの頬は僅かに色づいている。
「食べさせてくれたりは?」
「しない」
 言葉ではばっさりと切り捨てられたが、あーんとカヅサが口を開けば肉がやってくる。それに満足したのかカヅサはようやくしんなりしたキャベツと肉を白米に乗せ、食べ始める。醤油をベースにした味付けは素朴であったが朱雀の人間なら誰の口に合うレベルで食べやすいものだ。
 ぽんぽんと隣で唐揚げを侵略していくクラサメに、ひたすら気に入ったのかマリネのイカだけを集中攻撃していくエミナを横目にカヅサはキャベツだけを取り分けていく。
 食べては、酒。酒が無くなればグラスになみなみと注がれる。
「カヅサ、飲み過ぎ」
「全部空けていいって言ったのはクラサメ君だよ」
「飲めとは言ってない。……まぁ、飲むなら好きにしろ。けれど明日は朝から授業だからな。あまり付き合わないぞ」
「ワタシも明日は模擬戦闘の手伝い。飲み過ぎない程度にしておくね」
「……二人ともつれないなぁ」
「あんまり飲み過ぎると次の日大変なことになるからね。もう若くないんだし、無茶はしないつもりよ」
 イカを食べ尽くし、次はエビチリだ。無茶はしないと言いながらもエミナの胃袋には次々に油っこい食事が蓄積していく。
「そういうエミナ君も胃もたれしても知らないよ」
 カヅサのキャベツを奪い取る。肉も食べなさいよ、と注意すれば皿に残った肉はクラサメが無言で次々に取っていく。見事な連係プレイで野菜炒めの皿はあっという間に空になり、次の狙いはエミナが独り占めしているエビチリだ。カヅサが器用にレタスだけを引きずり出した。
「もう、カヅサは野菜ばっかり食べないの! クラサメ君は野菜も食べなさい!」
「だってクラサメ君は肉が好きで、ボクが野菜が好きなら分担した方が効率いいじゃないか」
「良くないわよ!」
「カヅサの言う通りだ。お互いの利益が守られているんだ、何ら問題ない」
「……クラサメ君も酔ってるじゃない。もう、ここには酔っぱらいしかいないのかしら」
 苦言を盛らせてみせたが、エミナも上機嫌だ。
 次々と空になっていく皿に、減っていく酒。クラサメがことあるごとに土産で買ってくる酒は消費量に釣り合わずどれだけ飲んでも瓶が減ることはない。それをいいことにカヅサは調子に乗ってぐいぐいと飲み進めていく。あっという間にボムのような顔色だ。
 エミナも従卒の少女にもらったという酒を飲んでいるものの、水の代わりに飲むような真似はしていない。
「そのうち寝ちゃいそうね」
「全くだ。部屋まで連れて帰るのが面倒になる」
「そのままここで寝かせてあげれば?」
「明日は早い。ちゃんとカヅサの部屋まで連れていった方がいいだろう」
「……なんだかんだ言って、クラサメ君面倒見いいよね。そういうところ、大好きよ」
 酔っぱらいの妄言だ。しかしエミナは至って真顔で、いつの間にかクラサメの膝に頭を乗せてうとうとし始めたカヅサの髪の毛をいとおしげに撫でている。
「……昼間はありがとう。なんだか、少し不安になってたみたい」
「?」
「本格的な戦争状態になるのがね。今以上に三人で居られる時間が少なくなっちゃうんだもん」
 そう言いながらエミナは紙袋から小さな瓶を出した。何が詰められていた瓶なのかは知らないが、今は液体の中に黄色いスライスされた何かが漂っている。
「それは?」
「生姜の蜂蜜漬け。ハニージンジャーよ。なんだか、急に食べたくなって昨日作ったの。良かったら食べてみない?」
「もらおう」
 瓶に指を突っ込んで欠片を拾い上げれば、とろりと蜂蜜が指に絡み付く。素手を入れないでよ、とエミナが咎めたがもう遅い。甘くなった生姜を頬張ると共に、指にこびりついた蜂蜜を丁寧に舐めていく。
「おいしい?」
「……思ってたよりは辛いな」
「だって元が生姜よ。これ、お裾分けに置いておくね。お酒のお礼よ」
 たくさんの皿が並んだテーブルにゴトリと置く。立ち上がり、そのソースがこびりついた皿を持ち上げたということはそろそろお開きのつもりだろう。クラサメも手伝おうとしたが、膝の上に頭を乗せているカヅサはあっという間に眠ってしまったらしい。丁寧に眼鏡を外しシャツのポケットにしまったまま真っ赤な顔をして眠りこけている。
「いいよ、お皿はワタシが洗っとく。クラサメ君はカヅサが起きないように適当にあやしといて?」
 狭いキッチンに複数人立つスペースはない。
 分かってはいるが、エミナ一人に油のこびりついた皿を洗わせるのは心苦しい。しかし膝の上にあるカヅサの頭を床に叩き起こすこともできれば避けたいところで、意を決してクラサメはそっとその頭を朱色のカーペットの上に下ろしてやる。何やら寝言を漏らしたが、それを聞き取ることはできない。
 ガチャガチャと割ってしまわないか不安になる音を立てて皿を洗うエミナの後ろ姿を確認してから、クラサメは仕事用とは別の机に乱暴に散らかっている書類の中から一冊のノートを引きずり出した。
 そのページをぺらぺらと捲り、新しい白紙のそこにペンを走らせる。
 スポンジの音が止み、聞こえてくるのは再び流水音。
「エミナ」
「なぁに?」
 泡だらけになった唐揚げの皿を洗い流し、狭い食器立てに並べていく。
「渡したいものがあるんだ」
「クラサメくんがプレゼント?珍しいね」
 水を止め、彼女は真っ白なタオルで水滴を拭き取る。武器を握ることが極端に少ないエミナの指は美しいままだ。
「……これを」
「ノート? 随分古いね」
 しかしそれを差し出すクラサメの表情は至って真面目だ。つい先程まで酔いが回り上機嫌になっていた彼とは思えないほどに真剣な眼差しにエミナは当惑した。
「カヅサには黙っていてほしい」
「……どういう意味かな。ただごとじゃないね。読めばいいのかな?」
「ただごとさ。今読んでもらっても構わないが……できれば私のことを忘れた頃に、読んでくれたら助かる」
「それ、本当にどういう意味」
 平坦な物言いにエミナの顔は凍り付いた。床で眠るカヅサが起きる気配などなく、二人はじっと見つめ合ったまま動かない。彼女は差し出されたノートを受け取れないまま手だけが空に浮いている。
「言葉のままだ」
「……軍令部長に何を言われたのか、聞いてもいい?」
「何も。ただ、戦果を上げろとだけ」
「今度の作戦、ルシが動くって聞いたわ」
「耳が早いな」
「シュユ卿は以前から参戦されていた。改めて騒がれるってことは、次に動くのはきっとセツナ卿。……ルシ・セツナは召喚士よ」
「そのルシの支援を任されるだろうな」
「死ぬの?」
「さぁ」
 クラサメは再び手にしたノートを差し出した。仕方なくエミナはそっとそれを受け取り、大切に胸に抱く。
「クラサメくんのことを忘れてこんなものを見たって、誰のかわからないよ」
「それならそれでいい」
「……ワタシは、これを読んだあとどうすればいい? カヅサにはいいの?」
「好きにしてくれたらいい。読まずに捨ててもいいし、燃やしてもいい。……ただ、カヅサにはエミナが読むまで黙っていてくれ。バレると厄介だ」
 厄介だなんて、とエミナは驚いた声を出したが、悪戯っぽい笑みを浮かべるクラサメを見てすぐに破顔する。
 武官の任務内容を文官に教えることは原則禁止だ。よもやこんな時勢だ、不確定の作戦内容を漏らすのはもっての他。更なる上には中身が中身だ。ルシの支援に回ると少しでも言ってみろ、カヅサは何をしだすか分からないとクラサメは言った。
「そりゃそうよね。まぁ、援護に回ってもクラサメくんのことだもの、けろっと帰ってくるかもしれないんだし」
 そんな希望的観測と共にノートを受け取ってくれたエミナに満足したのか、クラサメは寝息を立てているカヅサを背負う。まだ時計の針は日付を跨いで数刻しか経っていないことを示しているが、これ以上飲み続けたところで悪酔いするだけだ。
「カヅサの荷物は……ないみたいね。仕方のない寝虫はさっさと部屋まで送っていこっか」
「そうしよう」
 幸せそうにクラサメの名を漏らしながらすぅすぅと眠るカヅサを背にして、クラサメはエミナの開けてくれた扉をくぐった。





