その後の行方は杳として知れず


 左の薬指にきらきらと輝き放つ指輪。
 戦士としては細く、長く美しい指に鎮座するそのリングには無数の宝石たち。控えめではあるが信じられない程に細かい装飾を施されたそれはレムの視線を奪っていた。昼休み前のまだ人の少ないテラスから身を乗り出して太陽の光にかざしてみる。角度によって様々な色の光を放つ小石が鏤(ちりば)められ、息を忘れる程の宝に見えた。
 うっとりとした表情でリングを眺めていたのだが、不意に背後から声をかけられ驚いて手を引っ込める。
「レムっち〜?」
 声の主はシンクだ。。トレイと共にサンドイッチを両手にたくさん持っている。
「ど、どうしたの、シンクに、トレイ」
「混む前にリフレに行って、シンクちゃんだけじゃ持ちきれないからトレイに手伝ってもらったんだ。午後は実習だし、早めに食べた方がいいと思って。何してたの?」
「…あ、えっとね、…その、指輪、見てた」
「指輪?」
「マキナがくれたの、この指輪。すごく綺麗だったから、ついぼーっと見ちゃってた」
「ふぅ〜ん、あ、そうだレムっちも食べる?」  差し出されたサンドイッチからはスクランブルエッグが飛び出している。
 基本的に院内の寮で生活をしている候補生たちは無給だ。日々鍛錬を詰み、時に軍の作戦に優秀者のみが選抜されて参加する代わりに生活費が一定額支給されるというシステムが取られていたらしい。魔導院が制圧されるより前は確かにそうであり、事実ほんの限られた成績優秀者には含まれなかったマキナとレムはそれほど所持金が多い訳ではなかった。
 それが解放作戦をきっかけとして多くの候補生たちが実戦投入されるようになり、0組に編入された二人には軍からの報酬がたんまりと入るようになったのだ。それはもう生活費として与えられていた額とはかけ離れたほど多額であり、多少使い込んだところで三食粥生活に陥ることは無くなった。
「これ、すごく高かったんでしょ?」
 好きなだけリフレでご飯を食べれるとシンクは喜んでいたが、レムの指で輝くそのリングは大金を得てもなお手が届かない程のお値段のはずだ。レムの返答を聞かないままにスクランブルエッグのはみ出たハムサンドをその手に押し付けて彼女は首を傾げた。
「多分…そうだと思う。マキナ、無理してたのかなぁ」
「この加工は…コルシのでしょうか。あそこには宝石の細工職人が居ましたから、彼に頼んだのかもしれませんね」
「はいはーい!そーゆーのって、詮索しない方がいいと思いまーす!マキナん頑張って買っちゃったんだろうからさぁ〜」
 手を挙げて言うと、レムは苦笑しながら「そうだね」と言った。
 この指輪を買う為にマキナは作戦報酬をコツコツと貯め、流行の化粧品を買い集めるサイスや新たな武器に頬擦りするトレイを横目に、ボルトレイピアの刃が欠けても自分で修繕していたのだろう。
「でさ、その指輪ってなんでもらったの?」
「えっ」
「マキナんがレムっちに指輪プレゼントしたのは分かるけど〜、それってどーゆーことなのかなぁって」
「どういうことも、その、あの」
「シンク、この指輪はエンゲージリングというものですよ」
「えんげーじりんぐぅ?レムっち、何それ?」
「…知らないの?」
「初耳だよ〜!」
 彼女は目を丸くして言い、メンチカツのサンドにかじりつく。
「その…エンゲージリングっていうのは…婚約指輪の、ことなんだけど…」
「婚約〜?」
「シンク、婚約とは、結婚の約束を交わすことです。また、その約束自体を婚約と言うこともあり、エンゲージとも言われ、その際に男性から女性へ送られるリングは給料の三ヶ月分とも「トレイには聞いてないよ〜!」」
 シンクは舌をべーと出す。レタスの破片が口から漏れたが、気にした様子はない。
「今はレムっちに、聞いてるの〜!ねね、婚約ってなにぃ〜?」
 興味津々といった表情にレムは思わず一歩下がる。
「えっとね、婚約っていうのは…結婚を、約束することだよ」
