据え膳




 キスを 迫ってみる。
 顔の下半分を完全に覆ってしまう邪魔なマスクは存在しない。吐息と吐息が触れ合う距離は覚悟していた程遠くなく、思った程近くもない。しかし眼鏡のレンズ越しに見える男はこちらが何をしようとしているかなどどうでもいいのか、半分瞼を閉じている。
「…眠たい?」
「……眠くない」
「嘘。今にも寝そうだよ」
 それでも眠くない、と駄々をこねる姿はまるで子供だ。模擬戦闘の授業で盛大に魔力を使ったらしく、外は未だ紅から深紫へと色を変え始める頃だというのに随分と眠たげな顔をしている。
 年甲斐もなく模擬戦闘を全力でこなしたからか、少しばかりの熱があるらしい。凍傷を起こさないためにといつも着けている分厚い手袋を外して触れ合えば、確かにいつもよりは温かい気がする。候補生であった頃から氷の魔法ばかり使い続けて来たクラサメの手は無数の傷が残っていた。軽い凍傷の跡から氷で傷つけた大きな傷跡まで、外から見えないだけでクラサメの体は傷だらけだ。
 随分と医学も発達し目立つ傷は少なくなったものの、相も変わらず顔の傷は消そうともしないし、手指は常に新しい怪我を作るものだから治療も面倒だなんてことを漏らしていた。
 そんなことをぼんやりと考えていたら、やはり分厚い手袋を引き裂いて人差し指に切り傷を作っていたらしい。血はもうとっくに止まっているようだったが、赤い肉が見えている。
「早く治しなよ。妙な意地張らないでさぁ」
「加減ができなかったのは私の責任だ。…治したら、忘れそうになる」
「そんな馬鹿な理屈があるかい。眠いんだろう?」
「眠くない」
「はいはい」
 少しだけ不機嫌そうな表情で言いながらも、どこかとろんとした表情を見せるクラサメは随分と官能的で、カヅサとしては据え膳食わぬはなんとやら、という状態だ。
 落ち着けボク、今はまだ食べてしまう時ではない、だなんて自戒の台詞を頭の中でカヅサは唱え始める。落ち着け落ち着け、と頭の中では念仏が唱えられていながら表情には出さず、クラサメを抱きしめるような体勢で彼の体越しに教卓に散らばるプリントをかき集めた。戦闘結果をまとめた表に、生徒の弱点を走り書きしたメモ。再提出の報告書に白紙のテスト。他の組の女子から押し付けられたのであろう手紙に軍令部長からの嫌味ばかり並べられた指令書。
「クラサメくーん」
「ん」
「これ、全部まとめちゃっても大丈夫?」
「あぁ」
「そういえばトンベリは?今日はいないんだね」
「…サイスが連れて行った」
「そっか」
「あぁ」
「眠いんでしょ」
「眠くない」
「皇国の首都は?」
「マハマユリ」
「……眠いんだね」
「眠く…ない…」
「これ、無くしたら駄目だろう?部屋に持っていこう」
「腹が減った」
「はぁ」
「リフレで、何か 食べたい」
「…ほんとクラサメ君、眠くなると好き放題だね。まぁそれが君の魅力の一つではあるけれど」
 とんとん、と書類を整えるとクラサメの口元にマスクを返してやる。いつもならブリザガでカウンターを食らう不意打ちのキスだって今ならできたが、気持ちよさそうに睡魔に抗っているのを邪魔するほど無粋ではない。
 幸い今の時間ならば授業中で廊下に生徒は居ないだろうし、口うるさい軍令部長も真面目に仕事をしてくれているだろう。
「研究室の方が近いし、そこで一度寝ればいいよ」
「変態の決まり文句だ」
「……そこは寝ぼけてくれないんだね」



 穏やかな寝顔だった。
 久々に全力を出して自分で思っていた以上に疲れてしまっていたのか、研究室まで辿り着くや否や一言を発する間もなくベッドに倒れ込んでしまったのだ。カヅサが生徒を拉致してきて体を見るために使っているベッドは随分と固かったが、そんなことはおかまい無しらしい。
 書類を机に置いて途中で放置していた実験の様子を見て戻って来ても彼が目を覚ます気配は一向に見えない。すやすやと体を僅かに丸めて寝息を立て、無謀にな姿を晒している。