    終点



 一

 嵐の月、風は少しばかり生温い。それは日が暮れてからも変わらぬことであり、院の消灯時刻を過ぎて見回りを終えたクラサメは少し蒸し暑そうに顔をしかめた。
 ビッグブリッジ突入作戦と名付けられた作戦が決行されるのは近い。既に軍の配備は終わり、明日の朝から順次出撃することになるだろう。クラサメの率いる部隊が出発するのは深夜になってからだが、なんにせよこの夜がトンベリと揃いのランタンを持つ最後の見回りということになる。
 相も変わらずリフレの菓子を賭けてボードゲームに興じる1組の生徒に拳骨を加え、逃げ回るクランベリーナイツの色とりどりのボンボンを掴んではそれぞれの揺りかごに投げ込んでいった。トンベリが女子寮で寝付こうとしないケイトに包丁を向けて笑えない脅しをかけてみたり、案外寝相の悪いサイスにブランケットをかけてやるのも恐らく最後だ。
 見回りの終わりはいつも0組の棟。夜は案外静かな彼らであったが、扉を開けた瞬間にガサガサと何かを隠す物音。ジャックが菓子袋を布団に引き込んだ音だろう。その奥でバサリと雑誌を枕の下に突っ込んだのはきっとキング。隣の部屋からは内容までしっかり聞き取れる程大きなナインの寝言がやってくる。どうやら彼は夢の中でトンベリに包丁を持って追い回されているらしい。
「……全員、寝たな?」
「「「寝ました」」」
 揃えてそれぞれのベッドから聞こえてくる了解の声。いつもと変わらぬその様子にクラサメは満足げに微笑んだ。どうやら小さい頃はドクター・アレシアに厳しく躾られ、夜更かしするなら音を立てないことが彼らの鉄則らしい。
 廊下のランプを消し、女子寮を回ったトンベリと合流する。
 口数少ない(というより、言葉を話さない)相棒は大事そうに抱きかかえられご満悦だ。その様子では、0組の女子達も『静か』にしていたらしい。シンクあたりは物音を立てて盗み食いをしていそうだが、許容範囲だ。
「さぁ、あとはエントランスを見回れば終わりだ。お前はいつも通り、クリスタリウムを頼む」
「……」
 こくりと頷き、腕から飛び降りて駆けていく。
 短い足では階段で転んでしまうだろう、と毎回思う度に視界の端でかわいげな音を立ててトンベリは転がっていく。いい加減ゆっくりでいいからちゃんと階段を降りるように躾なくてはいけない。
 後に続くように階段を下りていき、大魔法陣を構えるエントランスへ辿り着く。ランタンを放置して、クリスタリウムの方向へトンベリが走っていくのを視界に入れるとそれとは反対方向、0組の教室側へ足を運ぶ。ケイト達が課題を教室に放置するのはいつものことだが、たまに機密書類まで机に置いていくものだからタチが悪い。
 しかし、談話の為に設けられたスペースを脇にして歩いていく途中、小さな衣擦れ音が聞こえて来た。
 大魔法陣からではない、扉の開く音が聞こえたので、軍令部か噴水広場から誰かがやってきたらしい。ずっずっ、と重い音と共に、クラサメが振り返るより先に声が投げられた。
「お前は?」
「お前こそ誰だ? ……これは……セツナ、卿? 申し訳ありません」
 突如響いた声は聞き慣れない女のものであり、慌ててホールまで戻るとクラサメの瞳に映ったのは長いドレスのようなスカートを引きずる女の姿だ。長い髪の毛を後頭部で緩く結わえ、生気のない瞳をクラサメに向けているのは紛れもなく朱雀のルシ。セツナという名を以てして呼ばれるその女性は軍令部からエントランスへと繋がる階段をゆっくりと降りていき、まっすぐと視線を離さない。
 足元を見ていないにも関わらず転倒もせずに階段を降り切った彼女は頭を下げたクラサメの目の前で立ち止まった。
「面を上げろ。……その顔、お前も軍の者か? 見覚えがある」
「はっ。この度、セツナ卿の召喚部隊を指揮することになっております」
 候補生であった時に一度か二度見かけたことがある上、つい先程も軍令部での会議で顔を合わせたばかりだが、こうして一対一で言葉を交わすのは初めてだ。人間の形をし、人間の言葉を話しているというのに若干の違和感を与える彼女は瞬き一つせず、再び尋ねる。
「名は」
「クラサメ。クラサメ・スサヤといいます」
「そうか」
 名を聞いたのは彼女であったのに、これっぽちの興味も無さそうな表情だ。既にその視線は広い広いエントランスの天井にある。最低限の照明しか灯っていない広場は昼間と違い、生徒達の笑い声も兵士の怒号も各組の隊長が生徒を追い回す姿もない。
「弱き人の身はもう眠れ。明日の夜、満月が昇るより早く事が動くのであろう?」
「では、正面ゲートまでお送り致します」
「不要だ」
 きっぱりと即刻告げられたのは拒否の一言。
「しかし、いくらルシであられるとはいえ、女性をこのような時間お一人にはできません」
「…………女か。私は、朱雀のルシ。人を捨て、過去を捨て、道理を捩じ曲げた存在であるぞ?」
 長い長いスカートを引きずり、セツナは歩き出した。
 大魔法陣は常時起動しておりぼんやりと橙色の光を浮かべている。同じ色をしたセツナの髪の毛が更に彩度が高くクラサメの目に映る。瞬き一つ、口元の表情の一つすら見せないのは確かに気味が悪く常軌を逸した存在であることを実感するが、それ以上に暖色の光に照らされた頬が、桜色をしていた唇が、翡翠の色をした瞳が同じように人間離れした美しさも醸し出していることにも気付く。
「それでも、女性は女性でしょう」
「傀儡(かいらい)に区別などありはしない。私はただ、アギトたる道を開くための駒。……そして、汝は駒がための贄となる」
 陶器のように美しく長い指がクラサメの額を指す。
「失礼ながら、私はセツナ卿の御心を全て解すことはできません。しかし、あなたがクリスタルの駒であろうと我ら人間が贄となろうと、全ては朱雀のため。その結果この朱雀が繁栄するのであれば、喜んでこの身を捧げましょう」
「よくもそう白々しい戯れ言を垂れるのもまた人故、か……」
 人間であれば顔をしかめていたのであろう。セツナはその指を下ろし、先程よりも早足でクラサメのすぐ近くまで歩んでくる。
 そしてそのまま彼の隣を通り過ぎ、エントランスの扉の前で立ち止まると振り返ることなく、ただ「来い」とだけ告げた。



 噴水広場を通り抜け、悠々と芝生を横切る。淑やかな女性だと思い込んでいたのだが随分と大雑把なことをする。建物の裏を大きく迂回し、やはり一度も振り返らずにセツナが辿り着いたのは墓地だ。当たり前ではあるが野外に光はなく、足元をよく見なければトンベリのように階段から転げ落ちてしまいそうだ。
 しかしルシであるからか、セツナは難なく石の階段をすたすたと降り、長い長いスカートの裾を踏むようなこともなく整然と並ぶ墓石を背中にしてようやくクラサメの方へと体を向けた。
「汝は屍となりてこの地へ埋められる」
「……はい」
「或は死体すら残らぬかもしれぬ。……自らを示す標(しるべ)すら残らぬかもしれぬ」
「承知の上です」
「では、問おう。汝らが心酔するクリスタルが、汝らを裏切ろうとも、自ら贄となるか?」
「意味が、わかりません」
 ようやく目が慣れて来、クラサメも石の階段をゆっくりと降りる。
 秘匿大軍神の召喚が何を意味するかなどは知っているつもりだ。軍神を召喚することは死を意味し、秘匿大軍神となれば捧げられる命の数は膨大だ。前線で戦う為でなく、ノーウィングタグの回収を使命とする8組が多く召喚部隊に組み込まれているということは、『そういうこと』に違いない。
 ビッグブリッジ突入作戦が提示され、軍令部長の態度と併せて考えた際に薄々は感じていたことだったが、正式に召喚部隊の指揮を執るよう通達され人生の終わりがハッキリと見えたのだ。
 理由はどうであれ、どんな大義であれ死は避けられない。今更ルシに何を言われようが変わらないことは重々承知の上だ。
「唯の……そう、消し炭程の興味だ。何故虚勢を張る? 何故嘘で自らを鼓舞する? 他人への執着がそれ程までに重要か?」
「……ルシであるセツナ卿には、人間の心を解すことは露ほどもできないのでしょう」
「無論」
「ならば、この私の心もわからないのでしょう」
「……」
「申し訳ありません。ご無礼を、お許しください」
 はっとした表情になり、慌ててクラサメは頭を下げた。しかしセツナにはなんのリアクションもない。
「続けろ」
「は?」
「その矮小な心を聞かせろと、言っている。もう一度問う。お前は何故、己の感情を偽る?」
 汝、ではなくお前と。逃げ切ることを許さない強い口調で問われ、クラサメは眉根を寄せた。緊張と困惑でうまく整理できない脳味噌から言葉を選びながら口を開く。
「あなたがおっしゃる通り、死を恐れぬはずがありません。この場所に眠る無数の同胞(はらから)と同じように、全てを忘れられることが恐ろしくないはずがありません」
「では何故、恐れを見せぬ」
「朱雀に、否クリスタルの加護を受けている者たちが皆抱くものだからです。いずれ死に、いずれ忘れられるのであれば遅いか早いかなど大したことではありません」
「……何のために、お前は死を選ぶ?」
「それによって守られるものがあるからです」
 つい、とセツナは不意に顔を背けた。
「そのものすら、いずれ消え去る」
「セツナ卿?」
「どこまでも下らない。汝が守ろうと願う者は、白きクリスタルの使徒だ」
 どこまでも起伏のない言葉にクラサメは眉を寄せた。誰の事を言わんとしているか分からない阿呆ではない。セツナが指摘した通り、マキナが白虎のルシであることは薄らながら分かっている。
「それでも、と申し上げれば?」
「……彼の者のように、クリスタルから逃れることもできるはず。朱雀を去ることもできたであろう。何故、生を選ばない」
「選んだ先には、未来がありません」
「ほう?」
 そこで初めてその声音に感情に色づいた。
「セツナ卿に比べれば、私が生きた時は刹那でありましょう。けれど、その中で私は何度も道を違えました。……最期の道だけは、違えたくないと思っています。例えそれが、朱雀のためと言い張る自己満足であろうとも」
 夜は更け込んでいく。研究の為かはたまた夜遊びかは知らないが、院の窓に灯る光の数は数える程だ。
「その道を選ばせたのはルシたる私。怨むなら怨めばよい」
 暗がりで表情は見えないままであったし、恐らく眉一つ動かさずに言っているのであろう。
「あなたを怨むのは筋違いです。誰も怨むべきではない。…この死に方を選んだのは私自身であると、どうか思わせて下さい」
 セツナは口を閉ざす。長く感じられる、わずかな時間の後に彼女は生気のない唇を動かした。
「……斯くも、」
「セツナ卿?」
 彼女は振り返る。
 ルシである彼女に感情の変化が見られるはずはない。しかしその声音は悲哀のような感情が滲んだように聞こえる。
「人とは斯くも、美しいものか」
「どう、なされました?」
「どこまでも愚かしく、どこまでも醜い。私が往時に果に置き去りにしたものを、お前は持っているようだ」
 月明かりは夜の闇を控えめに照らしている。
「暁天は近い。戻るがいい」
「しかし……」
「言ったろう。私は最早人を捨てた身。お前のその果てのない感情を羨む心すら持たぬルシ。……去れ」
「……は」
 クラサメは納得いかないような表情を浮かべたが、ルシである彼女に逆らうなど恐れ多い。こちらをじっと見つめたままのセツナの視線から逃れるように踵を返し、墓地の階段を上がる。
「クラサメ」
 少しだけ大きな声で彼女はその名を呼んだ。
 立ち止まり、振り返るよりも先にセツナは真っすぐと背中へ視線を焼き付けたまま続ける。
「私は必ずお前を贄とし、秘匿大軍神を喚ぼう。お前の誓願を果たしてみせよう。お前の案ずる通りとしよう」
「……その心、感謝します」
 足を止め、クラサメは頭(こうべ)を垂れることなく小さく呟いた。