「レム、マキナと結婚するの!?」
 はしたないです!とトレイの叱咤が飛ぶ。シンクの口から飛んだのはメンチカツ。顔を赤らめながら、レムはふるふると首を振った。
「そ、そうじゃないよ!私がね、ちっちゃい頃にマキナのお嫁さんになりたいって言ったの。その話をこの間してたら、マキナが、これを」
「…つまり、あなたとマキナは将来結婚すると?」
「そんなのまだ分からないよ。戦争だって続いてるし…他にも、色々」
「ふぅ〜ん?」
 あまり納得はいっていないらしい。メンチカツのサンドをあっという間に胃袋に収め、トレイが持っていたチキンサンドへと手を伸ばす。彼のもう片方の手に残されたのは野菜のみのレタスサンド。チキンサンドを食べたかったのに、という恨み言を籠めた視線を送るがシンクはそんなもの興味が無いのか気付いてないのか、大きな口を開けてかじりついた。
「でもさぁ、結婚なんてしたらずっと一緒なんでしょ〜?大変じゃない?」
 どうやらシンクの中で結婚することは決定事項らしい。
「だから、まだそんなことまで考えてないよ。それに未来なんて分からないもん。分からないからマキナは…今、これをくれたんだと思う」
「…でも、いいなぁ。レムはマキナとなら一生一緒にいてもいいって思うんでしょ〜?そーゆーの、少し羨ましいなぁ」
 少女らしいうっとりとした笑みを浮かべながらシンクは口の付けられていないレムの手の中に収まるハムサンドを見つめた。あげる、と言って押し付けたのはシンクだというのに惜しくなったようだ。苦笑されがらも再びシンクの手元に戻って来たハムサンドを彼女はトレイに押しつけ、代わりにレタスサンドを奪いさる。
 どうやら肉の入ったサンドイッチを全て食べてしまおうとまでは思わなかったらしい。
「シンクとトレイには、居ない?この人なら死ぬまで一緒に居たいって人」
 すっかり蚊帳の外で、サンドイッチを持つだけの係となっていたトレイがはっとした表情で顔を上げる。何かを期待するようなその視線の先にはもぐもぐと咀嚼するシンク。
「死ぬまで?う〜ん、考えたこと無いよ〜。でも、マザーと皆とならずっと一緒に居たいな」
「シンク、そうではありませんよ」
「ふえ?」
 レタスサンドをシンクの手から取り上げ、ハムサンドを彼女へ渡す。そして真似をするかのようにサンドを頬張りながら、ふごふごとわざと咀嚼音を立てながら続けた。
「結婚というのは唯一人の人とするものです。あなたがマザーや私たちを想ってくれている気持ちとは、また少し違うんですよ」
「違うの?」
「私たちはいつも一緒です。ですがそれとはまた別に、特別な人に対して抱く特別な感情が必要なんです」
「むむむ、とくべつ…?」
 わたしには分からないよ、とシンクは眉根を寄せたままチキンサンドの最後の一口を飲み込み、至極自然にハムサンドに次いで食らいつく。
 僅かばかりの期待をしていたトレイの好意にも行為にも気付かずに相も変わらず自由に振る舞う彼女に、トレイは落胆の意を籠めたのであろうため息をついた。しかしそれは消して負の感情を抱いている訳ではない。それこそ『相も変わらず、』と呆れながらもそれをいとおしいと感じているような、そんな感情だ。
「いつか、シンクたちも分かると思うよ。命に代えてでも守りたいって、ずっと傍に居たいって思えるただ一人の人が」
 そう言って笑んだレムの薬指にはめられたリングはやはり、美しい光を放っていた。


「レムっち、指輪は〜?」
 武器とアクセサリの装備。選択した魔法と特殊装備も確認して、それからやっと魔導院からの外出許可が降りる。隊長であるクラサメは特にそれが徹底していて、用心深いのか心配性なのかは分からないが、例え実習であろうともその徹底ぶりは凄まじいものであり、おかげで0組が作戦で装備の不備などを起こしたことはない。
 例にも漏れずシンクはバンクルと小手の強度を確かめ、実習の準備をしているレムを見た。
