Aurora




「光のカーテン、月のカーテン。かつて我らの先祖である白虎の民は『それ』をそう呼び、忌避していた」
「……奇遇だ。朱雀でも太古には観測された記録があったが……不吉の予兆とされていたらしい。フ……最も、オリエンス大戦で地形が変わって以来は朱雀領では滅多に見られなくなったようだが」
「嫌味のつもりか」
「お互い様だ。文献によればあの大戦以降、白虎の大地は不毛なものとなり……朱雀はインスマが沈没したことによって気候が変わった」
 当時の人々からしてみればたまったものではないな、とクラサメは付け足した。
「……見たいか?」
「は?」
「オーロラを見たいかと聞いている。今夜にはこの雪も止む。……少し山に登れば、きっと見れるだろう。周囲に何一つの人の手が加えられたもののない場所で──星明かりが爛々と煌めく中に現れるオーロラはまさに絶景だ」
「白虎の将軍がこんな戦況で観光とは、いい身分だ」
「白虎は」
 そこで初めてカトルは振り返った。
 降り続く雪を窓からずっと眺めていた彼であったが、クラサメへと向けた表情は何故かとても優しいそれであった。カツカツと真っ黒なブーツを鳴らしながらベッドの上で膝を抱えて湯気を立てるカップを両手で包んでいたクラサメの隣に腰を下ろした。そしてその青みがかった髪の毛に手を伸ばすと、クラサメは拒絶しようとしたものの両手がふさがっていたためその仕草を甘んじて受け入れることとなる。
「クァールの毛のようだな」
「うるさい」
「なんだ、気にしていたのか。我は……可愛げがあると思うがな」
 丸まった毛先や全体的にふわりとした印象を与える髪質をクラサメ自身はあまり好んでいなかった。どうせなら、せめてストレート・ヘアであってほしい。そうすればカトルのようにポマードで押さえつければそれなりに威厳ある姿にもなるだろうし、少なくとも今のように男相手に『可愛い』などと言われることはない。
 そんなことを考えているうちにぶすりと口を尖らせてしまったクラサメの顔のを見てカトルはぷっと息を吹き出した。
「続きだ。……我ら白虎は負ける。貴様が手塩にかけた朱の魔人らによって な」
「?」
「ビッグブリッジでの勝利以降、着実に奴らは我らを追いつめている。メロエ地方はとうに制圧された。……セトメ、アズール……西ネシェル。じきに東ネシェルも制圧されれば残るはここ、イングラムだけだ」
「…………」
「我はこの都と最期を共にするであろう。魔人共に……身を焼かれようとも、命乞いなどせぬ。我が命に終末点が打たれる日は近いのだ」
「だから死ぬ前に『思い出作り』とやらでもしろと?」
「嫌か?」
 てっきり反論されると思っていたが、カトルはあっさりとそれを認めた。
 ようやく口をつけても火傷しない程度になってきたスープを一口流し込むと、ペリシティリウムのリフレで食べたものに近い味が広がる。今日の昼食は朱雀風のオムレツであったし、どれもこれもカトルがわざわざアリアに頼んで作らせたものであることが明白であった。
 カトルが最初に宣言したように、クラサメは行為を強要されることも、そもそも求められることも無かった。ただ屋敷から出る事は許されなかっただけであり、長年バシュタール家に仕えて来たという老いたメイドと世間話を交わすこともあったし、歴代のバシュタール家当主の肖像について説明を受けたこともあった。
「今までの借りがある。それに……外へ出れるというのなら理由は問わない」
「決まりだ。日没と共にここを出るぞ。しっかりと食べておけ」
 とっておきの料理を作らせるとカトルは言ってようやく髪の毛を弄っていた手を離した。もしかしたらオーロラ観測の提案をしに来ただけであったのかもしれない。
 あっという間にベッドから退くと、「会議だ」と漏らして早足で部屋を大股で横切り、扉の向こうへ消え去っていく。彼が急ぐ姿を滅多に見たことがなかったクラサメにしてみれば少しばかり新鮮な光景であり、あの様子では遅刻かと内心「ざまぁみろ」だなんてあざ笑いながらもう一口スープを啜った。