 二

 土煙が上がる。
 無数の悲鳴と怒号が風に紛れ、細かい砂と共に吹き付けてくる。
 カヅサやエミナと魔導院の奥へ入り込み森を探索したあの日のように、上着の裾は汚れている。
「…彼らなら、きっと任務を完了してみせるだろうな」
 足元で主を見上げるトンベリにそう語りかけると、その場に屈んで長年連れ添った相棒を抱きしめた。感傷に浸る時間はもうとっくに終わっている。暫しすれば召喚部隊の候補生や訓練生が集まってくるだろう。
 カラーマントを夢みた訓練生や、死者の尊厳を守る役割を担った8組やエミナの出身である6組の候補生達。恐らく魔力を持っているものの前線で戦うには適さない者達が招集され、その中には魔導院に入学して一年にも満たない子供だっているはずだ。
「私は幸せ者だ。最後の魔力を失うまで、朱雀のために生きれるなら」
「…」
 緑色の魔物はこれから迎えるあろう主の結末を解してしまっているのか、すりすりと冷たい金属のマスクに頬を寄せてくる。
 既に部屋の片付けは終わっている。自慢だった1組の空色をしたマントも、すっかり袖が短くなった制服も畳んで箱に入れた。トンベリの処遇については武装研に一任すると手紙を書き、できることなら死体はカヅサ・フタヒトの研究に役立てる旨も諜報部に連絡してある。後片付けを他人にさせることはないはずだ。
「お前が人間の言葉を話せなくて助かったかもしれない。……独り言でいい、少しだけ…聞いてくれないか?」
 そう言うとトンベリは肯定を伝えるかのように短い手足を突っ張ってクラサメの体に張り付く。くすりと微笑みながら、彼は続けた。
「カヅサとエミナは……きっと私を忘れる。0組の彼らも、無愛想な隊長が居ただなんて覚えているはずもない。それがこの世界の、オリエンスの道理だ。……けれど、本当は忘れられたくないさ。だから最後の休暇には二人を誘ってここぞとばかり柄でもないことをした。少しでも……彼らの記憶に残りたいと思った」
 更に腕に籠められる力が強くなる。
「お前にだって、本当は忘れられたくない」
「……!」
 トンベリは激しく首を上下した。人間の言葉を解している筈もないが、長い年月を共にしていたその魔物は口調と瞳の表情だけで伝えたいことがわかるらしい。その仕草を以てして忘れるものかと伝えようとしているようだ。
 そんないとおしい相棒の気持ちを受け取ったクラサメは丸い頭を撫でてやる。
「お前がそう思ってくれるだけで……十分だ。……候補生になってから……ずっと一緒だったんだ。武官になってからはあまり共にはいられなかったが、私がいなくなったら……彼らは、違和感を持ってくれるだろうか」
「……?」
「いや、忘れてくれ。何を言っても仕様のないことだ。お前はこのまま戦場へ向かえ。0組の支援だ」
「!」
「カスミからの通信によれば、コロッサスと新型の鋼機だらけだそうだ。お前は小回りが効くし、サンダガの魔法が役に立つ。いいな? もうランタンをどこかに忘れるなよ。包丁の刃こぼれはカヅサに直してもらえ。エミナからあまり餌付けされるな、太るぞ。シンクの悪戯は度が過ぎているから、甘噛み程度なら許す。たまにはサイスと一緒に飯でも行ってくれ、彼女も喜ぶ。ナインの居眠りには脳天に一撃かませ。……これでは私が未練がましいだけだな。許してくれ」
 肩のベルトにしがみついて離そうとしないトンベリを引きはがすと、地面に立たせてやる。小さな友人ともここでお別れだ。
 最後にその小さな頭を撫で、「行け」とクラサメは短く命じた。弾かれるように、転がるように数分前に0組が駆け抜けた坂道を疾走する魔物の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、同時に反対方向から緊張した面持ちの訓練生が現れたのを確認する。
 色のないマントを纏った生徒が更に二人、黄色のカラーマントが三人。皆が皆、召喚の為の生け贄となることは理解しているはずだ。
 まだ成人もしていない彼らの方がよっぽど頭がいい。どこまでも無垢な心で朱雀の勝利に貢献するつもりだろう。
「クラサメ隊長……」
「まだ集合時間まで少しある。畏まる必要はない、今は好きなだけ友人と話していればいい」
「……ルシは、まだいらっしゃらないのでしょうか」
「セツナ卿は時間となればお見えになるだろう。お前たちが気にすることではない」
「す、すみません……」
 どうやら怖がらせてしまったらしい。0組には最初からナメてかかられていた為すっかり忘れていたが、他の候補生には鬼だの鉄面皮などと言われていた。その訓練生の態度がとても懐かしく感じられる。頬を緩め、幾分か柔らかい口調になる。
「すまない、怒っている訳ではない。セツナ卿はルシであられる。我々とは違う時間を生きるお方だ。皆の準備が整い次第お見えになる」
「そう、ですか……」
「……お前は何組志望だったのか、聞いてもかまわないか?」
 うなだれる訓練生は力なく「11組です」と告げた。
「自分は戦闘に向いていません。武装研究ギルドに所属し、一人でも多くの候補生や、朱雀兵の方々が帰還できるように防具の研究をしたかったんです」
「……武装研、か」
「それに、個人的なことを言えばカヅサ主任の元で研究をしたかったんです」
「カヅサの?」
 クラサメは思わず目を丸めた。
「はい。主任人間を作り出す、そんな途方もない技術を魔法と科学をもって確立させようとしているんです。戦争が終われば、自分も挑戦してみたいんです」
「……そうか。いい夢だな」
「はい、夢でした。秘匿大軍神が召喚され、朱雀が勝利すれば戦争も終わる。そうすれば、自分が叶えられなかった夢を他の誰かが叶えてくれると信じることにしました」
「殊勝な心がけだ。必ずこの戦、朱雀が勝利してみせる。ジュデッカにはシュユ卿も参戦なされているし、セツナ卿は必ず秘匿大軍神の召喚に成功される。……大丈夫だ」
 そうあってほしい、とクラサメは内心苦笑した。戦場に絶対などありはしないと以前ナインに説いたこの口で確信を口にするとはとんだ天の邪鬼だ。
 顔を上げれば不安げな表情、勇ましい表情、恋人同士であろうか手をつなぎ合った男女。クラサメよりもずっと幼い子供達が見えてくる。きっと死はすぐそこだ。しかしあの月夜にセツナが毅然とした態度で死なせてやると言ったのだ、何も心配することなどない。
「(唯一つ、心残りがあるとすれば……きっと……)」
 次々と少年や少女が集まる中、彼はそっと目を閉じた。