 その指にはあの輝きが見当たらない。
「あんな高いもの、ずっとつけてて無くしたら大変でしょ?作戦とか、実習の時は、ほら」
 首に下げられた銀色のネックレスに垂れ下がるのは例のリング。
「こうやっていれば、無くさないと思って。それにね、指輪付けてたらダガーが握れないもの」
「なるほどぉ〜。じゃ、幸せいっぱいのレムっちのお手を煩わせないようにわたし頑張っちゃうよ〜」
「ありがとう。でも、シンクも無理しちゃ駄目だからね?トレイが心配するよ」
 なんてことを言うとシンクは首を傾げた。
「…なんでトレイが出てくるの〜?」
 随分と疎い少女だ。先は長そうだね、と数メートル先で弓の調子を確かめているトレイに僅かに視線をやりながら、レムはただ微笑んだ。











 血まみれのノーウィングタグと、その海へ落ちたリング。
 エントランスから軍令部へと続く階段に座り込んで、シンクはそれらをじっと見つめていた。レムが倒れたと言われ、謎の戦士が現れ、多くの候補生と訓練生たちが殺された。院内でできる限りタグを拾おうとルルサスから逃れながら回収していたところ見つけてしまったのだ。
 照明の半分ほどが落ちてしまった薄暗いエントランスの天へリングを翳してみてもレムがテラスで微笑んでいたあのときのように輝いてはくれない。一応ハンカチで拭ってみたものの赤黒い汚れは落ちないし、輪の部分に少しばかり傷がついてしまっている。
「…トレイ、どうやったらこの指輪って綺麗になる?」
「血痕がついてしまっていますし、宝石商に任せるのが一番得策ですよ。ですが、シンクが言っているのは今できる手入れのこと、ですね?」
「うん。レムっちの目が覚めたときに、一番に渡してあげたいな〜って。そのときに汚れてたら、なんか可哀想じゃん」
「そうですね…。大魔法陣さえ稼働していれば、リフレなり寮なりで洗剤などを拝借することもできますが、この状況下では無理難題ですね。魔法陣が使えないとなると…カヅサ主任の研究室なら、何か使えるものがあるかもしれません。ご本人がいるかはまた別の問題ですが」
「そっか、その手があったねぇ〜。まだ時間まで少しあるし、行ってみようかなぁ…トレイ、」
「分かってますよ。私も行きましょう」
 弱々しく微笑むシンクを励ますかのように、少しだけ気障に振る舞ってみる。
 あまりにもの強敵に恐れ戦いている訳ではないだろうが、不安になっていることは確かだ。人間ではない得体の知れない者への恐怖、ファントマそのものを破壊する悪魔。噴水広場に積み上げられた死体から次々とノーウィングタグを引きずり出した時に青い顔をしていたのをトレイは見逃さなかった。死への恐怖ではなく、ファントマすら残らない死体を恐れたのでもなく、漠然とした恐怖を感じていたのだろう。
 既に魔導院の命令系統は勿論のこと、誰が生きていて誰が死んでいるかすら不明だ。院長を初めとする八席議会が姿をくらませたという噂が流れ、もう候補生たちは見限られたのであろうというのが共通の意識。唯一アレシアが背中を押してくれたものの、そのアレシアも今はどこかへ行ってしまった。
「……マキナ、レムの婚約者失格だねぇ」
 誰もいないエントランスに声は響く。皆教室へ逃げ込み、人っ子一人居ない。
「エンラ君も言ってたけどさぁ、こーゆーときこそ一緒にいてあげなきゃ」
「ですね。指輪を贈った張本人が居ないとは、嘆かわしいことです」
「でも、今ここに居なけりゃルルサスと戦わなくていいんなら、それはそれでいいかも。まだマキナのこと覚えてるってことは、生きてるってことでしょ?レムっちがどうなるかは分からないけど、早く戻ってこないかな〜」
 クリスタリウムへの扉を開くと、やはり静かな空間。カルラやクオンが先程までは居たが、危険だからと言って姿を消している。掲示板には報告書再提出の旨を記した紙と、亡き0組隊長の署名。古い書類まで貼りっぱなしで、どんどん上から新しい紙を貼っていってるようだ。捲っていけば、魔導院解放作戦からほぼ毎度再提出を指示されたクラサメの名が入ったプリントが放置されている。