 吐息は白い。
 凍える、という言葉がぴったりであった。長い間の屋敷生活ですっかり軍人としてつけてきた体力が落ちてしまったこともあったが、このような白虎領の奥地に足を踏み入れるといこと自体が初めての経験だ。重たい防寒具は動きを更に鈍らせる。
「……まだか」
「あの山の上まで行く」
「…………」
 カトルがストックで指し示したサミットまではまだかなり時間がかかるであろう。日が落ちてすぐだというのに周囲に灯り一つなく、この辺りで十分ではないかとすら思い始めてくる。
「苦労した分程良いものが見れる。そういうものだ」
「あなたは登ったことが?」
「士官候補生の時にな。もっとも、雪山訓練だったが……」
 野生のスノージャイアントに追い回され、その上で制限日数内に山の何処かに隠された重要書類が入ったアタッシュケースを発見せよだなんていう無茶ぶりにも程がある任務だったと彼は笑った。顔面を突き刺す冷気は確かに辛いものがあったが、その上で魔物に追いかけ回されるだなんてとんだ災難だ。
 そこでクラサメはふと頭によぎった疑問を投げかけた。
「……今我々がスノージャイアントに襲われる可能性は?」
「なきにしもあらず」
「初耳だぞ」
 当たり前だがクラサメは丸腰だ。カトルこそ腰に銃をぶら下げてはいるが、猟銃でもなければただの対人の護身用レベルだ。そんなものであの巨体に立ち向かおうなどというのは無謀すぎる。否、立ち向かうどころか逃げることも不可能だ。
「出会わないことを祈るだけだ。奴らも随分と数が減った。……基地を作るために土地を削り、鋼機の試験場を作るために山を破壊した。それにもともと昼間に活動する魔物どもだ。雪崩でも起きない限り目覚めぬ」
「夜に活動する魔物は?」
「トンベリくらいだな。朱雀が氷剣の死神はトンベリを使役していたのだろう? ならば、野生のトンベリが現れても問題なかろう」
「私がどうにかできるのは蒼龍領のトンベリだけだ。白虎のトンベリは容赦なく殺しに来るぞ」
 包丁でザックリか怨念でポックリだ。
 クラサメが至極真顔でそんなことを言うものだから、カトルは腹を抱えて大笑いする素振りを見せた。
「洞窟に入らない限り襲われる心配はない。蒼龍では森にでも住んでいるのかもしれないが……今ここで我らを襲う魔物がいるとすれば虫けらどもだ。恐るるに値しない」
「私は魔法が使えない。戦力にはならないぞ」
 ザクザクと雪を踏みしめる音と互いの声だけが二人の耳に入ってくる。あとは、無音の世界だ。分厚い耳当てに遮られて小さな音でしか届かないがそれで十分だ。部外者のいない二人だけの世界ならば問題ない。
「戦力にならないことくらいは承知の上だ。ただ、もしもの場合は自分の身くらいは守れ。そして一目散に逃げろ」
「あなたを置いてか?」
「フン、我は『完全帰還者』だ。朱の魔人などではなく、心を持たぬ魔物共に食い殺される器ではない」
「それは心強い。……ところで、まだか。あとどれくらいある?」
「貴様はそれでも軍人か。これしきの登山、屁でもなかろう」
「あなたも三ヶ月引きこもってみるといい。どれだけ、体力が、落ちるか…」
「ならば口を閉じて歩け」
 機嫌を損ねてしまったのかぶっきらぼうな物言いだ。あっという間にクラサメの横を通過し、しかしながら見失わない程度の距離を保ちながらずかずかと先に進んでいってしまう。
 置いて行かれることは無いであろうが、それでも距離が開いてしまうと厄介だ。
 そう思ったクラサメがペースを上げようとしたところ、あることに気付く。大柄なカトルにしては歩幅がやけに小さいのだ。大きな防寒ブーツで踏み固められた雪の足跡が丁度クラサメの歩幅にマッチする。その上先程まで樹々の合間を縫って進んでいたはずだったルートが変わり、勾配の緩やかで見通しのよい雪原に出た。
「……素直でない人だ」