    点と線



 一

 エースがまた墓地で歌を口ずさんでいた。
 死者への弔いか鎮魂歌かと本人は言っていたが、何の為の歌であるかなど興味の対象外だ。今必要なのは彼の歌声ではなく記憶だ。その記憶の中でも、クラサメに関するものが得られればそれで問題ない。
「……また、研究室へ行けばいいのか?」
 誰かの背後に立てば気配を消す癖に、誰かに背後に立たれれば一瞬で気付くのは流石といったところだ。
「そうだね。頼むよ」
「僕を含めて、みんな何度も行っているけれどまだ足りないのか?」
「あぁ。まだまださ。足りないところの方が多いんだ。そういうことだから、時間潰しだと思って付き合ってくれないかな。メガエーテルくらいなら渡すよ」
「報酬が欲しくて協力してる訳じゃないさ。それに、アンタが蘇らせようとしてるのは僕たちの隊長なんだろう? ……僕らに拒否する理由はない」
 カヅサが近づいた為に中断されていたが、牧場からエントランスへ繋がる魔法陣へと歩きながらエースは再び歌い始める。誰が何の為に作った曲かなどカヅサには知る由もなければ、その歌詞に意味があるのかすら分からない。それでも友人の小柄な教え子が口にするその歌はどこかノスタルジックに感じる。
「先に行っておいてくれないかな。……ベッドの脇に薬があるから、飲めばすぐ眠くなるよ」
 返事の代わりに手が挙がる。
 遠ざかり、やがて消えていくその歌を耳に残しながらカヅサは元気に走り回るチョコボを眺めた。外の空気を吸うのは久しぶりだ。あのクリスタリウムの奥にある研究室に居れば時間の経過も気にしない限り分からないし、腹が減れば味を気にしないという前提で支給品のインスタント食糧がある。シャワーを浴びることだって、トイレを済ますことだってできる。かなり長い間引きこもっていたなぁ、と思い返せば一週間近く研究室から出ていないことに気付き、外の空気を吸うついでにエースを探しに来たのだ。
 チョコボ独特の獣臭さが充満するこの場所があまり好きではなかったが、武装研の一でもある牧場を訪れることはよくあり、もはや慣れ切ったものだ。
「……懐かしい、のかな」
 カヅサの脳裏を横切ったのはスカートなどおかまい無しにチョコボを乗り回してみせるエミナの姿だ。きっとその姿の他に、クラサメもいたはずだが黒く塗りつぶされたように思い出すことはできない。まるで最初から二人しかいなかったような気分だ。
 カヅサは息をついた。
 何度試したところでうまくいかない。
 理論は合っているはずだ。できる限り多くの人間からクラサメに関する記憶を抽出し、それを人格とすればいい。触媒はエミナに頼んで手に入れてもらったノーウィングタグ。意識を定着させることができれば、記憶を元として形作られたクラサメが復活するはずだ。
「人そのものを作るんだ、簡単にできるはずはない……」
 人命に関わるような実験がそう簡単にうまくいってはたまらない。それは分かっているつもりだ。しかし、今やカヅサの中に占めている思いはそれしかなかった。今まで訓練生、候補生であった時に得られた魔法の知識も文官となって研究より得られた理論も、死ぬまで約束されている時間も全てを捧げるつもりだ。
 記憶にない、既に架空にも近い人間を作り出そうだなんて何かの宗教かもしれない。クラサメはその唯一神で、カヅサはそれを崇め道を踏み外し現世に呼び出そうとでもしてるイカれた狂信者かもしれない。そんなくだらないことを考えてみれば、自然と笑みが漏れる。
 しかし実際のところ、今まで以上に『武装研のカヅサは危ない』と言われており、声を掛ければ生徒に逃げられる。0組の少年少女達は快く協力してくれるが、それっきりだ。様々な理由をつけて他の組の生徒や、タチナミ達武官を眠らせては記憶を覗いてみるものの、そこにクラサメの面影はない。焦り始めていることに否定できない。
 だからといってそんな理由をつけていつまでも考え続けている訳にもいかない。眠っているだろうとはいえエースをいつまでも待たせる訳にもいかない。カヅサはそっと戯れるチョコボから目を離し、エントランスへの大魔法陣に足を踏み入れる。
「まだ、あと少しだけ記憶が足りないんだよなぁ……」
 一気に周囲の景色は魔導院の中となり、エントランスから次はクリスタリウムへ。腕を組片手を顎に当て、あぁでもないこうでもないとぶつぶつ呟く。
「あ、あの、あの!」
「いや、待てよ……この間は軍令部長の記憶で失敗したんだから…」
「あの、カヅサさん!」
 クリスタリウムへと続く短い廊下に少女の控えめな声が響く。
「……ん? なんだい? 君は確か……」
「デュースです。0組の、デュースです」
 何度か声をかけられていたらしい。やっと気付いてくれましたね、と彼女は曖昧に微笑んだ。
「…?あ、ごめん、デュース君。つい考えごとをしていてね。どうしたんだい?」
「エースさんを見ませんでしたか?授業がもう始まっているのに教室に来ていないんです」
「今から授業だったのかい?てっきり今日は休みかと……」
「じゃあ、カヅサさんの研究室ですか?」
「あぁ。ついさっき先に行って寝ておいてくれって言ったところだから、中々起きないとは思うんだけど……。授業があるとは知らなかったよ。すまないね」
 いいんです、とデュースは微笑んだ。
「カヅサさんの研究室にいるなら大丈夫です。てっきり、マキナさんみたいにどこか行ってしまったのかと思って、少し心配してたんです。エースさんに限ってそんなことはないと思うんですけれど」
「……そうかい。それより、君は授業があるからエース君を呼びに来たんだろう? 叩き起こそうか?」
「本当にいいんです。モーグリさんの授業、必死なのはわかるんですけど……内容が全く頭に入らなくて。それならカヅサさんの研究をお手伝いしていた方がいいと思うんです。それをわかっていてエースさんも行ったんでしょうし」
「優等生だと思っていたら、悪い子だね?」
「だって、わたしたちの隊長は、あなたにとって大切な方だったんですよね?」
 少女の真っすぐな眼差しは真剣そのものだ。
 こうして話をしている間にもモーグリは教室で意味不明な言語を書き連ねているだろうし、エースは不思議な夢でも見ているだろう。しかし目の前の彼女はそのことを気にした様子など無く、手を組んでいる。更なる上は「ここではなんですし、研究室までお邪魔してもいいですか?」だなんて言ってくる始末だ。
 断る理由もなく、カヅサはクリスタリウムへと足を運ぶ。
 楽しげに話掛けてくるデュースを伴ってクリスタリウムの扉を開けば、また拉致でもしてきたのかという文官の冷たい視線。
「わたしたち0組は、できる限りのお手伝いをするつもりです。だから、」
「わかってるよ。ボクはボクができることをする。……でも、驚いたなぁ。君たちの中には、ボクが思っていた以上にクラサメ君が残っていた。そんなにも彼は、君たちにとっていい隊長だったのかい?」
「はい」
 奥の本棚が動き、研究室へと至る廊下が見えるまでの時間すらかからない即答だ。澱みなく答えたデュースは更に続けた。
「隊長が亡くなって、わたしたちの組に新しい指揮隊長は来ませんでした。それで、作戦の前に今までの任務記録を見返してみたら不思議な感覚になったんです。軍の記録の上で隊長は白虎で孤立したわたしたちを放置していたし、作戦評価もとても厳しかったことになっていたんです」
 Sランクなんて数えるほどもありませんでした、と彼女は恥ずかしそうに笑んだ。
「……だけど、どうしても気になって調べ直したんです。そんなにいい人じゃなかったら、どうしてわたしたちの記憶にたくさん残っていたんだろうって。だから諜報部のナギさんに頼んで、公の記録に載らなかったことを教えてもらったんです。そしたら隊長、見えないところでわたしたちをずっと助けてくれていたってわかったんです」
「へぇ」
「白虎から帰れなくなった時、軍令部長に頼み込んで帰還してすぐそのままわたしたちを迎えに来てくれたのも隊長だったんです」
「……君たちには思い入れが強かったみたいだね」
「はい。そう思うことにしています。それに、モーグリさんの授業を受けるようになってから全くわからなくなって、今までのノートを読み返したらビックリしたんです。隊長もモーグリさんと同じ教科書を使って授業をしていたはずなのに、その頃のノートには実戦的なことがたくさんメモしてあったんです」
「とても教育熱心だったんだね」
 カヅサはとても嬉しそうに研究室の扉を開き、言われた通り律儀に薬を飲んで眠っているエースを視界に入れた。少し生意気な口調になるだろうが、この少年も恐らくデュースと同じようにクラサメのことを言ってくれるだろう。
「きっと。隊長はもういませんけど、隊長に教えてもらったことは今でも役に立っています」
「それはよかった。彼もきっと、天国で喜んでいることだろうね」
「その分、たくさん成果を上げて恩返ししなきゃいけませんね。……それ、……クラサメ隊長が亡くなったの、0組のせいなんです」
 そんなことを告げると、不意にデュースは緊張した面持ちとなる。安らかな顔を見せているエースの隣に立ち、手に力を込めている。
「……どういうことかな」
 カヅサは思わず動きを止めた。
「わたしたちにはコンコルディアの女王を暗殺したという疑いがかけられていたんです。勿論そんなことはしていません。けど、軍はずっとわたしたちを疑っていたはずなんです」
「それが、今ではすっかり疑いが晴れた。それはクラサメ君がビッグブリッジ突入作戦で責任を取ってルシの支援へ回る旨の命令を承諾したから。そう言いたいのかな?」
 それはデュースに限ったことではないが、諜報に任務内容の裏まで聞いて回ったのであればいずれ0組の誰かが話すであろうと予想していた言葉だ。
 カヅサはクラサメの帰還が叶わず、記憶から消え去った後に気になって個人的に調べて回ったのだ。すると見えて来たのは不自然な命令。魔力の盛りはとうに過ぎているとはいえ、未だ前線で戦うことも可能であったはずのクラサメに召喚部隊の隊長を任せていたのだ。
 軍令部長が個人的に煙たがっていただけでは済まされない理由がそこにあったとは思っていたが、なるほどこういうことか。立ち止まったデュースを追い越し、カヅサはポットに残っていたぬるま湯を再び温め始める。
「はい、きっと。だから皆で決めたんです。わたしたちの隊長のために、できることをしようって」
「……悪いけど罪滅ぼしのつもりなら、やめてもらいたいな。まぁ、どんな理由であれ協力してくれるのは嬉しいけれど」
 言葉は少ないが、長い時間が流れる。あっという間にポットはシューシューと音を立て始め、湯が沸いたサインであろうブザーが鳴った。
「…………ごめんなさい」
「なんで謝るんだい」
「だって、わたしたちが……」
「君たちのせいじゃない」
 そう言ってカヅサは沸騰したての湯でインスタントコーヒーを入れ、デュースに手渡してやる。飲みやすいようにミルクをたっぷりと入れてやったそれをデュースは両手で包み込み、涙を浮かべそうな程の瞳でカヅサを見上げた。
「でも……」
「それが事実だとして、クラサメ君はそんなことを言って喜ぶと思うかい?」
 カヅサは酷く優しげに、しかし寂しげに微笑んだ。冷たいミルクを注がれたコーヒーから湯気が立つことはない。
「どうでもいいんだよ、もう。どんな理由であれクラサメ君はいなくなってしまった。ならボクはその上で、こうして皆に協力してもらって行動しているんだ。だから、もう過去の話はおしまい。今は戦争なんだ。誰がいつどんな理由で死んだっておかしくない」
「……はい。ありがとうございます」
「こちらこそ。君たちがクラサメ君のことを今でも想っていてくれるなら、満足だよ。……さてと。この話はここまでだ。どうする?エース君の目が覚めるまで、ここで待ってるかい?薬が切れる前に僕も作業をしてしまわないといけないからね」
 椅子はないけどそこの箱にでも腰掛けてくれと言えば、デュースは言われた通りカップを持ったまま鋼鉄の箱に座る。どうやら待つことにしたらしい。モーグリが少し哀れになってきたよ、とカヅサは苦笑してから怪しげな装置のスイッチを入れた。