 日によっては悪夢に魘され起こしてしまいたくなる衝動に駆られたりもするのだが、今日はそんなものから遠ざかっており、ただただ幼子のようなあどけなさを見せてくれる親友を見守っていたいと感じた。
 魔導院が占拠された際にカヅサは戦闘要員では無く、逃げ隠れすることしかできなかった。直前まで話をしていたクラサメは対照的に極秘任務だとだけ告げて姿を消し、あの伝説と謳われた0組の初陣に華を添えてみせていたのだ。選んだ道が違うのだから当たり前とはいえ、ただ背中を向けて慌ただしく去っていく姿を見たときは少しばかり背筋を冷やすものを感じたのを覚えている。
 誰かの為に生き、死ねればそれで十分。
 クラサメは口癖のようにそう告げていた。仲間に裏切られ、仲間を殺され、仲間を殺し、仲間に生かされて彼が出した結論はひどく寂しげなものだった。それに対してカヅサが何か口出しできる立場にいるはずもなく、「そうかい」だなんて興味ない振りをしてきたのも事実。
「寝てる?」
 返事はない。
「…本当はね、いっぱい言いたいことがあったんだよ」
 ベッドの傍に膝をつき、そっとマスクを外してやる。
 触れた瞬間に小さな声を出したが、起きてしまう気配は全く見せない。
「いつまでも過去にとらわれないでほしいとかね、自分を責めるのはいい加減にやめてほしいってね」
 まるで死体が生きてるみたい、だなんて言い方をしたのはエミナだった。起きて食事を摂って武官としての役割をこなし再び食事を摂って寝る。時折墓地へとふらりと姿を消して長い間そこでうずくまっていたり、鏡で自分の顔の傷を見ながら何時間も動かないままであったり。命じられた任務はこなしていたし、受け持った組では候補生に生き延びる術を叩き込んでいた。しかし時間が取れたら何をする訳でもなくぼんやりとしていることばかりだった彼をゾンビみたいねとも彼女は言っていた。
 あながち間違っていないと思っていたのだが、ここ数ヶ月でそれは嘘であったかのように変化した。
 あの解放作戦の後0組の指揮隊長となった彼は信じられない程忙しくなったようだ。
 カヅサが拉致を試みようとも隙がない。研究室に連れ込んでやろうと思えばテストの採点に追われているし、久しぶりに三人で飲みましょうだなんてエミナが提案しても課題と報告書のチェックが終わらないからといって断られた。実戦演習の手配にチョコボ騎乗の補講。
 本格的に白虎との戦闘が始まったことも大きいのだろうが、0組の14人に対して随分肩入れをしているようにも見える。彼等の姿が過去の自分たちと重なったのかは知らないが、分からないと言われた場所は分かるまで、意味不明だと喚かれたところは意味が分かるまで根気強く教えている。
 今日の模擬戦闘だって、ナインは本来最前線で剣を振るうことは無いであろうはずのクラサメが本気を出したと言っていた。そして負傷者が出ただとか。
「ボクができなかったことが0組の彼等はいとも簡単にやってのけたんだね。嬉しいんだけど、妬けちゃうよ」
 いいかい、とカヅサは続けた。
「自分じゃ気づいてないと思うけど、クラサメ君笑うようになったんだよ。軍令部長に嫌味を言われたら不機嫌な顔をするし、ボクが抱きつこうとしたら嫌な顔をする。ナイン君がテストで赤点を取れば怒るし、トレイ君が満点を取れば喜ぶ。あぁ、エミナ君が胸を押し付けて来たときは困った顔をするね」
 それからそれから、
 カヅサはありったけに伝えたかったことを喋り続けた。
 0組の指揮を執るようになってからは言う必要が無くなってしまったことはたくさんあった。候補生となって、朱雀四天王に選ばれて手が届かなくなってしまったあのときからずっとずっと言いたいことは溜っていたのだ。
 けれど今となっては全て無用な言葉。せっかく伝えようと言葉を選んでいた忠告だって必要がなくなってしまったのだ。
「クーラーサーメーくーん」