 この掲示板から呼び出し状や催促状、通達がはみだしているのは感傷的な理由があるからなのかもしれない。この書面にある何人が今も生きていることやら、とトレイは少しだけ笑った。
「こんなものを見ていたら、私たちまで感傷に浸りたくなりますね」
「だね〜。わたし、いつもセブンに報告書一緒に書いてもらってたよ〜。なのにビッグブリッジの作戦終わってから、報告書なんて殆ど書かなくなっちゃった」
「私やクイーンが書いていますからね。私たちの隊長は、全員に書かせていたようでしたが」
「おせっかいな隊長さんだったんだね〜。…これは何だろ」
 ぺらりともう一枚捲れば赤い紙。
「これは…果たし状ですね。2組のタチバナから…誰へでしょう。どちらも記憶にありませんね」
「ちじょうのもつれってやつ〜?」
「…シンクがそんな言葉を知っているとは、意外ですね」
「トレイが教えてくれたんだよ」
「えっ」
 掲示板を見つめたまま、シンクはそう言った。そしてトレイの反応に満足するかのようににやりと、あまり女子らしくない笑みを浮かべて「ささ、行くよ〜」と呑気な声を出した。走っても注意する文官は居ない。手すりから身を乗り出しても非難する候補生だって居ない。
 本棚に触れたまま駆け抜けたところで、誰も咎めない。唯一トレイがやめなさい、と軽くたしなめたが本気ではない。
「どっこいしょ!」
 本棚を思い切り横へ引くと、薄暗い廊下。幾度となくこの廊下を通り、怪しげな研究室へ足を運んだ。そこでやはり幾度となく気絶させられ、指揮隊長であったクラサメの記憶を探られもした。なんだか全部懐かしいねぇ、とシンクは長い廊下をスキップしながら呟いた。そして足音に合わせ、歌を口ずさんだ。
「た〜んた〜んたぬきの金玉は〜」
「何ですその下品な歌は!」
 思わずトレイは叫ぶ。のんびりとしたあの朗らかな声に乗せて、あられもない単語が飛び出して来たからだ。
「ん〜?たぬきの金玉がね〜、風に吹かれるんだよ?」
「そうじゃありません!」
 彼は顔を少し赤らめながら、シンクの前に立ちはだかった。
「いくら歌であろうと、そんな下品な言葉を女性のあなたが口にしていい訳がありません!」
「え〜?だってこの歌、マザーから教えてもらったんだよ?……あれ、うん、多分……ううん。マザーじゃない。誰から…教えてもらったんだろう」
「少なくとも、マザーがそんな歌を教えるはずがありません。まぁ誰から教わったにせよ、その歌を人前で口ずさむのはやめた方がいいですよ、シンク」
「…うん。でも、誰に教わったんだろ〜?」
 首を傾げ、ふわふわと茶色い髪の毛が揺れる。立ち止まったのはそのやり取りの間だけで、既に疑問はどうでもよくなったのかすぐにスキップをし始める。げっそりとした表情になったトレイは置いてきぼりだ。
「洗剤、洗剤っと」
 最奥の扉を開き、カヅサの研究室へ忍び込む。トレイの見立て通り本人は居なかったが、棚には大量の薬品が保管されたままとなっている。果たしてこの中に洗剤という日用品が置いてあるのかは不明だが、少なくともトイレに置いていなかった以上、次に怪しいのはこの場所だ。
 ここで寝起きしていることもあるようで、研究室の奥には簡易バスルームがあったが洗剤は見当たらない。浴室はあるもののキッチンは見つからず、お目当てのものは見つけられないように思われた。
「ないねぇ」
「他に生活用品が置いてありそうな場所は…ありませんね」
「じゃ、指輪は汚れたままレムっちに返却なのかなぁ」
「仕方ありませんね」
「そっか」
 酷く残念そうな表情をして、指輪をランプの光にあてる。
「……指輪をね」
「どうしました?」
「指輪、レムっちがもらったって話を聞いたときはなんとも感じなかったんだ。羨ましい、って言ったけど、本当はよく分かんなかった。結婚とか、婚約とか。そんなのってシンクちゃん関係ないよ〜って思ってたんだけど、なんとなく、なんとなーく、今はちょっと羨ましいなって」