 二

 幾つもの試験管、幾つもの薬品。
 見知らぬ機械はつい先日魔法局から取り寄せたもの。夕食と食後の軽い運動を終えたエミナはカヅサの研究室を訪れていた。相変わらずカヅサの実験は上手くいっていないらしく、ありったけの記憶を再び使ってみたがやはり失敗したそうだ。
「点と点を繋ぎ合わせても駄目よ」
 彼女は呆れたように微笑んだ。
「エミナ君?」
「いくら人の記憶を集めて点を作ったって、綺麗な線は描けないよ」
 一瞬だけ現れた『クラサメ』の体は瞬く間に消えていく。研究室の床に転がったのは薄汚れたノーウィングタグ。
「圧倒的に点が足りないわ」
 エミナは目を伏せた。
 彼女の言うことに違いはない。例え世界中の人間の記憶から『クラサメ・スサヤ』という死人の情報を集めようともその無数の点を埋めるにはまだ幾らかの、誰も知らない点が必要になる。
 きっとその点は生者であろうと死者であろうと関係なく世界中の人間誰もが知らないもので、彼とゼロ距離に居なくては分からない。勿論ゼロ距離だなんて限りなく理想的な場所には居ないカヅサが全てを知るはずはない。
「わかってるよ。どれだけ点をプロットしようとも、完璧なグラフは描けない。ボクがやろうとしていることは、彼に極限まで近い人間を作ろうとしているだけのこと。彼自身じゃない。ただの近似だ」
「……それがわかってるのに、やめようともしないのね」
「当たり前じゃないか。諦めたらそこで何もかも終わりだよ」
 指令書の裏にカヅサはガリガリと走り書きを連ねていく。エミナには理解しがたい難解な数式に様々な記号、魔法陣。彼の持つ全ての領域から知識を引っぱりだしてまで生き返らそうだなどと彼を駆り立てるクラサメという人間が果たしてどんな人物だったのか、彼女には到底理解しがたい。
 エミナは机に寄りかかり無心となってひたすらペンを走らせる旧友を見た。きっとカヅサの記憶に残るクラサメという人物像にはとんだ脚色がされてしまっているのだろう。彼だけがクラサメを忘れていないだなんて都合のいい夢物語がある訳ない。エミナと同じで、そんな人間が居たことすら忘れているはずだ、きっと忘れたことも忘れてしまっていたに違いない。
「そんなに忘れたくない人だった?」
「ごめん、今 話掛けないで」
 なにかきっかけが掴めたらしい。更にペンのスピードは上がっていく。
「…………わかった。じゃあ聞き流して。カヅサ言ってたよね。クラサメくんが死んで、ビックリするほど自分の思い出が消えたって。ワタシがまだ生きてるから、その思い出はぼんやりとは覚えているけれど、それでも何か足りない記憶ばかりになったって。だからクラサメくんっていう人間は、あなたにとってすごく大事な人だからこんなことをしているんだよね。もう聞き流してるだろうけど、ここからは本当に聞き流してね。……ワタシが死んでもそんなバカなことはしないで。あなたのことだもの、しないとは思うけれど、絶対に、絶対にしないで。ワタシを忘れて」
 その瞬間、ぴたりと。
 カヅサの手が止まった。ぎょっとした表情でエミナを見つめている。
「いきなり何を言い出すんだい?」
「もう、聞き流してって言ったじゃない!」
 わざとらしく怒ってみせたが、カヅサの真っすぐな瞳に見つめられて思わずエミナはふるふると首を横に振った。
「言葉の通りよ。ワタシが死んでもこんなことはしないでね。思い出と一緒に、全部消し去って。クラサメくんのことでできる限りの協力は惜しまないわ。きっと彼はあなたにとっても、ワタシにとっても大事な人だったもの」
「話をすり替えないでくれ」
「すり替えてなんてないよ。あぁもう忘れて。カヅサのことだもの、全部聞き流してくれると思ってた」
「聞き逃したりなんかできないね。まるで君ももうすぐいなくなるような言い方じゃないか」
「…ワタシだって武官よ。今はもう白虎も蒼龍も抵抗する力がほとんど残っていないとはいえ、いつ出撃命令が下るかわからない。だから、いつ死んでもおかしくないの」
「わざとらしいね。……まぁ、キミがそう言うならそういうことにしておくよ」
 再びカヅサは手を動かし始める。
 流れたのは気まずい無言の時間。しかしふとカヅサは顔を上げた。
「そういえば、どうしてここに? いつもならテラスでのんびりしている時間だろう?」
「あ、あぁ、そうだった。やだ、大事な用忘れてた。カヅサ、明後日の午前中は暇かな?」
「午前中かい? ……まぁ、暇と言ったら暇だけど」
「よかった。じゃあ0組の授業を見てほしいの」
「授業だって? このボクが?」
 えぇ、と彼女は笑った。
「クラサメ君が居なくなってから、あの子たちに指揮隊長はいないの。代わりにモーグリが授業をやってるみたいなんだけど……不評らしくて。他の武官でも文官でもよかったんだけど、一番暇してそうだし声もかけやすかったから。炎魔法の中級一。座学だし、都合がいいなら見てあげて」
「……それは構わないけれど、エミナ君は駄目なのかい?」
「できることならワタシが見てあげたいよ。カヅサがそんなにも大好きなクラサメくんの教え子だもん、興味ない訳ないよ。でも明後日は駄目。どうしても抜け出せないわ」
 くすくすと声を上げて笑うエミナの表情はくるくると変わっていく。明るい性格に見えて実際のところはあまり喜怒哀楽を表に出さない彼女だが、どうにもこうにも今日はかなりおしゃべりな上に様々な顔を見せてくれる。
「エミナ君、本当に何かあった?」
「なにもないよ。……強いて言うなら、明後日から軍令部に収監されるってことかな」
「収監だって?」
 驚き、思わずカヅサは音を立てて安っぽい椅子から立ち上がった。それに対して彼女はその視線から逃れるように背を向け、手を後ろに組んで背伸びし天を仰ぐように告げる。
「色々とあるの。だから、明日が魔導院で過ごす最後の日よ。でも明日は手続きがあるから、たっぷり時間を持て余してるのは今日で終わりかな」
「…………武官をやめて、故郷に帰るのかい?」
 見当違いであることは分かり切っていたが、カヅサは動揺を隠し切れていないことを自覚しつつ尋ねた。エミナもその心遣いを分かっているのか、芝居がかった声で返す。
「だったらいいなぁ。でも、きっと違うよ。あのねカヅサ。ワタシは臆病だから……ワタシの口から全部言うことができないみたい。だから、ここを去る前にどうしてもあなたに渡しておきたいものがあるの。受け取ってくれるかな?」
 そう言って振り返った彼女の顔は、今までに見たこともないような寂しげな笑みを浮かべていた。
 未だ状況を飲み込めていなかったが、「一度部屋に戻るね」と告げてから再び研究室に現れたエミナはかわいらしい紙袋を持っていた。0組からもらったプレゼントが入っていたというその袋に入っていたのはハニージンジャーの瓶と、一冊の古ぼけたノート。
 食べてみて、と言われカヅサは早速それを一欠片を口に放る。窓のない研究室では、空の色で時間を推し量ることはできない。時計の針はもう翌日の時刻を告げているし、クリスタリウムから聞こえてくる生徒の声はない。
「思ったより甘くないね。でもおいしいよ」
「ならよかった。それ、あげる。後は……これ。あなたに渡した方がいいと思って」
 ノートを受け取ったカヅサは古ぼけた表紙を確認してから机の上に広げた。
 魔導院で支給される、何の変哲もない少し分厚いノート。デザインの古いそのノートの表紙には何も書いておらず、そっと最初の一ページを捲ればびっしりと文字が刻まれていた。一行目は「今日から夢に見た候補生だ」と嬉しそうに踊る文字。
 今日はカヅサが演習でへばっていた、今日はエミナの胸がワンサイズ大きくなった記念日、今日は隊長に廊下へ出された日。一日で使うのは一行か、多くて二行だけの日記帳だ。一週間の日常を一行にまとめている時だってある。毎日書いている訳でもなく、思い立った時にだけメモしていたであろう備忘録のような、誰かに見せる為ではないメモに近い。
 その持ち主が誰であったかなど、今更聞く必要もない。紛れもなくそれはクラサメの持ち物であった。
 授業用のノートを忘れたのであろう日には丸ごと一ページ朱雀の歴史で埋め尽くされ、途中は居眠りしてしまったのだろう、解読不能な文字が並ぶ。次のページからは再び一行日記が続いていたが、その中でも候補生になって何年かした頃、まだ今の0組の生徒達ほどの年の頃のとある日付に書かれていた出来事に目を引きつけられた。
「密偵……」
 カヅサはぼそりと呟いた。その言葉にエミナは頷き、俯く。
「クラサメくんはね、ワタシが白虎の密偵だって…そんなにも前から知ってたのよ」
 ベッドに腰掛け、やはり泣きそうな笑みを浮かべたままのエミナが言った。
「……この日クラサメ君は君に押し倒されたって書いてあるけど?」
「色仕掛けが有効だって言われてたから。スタイルには自信あったし、クラサメくんにも色気で迫ったんだと思う」
「その時に君の背中に皇国印が見えたって。……じゃあ、君の背中にある刻印は本物かい?」
「そうだよ」
 彼女はあっさりと告げた。
「でも、やっぱり1組はエリートだったのね。ワタシの刻印を見て、一発でわかっちゃってたみたい。今度からこんな目立つものじゃなくて、もっと別の印にしてもらわなきゃ」
「…………けれど、クラサメ君にとって君が皇国のスパイでも…それはどうでもいいことだった」
 古びたノートのページをいくら捲ろうとも、それ以上エミナについて言及している日はない。夜這を掛けられたと思われる次に書かれているのはカヅサが眼鏡を割ったというだけの出来事。几帳面な字で『ざまぁみろ』だなんて書かれている。
 気まぐれにしか書かれていないそれに記されているのは昼ご飯のメニューからトンベリの世話のことまで。今の軍令部長がアフロにしてから髪の毛が日に日に少なくなっていっただとか、チョコボから落ちて脱臼しただとか。そんなくだらない日常にエミナは埋もれているのだ。
「自分がね、バカらしく思えてきた。最初は成績優秀だったクラサメくんに取り入って上層部の様子を探ろうとしてたんだと思う。朱雀四天王に選ばれるような生徒と懇意にしていれば、色々探るチャンスが巡ってくるだろうって思ってたのよ。…でもね、それもどうでもよくなった」