「…うるさい」
「あぁあごめん、起こしちゃったかな…」
「耳元であんだけ喋られたら誰だって起きる」
「じゃあ、全部聞いてた?」
「少しだけ」
 そう言うとクラサメは目元をこすりながらベッドの上に起き上がる。ひどい睡魔は去ってしまったようで、若干眠気に満ちた瞳は改善されたようだ。
 気恥ずかしさを覚えながら、「おはようのキスくらいしてよ」と冗談まじりに言えば驚いたことに素直に上から薄い唇が降ってくる。驚いて目を丸くしていると、あっという間にカヅサの右手に握られていたマスクが奪い取られ、唇が離れた次の瞬間にはクラサメの口元は銀色で覆われてしまっている。
「…もう少し素顔を見たかったなぁ」
 上目遣いで意地悪に問いかけてやれば、彼は視線を逸らす。
 ひどい、と口を尖らせたカヅサには目もくれずベッドから降りて立ち上がると積み上げられた書類の上から自分のものを確かめて分けていく。女子生徒からの手紙もちゃんと持って、「帰る」と言う。
「そうだね。明日は久しぶりの休暇なんだろう?ゆっくり休みなよ。…丁度明日から軍令部長は視察だからね。嫌味も言われないよ」
「……書類を置いたら」
「ん?」
「久しぶりに…飲まないか。どうせ明日は休みだ。視察に随伴しろだなんて無茶な命令さえ来なければ一日中寝ていても問題ないんだ。…少し、話がしたいかもしれない」
「珍しいね、クラサメ君からそう言ってくれるなんて」
「心配、かけていたようだったから」
「今はもう心配してないよ?0組の子たち、みんなクラサメ君を慕ってるよ」
「どうだろうな」
「卑屈はかわいくないよ〜」
 かわいくなくて結構。クラサメはそう言うと書類を抱えて研究室から出て行こうとする。
「…エミナ君は誘うかい?」
 扉に手を掛けたクラサメに意地悪くそんな質問を投げかけると、声は返ってこなかったがゆるゆると横に首を振る仕草が返ってくる。
「そう。じゃあ、待ってるよ。ここじゃ狭いし、ボクの部屋にいるよ」





「トンベリは?」
「サイスに預けたと言っただろう」
「あれ、本当だったんだ。てっきり寝ぼけてたのかと」
「…試験で90点以上を取ったら貸し出してやると言ったらな、97点を取ったんだ。トンベリには悪いが、今日明日はサイス達の部屋で寝てもらうさ」
 そうかい、とカヅサは微笑む。
 相棒を生徒に取られて不満なのかと思ったら、それ以上に97点だなんて高得点を取ってくれた喜びの方が大きいようだ。
 部屋に書類を置いてもう一眠りしてからやって来た様子のクラサメは上機嫌で、片手には高級なウイスキーを携えて来てくれたのだ。少し前の作戦で捕虜にした皇国兵から手に入れたものらしい。ゴールデン・タイガーだなんていかにも白虎らしい名前をしたウイスキーだったが、なかなか手に入らないだけあって美味だ。
 エミナはあまり好きな味ではないらしいが、カヅサとクラサメは割と気に入っている。
 琥珀色の液体は程よく体を温めた。
「クラサメ君とお酒飲むのなんて久しぶりだねぇ。どれだけぶりだろう」
「そんなに飲んでなかったか?」
「うん。エミナ君と三人で飲んだことはあったけど、二人きりなんてそれこそ一年ぶりとかじゃないのかなぁ」
 グラスの中には半分ほどまで減ったウイスキー。
 クラサメの手の中にある硝子にはもう何も入っていない。随分と早いペースで飲んでいるものだ。案の定眠気は消え去ったはずのクラサメの瞳は潤んでいて、思わずカヅサは手にしたグラスを落としそうになる
 据え膳第二弾だ。しかし先程と違ってクラサメは眠気を訴えていない。
 そもそも部屋に来ることを承諾したということはカヅサが画策していることをも受諾したと受け取っていいはずだ。二人きりで酒を飲みながら一晩過ごすと言えば何をするかなんて寝起きのクラサメだって分かっていたはずだ。
 だから襲っても問題ないだろう。
 たった三秒ほどの合間にカヅサの頭には無数の煩悩が飛び交い乱舞し、ガタン、とグラスを少し乱暴に机に叩き付けた。