 汚れたきらめきを見せる指輪を優しく指でなぞった。シンク自身、色恋沙汰などに興味どころか、そういう考え自体が欠落していた自覚はある。魔導院の候補生になるため昼夜メイスを振り回し、トレイの嫌味に首を傾げて、ケイトと悪戯をして。エイトと大食い競争をしたりだとか、そんなことばかりやっていたのだ。
 それを普通だと思い込み、いざ魔導院に来てみればその景色はシンクが描いていたものとは正反対で。テラスには恋人たちが集まり、リフレでは二人でパフェをつつき合い、サロンでは甘い言葉を囁き合い。出撃前となれば涙を流して抱き合う男女に、記憶から抜け落ちた恋人に想いを馳せる男。
 最初こそ未知の感情で、それこそルルサスに対する感情と似たようなものを抱いていたが、少しずつそれはシンクの感情に溶け込んで来ていた。
「わたしね、みんなが大好きなんだよ〜」
 唐突に言い、シンクは机に広げられたままの資料の中にカヅサとクラサメであろう男、そしてもう一人の女性が写った写真を見つけた。写真を埋めていた資料にびっしりと書かれた計算式はちんぷんかんぷんだったが、古びた日記の切れ端や、落書きだらけのノートも置いてあった。
「一緒にご飯食べて、一緒に作戦に参加して、一緒に寝て、すごく楽しいんだ。わたしを認めてくれるみんなが大好きなんだ」
「それは…とても良いことですね」
「でしょ?…でもねぇ、レムっちの話聞いてから、ちょっとした心境の変化っていうのが現れたんだよ〜」
「変化、ですか」
「わたし、皆と比べて頭悪いから、分からないことがたくさんあるんだ。けどそんなときって、いつもトレイが何でも教えてくれてたんだ〜。皆が呆れて放っていっちゃうときも、トレイだけはいつも待っててくれて、嬉しかったんだ」
 作戦中に制服の金具が外れてしまった時も、急いでいる時であろうと一緒に探してくれたよ、と彼女は微笑んだ。
「報告書が終わらない時も、課題が分かんない時も、お気に入りのペンを無くしちゃった時も、最初に気付いてくれるのはトレイだったんだよ〜。蘊蓄はうるさいけど、それでも大事なことをいつも教えてくれてたんだ」
「シンク、」
「一緒に居て、飽きられないでいつもわたしを見てくれてたでしょ?レムっちが言ってたのって、こういうことなのかなぁって思ったんだ」
「その、つまり、」
「トレイ、顔真っ赤だよ!」
 くすりと笑ったシンクの頬もわずかに上気している。
「わ、私も、その、同じですよ、シンク。あなたはなんだかんだと私の話を聞いてくれていて、とても…その、」
「分かってることを長々と語られるのは勘弁だけどね〜」
「シンク!からかわないでください!」
 そう声を荒げると、シンクは回避するように指輪を握りしめたまま扉までくるくると回りながら移動する。
 ひどく恥ずかしかったのか、いつかと同じようにべぇ、と舌を出して廊下に姿を消してしまう。待ってください、と慌ててトレイが廊下に飛び出し、クリスタリウムまで全力疾走するシンクを追いかけた。
「シンク!走ってはいけませんよ!」
「トレイだって走ってるよ〜!」
「シンク!」
 静謐なクリスタリウムに大きな音を立てて駆け戻る。
 若干息を切らしながら、シンクは嬉しそうに笑っていた。
「洗剤、見当たらなかったね〜」
「え、あ、えぇ。仕方ありませんから、できる限り拭いて返しましょう。クイーンに眼鏡拭きを借りればいいでしょう」
「貸してくれるといいけどね」
 なんてったって血痕付きの婚約指輪だよ、とふざけて言う。
「…シンク」
「ん?」
「よければ、ですが。その…今度、買い物に行きましょう」
「お買い物?」
「えぇ。今やコルシだけでなく、オリエンス全土が朱雀の領土です。マハマユリもイングラムいずれ解放されるはず。ゆ、ゆ、指輪を、買いましょう」
「………指輪」