 エミナはごろりと倒れ込んだ。長くウェーブした髪の毛がばらばらと広がり、その髪の毛に埋没するように形のいい唇が動く。
「カヅサとクラサメくんと一緒にいて、すごく…楽しかったんだと思う。だからクラサメくんがおっきな事件を起こして候補生をやめた後、軍からあまり信用されなくなってもずっと一緒にいようって思ったんじゃないかな」
「上層部と仲のよくないボクとも?」
「えぇそうよ。だってあなたたちと一緒にいても、密偵としての任務を全うしようって時に足手まといなだけ。目をつけられてるんだから、身動き取りにくくなるだけじゃない。密偵としてのワタシにとって何の得もないのに付き合う訳がないもん」
 あっさりと暴露したエミナはくすりと笑った。カヅサはそれに対して憤慨する訳でも悲嘆することもなく、同じように淡々と今までの出来事を思い返して口を開く。
「確かに、戦争が激化しても君が前線に全く出ないのはずっと気になっていたよ。密偵の容疑で諜報に目をつけられていたなら、それも頷ける」
「でしょ?誰も疑わないことにビックリよ。まだ魔力のある武官が前線に出ないなんておかしな話なのにね」
「それこそ日頃の行いってものだろう? ……それで、諜報にスパイ行為が発覚したから軍令部に収監されるのかい?」
「そういうこと。軍法会議にかけられるの。だから、これでワタシたちもうお終いね」
 クラサメが死に、全ては崩れた。
 もし彼が生きていれば、なんてくだらない仮定を延々と語り続けるつもりはないが、それでももし彼が生きていればねぇ、とカヅサはしみじみと呟いた。
「0組の子たちがね、エミナ君にプレゼントを贈っているって話は聞いていたよ。魔法局が新しい魔法を編み出したって話も。まさかそんな目的だったとは思わなかったよ」
「でしょ?ワタシもドッキリよ。プレゼントをもらうことって多いから、うっかりしてたわ。みんなに裸見られちゃった。……あ、でもカヅサ、0組の子に当たっちゃ駄目よ?」
「わかってるさ。彼らだって任務だったんだ。それに、さすがクラサメ君の教え子だね。しっかり完遂したみたいで」
「ホント。……いつかはバレると思ってた。けれどクラサメくんは何も言わないし、カヅサだってどうでもいいみたいに言うんだし、もうイヤになっちゃう」
「話の腰を折るようで悪いけど、咎めるつもりじゃないけど、皇国からの任務はこなしてたのかい?」
「全然? だって、連絡が来ないんだもの。最後に来たのはいつだったかなぁ? 上司の顔は覚えてるから、死んではないはずなんだけどね。朱雀に帰化したって思われたのかも」
「皇国の仕事もできない上に、朱雀でも任務が回ってこないっていうことかい?」
「人を無職みたいに言わないでよ!」
 もう、とエミナは拳を作ってぷりぷり怒る仕草をしてみせる。その動きの一つ一つを彼女は嘘と言うが、カヅサにはそうも思えなかった。
 記憶に残る彼女はひょんなことで怒り、とんでもないことを言いだしては大きな口を開けて笑い、魔導院を卒業する頃に多少は淑やかになったものの今でも些細なことで表情を変えるという点は変わっていない。
「……エミナ君、全部嘘っていうのも嘘なんだろう?」
「……嘘じゃないわ。……今までのワタシなんて、全部 嘘よ」
「じゃあ質問を変えよう。嘘でも、楽しいって思ってくれてたかい?」
「当たり前よ。あなたと……クラサメくん。彼と一緒にいた時間は幸せだったよ。けれどワタシは…「…ならそれでいいじゃないか」」
 カヅサはハニージンジャーの瓶を抱え、実に嬉しそうに微笑んだ。指に蜂蜜を垂らしながら齧っている。
「君の話を聞く限り、君の全ては偽りなんだろう?その名前も、出自も」
「……えぇ。ワタシは戦災孤児で、朱雀と白虎の国境出身。このエミナって名前も、ノーウィングタグも偽物っていうのも合ってるよ」
 くるくると彼女は首から下げたタグの紐を持って回した。そこに刻まれているのは朱雀領の名もなき村出身の、エミナ・ハナハルという人物。年齢はさすがに偽ってないわ、と今度は何の感情も無く彼女は呟いた。
「ワタシという人間なんてどこにもいなかった。あの時白虎の兵士に助けられて、命と引き換えに過去を消されたの。……皇国印を刻まれて、徹底的に密偵としての教育を受けた。小さな部屋で、何人もの男の相手をした。どうやったら男は悦ぶか、どうやったら……興奮するのか。勿論それだけじゃない、暗殺の方法だってたくさん学んだ」
「白虎の特殊部隊じゃ、非人道的な教育をされてきたとは言うね」
「そうよ。初潮よりも前に体を開かされたわ」
「それで?君がそうまでして得たテクニックをもってしてもクラサメ君は陥落しなかった?」
「そりゃもう。何も覚えていないけど、ワタシが押し倒してそのまま何事もなかったってことはそういうことだよ。ホント、不思議な人だったのね」
「……軍は帝都を攻略して教育係が死ぬ前に、何から何まで聞き出そうって魂胆なんだろうね」
「きっとね。覚悟はしてるつもり」
「朱雀の人間として?それとも……」
「両方」
 彼女はそう即答した。
 ノーウィングタグを灯りに翳し、欠けた角をなぞる。野外でのチョコボ騎乗訓練で転倒し、岩肌にこすりつけた時のものだ。
「できる限り朱雀に貢献するつもりよ。そう決めた。……でも、白虎の人間への恩は忘れていないわ。どんなことになろうと、あの兵士がワタシを助けなければワタシはここにいない。当たり前のことだけど、そうじゃなかったらあのまま凍え死んでいたから」
「よかった。ちゃんと人間できてるんじゃないか。そんな君に宛てて、クラサメ君はメモを残してたみたいだね。読んだ?」
「メモ? 見てないわ」
 カヅサのノートのページを捲る手が止まる。実戦演習でナインがよくやってくれたという文字の下にたった一行に書き連ねられていたのは二人への感謝の言葉。カヅサとエミナへと、急いで書いであろう文字だ。
 その名前の下にか細く弱い字で『今日はありがとう。久しぶりでとても楽しかった』と記されている。
「照れ屋さんだったのかなぁ、口で言うのは恥ずかしかったのかもしれないね」
「そうね」
 エミナは腹に力を込め、ベッドから跳ね起きる。
「ほら、このあと。きっと君に宛ててだ」
 白いリボンが緩み、肩へ広がった長くウェーブした髪の毛を鬱陶しそうに払いのけながら、彼女は差し出されたそのノートを受け取った。カヅサが白紙の数ページを飛ばし、最後のページを見るように告げる。
「なに、これ? 『このノートを読んでくれて……ありがとう。嘘でも……カヅサと一緒にいてくれて、』」
 ぼたりぼたりと。
 その瞬間に大粒の涙がエミナの大きな瞳からたくさんこぼれ落ちた。古ぼけた紙に幾つもの染みを作り、あっという間に彼女が読み上げた一文はぐしゃぐしゃになって読めなくなってしまう。インクが溶け、後に続いていた文字が崩れていく。
「……バカよッ……、バカ、よ……」
「本当。どうやらクラサメ君は、ボクらが思っていた以上にバカな人だったみたいだ」
「何も覚えてないのに、ワタシは彼のこと何も知らないのに……。こんな汚いノート、すぐに捨てたかもしれないのに……」
「……エミナ君はエミナ君だ。君が過去にどんな教育を受けて、何の目的でこの魔導院にやってきたのかは関係ない。ボクらや、0組の子たちと過ごした時間を全部ひっくるめて君なんだよ。クラサメ君はそう言いたかったんじゃないかなぁ」
「……でも」
「少なくともボクがクラサメ君なら、そんな気持ちでその言葉を書いたと思うよ。まぁ、ボクはクラサメ君じゃないから真偽のほどはわからないけれど」
「バカよ……」
「あぁ。ボクらはどこまでもバカなことをして遊んできた。それでいいじゃないか。それを楽しかったと思える君は、偽じゃないだろう?」
 思い出せもしない亡き友に想いを馳せる。
 一気に水分を出し切ったのかエミナの瞳は潤んだままだが涙はもう溢れていない。
 そんな泣き疲れた君に、とカヅサはようやく机から離れその下に無造作に置いてある箱の中から一本の酒瓶を引きずり出した。
「好きじゃなかったっけ、このお酒」
「え……?」
「諜報がクラサメ君の遺品整理を担当するって聞いてね。0組の子からナギ君伝いで、ちょろまかして来たんだよ。ほとんど私物はなかったけど、お酒の類いは置いたままだったらしくてね」
「遺品から漁ってくるなんて、本当にクラサメ君のことが好きなのね」
「実験に使えるものがないか探すついでさ。確か前に飲んだ時、エミナ君が気に入ってたと思うんだけど…」
「あんまり覚えてない。クラサメ君と一緒だったのかな」
「かもね。……ボクに内緒でそんなノートを君に渡していたなんて、驚いたよ」
「……妬いてる?」
「少しだけ」
 透明なグラスに注がれ、狭い室内には芳醇な香りが広がる。おつまみもないのにお酒だけ? とエミナは受け取りながらからかったが、ストレートで一気に飲み干す。鼻と目頭が熱いままで味はイマイチ分からなかったが、彼女は微笑んだ。
「おいしい」
「それならよかった。……時間は大丈夫かい? 手続きがあるんだろう?」
「ちょっとくらい寝なくても平気よ。……って言いたいけど、部屋の片付けが終わってないんだよね。だって0組の子たちってば、シャンデリアまでくれるんだもの。プレゼントで部屋がいっぱい」
「手伝いたいところだけど、女子寮には入れないからなぁ」
「一人で十分だよ。気持ちだけ頂いておくね。カヅサは研究頑張って。あぁそうだ、ハニージンジャーのレシピ、一応リフレのマスターに渡したから食べたくなったら出してくれると思うよ」
「そうかい。これがなくなったら是非とももらいに行くよ。……エミナ君の作る味がおいしいんだけどなぁ」
「嬉しいこと言ってくれるネ。……ワタシのこと、忘れないように善処くらいはしてくれる?」
 彼女は高い位置でその髪の毛を縛り、リボンを付け直す。
「勿論。善処くらいはね。それに忘れたとしても、君がボクらの心に存在したことは消えない事実だって」
「綺麗ごとじゃない。そんなこと言ったって忘れるんだし。まぁいいや。ありがとう。それじゃあまたね」
 いつもと変わらぬ別れの挨拶。ノートをカヅサに返しカツカツとブーツの踵を鳴らしながら、エミナは扉の向こうへ消えていった。