「カヅサ?」
 ベッドの上で胡座を組んでいたクラサメは首を傾げたが、眼鏡を外して近づいてくるカヅサに何かを感じたのか、ローテーブルに空のグラスを置いた。
 行為を求めてくる時、カヅサはやたら目を見てくる。眼鏡を外し、微妙に見えていないのかは分からないがじっと瞳を見つめたままじりじりと近づいてくる。一度お前はクァールかベヒーモスか、と尋ねたことがあったがあながち間違っていないだなんて真顔で答えられたものだ。
 本人曰く眼鏡を外すと十センチ先も見えなくなるらしく、普通に見つめているつもりなのだが見つめられている側からすれば完全に睨みつけられている気分だ。なんにせよ捕食されるという点ではクァールだろうとベヒーモスであろうとカヅサであろうと変わらない。
「…最初からそのつもりだったんだろう?」
「まぁね。教室で襲わなかっただけマシだと思ってよ。これでもボク、我慢した方だよ」
「もう少しも我慢できないか?」
「できないね」
 クラサメがあぐらを解いたのとカヅサがその両手首を押さえたのはほぼ同時。
 なされるがままにベッドに押し倒される形となったが、顔の真横に投げ出された右の人差し指、今日作ったばかりの傷口を舌でなぞられると甘い刺激が背筋を走る。やめろ、と口で言うだけさえもできず、アルコールの臭いを含んだ吐息を僅かな声と共に漏らす。
「これ、いらないよね?」
 返答を待つより先にカヅサはクラサメの首もとからネックウォーマーを剥ぎ取る。あらわになった首筋には顔から続く火傷の痕。指から舌を外すと、顎から鎖骨のあたりにかけて残る傷跡をなぞるように顔をうずめ、舌先を滑らせていく。
「ッ…」
「クラサメ君、本当にここが弱いね」
「うる…さいっ…」
「はいはい」
 茶化されるのはやっぱり嫌いなままか、と首筋から顔を引き戻しカヅサは内心苦笑する。
 今日ばかりは思い切り甘やかしてやろうと最初から決めていたので、加虐心を煽られるその姿態を舐めるように見るのはやめておく。
 欲望に従ってこのまま強烈な催淫剤でも飲ませてやったり懇願するまで焦らしたりだとか、脳内に居座る悪魔はけたけたと声を出して笑っている。でも今はそれじゃ駄目なんだ!と今度は一秒の間にカヅサの優秀な脳味噌の中では幾度もの審議が行われた。
 目の前に提示された選択肢にはいくらでもカヅサ自身の欲を満たしてくれるものばかりであったが、それらを全て跳ね飛ばすこととする。
「……カヅサ」
「ん?」
「…どうせ、仕様も無いことを考えていたのだろう?」
「今日はあんまり虐めたくないんだよ」
「いつも同じことを言う」
「そうだっけ?」
「あぁ」
 思い返せば確かにそうかもしれない。最初は今日のように脳内の審議により『無理はさせない・無茶はさせない・無道なことはしない』だなんて三原則を立てているのが常だ。そう、最初だけ。どこか呆れたようなクラサメの視線を浴びているといつだってその『常』は最初だけであったことを認識させられた。
 そこまで自制心の無い男だったのかと少しばかりの落胆を感じたが、クラサメがそれを理解しているならむしろ問題ない。
「お前…っ、なに、を…」
 手首の束縛を解き、しかし抵抗できないように俯せになるように促してから両の腕を再び後ろで拘束する。
 研究者であるはずのカヅサであったが、体格はかなりいい方に入る。対する武官でありながらあまり体格に恵まれなかったクラサメは上背に勝るカヅサに背後から押さえ込まれてしまうと足掻くことしかできず、たまらず声を上げる。
「やめろ…!」
「嫌だよ。だってクラサメ君、なにされても構わないってそう言ったよね」
「は…?」
「どうせボクが最初は我慢してても最終的には一緒なんだったら、遠慮することないよね」
「そういう話じゃ…」
 いいじゃないか、君だって気持ちよくなるんだし?とカヅサは悪戯めいた笑みを浮かべる。