「シンクの気に入るものを、とびきりのものを、見に…その、良ければ、買いに行きませんか」
「指輪って、エンゲージリングのことで合ってる?」
「はい」
「じゃ、いらない」
「え…」
 笑顔でそう告げると、トレイに背を向けて吹き抜けへ身を乗り出した。表情を伺い知ることはできないが、声音は彼女の顔に笑みは浮かんだままのように明るく楽しげなものだ。
「わたしはレムみたいに器用じゃないから、すぐ無くしちゃうと思う。指にはめてたらメイスが握れないし、別のところにかけてても無くしちゃう自信あるもん。無くしちゃったら、きっと目が覚めたレムも同じように思うんだろうけど、すごく悲しいから」
「しかし…」
「一緒に居られたらそれで十分だと思うんだ。レムっち、言ってたじゃん。先のことなんて分からないから〜って。わたしは先のことが分からないから、今トレイと一緒に居たいって思ったの。気持ちだけでいっぱいいっぱいだし。それじゃ駄目かなぁ」
「…あなたらしいです」
「駄目?」
「まさか」
「よかった」
 トレイはシンクの隣に並び、階下へ向かって身を乗り出す。
「それにさぁ、お給料の三ヶ月分なんて大金、指輪に使っちゃうなんて勿体ないよ〜。シンクちゃんなら、もっとおっきいメイスに取り替えて、トゲトゲとかつけちゃったりして、それからホールケーキ食べてるよ」
「……その話、」
 いつかテラスで交わされた会話だ。トレイの話を遮ったくせに、内容はちゃんと覚えていたらしい。
「だから、わたしはいらないよ?」
 とびきりの笑みを見せてくれたシンクに心奪われそうな気持ちになりながらも、なるべく平常心を保つようにと心を落ち着かせてトレイは提案した。
「では、代わりに食い倒れツアーにしましょう。蒼龍では蛙の足を食べるそうですし、白虎の芋料理も中々に美味と聞きます」
「いいねぇ、おいしそう〜」
「そもそも、白虎では慢性的な「食糧不足のため、芋料理ばっかりなんでしょ〜?そのお話、もう何回目?」」
「………三回目です」
 手すりから体を離し、「そろそろ時間だね」とシンクは言った。
 トレイも同じように乗り出していた身を戻す。噴水広場への扉の前ではきっとホシヒメが待っていて、他の10人も装備を確認していることだろう。無くしてしまわないように指輪をどうしたものか、とシンクは考えていると何も言っていないにも関わらず彼女の指に挟まっていたそれを取り上げ、トレイはシンクの胸ポケットに押し込んだ。
「これじゃ落としちゃうよ?」
「シンクが大暴れしなくていいようにフォローするのも、私の役目です」
「そーゆー個人的な感情は、作戦にはふひつよーだって言われてるよ?」
「えぇ。ですから私は、前衛のフォローをするのが後衛の役目だと、そう言ったんです」
「屁理屈〜!」
 言いながらもシンクの笑顔は変わらない。
 再びあられもない歌を口ずさみそうな程に軽い足でクリスタリウムの通路を歩いていくが、一度だけ振り返って首を少しだけ傾けた。
「…シンクちゃん、ちょっと不安かも」
「えぇ。敵の情報が全く分からないというのは、些か心もと有りません」
「…こういう時は、黙って手を繋いでくれればいいんだよ。もー、トレイってばそういうところは鈍いね〜」
「シ、シンクに言われたくありません!手を繋げばいいのでしょう、繋げば!」
 自棄になってその左手でシンクの右手を包みように握る。クリスタリウムの扉までは十メートルと少し。その扉をくぐればもう後戻りはできない。ルルサスを倒し、マキナがレムの元へ戻って来れるようにメイスを振るい、矢を放つ。
「……怖くなったら、叫んだっていいんですからね」
「シンクちゃん怖くないよ。だって、わたしの後ろにはトレイが居てくれるもん」
 たん、たん、たぬきの金玉は〜、と。
 繋いだ手を大きく振りながらシンクは笑顔で歌い始めた。



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