 三

 夜明けの色だ。
 東の空が白み、また朝がやってくる。
 物心ついた頃から大切にしていた白いリボンも、つい昨日のようにすら思える数ヶ月前にこの場所で未来を語り合ったことも、今日でさよならだ。
 カヅサがつまずき転んだ巨木も、足を引っかけないようにズタズタに引き裂かれた蔦も飛び越して無言で駆け抜ければあっという間だ。秘密の場所だと笑い合っていた場所だが、こうして走り抜けてみれば秘密にするほどの場所でもなかったようだ。
「……ごめんカヅサ。二抜けするね」
 このまま馬鹿みたいに軍の命令通り魔導院を出て行き、裏で諜報部に始末されるなんてご免だ。
 期限は今日の日の出まで。今頃焦った諜報部が近辺を捜索しているだろうが、この場所が知られることはないだろう。なんといっても、候補生の頃から誰にも見つかったことがない自慢の場所だ。
 老婆になっても好きでいて、と戯れに口走った言葉を思い出す。あの時カヅサと二人きりではなく、クラサメも居たはずだ。三人で何を語らったのか、どうやって笑っていたのか、もう何も思い出せない。しかし朱雀へ潜入してから今の今までの間、 忘却の彼方へ走り去っていったクラサメを初めとし、勿論カヅサや0組達と作って来た記憶は嘘ではないはずだ。
 嘘はイヤと言ったのはエミナ自身の癖に、最後まで嘘を吐きながらの思い出に縋っている。
「怖いな……。でもここまで来て、引き返したら格好つかないね」
 大きく息を吐いて、一気に塀に駆け上がり柵によじ上る。最後に乗り越えたのはきっとまだ緑色のカラーマントを纏っていた頃。錆び付いた柵を握りしめ手に走った痛みをこらえ、不安定な岩場に着地すれば風に煽られてバランスを崩す。しかし躊躇無く膝を付き、四つん這いになってゆっくりと進み始める。
 軍法会議にかけられ、魔導院からの追放を正式に告げられたのはつい三日前のことだ。0組やカヅサと最後に会話したのは十日以上前。極秘任務について口を閉ざし続けて、先に折れたのは朱雀の方だった。何を問うてもエミナが口を割らないと分かるとさっさと手を引いたのだ。
 その後軍令部の施設に隔離され必要な手続きを済ませている間にクラサメの教え子達はアミターも制圧し、竜の卵だって破壊したらしい。彼らがカヅサのようにトンベリに遭遇できたかを聞きたいものだったが、今となってはもう叶わない。
 気合いを入れて立ち上がり、カヅサがへっぴり腰でよじ上った崖を一気に駆け上がる。踵の高いブーツではかなり危なっかしかったが、エミナは岩場の頂点へと辿り着いた。
 彼女の視界に広がったのは無限の青と白。
 寝不足気味の頭をすっきりとさせてくれるような、どこまでも抜ける空と海だ。何一つ障害無く広がる海にぽつりと浮かんで見えるのはチョコボ牧場。この寒さでは雛チョコボが起きだすのは昼頃になるだろう。
「思い出したよ。ここからは……世界で一番綺麗な色が、見えたのね」
 長い長い髪の毛から真白の布が外れ、強くなる一方の風に流されていく。
 帝都攻略作戦決行の朝、エミナはその手に偽りのノーウィングタグを握ったまま、広い空を舞った。