 白衣のポケットから取り出したのは薄桃色の液体に満たされた小瓶。その蓋を空いている片方の手だけで器用に開けた。それが媚薬であることくらいは十二分に分かっている。研究室は愚か、私室にまで大量の薬品類を持ち込んでいるカヅサのことだ、当然『とっておきの薬』を置いていないはずがない。
「見てよクラサメ君。新しい調合をしてみたんだ。うまくいったら諜報部にでも売り込もうと思っててね」
「人を実験台に使うな!」
「治験の任務だと思ってさ、頼むよ〜。結構な値段でも売れると思うから、ボクの研究費のためだと思ってくれよ〜」
 そんなことを言いながら引き下がる気などカヅサには毛頭ない。同意に近い意志を得られたのだ。ここで下がってしまっては男がなんとやら、だ。
「クラサメ君ならまだ若くて体力もあるし、多少用量を超えても問題ないと思うんだ。ささ、ボクのために、ね」
「百歩譲って治験の任務だとしても…っ、私になんのメリットがある…!」
「すっごく気持ちよくなれるんじゃないかな?」
「そんなことをメリットとは…ッ!」
 反抗しようとした唇は上から降り掛かって来たカヅサのそれで塞がれる。唇をこじ開け、例の薄桃色の媚薬であろうひんやりとした感覚が口内へ伝わる。無理な体勢のまま口移しで流し込まれた液体は口から漏れだし、火傷の痕を辿って首筋まで垂れて行く。
 口と腕を封じられれば足。じたばたと長い足を振り回してのしかかるカヅサを振りほどこうと躍起になるが、俯せとなったままでは大した抵抗にもならない。
「捕虜への尋問に有用だと思って作ったから不味いんだ。ごめんね?」
「…苦い……」
「口直しにチョコでも食べるかい?エミナ君からもらったんだ」
 今度こそ両腕を解放してやると、跳ね起きるようにクラサメは体を起こした。
 殴られるかな?だなんて呑気なことを考えながらも、カヅサは先程クラサメがグラスを置いたローテーブルに鎮座していた小箱を開ける。中にはこれまた高級そうな大粒のチョコレートが並んでいる。元はと言えば0組が土産に持って来たものであり、食べきれない分をということでエミナがカヅサへよこしたものらしい。
「貰い物だからおかしなものは入ってないよ」
「…」
「いい具合にお酒も回ってるんだし、何か食べたらとも思ってね」
「ん…」
「どうしたんだい?」
 答えるのではなく、口を開ける。
 先程じたばた暴れた所為ですっかり酔いが回ってしまったようだ。食わせろ、とでも言いたいのか真っすぐに潤んだ瞳を向けてくる。
「言葉で伝えてくれないと分からないよ?」
 そうは言ってみたものの、媚薬云々以前に完全に酔っぱらっている。エメラルドの銀紙に包まれたチョコをつまみ上げ、なんとも手際悪そうにその外装を外してしまうと自分で食べるのではなく、カヅサの口に銜えさせる。
「ふらはへふん?」
「寝ろ」
「へ?」
 どん、と軽い衝撃。何故か先程までとは立場が逆転し、カヅサがクラサメに押し倒されている事態へと発展する。
 一体何をする気なのかと思えば、まるで猫のように背中を丸めてカヅサの顔の横に手を置き、その唇に挟まったままのチョコレートに吸い付いたのだ。既にカヅサの口内に突っ込まれた時点でかたちを失い始めていたが、クラサメの舌で舐めとるような動作が加わりあっという間に金粉をまぶしたチョコレートはその姿を小さくしていく。
 直にチョコレートの粒からは中に入っていたブランデーが溢れ出し、薄くなったチョコレートの層はくしゃりと崩れてしまう。しかしクラサメの舌はカヅサの唇についた溶けたチョコレートを貪るように求めてくる。これは非常にマズいというやつだ。元々我慢する気などなかったが、それでもなけなしの我慢くらいはあったはずだ。しかしこれはそのほんのわずかな理性を吹き飛ばすには十分すぎる。
 伸ばした腕をそっと腰に回してやると、途端にびくん、と肩が震えて唇が離れていく。
 効果テキメン?