 辺りを見回しながらなるべく遠回りにはならぬように、しかし歩きやすい道順を探し歩く白虎の将を見てクラサメは小さく笑った。




 文句を言いながらも山頂まで来てよかっただろう? と。カトルはそう満足げに言った。
 周囲の山よりも頭一つ抜けた小高いそこでは辺りを見回しても視界を遮るものが一つもなかった。黒よりも濃い色の空に光り輝くのは美しい星々で、それらは決して惑うインの中では見る事のできなかった光景だ。カトルが言っていた通り、街の光など届かない。視界の全てを覆い尽くす夜のキャンバスにまき散らした白の光がクラサメの目に映り込んだ。
「……あ」
 半開きになっていた唇が動く。
 頭の真上からゆっくりと降りて来たのはお目当てのオーロラだ。のっそりとした白い光が徐々に現れ始め、目を奪われているとみるみるうちにそれらは眼前を支配していく。刻一刻と姿かたちを変え、時に僅かに色を変えていくそれはクラサメが今の今まで見たことのないものであったし、カトルも見慣れている訳ではないのか、目を見張ってじっとそれを見つめていた。
 今ではもうオーロラの発生原因や観測される時期なども全て解明されてはいるものの、何一つ分かりはしない、占星術を用いていたであろう太古の人間たちはこの光景を不吉の予兆だと捉えていても仕方がないであろう。意志を持たない自然現象でありながらもその光のカーテンは生命を吹き込まれたように動き、或は天上の巨人が編んでいるカーテンとでも例えられよう。
「首が……痛くなりそうだ」
「もっとマシな感想が言えんのか」
「……白虎に……まだこんな景色があったとはな」
「ほう」
「朱雀や蒼龍、玄武に比べ……白虎は鋼機による大気汚染が問題になっていただろう? てっきりこのような景色など、方便だけで現実に存在するとは思わなかった。これで満足か?」
「とんだ言い草だがまぁいいだろう。この土地も捨てたものではない。……戦争などというものが終われば、煙のない街でもこの景色が見れるようになる」
 そう言うとカトルは口を閉ざした。
 痛みをも伴う寒さが身体のぬくもりを奪っていくが、踊るように揺らめくオーロラががっしりと心を掴みかかりなかなか離してくれそうにもない。息を吸うことを忘れるほどに、そして口内に乾いた空気が入り込み喉がカラカラになっていることを忘れるほどに。
「あなたは 完全帰還者だ」
「……いきなり何を言い出す?」
 じぃと見つめていると空に落ちたカーテンは段々と姿を変えていく。帯のように、重みを背負った垂れ幕のように。靄にも近いものであったが、初めて見るクラサメの瞳にはしっかりと焼き付けられた。首の疲労を自覚してきたが、彼は天空を見つめたまま口を動かした。
「0組はあなたを打ち倒す。彼らは……このオリエンス中を探しても代替のいない最強の部隊だ。白虎の残存兵力で太刀打ちできるような奴らではない」
「だろうな」
「だが、両の腕を挙げた者にすら牙を剥くほど阿呆でもない。……どうせ白虎が終わりだと言うのであらばその命、無駄にすることはないはずだ」
「投降しろとでもいうのか?」
「きっと……私だけでなく、アリアも同じことを言う。我々の命を救った貴方が死ぬと寝覚めも悪い」
「我は投降などせぬ。するくらいであれば、生まれ育った帝都と共に皆の記憶から消え去ることを選ぶ。……貴様はあの屋敷にただいればいい。信頼のおける部下に朱の魔人共へ貴様が無事であることを伝えさせよう。アリアと共に朱雀の土地へ帰れ。ただ一つ要求があるとすれば……屋敷の婆やだけは捕虜として殺さずにいてほしいところだ」
 幼い頃から身の回りの世話をしてくれていたのだから、とカトルはようやく視線を空から離した。つられてクラサメも眼前に広がる白の森に視線を移す。
「私もあの老婆には世話になった。……できることであれば、最大限の努力をしよう。私も、あなたに最低限の要求くらいしても?」
「貴様が我にか? フン、聞いてはやる」
 鼻を鳴らしたカトルにクラサメはふわりと笑んだ。