Stardust



 零

 穴の開いたつま先からしみ込む水はひどく冷たい。
 ちらちらと舞い落ちているのは雪の欠片で、滅多に降らない白い粉に興奮する生徒も居る。
 カヅサの手にぶら下がっているのはブーツの紐だ。引き払う為に研究室の掃除をしていた際に見つけたそれは、履いてみればサイズはぴったりだがどうにも紐が緩く、すぐに解けてしまうもの。それを乱暴に足元の箱に投げ入れた。
 食べかけのハニージンジャーに薄汚れたノート。前者は瓶が割れていて、掃除せずに放置していた室内の埃が無数に浮いている。騒動にかこつけている訳ではないが、溜まりに溜まった不要な資料を全て焼いてしまおうと部屋の掃除をしていたのだ。多方面から引っ張りだこで休む暇のないマキナは研究室の片付け手伝いという名目で休ませている。
「……焼くのは、なんだか勿体ないね」
 機材を運び出し、山積みの段ボールを放置してカヅサは呟いた。瓶はともかく、ノートはきっと大切なものだったはずだ。
 持ち主の名はクラサメ。一部のページがよれてしまっていたが、十分文字は判別可能だ。
「……!」
 背後から追突するように大きなバスケットを頭に乗せて危うげに走ってきたのは緑色の魔物。その中には小さなサンドイッチが並んでいて、リフレのマスターが作ってくれたのだろう。
 見渡してみれば瓦礫を片付けていた候補生たちが一息ついて口を動かしている。どうやらカヅサで最後のようだ。
「ありがとう。……一度休憩にしようか。おいで」
 カヅサがそう言って瓦礫の上に腰掛けると、トンベリはその膝の上によじ上って来た。主はとうに死に、その記憶は無いがカヅサが旧知の間柄であることは覚えているらしい。物欲しそうな瞳で見上げてくる。
「君も食べるのかい? ほら」
 エッグサンドを差し出してやれば、大きな口を上げてぱくんと飲み込んだ。咀嚼という言葉を知らないのか、喉に詰まらせそうな食べ方だが至って嬉しそうな顔をしているように見える。
 包丁はレムにしばらく必要無いと言って取り上げられた。ランタンはどこかに落としてしまったらしい。人間じみた振る舞いがしっかりと板に付いてしまっている。
「……これから、もっと忙しくなるね」
「?」
 カヅサが手に取ったのはハムサンド。その中から器用にハムだけを引っ張りだし、トンベリの口へ放り込む。
「仲間の元に戻るなら今だよ。……アミターはルルサスからさほど侵攻を受けなかったようだけど、それでも大変だったと思う」
「!」
 処分するか迷ったものばかりを詰め込んだ箱の中には重たい砥石も入っている。職務が職務故に、メスなどの刃物を研ぐことがよくあり、そのつながりでトンベリの包丁をいつも研いでやっていた。その包丁を没収されたの今はもう必要ない。
「レム君に言って、包丁を返してもらうといい。ナギ君あたりに言えば、ランタンも探してくれるよ。仲間の元へ戻る時に手ぶらだと格好がつかないからね。…すぐには無理かもしれないけれど、イズモさんに言って飛空挺を出してもらうといい。幸い無傷の機体もあったみたいだから」
「……! ……!」
「どうしたんだい?」
 トンベリは膝の上で跳ねた。
 全身を使って何かを伝えようとしてくれるが、生憎何も分からない。困った顔をしながら首を傾げていると、ザクザクという足音が近づいて来た。
「……君は?」
 カヅサの目の前で立ち止まったのは長身痩躯の青年だ。邪魔にならないようにその長い髪の毛を高い位置でまとめている。
「クオンです。クオン・ヨバツ」
「あぁ、0組の……。どうしたんだい?」
「いえ、特に用がある訳ではないのですが……マキナさんが愚痴っていましたので」
「愚痴だって?」
「えぇ。『あんな研究室で睡眠薬嗅がされて、休憩になるものか』と」
 どうやらその愚痴を聞かされたらしい。両手を上げ、力なくクオンはその隣にどっかりと腰を下ろした。
「僕としては一瞬で深い眠りに落ちるから最適だと思ったんだけどなぁ。彼、全然休んでないだろう?」
「だからですよ。僕たち以上に、レムさん以上に負い目を感じてる。彼の内に眠ってる暇なんてないんでしょう」
「……どこかの誰かさんと同じ、だね」
「?」
 カヅサはそう言ってわざわざ隣に座り込んだクオンを尻目に立ち上がった。直前にトンベリは膝から飛び降り、綺麗に着地してみせる。
「結構強めの薬で眠らせたはずなんだけどなぁ。あんな短時間で目覚めるなんて予想外だ」
「ほう?」
「それについては落ち着いてからゆっくり調べさせてもらうとして。マキナ君が起きたってことは、ベッドが空いてるってことさ。……次はレム君かな」
 合点がいったとクオンは苦笑した。
「彼女なら、先程ムツキを追い回していました。なんでもつまみ食いをしたとか…」
「また? 全く、彼女のつまみ食いはなかなか直らないね」
 バスケットに残ったトマトサンドをクオンに押し付ける。彼は少し驚いた様子だったが、短く礼を言って口へ運び始めた。
 休んでいないのはマキナとレムに限ったことではない。きっとクオンも寝不足に違いない。しかし、少しげっそりとした表情ではあるものの意気消沈した様子ではない。カヅサは微笑んで、次なるターゲットを探す為に歩き始めた。



「……さっきの話」
「?」
 とことことカヅサの横を小走りになってついてくるトンベリはその長身を見上げた。しかし前方に迫っていた柱に気付かずぶつかってしまい、ころりと転がる。いざ戦場に出れば心強いと聞いているものの、いつもこうして転んでばかりでは緊張感の欠片もない。
 仕方なくカヅサは空になったバスケットの中に無理矢理トンベリを押し込んだ。そのまま抱えるよりも運びやすそうだ。パン屑の残る籠にいきなり押し籠められ、トンベリは恨みがましい視線を向けたが、すっぽりと体を収めてしまい身動きが取れなくなっている姿は微笑ましい。持ち上げるには重いが、そっと抱えて歩く分には問題ない。
「里帰りの話さ。…クリスタルの恩寵が薄れて、朱雀から魔法は消えるかもしれない。そしたら僕の今までの実験は全て水の泡さ。理論が合っていようと意味がない」
「……?」
「話がずれたよ。何にせよ、ドクター・アレシアも雲隠れしてしまったしね。君と同じで……僕がこの魔導院に居座り続ける理由はもう、ない」
「!」
 びちゃびちゃと音を立てて残骸だらけの墓地を横切る。薄らと雪は降り積もっているが、それほど寒さを感じない。太陽が顔を出していて、その僅かな積雪もすぐに水に変わってしまうだろう。どちらかというと天気は晴れだ。
「ルブルムは一年中天気が良くて好きなんだけどね。……逆に一年中天気が悪い場所も悪くないと思ったんだ」
 バスケットの中でトンベリはじっとカヅサの瞳を見つめている。足元に注意しながら歩くカヅサの視線は前に注がれており、交わることはない。
「白虎と蒼龍は一応朱雀の領土になっているし、そもそもこんな時に国がどうこう言うべきじゃない。しがない研究者が一人、蒼龍に行ったって構わないはずさ」
「……」
「別に君のためだけじゃないさ。アミターにはきっと、クラサメ君を知っている人間もいる。……機材も何もかも台無しだけど、まだ希望はあるんだ。そのためになら、世界の果てまで飛んでいくよ」
 そこでカヅサはようやく足を止めた。
「どこまでも利己的だけど、もうそれしか僕にはないからね。勿論、それ以外にも向こうで手伝うべきことがあれば手伝うさ。研究のためだけに住まわせろだなんて言うつもりはないよ」
「!」
「一緒にアミターへ行こう。君だって、そろそろ仲間の顔が恋しいだろう?そのうちマキナ君あたりが、白虎と蒼龍に行く人がいないか聞いてくれると思うし。動いてないと気が済まないって、誰かさんに似てるよ。曖昧にしか思い出せないから、きっとクラサメ君もそんな人だったんだろうね」
 こうなってくると記憶が無くなるのも便利だよ、とカヅサは苦笑した。どこか懐かしいのにはっきりと思い出せない場合は大概クラサメ絡みだ。もう一人仲の良かった女性も居たが、彼女も同じ。気がつけば記憶の中から友人が二人揃って消えてしまっていたが嘆いている時間もない。
「…………」
 トンベリは窮屈なバスケットから出ようとじたばたと手足を動かしているが、生憎カヅサに助け出してやる気はない。このままの方が持ち運びに便利だ。
「さぁ、そろそろマキナ君が怖〜い顔して追いかけてきそうだからね。やることを先に済ませてしまおう」
 書類を大量に抱えたレムが走り寄って来るのを認めると、カヅサは白衣のポケットに手を突っ込み、催眠ガスのスプレー缶の感触を確かめる。すれ違い様に声をかけて振り返った瞬間、一撃で仕留めればいい。
 これまでと同じようにして眠らせればいい。今まで記憶に残っているだけでも多くの人間を眠らせてきたように、狙いを定めてしまえばこっちのもの。胸の内に僅かな高揚感を抱き、カヅサは歩き始めた。

 朱雀の雪は、すっかり止んでいた。





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