 随分と愛らしい表情をしているものだ。
 そのまま腰を抱き寄せカヅサの下腹の上に乗せてやると、両の手をチョコレートを口の端につけた顔に添える。
「食べていい?」
「チョコ…」
 呂律が回っていない。もどかしげに下半身を動かしているのだって本人は自覚していないのだろう。
「チョコじゃなくて、クラサメ君」
 どうせこの調子じゃ明日になれば全部忘れているだろう。大して酒に強い訳でもないのに調子に乗ってウィスキーを飲み干し、ブランデー入りのチョコを食べたのだ。自業自得因果応報だ。チョコに関しては食べたというより舐めたという表現の方が正しいであろうが、胃袋の中に収めたという点においては同義だ。
 忘れてしまうのなら、と意地の悪い思案が頭を駆け巡ったが、反対方向からは『無理・無茶・無道の禁止』だなんてくだらない三原則がやってくる。そもそもは模擬戦闘で疲れたクラサメを労ろうと考えて部屋に誘ったというのに、このままでは完全にカヅサが自らの欲求を満たすためだけに抱いてしまうだろう。
 それはまずい、それだけはまずいと思いながらも腹の上に跨がって物欲しげな視線を送ってくるクラサメを見れば建前は一気に瓦解。
「そうだよ治験だよこれは治験。君がどんな反応をしてくれるかを、ボクは、しっかりと観察して…」
「カヅサぁ…」
「…」
 今ここで眼鏡をしていたら眼球が飛び出してレンズを突き破っていたかもしれない。
 最終防衛戦は突破された。後でなんと言われようがブリザガを乱発しながら追いかけられようとも、氷剣を振り回されようとも知ったことではない。気付けば驚くべきスピード(恐らくは自己ベストであった)でベルトだらけの服を脱がせることに成功していた。





「承諾したのはクラサメ君…だよ…?」
「知らん」
「酔っぱらってたから…ね…?」
「ふざけるな」
「ふざけてないってないってねぇ怖いよクラサメ君」
 案の定記憶は綺麗さっぱり消え去っている。
 強請るように腰を振っていたことも、薬を盛った本人であるはずのカヅサが心配する程に素晴らしい反応を見せてくれたことも全て覚えていないようだ。
「ほら、あれだよ諜報部に売りつけようとした新薬の治験任務だと思って……危ない危ない!」
 全裸のまま同じく全裸のクラサメにのしかかられ、氷剣とまではいかないものの、鋭利な氷を枕に突き立てられる。大して上質でもない枕からは綿がはみ出し、握りしめたクラサメの手の内側がじんわりと赤みを帯びて行く。
 記憶はなくとも倦怠感はカヅサの言葉が事実あったことを教えてくれているらしい。すぐに氷の刃は姿を消し、どさりとカヅサの隣に倒れ込んだ。
「…クラサメ君?」
「もう飲まない」
「お酒?」
 彼は顔を背けたまま頷く。
「禁酒ねぇ。なんだかんだ言ってクラサメ君、お酒好きだから無理じゃないかなぁ」
「お前と飲むのを、だ。別にエミナと三人で飲むのは構わない」
「ボクピンポイントかい?ひどいなぁ」
「お前と飲むと碌なことにならない」
「そう?」
「……覚えてないのが嫌だ、」
 寝返りを打ち、二人は向き合うかたちとなる。
 相変わらず火傷の痕は痛々しいし、切れ長の瞳は少し充血している。
「お前だけじゃない、誰といつ何をしたか、一方的に忘れるのが嫌なだけだ」
「………それは、光栄だと思った方がいい?」
「どうとでも」
「じゃあ、今度はお酒無しにしようか。どうやらあの新薬は少し強すぎたみたいだし、もう少し味の方も調製したらまたおいで」
「それは「変態の決まり文句、だろう?」
 悪戯めいて微笑むカヅサの顔は随分と満足げだ。見晴らしの良い外に面した窓の向こう側では朝日が昇り切り、クラサメの休日はようやく始まったばかりだ。しかし休日を存分に謳歌するには如何せん気怠さが体を支配している。
 もぞもぞとベッドからカヅサが抜け出す。
「まぁいいさ。君の言う変態さんは休暇じゃないからね、先にシャワー浴びさせてもらうよ。あぁそうだ、武装研に用事があるからボクは行くけど、シャワーなりなんなりは好きに使ってくれていいよ。何か食べたかったら台所に何かあるだろうから。多分変なものもないよ」
 お前の多分は信用ならない。クラサメはそう言いながらも、再び惰眠を貪るために綿のはみ出した枕に埋もれた。






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