 それは彼がこの白虎の地に連れて来られて以来見たことのない、一片の悪意も含まれていない純粋な微笑みだった。思わずカトルは目を丸くしてしまったが、そんなことなどおかまいなしにクラサメは一歩彼の方へ歩み寄ると、数時間前にカトルがそうしていたように毛皮のフードからはみだしていたプラチナブロンドの髪の毛に手を伸ばした。
「必ず……私の前にもう一度姿を現してほしい。あなたが部下に0組へ私の存在を知らせてくれるのであれば、私も逆に0組へあなたの存在を知らせることもできる。彼らはあなたの鋼機を破壊する。それは恐らく……変わらない。しかし、行動不能となったあなたを殺さず、捕虜として生け捕りにすることは可能だ」
「生き恥を晒せとでも言うか。言ったはずだ、我は投降などせぬ」
「情をかけられたくなどないのは私も同じだったさ。私は……あの日、嵐の月に死ぬはずだった。それをあなたがこのくだらない命を拾い上げたものだから、まだこうして生きながらえているだけのこと。生き恥を晒しているんだ。あなたも生き恥というものを晒してみるといい。…………存外、悪いものではない」
 穏やかな笑みは止まない。
 かつてクラサメが見せている笑顔は街の至る所で見られたはずだ。貧相な土地であったし、気候も厳しい国ではあるが人々は満ち足りた生活をしていた。夫が仕事から帰れば、妻子が労いの言葉とともに向ける笑顔。それが今クラサメの浮かべているものだ。
「貴様がそう言うのであれば……そう、なのかもしれぬ」
「少なくとも私は……もう一度戦火から遠く離れたこの場所であなたと天の光を見たいと。そう、思う」
「…………考えてやろう」
「は?」
「貴様の提案を、だ。この空を再び見ることができるのなら……無様に生き延びるのも悪くはないかもしれぬな」
 隻眼を細め、霜の貼り付いた髪の毛を弄っていたクラサメの左手を一回り大きい手で包み込んだ。明日にも、明後日にも朱雀は最後の皇国拠点を落としに掛かるであろう。ゲーベル基地が陥落すれば帝都への侵攻を食い止める術はどこにもない。
 カトルもその実力を認めるフェイスがブラックバーンで迎撃するという報は聞いているものの、圧倒的な物量差で劣る白虎に勝ち目はない。たった十ヶ月でひっくり返された戦況を嘆いたところでどうにもならないことは理解していた。その上で生還せよというのはかなりの無茶であることは恐らくクラサメも承知の上だ。
「……戻ろう。明日も早い。小娘が温かいスープを作って待っているであろうしな」
 不吉の兆しと信じられていた光のカーテンはただ、二人が下山した後にも空(くう)を漂っていた。






 朱の魔人がやって来た。
 そんな一報はカトルの昂奮し敏感となっていた思考回路を両断するような細い矢のように駆け巡り、意識を妄想の世界から現実へと押し戻した。
 通信兵の慌てふためいて投げかけたその内容を理解できないはずがない。朱雀の魔導院に所属する候補生の中でも群を抜いた強さを誇り、畏怖の念を含め『魔人』と呼ばれる少年少女らがやってきた。──ただ、それだけのことだ。ならば新型鋼機の試験運用も兼ねて迎撃すればいい。トゴレスを奪取される訳にはいかないのだ。
「……ふむ、妙な感覚だ」
 モニター越しにマントをはためかせ魔法を撃ち込んでくる姿に見覚えなどあるはずがない。だがしかし、その背後に魔法陣から出現した男にはどこかひっかかる部分があった。
 支援に来たのであろう朱雀の軍監は黒い軍服をまとい、風になびく上着をはためかせながら魔法を詠唱し始める。荒い画像でははっきりと確認することは不可能であったが、それでも男の抜けるような瞳の色と、青みがかった髪の毛はカトルの目にしっかりと焼き付いた。
「どこの誰かは知らぬが……我の前に立ちはだかる者は消えてもらおう!」
 徐々に鎌首をもたげる既視感と不安を振り切るようにカトルは鋼機のスロットルを力一杯押し込んだ。


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